月夜に泳ぐワンライ/音
雲夢江氏の子弟には三種類ある。
ひとつは家がないもの。ひとつは近場に家があるもの。ひとつは遠隔地から来たものである。
夜が来て宗主が私邸に引っ込めば、そこから先はわずかな自由時間だ。修練が厳しい分、休息は決まった時間をしっかり取るように決められている。とはいえ少しは羽目をはずすものも出る。
たいていの場合は騒いで気張らしをしたい者たちだ。
そういうとき、潤滑油として荷風酒はぴったりだった。
江澄は酒杯を手に、行儀悪く私邸の円窓から半分身を乗り出すようにして座っている。遠くから喧噪が聞こえてきていた。
騒動を起こしたり、明日に影響を出したりしないかぎりはとやかく言う気もない。自分自身、いくらか身に覚えがあるからだ。
しばらく月を肴に手酌でやっていたが、ふと杯を置いて立ち上がる。
足音を殺して部屋を出た。
そこで、ここにいないはずの人間と鉢合わせる。
思わず声を上げそうになった相手の口をすばやくふさいだ。
「静かに。中に入れ」
コクコクうなずいた相手の口元から手を離し、室内へ誘導する。
月を見るためには周囲が暗いほうが都合がいい。ずっと真っ暗なままにしていた部屋にようやく明かりを灯す。揺らぐ蝋燭の炎に照らされて、藍曦臣は常の色白よりどことなく血色がよく見える。
「気づかれないようにこっそり入れてもらったのに」
どうしてわかったのかと子供のようなことをして、子供のようなことを言う。
おおかた江澄の背後にこっそり近づいて驚かせるつもりだったに違いない。
だがあいにく、藍氏には勝らずとも耳は良い。
「音が聞こえたからな」
ほんの一瞬、ほんのかすかに、なにかが聞こえたような気がした。
考えたが、おそらく衣ずれの音だ。
なにしろ藍家の校服と来たら布地の量が多いからよくひるがえる。
「そうか……次は羽織くらいは脱いでおこうかな」
「いっそ縛ってみたらどうだ」
「それもいいかもしれない」
「おい、さすがに冗談だぞ」
「ふふ、私も冗談だよ」
「あのな」
そもそも躲貓貓で藍曦臣が江澄に敵うわけがない。なにしろ敵は子供のころ一度も躲貓貓で遊んだことがなく、対して江澄は何度鬼の役になったことか。子供の隠れる場所などというのはおおかた決まっているものだ。
それから江澄はじろっと藍曦臣の目を睨む。
「来るとは言っていなかった」
「近くまで来たので」
藍曦臣はにっこり笑って、一歩距離を詰めてくる。
「それとも、会いたいと思っていたのは私だけ?」
それでムッと唇を捻った。
躲貓貓では勝ち放題に勝てるが、それ以外ではこの男に勝てたためしがない。なぜって、惚れたほうが負けというだろう。
「わかっているくせに言わせる気か」
「こんな機会はなかなかないから」
確かに音に出して好きだのなんだのみたいなことはそうそう言わないし、さっきまで飲んでいたせいでちょっとは気が大きくなっているのも本当だが。
気が大きくなっているので、せっかく来たならこの男を肴に飲み直すかと思った。
江澄はこの恋人の顔ならいつまででも眺めていられる。
「そうだな、もう少し飲んだら口がなめらかになってうっかり滑るかもな」
もちろん、惚れたほうが負けなのである。
酒杯を手にしていつになく上機嫌な恋人がたびたび目の中をじっと覗き込んできては、「あなたの目の中に月があるな」などと言う。
窓辺に腰かけ月明かりを浴びる恋人の姿こそ美しい。
一緒に酒が飲めたらと思ったが、なんでも自分の酒癖は相当悪いらしい。一度だけ恋人の前で飲んだことがあるが、以来二度と人前で飲むなとまで言われている。非常に残念だ。
「ねえ、そろそろ口はなめらかになった?」
「ん? さあ、どうだろうな」
待ちきれなくて問いかけた藍曦臣に恋人が笑いかける。
それから唇が重ねられて。
それから、藍氏の耳でもなければ聞き取れないようなほんのかすかな声音で。