【紫紺】 キス 腰掛けたベッドの上から、下で寄り掛かるようにして座っている悟へ、テレビに流れる先輩のコントから視線を転じた。いつも見慣れている開いた襟ぐりから覗く項が艶めかしくて、こくんっと唾液を飲み込んだ。
くすりと笑った拍子に揺れた悟の体から、私と同じボディソープの香りが別の匂いのように鼻先をくすぐり、躰を刺激していった。
我慢はしていたのに、ふとしたきっかけで箍は簡単に外れてしまうものらしい。
滑らかな首筋に吸い寄せられるように身を屈め、唇を押し付けていた。
「すぐる」
驚きと戸惑いを含んで名を呼ばれ、我に返った。言い訳じみた返答は、動揺と自己嫌悪で上擦ったまま、取って付けたような言葉しか出てこなかった。
「あっ、ごめん。呑み過ぎたかな」
「シたいんだろ。いーよ」
口に出したのは悟でも、態度に出したのは私で、煽られていい話ではない。きっと、後悔する。でも、振り返って、下から見上げたその表情と言葉は、そんな私の内心を知ってか知らずか、にやりと挑発的だ。踏み止まるために視線をテレビに戻して、早口で窘めるように言い募る。
「何、悟も酔ってるの。私のカクテル、間違えて飲んだ」
「酔ってるコトにしとくからさ」
そう言って天使のようだと称される顔で、どこで覚えたのか妖艶に微笑まれ、ぷつんっと脳内で我慢していた欲が決壊した音が響いた。
「ひとつだけ条件な。今はキスはしない」
そう言われ、キスは交わさぬまま、何度も躰だけ重ねれば、気持ち善さの後に、やるせなさだけが残って、澱のように溜まっていく。今更気持ちを告げても、悪ふざけの崩した表情でオェ――なんて言われかねなくて、そうなれば躰だけでも欲しかった、なんて浅ましく思ってしまうのは、目に見えている。それにコンビとして良好な関係にもひびが入るのはなんとしても避けたい。悟の隣で、悟と笑って生きていきたい。れそは、何にもかえがたい願いだった。
互いに声を掛けなくても、まとわりつくような眼差しだったり、逸らされた視線と共に色付く首筋だったり、艶を帯びて呼ばれる名前だったり、そんな些細な信号を違えることなく読み解いて、ベッドに転がり込む日々を過ごす。
しんと静まり返った夜更けに布団から抜け出ると、煙草に火を点けた。蛍のように暗がりに浮かんだ灯が、儚い命のようだ。紫煙を燻らせて、煙と一緒にため息が零れた。
「いい加減、やめないと、こんな関係」
「こんなって、どんな」
指から滑り落ちた煙草は、手にしていた灰皿に転げ落ちた。
暗がりから聞こえた声は明瞭で、静かでも有無を言わさぬ響きをともない、寝言だろと言い訳にすら使わせて貰えぬ真摯さがある。
「躰だけ重ねるのは、しんどい、な」
疲れたような声は、自責よりも後悔が強く響いて、一層我ながら嫌になる。躰だけが、嫌なのに。心に触れられないのが、嫌なんだ。
「ねえ、傑。俺はさ、キスは恋人としたいんだ」
「だから、キスはだめ、か」
やっぱり告げたところで、私の好きと悟の好きは、異なるものだった、ということだろう。
「何で俺がわざわざ条件言ったと思ってるんだよ」
苛立ちを含んだ滲んだ声色に、とくり、と胸の内で何かが跳ねる。
「なんで、って。私が考えることだ、ね」
手元の煙草を消して、蛍の灯のかわりにベッドライトとつけると暖色の淡い光に、凛とした眼差しを浮かべ、さみしげに体を起こした悟が浮かび上がった。やっぱりそうかと思い、隣に腰を下ろすと、抱き寄せたい衝動を抑えて静かに顔を合わせた。
聞いて欲しかった、のか。
何でキスはだめなのか。
今でなければ、いつならいいのか。
恋人なら、いい、てこと、なのだろう。
えっ、ってことは。
今はだめなら、いずれは、いいってことに、ならないだろうか。私でも。
「悟」
「気付けよ、ばーか」
くしゃりと笑ったその顔は、私の大好きな屈託のない、飾り気のない眩しい笑顔だった。
「悟、ごめん、好きだよ。大好き。ずっと、好きだった。付き合ってよ」
言えずにいた言葉が堰を切ったように口をついて出た。こわいも恥ずかしいもなくて、ただただ、伝えたかった。
「今日、何日だ」
「えっ、急に何。七月六日、もう、七日か、って、あっ」
「そう、傑が言ったんだろう。真ん中誕生日が七夕なんて、ロマンティックだね、なんて恥ずかしいこと臆面もなく。初めて抱かれた時、言ってくれるかと思ってたのに、何にも言わねーんだもん。俺の勘違いかと思ったら、何にも言えないし、けど、オマエはまた、手は出してくるしさ」
「えっ、だって、悟、私がどーやって女抱いてるのか興味あるって、えっ、ごめん」
「そんなの当て擦りに決まってるだろっ。……言わせんなよ」
えっ、うそ。かわいすぎない。
聞いてないけど。
淡い光でもわかるほどに、朱色に染まった悟を抱き寄せると、耳元で囁いた。
「悟の、返事、聞かせてよ。キス、させて」
窓の外では天の川が煌めき、年に一回の逢瀬を楽しんでいるのだろうか。きっと私には、年に一度なんて耐え切れないな、なんて思いながら、星々よりも綺麗な悟の瞳を覗き込んだ。