冴が来た(2) 夏と冬の長期休暇になれば、潔家は当然のように糸師家に遊びに来た。両親よりも先に凛が飛び出して、よっちゃあん!と出迎える。りんくんだあ、ふにゃふにゃと笑って世一は凛と抱き合って、冴にもしがみついた。冴は変わらない頭のてっぺんのくせ毛を潰す様に撫でまわす。世一がふにゃふにゃあと相好を崩すまで撫でるのだ。
三人が集まればいつも決まってサッカーをしていた。三人それぞれが地元のサッカークラブで活躍していて、サッカー一辺倒だったものだから自然の成り行きだ。朝から公園に出掛ければ、親が呼ぶまで興じるぐらいには夢中であった。ずっと、三人で、だ。他の子供達がその輪に入り込む隙間がないぐらい仲良しだった。
一年、二年と時を重ねても、世一は鎌倉に遊びに来た。ある程度自立を覚える頃には両親抜きに来るようになり、糸師家に滞在するようになった。冴と凛の二人部屋は世一が来ると三人部屋となり、夜更けまで部屋の明かりが消えることがなく、子供のはしゃいだ声が鳴りやむことがなかった。
冴が五年生になる頃、それまで“世っちゃん”と呼んでいたのを、潔と呼ぶようになった。心境の変化などではなく、単にいつまでもそう呼ぶことに気恥ずかしさを感じるようになったからだ。冴が潔と呼ぶようになったので、凛も兄を真似て潔と呼ぶようになる。世一もまた今までは冴ちゃん、凛くんと呼んでいたのを、冴、凛と呼ぶようになった。
三人には夢があった。冴にも、世一にも、凛にも。
「俺は世界一のストライカーになる。それ以外は価値なしだ」というのが冴の夢。
「ノエル・ノア様のような世界一のストライカーになって、W杯で優勝する」というのが世一の夢。
「兄ちゃんが世界一のストライカーになって、おれは世界二のストライカーになる」というのが凛の夢。
三人でサッカーをするようになってから息をするように当たり前に語るそれぞれの夢は、永遠に変わることは無いのだと、信じていた。
夢への一歩を踏み出したのは、冴が先だった。冴が十三歳になり、世一と凛が十一歳になった頃、冴の『レ・アール』下部組織入団が決定した。
家族はそれを先に知っていたが、世一がスカウトの件を知ったのは、後のことである。
クラブの試合の日、世一がわざわざ埼玉から応援に来ていたその帰り道、いつも兄弟でぶらりと立ち寄っていた海沿いで、冴は世一に打ち明けた。
「冴が『レ・アール』にすごいじゃん」
冴と凛の間に座り込んでアイスをしゃくっていた世一は、素直な反応を示した。
「『レ・アール』って世界で一番大きなクラブでしょ?そんなすごいところでサッカーできるってすごいじゃん」
「俺は先に行くだけだ。お前と凛は後で必ず追いついてこいよ」
「当たり前!絶対行く!」
周りが天才とはやし立てて媚びへつらうようになった中で、態度を変えなかったのは世一だけ。世一は本気で世界一になれると信じていたし、冴にも凛にも負けない対抗心を抱いていたのも事実だ。
「私は絶対に世界一になるよ、冴」
「お前よりも先に俺達が世界一になっても泣くんじゃねえぞ泣き虫」
「もう泣き虫じゃないし!」
「潔はずっと泣き虫だったじゃん」
「余計なことを言うなって、凛」
夕日に照らされた顔が屈託なく笑う。ふにゃりと笑う柔らかな笑みは減ってきている。世一も随分と大きくなったと、冴は時折感慨に耽っていた……世一はどんどん背丈が伸びてきて、面影はそのままに、いつの間にか大人びていた。
待つこと十五分で、世一はたくさんの荷物を持って冴の元に戻ってきた。制服を纏った世一の、足から頭のてっぺんまでを見眺める。
「あれ、冴、もしかして初めて見る?」
「ああ…なんつうか…泣き虫が随分と背伸びしたなと」
「なにそれ。褒めてるつもり?そもそも冴には褒めるって概念無いよね?」
「馬鹿。俺だって褒める時はある」
「サッカー以外ではないだろ?少なくとも冴が誰かを褒めたところを見たこと無い」
「だったら褒められるように努力しろ」
額を軽く弾いてやる。冴と世一にとってはふれあいの一種である。柔らかめで笑う世一が自転車を押して隣を歩く。世一が隣にいるとひどくしっくりとくる。
「冴、ありがと。わざわざ迎えに来てくれて」
「女を夜道に一人で歩かせる訳にもいかねえだろ」
世一以外の女には絶対にこんなことはしない。世一だからこそ、長旅で疲れた身体に鞭を打って、寒い中歩いたのだ。冴にとって世一は変わらず、妹の立ち位置だ。
「腹減っただろ?途中のコンビニで何か食うか?」
「行く!ありがと」
世一は小さいことでもなんでもありがとうと素直に言える子である。冴にも凛にも無い素直さだ。五年ぶりの日本のコンビニで肉まん一つと暖かい茶を購入して外に出た。行儀わるく買い食いするのも実に五年ぶりだ。
「ほら、夕飯前だから半分な」
「ありがと」
ほくほくと頬を緩ませて小さな口で頬張るの世一を肴に、五年ぶりに日本の肉まんを口にした。身体に悪い味がするけど暖かくて美味い。
「食べてるところを見るなよ~」
「相変わらずアホ面ぶら下げて食ってるのが愉快でな」
「口悪いってば」
ふんわりと、世一から匂いが漂う。そういえばこいつも十六歳だったと、子供の成長の感動をじんわりと味わう。
世一が一瞬かちんと固まった。微細な反応を冴は見逃さなかった。
「どうした?」
「あ、いや、スマホが震えた…」
「ほら。持っててやる」
食べかけの半分を持つと、ポケットから世一はスマホを取り出した。世一の母から心配のメッセージが来たのなら返信をさせないといけない。だが、世一の反応は、微妙だった。眉間に小さい皺をつくり、口をむっと引き上げた。
「ごめん、冴、ちょっと返信してきてもいい?」
画面を見られたくないのか、世一は冴から若干の距離を取った。画面とにらめっこして、うーんと呻いている。そんな難しい相手とやり取りをしているのかと無性に気に留めた。世一は頭を捻り出して返信をして、戻ってきた。その顔は五分前より疲れがにじみ出ている。
「何だ?相手は誰だ?」
「い、いや!なんでもない!」
慌ててるし動揺している。いつだって世一は嘘と隠し事が苦手だ。
「困ってんなら直ぐ言えよ」
「う…うん…」
肉まんを返すついでに頭を撫でると、顔をほんのりと赤らめて上目遣いで見上げてくる。瞳の奥がやけにきらめいている。星でも入ってるのかっていうぐらいにだ。撫でただけで世一は機嫌を直した。
潔家に到着すると、世一の両親が揃って待っていた。今日は冴が来るということで、少しお高めの肉を用意したらしい。肉は文句なしに美味かった。
「なあ、あとで一緒にプレイ動画見ない?」
「どこのだ?」
「冴が出てた試合の中継。いろいろ教えてよ」
成績は悪いが、サッカーになると世一は知的好奇心を爆発させて、あれやこれやと質問攻めにしてくる。鬱陶しいとは思ったこと一度も感じたことは無い。
「デザート喰い終わったらな」
冴が取り寄せたベルギーのチョコチーズケーキが夕食後のデザートで出た。食べ終わるや否や、冴は世一に引っ張られて自室に連れ込まれた。サッカーだらけの、どこにでもある一般家庭で育った高校生のまるで特色のない凡庸な部屋模様を一望した後、そういえば、と冴は今日初めて世一の部屋に入った事実に気付いた。
「お前……こんな簡単に男を部屋に入れるのか?危機管理能力低いだろ」
「何言ってんの?」
世一は心底理解できないて顔をしている。
「てか、凛は何度か来たよ」
「凛は来たことあんのか?」
「うん。普通に入ってくるし普通にのんびり過ごして帰る」
よく見ると凛が置いて行ったであろう漫画やゲームソフトが一角に積まれている。世一がこんなになったのは凛が原因であることがよくわかった。凛はいつか説き伏せようと思う物理で。
ラグの上に座り込んで液晶テレビをリモコン操作する世一の隣に座り込むと、世一がテレビに視線を固定しながらびくついた。
「どうしたおい?」
「い、いや…ちょっとドキっとしたっていうか…」
頬を赤くさせて挙動不審になり出した世一の横顔をじいっと眺めていると、気になることが浮上した。
「お前、好きな男はいねえのか?」
「……え~……」
世一がやっと冴を見た。渋面いっぱいの顔で。
「それ、冴が言っちゃう…?」
「何だお前、まだ引きずってたのか」
「引きずってんじゃなくて……」
世一が冴を見つめ返しながら言い返そうとするが、言葉を切った。冴はわざとらしく小さく嘆息した。
「見向きもしねえ奴なんかやめておけ。お前が苦労するだけだぞ。お前にはもっと良い奴がいんだろうが」
「それ自分のこと言ってるって自覚あるんだよな?」
凛とか。なんて言おうとした冴も中途半端に言葉を切ってしまった。
自分を選ばせたところで、世一が可哀想だとしか思わない。向こうで気まぐれを起こしたことがあったが、自然とサッカーを優先してほとんど相手にしなかったので単発で終わってしまった経歴がある。世一にも凛にも絶対に言わないが。
むくれた世一の丸い頬を指で押し込んでからかっていると、また世一のスマホが振動した。
「凛じゃねえのか?」
「どうだろう…」
ベッドの上に放り投げていたスマホを手に取った世一はまた困った表情をした。ごめん、ちょっと。と言ってまた冴から距離を空けて返信に手間取っている。凛ではないのは確かだ。凛だったらあんな顔をしない。世一が操作し終えてから、ほっと肩を撫で下ろした後、外からドアが数回ノックされた。
「世っちゃん。冴くん、世っちゃんのお部屋で寝てもらってもいいかしら?」
潔母の穏やか爆弾発言に、世一が石みたいに固まった。
「いやいや、普通にダメでしょ何言ってんの母さん」
珍しく世一が母に反論すると、潔母はこてんと小首を傾げた。
「ダメ?」
「普通に考えて高校生の男女が同じ部屋で寝るっておかしくない」
「凛くんとはいつも一緒に寝てるでしょ?」
「そ、そうだけど…っ」
聞き逃してはならない台詞を冴はしっかり聞いた。
「おばさん、俺は客間で寝る」
「そう?積る話がいっぱいあるんじゃない?世っちゃんはずう~っと冴くんとお話したかったみたいだし」
「母さん」
真っ赤になって慌てた世一が母の背を押してドアを閉めた後、微妙な沈黙が部屋の中に流れた。
「…………俺はダメで凛は良いってどういうことだ?」
冴は睨むように世一に問いただした。世一はベッドに逃げた。
「だって……昔と違うじゃん…」
枕元に膝を立てて座り込み、抱き込んだ枕に口元を押し当てながら、もそもそと世一は答える。目元から耳までが真っ赤になっているのが隠しきれていない。
「昔はよく一緒に寝てたろ」
「うん。子供のころの話な」
「まっぱで同じ風呂に投げ込まれたし、トイレだって付き合ってやったろ」
「やめろって馬鹿聞きたくない」
ばっと耳を抑えて叫んでいるが、冴からすれば今更何だ?って話である。
「で。凛とは今でも一緒に寝てんのか?」
最も重要なことを離れた距離から砲弾すると、世一はさらりと答えた。
「最近は一緒のベッドで寝たくないって言いだして、床に布団敷くようになった」
「それまではお前ら一緒に寝てたのかよ?」
「一緒に寝るかって聞いたら凛が怒るようになった」
安易に想像が出来る。凛だって年頃だし、世一が初恋の相手で、今も懸想しているに違いないと思うと、情けないのやら悲しいのやらごちゃごちゃになる。
「お前は凛のことを何だと思ってるんだ?」
「弟に決まってるじゃん。凛の方が年下なんだし」
当然の帰結のような発言に、冴は半眼になった。凛、お前、五年の間何してた?
冴は鎌倉で過ごしているであろう弟を責めた。責めなければやってられない。弟は昔からぽやぽやしていたというか、サッカーと兄以外は基本無関心でネジが緩んでいた。世一だけは特別だった筈だけどぽやぽやしてばっかで弟気質だったから何でもかんでも世話してもらって自立心に欠けていた。大きな弊害である。凛のネジの緩さには冴も一因しているのだが、冴には自覚が無い。
「言っておくけどな、潔。凛は俺の弟であってお前のじゃない。お前と凛は赤の他人だってことを忘れんじゃねえぞ」
潔から反応が返って来ない。ん?と首を振ると、世一が顔を枕に埋めたまま身体を小さくしていた。
「それって、私と冴にも言えることだよね?」
世一からの反論があったことに、わずかに虚を突かれたのを悟られないように装う。
「お前は俺の妹みたいなもんなんだよ」
「でも血は繋がってないし、赤の他人じゃん」
「お前が生まれた頃から長い付き合いなんだからそうなんだよ」
「それだったら私と凛だってそうだし」
「何が言いたいんだタコ?」
屁理屈をこねるような態度に呆れの視線を送ると、世一は一瞬苦しそうな表情をした。
「知らね!冴なんかもう知らん!おやすみ!」
かけ布団の中にもぐりこんで、籠城を決めた。ホントにガキ。冴も無意識に熱くなりかけたのを律して、こんもりできた小さな山に近づいた。
「一緒にプレイ動画見るんじゃなかったか?俺の解説欲しいんじゃなかったのかよ、オイ」
「今日は疲れたから寝るんだよ」
「そうか。明日は何時に部活終わるんだ?」
「………十九時、だけど。いつも二十時まで自主練してる」
明日も朝から東京での仕事が入っているので、それが終わったら様子見ぐらいは出来そうだとスケジュールを立てる。
「せめて歯磨きと風呂はして寝ろ」
ぽすん、と頭のあたりを狙って手を落とす。ふかふかの感触を一撫でしてから、部屋を出た。出る直前、世一が少しだけ顔を覗かせたのだが、冴は気付いてもいなかった。