虫刺され「かゆい! 変なところ刺された! くっ、手が届かん! せいぜい長生きしろよ蚊のやつ!」
「……何やってんのれおくん?」
リビングで一人、背中をウネウネと動かして角度を変え、襟ぐりから手を突っ込んで必死にもがいているれおくんを見下ろした。
「あっ、セナ! おかえり! あと助けて! 痒すぎておれの神経が悲鳴をあげている!」
「……はぁ? なにそれ?」
「答えを急ぐな妄想しろ! って言いたいところだけれどおれの方が限界だからもう言っちゃう! セナ、背中掻いて…?」
パタパタと背中を掌が泳ぐ。ああ、なるほど、どうやられおくんの手では届かないところが痒くて仕方ないらしい。
「ふぅん…? どうしようかなぁ~?」
「事は一刻を争ってるんだ! お陰でまだご飯が炊けてない!」
「俺が帰る時にご飯炊いておいてってメッセージ送ったでしょ~? それからずっとそんなことしてるの?」
「う~……だって気になって……」
「……うつ伏せになりなよ。薬塗ってあげるから」
「! セナありがとう愛してる!」
ぱっと顔を明るくしたれおくんが、喜んでうつ伏せになった。ぺろっと服をめくると、背中のど真ん中辺りにぷくっと赤い虫刺されの傷を発見した。
「これ?」
爪でカリカリとその場所を掻いてみた。
「あっ、それ! あ~気持ちいい……はぁ……もっと強くしてもいいぞ~」
「ばか。傷になっちゃうかもしれないから、もうおしまい。薬塗るね」
「えぇ~セナのケチ!」
ゴネゴネ言うれおくんを無視して軟膏を取り出す。人差し指の腹に薬を出して、少しだけ赤く腫れたところへ優しく塗り込む。
「あぁ……余計痒くなりそう……ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから爪立てて……」
「我慢しなよ」
「ほら、バッテンに爪の痕つけるとちょっとだけマシになったりするじゃん!?」
「気のせいでしょ。ん? ここも刺されてる……?」
背中のど真ん中、それより少し上の肩甲骨のあたり。腫れてはいないものの、赤い痕がある。今日刺されたものではなさそうだ。昨日か、一昨日か。そんなところだろう。
「ここも赤くなってるよ。もう痒くないだろうけど、薬塗っておくねぇ」
ぬりぬり。ちょっと背中刺されすぎじゃない? 俺まだ今年蚊に刺されてないんだけど。あんた普段どこにいるんだか? まぁ芝生の上に寝転がって作曲するようなやつだしねぇ。
「あ、セナ……そこは……」
「ん? なに? ここは掻かないからねぇ?」
「いや、違う……それはおまえが一昨日……」
俺? 一昨日なんかしたっけ?
「ほら、最後後ろからして……その時……」
顔だけれおくんがこっちを向いて、少しだけ顔を赤らめて、ちょっとだけ言いにくそうに、俺に何かを伝える。一昨日?
「セナ……もしかして忘れてる……? おまえ酔ってたもんなぁ」
あ、そうそう。一昨日打ち上げがあったんだよねぇ。気分よく飲んでれおくんに迎えに来てもらって、家に帰ってから……えぇと?
「珍しいと思ったんだよなぁ。おまえが痕つけるのって」
はぁ、と身を起こしたれおくんが、俺の目を呆れの表情で見てくる。それってつまり……。
「えっ!? 俺!? 嘘!?」
「おまえしかいないだろ。むしろおまえじゃなかったら誰におれはこんなところにキスマークなんてつけられるんだよ?」
「……」
皆まで全てを説明してくれたれおくんに完敗した俺は、もう何も言い返せなかった。キスマーク、誰に見られるかわからないからつけないようにしてたのに! あぁもぅ……! 一昨日の俺の低能ぶりに自分で引いた。
「れおくん……その……ごめん」
「いいよ。たまにはつけたっていいじゃん」
これだからこいつは……もっと怒ってもいいのに。
「それにいつもよりセナもがっついてて気持ち良さそうだったし。おれも気持ち良かったしなぁ~? それをおまえが覚えてないのは残念だけど?」
「俺……何したの……? どんなのだったの……?」
「教えて欲しい? まず助手席に乗せたらセナが……」
「そこからなの!? ありえない! やっぱりいい!」
「えぇ~? じゃあおれだけが知ってるセナってことでいいや。薬塗ってくれてありがとうな!」
ちゅ。軽く触れたれおくんの唇。俺の頭の中は大混乱で、もはや薬のお礼なんてどうでもよくて、そんなことより気になるのは一昨日の俺の行動で……でも全く思い出せなくて、あるのは目の前の妙にニコニコしたれおくんの顔だけだ。
「お酒飲むの、一切止めよう……」
真夏の暑い昼下がり、キッチンから炊飯器のスイッチを入れる音がするなか、俺は冷や汗をかきながら、そう心に決めたのだった。