湯呑み殿 小笠原館を前に市河は足を止めた。市河が夏に抜けた戦いから数ヶ月が経ち、周りの景色はすっかり秋めいている。戦が貞宗の勝利で終わったとは伝え聞いていた。遅れて到着した土岐によって北条らは逃げていったのだという。
市河の手にはカブトムシが入った籠があった。戦を途中で抜けた詫びにと思って取っておいたものだ。大きいものを選りすぐってきたから、これで貞宗の機嫌も直るだろう。
市河はいつものように小笠原館の門番に目配せをした。頻繁に出入りする市河にはそれだけで門が開くはずだった。しかし門兵は槍を手にしたまま立ち塞がる。一人が厳しい目で市河を睨みつけ、もう一人は館へと駆けていった。
「なんだ貴様ら。俺が誰か知らないのか」
「市河様。どうかそのままお待ちください」
門兵は市河が誰かわからず足止めしたわけではなさそうだ。少し待つと急ぐ足音が向かってくる。しかしその中に貞宗の足音はなかった。いや、耳を澄ませても館の中に貞宗の声も物音も聞こえてこない。
「何用ですか」
現れたのは常興だった。その表情から随分と怒っているのだとわかる。貞宗を慕う常興は、きっと戦を途中で抜けた市河のことを恨んでいるのだろう。
「貞宗殿に会いにきた」
「殿はおられません。お引き取りを」
やはり貞宗は留守のようだ。市河はさらに耳を澄ませる。狩りにでも出掛けているのなら、直接会おうと思ったからだ。しかし一町先にもその音は見つからなかった。
「貞宗殿はどこにおられるのか」
すると常興はわずかに顔を強張らせた。目を伏せて口をつぐむ。その様子に嫌な予感がした。
「まさか戦で何かあったのか」
討ち死にしたという話は聞いていない。いやに長引いた戦であったが、土岐の援軍があって勝利したはずだ。まさか貞宗が深傷を負ったのかと市河は青ざめる。
「とにかく、お引き取りを」
「貞宗殿に会わせろ!中にいるのか!?」
「おりませぬ!」
市河は追い返そうとした常興を薙ぎ倒した。そのまま館へと駆けていく。
「貞宗殿!」
市河は声を張り上げながら館へと入った。立ち塞がる郎党たちに向かって太刀を抜く。
「貞宗殿はどこだ」
郎党たちの顔に緊張が走る。郎党たちは市河の腕を知っているから迂闊に斬りかかってはこなかった。市河は郎党たちに包囲されるが、やはり貞宗の姿は見えない。まさか臥せって起き上がれぬほどなのかと市河は焦る。
「退かぬか!貞宗殿はどこだ!」
市河は貞宗の部屋に向かって進んだ。郎党たちは刀を構えながらじりじりと近付いてくる。
するとそこへ薙刀を持った新三郎が来た。新三郎も表情が強張っていたものの、長い舌で唇を舐めると薙刀を構えた。
「今さら来て何のつもりだよ!」
新三郎の薙刀を太刀で受け止める。高い音が響いた。すぐさま押し返すが、新三郎はさらに薙刀を返して斬りかかってくる。打ち合いは三度四度と続いたが、お互いに譲らず、気迫のこもった一撃が続く。市河は打ち合いながらも貞宗の部屋へと身を反転させた。そして薙刀を打ち払い、新三郎が体勢を崩したところで部屋に向かって駆け出した。
「貞宗殿!!」
市河は貞宗の部屋を開けた。ところがそこには貞宗はいない。人がいた気配すらなく、ただがらんとした部屋がそこにあった。
すると背後から体当たりされてうつ伏せに倒れた。背中を押さえつけられる。
「新三郎!」
常興が駆け込んできて、慌てたように部屋を見渡した。その様子は誰かを探しているようで、やはり貞宗は館にいるのかと市河は訝しむ。すると常興は卓に置いてあった湯呑みを手に取った。それを隠すように懐へと入れている。一瞬見えたその湯呑みに、市河は目を見開いた。
その湯呑みに、目玉が二つ付いていたからだ。
「え?」
湯呑みについた目玉が、どうも貞宗に似ているような気がした。おかしなことを考えていると自分でも思いながら、市河は常興に向かって言った。
「おい、その湯呑みは」
すると常興は警戒するように湯呑みを入れた懐を庇った。ただの湯呑みにそこまでするのはおかしい。すると微かに常興の懐が動いた。まるで小動物のような細かな動きだ。微かに音も聞こえる。それがまるで貞宗の声のように聞こえた。
「貞宗殿?」
市河は背を押さえていた者を跳ね除けて立ち上がった。一歩踏み出すと、今度は突然に首を掴まれ持ち上げられる。
「落ち着かれよ、市河殿」
それは瘴奸だった。瘴奸は市河の首を掴んだまま、常興に向き直る。
「このまま隠せはしないでしょう。無闇に暴れられてはその方が危ない」
瘴奸の言葉に常興は苦い顔をしながらも頷いた。息が吸えなくて市河がもがくと、瘴奸はようやく市河を床に下ろした。市河はしゃがみ込み、咽せながら瘴奸を睨めつける。すると瘴奸は腰を下ろして刀に手をかけながら市河に言った。
「動いたら斬ります。何を見てもそのまま、そこで見ていてください」
瘴奸は常興に向かって頷いた。常興は苦々しい顔のまま、懐に手を入れる。そしてゆっくりと湯呑みを取り出した。湯呑みについた目玉は見慣れた貞宗の目玉にそっくりであった。
すると、その目玉がきょろりと動いて市河を見た。
「貞宗様です」
常興が言った。湯呑みの目玉が嬉しそうに輝く。常興の手が愛おしそうに湯呑みを撫でた。