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    なりひさ

    @Narihisa99

    二次創作の小説倉庫

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    なりひさ

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    ガンマト。すれ違う二人

    #ガンマト
    cyprinid

    憧れ 眠れないからと飲んだ酒が底をついた。空になった瓶がいくつか床に転がっている。その割には酔うことすらできないでいた。
     外は酷い雨が降っている。岩戸を閉めていてもその音が洞窟内に響いていた。マトリフはベッドに寝転がりながら空の酒瓶を手で弄ぶ。夜も遅いが、一向に眠気が訪れなかった。
    「大魔道士」
     ガンガディアが部屋の前に立っていた。咎めるような眼差しに一瞬煙たく思ったが、マトリフは誘うように手招いた。ガンガディアは空瓶を拾いながらマトリフの側まで来る。ガンガディアの小言がはじまる前にマトリフは言った。
    「オレにラリホーかけてくれよ。眠れねえんだ」
     甘ったるくねだったが、ガンガディアの表情は動かなかった。
    「私では君には効かないだろう」
     ガンガディアはさっき空になったばかりの瓶も取り上げた。マトリフはそれを未練がましく見る。瓶の底に澱んだ液体が少しばかり残っていた。
    「それもそうだな……」
     マトリフは立ち上がってベッドから降りると、洞窟の出口に向かった。その後をガンガディアがついてくる。
    「外は雨が」
    「だからだよ」
     大雨だからと閉めていた岩戸を呪文で開けば、外は滝のような雨だった。温暖な気候のこの国では珍しい天気だ。その雨の中をマトリフは進む。空からの雨が頭から濡らし、地面で跳ね返った雨粒が足元を濡らした。寝間着だけを身につけていたマトリフはすぐにずぶ濡れになる。後を追いかけてきたガンガディアが驚いたようにマトリフの腕を掴んだ。
    「なにをしている」
    「こうしてりゃ体力が減るだろ。そうしたらおまえのラリホーがかかる」
    「馬鹿なことを」
     ガンガディアは雨から遮るようにマトリフの背後に立った。マトリフはガンガディアを見上げる。
    「退けよ」
    「なぜこんなことをする」
    「だから、寝るためだって言っただろ」
    「そういうことを言っているのではないと君もわかっているはずだ」
     マトリフはつまらなくなって息をついた。踵を返して洞窟へと戻る。また律儀にガンガディアがついてきた。
    「着替えを」
    「うるせえなあ」
     マトリフは呪文を組み合わせて温風を作り出した。それで服を乾かしていく。その様子をガンガディアがつぶさに観察していることをマトリフは知っていた。とにかく呪文に関してガンガディアの興味は尽きないらしく、マトリフが変わった呪文を使うたびに食い入るように見てくる。そのことにマトリフは仄暗い満足を覚えていた。
    「そうだ、おまえが手加減してオレを殴れば、いい感じに体力が減るんじゃねえか」
     ガンガディアが決して頷かないとわかっていてマトリフは言った。予想通りにガンガディアは冷たい眼でマトリフを見下ろす。
    「……その手の冗談を聞いて、私がどう思うか考えたことがあるのかね」
    「んだよ、なんで怒るんだよ」
     マトリフは自分の自暴自棄にガンガディアを巻き込むことに罪悪感がないわけではなかった。だがどこかでガンガディアなら許してくれるという幼児じみた甘えがあった。
     ガンガディアは深いため息をついた。それはギリギリ堰き止められていたものが氾濫したような感じだった。本当はずっと前から考えていた事を話すように、ガンガディアは迷いなく言った。
    「君は私を愛していない。必要としているが、愛してはいないようだ」
     ガンガディアは相変わらず真っ直ぐにこちらを見ていた。その強すぎる視線に目を逸らしたくなる。
    「それは愛しているのとどう違うんだ」
     ガンガディアはその言葉にさえ衝撃を受けたように表情を固くした。そして目を伏せる。なにか諦めたような安心さと突き放した表情がマトリフの目に焼き付いた。
    「君は狡い男だよ。私が君を嫌いになれないと知っていて……いや、もういい」
     ガンガディアはマトリフに背を向けると部屋を出ようとした。ドアの前で立ち止まると肩越しに振り返る。そこには彼らしくない卑屈さがあった。
    「君は私が欲しかったものを持っているというのに」
    「じゃあおまえが欲しいのってオレじゃないんじゃねえの?」
     ドアが軋んだ。ガンガディアの感情の捌け口にされてドアは歪に折れ曲がっていた。
     ガンガディアはもうマトリフを見ていなかった。何か言い返す気力さえ無くしてしまったようだ。
    「もうここへは来ない」
     ガンガディアはそれだけ絞り出すように呟いた。その背がひどく哀れだった。
    「……来るさ。おまえがオレを放っておけるわけない」
    「体に気をつけるように。君の悪癖は自分への罰のようで見ているこちらがつらくなる」
     ガンガディアは部屋を出ていった。遠ざかっていく足音に耳を澄ませていたが、やがてそれも聞こえなくなった。洞窟には雨の音だけが響いている。
    「……へっ、やっぱりな」
     おまえもいなくなった、とマトリフは呟いた。それを待っていた気さえする。どうせ、という投げやりな気持ちと、これでよかったという後ろ向きな喜びに笑みが浮かぶ。マトリフの周りには誰もいない。誰かと一緒に歩もうとしても、いつの間にか独りになっているのだ。行かないでくれと繋ぎ止める手さえ伸ばさない自分に嫌になる。そうやって手を伸ばしたとして、手からすり抜けるときの絶望を味わいたくないのだ。
     マトリフは立ち上がると本棚の奥を探った。隠していた酒を思い出したのだ。どうせ飲んでも小言を言う奴もいない。マトリフの指が瓶に触れる。それを引っ張りだしたのだが、急に飲む気が失せた。胸が悪くなったように息が詰まる。
     だいたい、雨がいけない。なにが憎くてこんなに降るのだろうか。マトリフは育った場所が場所だから、雨というものに慣れていない。もちろん雨は知っているし多少なら降られても平気だ。だがこうも酷い雨が続くと気分も悪くなる。そうやって沈鬱な気分にさせられて眠れないでいたのに、酒を飲んでも酔えないとくる。それが余計にマトリフを惨めにさせた。
    「……っ」
     息ができていないと気付いた時には体の力が抜けていた。瓶が転がり落ちて割れた音がする。マトリフは胸を押さえて踞った。息をしようと口を開くが、わなわなと震えるだけでちっとも空気が肺に入ってこなかった。
     息苦しさの中で見渡す部屋はがらんとしていた。ガンガディアがいるせいで馬鹿に片付いている。この部屋を見ると嫌でもその存在を感じた。
    「ガ……ン……」
     呼んだところで戻ってこないとわかっていた。だが口は空気を求めるよりその存在を求めた。確かに愛じゃなかったかもしれない。同じ感情を返せもしなかった。だがその存在を求めていたのは本当だったのだ。

     ***

     ガンガディアにとってマトリフは憧れだった。その気持ちが変化したのはいつだったろうか。気付けばそばにいたいと思うようになり、触れたいと思った。マトリフにそう伝えると、彼は苦笑してから頷いたのだ。
     ガンガディアは名も知らない森の中で立っていた。雨の中をトベルーラで飛び出したはいいが、行く場所もなかった。脆弱な人間と違って雨や寒さなど平気だが、それでも雨に降られ続けるのも不快であるから森へと降り立った。
     森の中は小さな魔物がいたがガンガディアを見ると逃げていった。その大きさと強さから本能的に逃げていった魔物もいるが、中にはデストロールという希少種に恐れを抱いて逃げていった魔物もいた。そんことにガンガディアは慣れている。しかしマトリフならば、と考えそうになってガンガディアは頭を振った。マトリフは初めて会った時から怖がりもせず尊大な態度で挑んできた。その姿がまだ鮮明に脳裏に残っている。
     もう会わないと決めたが、ガンガディアはマトリフのことが頭から離れなかった。これほど誰かを愛おしく、そして憎く思ったことはない。だがどれほど彼を思っても、彼が思い返してくれることはない。過去に何があったか知らないが、彼は臆病だった。ガンガディアを試すような言動を繰り返して、そのせいで全てを壊そうとする。
     全て忘れよう。ガンガディアは思うが、次の瞬間には彼が眠れただろうかと考えていた。オレを放っておけるわけがない、と傲慢に言い放ったマトリフの声がよみがえる。
     ガンガディアは咆哮をあげると近くの木を薙ぎ倒していた。

     ***

     ガンガディアがマトリフの洞窟の前に降り立ったのは、あれからひと月ほど経ってからだった。
     空には丸い月が浮かんでいる。夜を選んだのは、マトリフに見つかりたくなかったからだ。
     少し様子を見るだけ。ガンガディアは自分に言い聞かせる。自分がいなくてもマトリフは平気だと確かめたいだけだ。
     洞窟の岩戸は開いていた。不用心だと思いながら中を覗く。念のために小さな魔物にモシャスしているが、その必要は無かったかもしれない。洞窟の中は灯りがついていなかった。
     ガンガディアは音を立てないように洞窟に入る。すぐに不自然さを感じた。まるで長い間誰も生活していなかったかように空気が澱んでいる。ガンガディアは焦りながら奥の部屋へ向かった。寝室はドアが壊れたままだった。
     嫌な予感に怯えながら覗いた寝室にも誰もいなかった。ガンガディアはモシャスを解いてメラで灯りをつける。真っ先に目についたのは割れた酒瓶だった。溢れた酒が赤黒い染みをつくっていたが、それはすっかり乾いていた。
     ガンガディアは洞窟中を探した。しかしマトリフはどこにもいなかった。そして最初に入った部屋に戻った時に、テーブルの上に折り畳まれた紙があることに気付いた。それを手に取って開く。
     その文字はマトリフが書いたものではなかった。最後の署名でそれが元勇者のものであるとわかる。その紙にはマトリフが体調を崩したのでカールで療養させる書かれてあった。日付けはあの日の翌日だった。

     ***

     ガンガディアはカール城の上空にいた。あのまま洞窟を出てトベルーラでここまで飛んできた。
     空には満月が浮かんでいる。人間はすっかり眠っている時刻だ。こんな時間にデストロールが城を訪れたらどのような誤解がおこるか。ただガンガディアはマトリフの無事を確かめたかった。
     ガンガディアが城を見下ろしていると、ひとつの窓が突然に開いた。そこにマトリフの姿があった。
     ガンガディアは目を見張ってから、その窓に近付いた。マトリフは驚いたようにガンガディアを見ていたが、何も言わずに目を逸らせた。その横顔がなにか思い詰めているようで、ガンガディアは思わずその手を掴んだ。マトリフは体を強張らせてガンガディアを見る。
    「君が体調を崩したと……もう大丈夫なのかね」
     ガンガディアはマトリフの様子を見ようとするが、マトリフは困惑したようにガンガディアを見ていた。何かを言いかけて口が動いたが、言葉は出てこなかった。マトリフはガンガディアの手を振り解くと背を向ける。
    「大魔道士」
     マトリフはガンガディアの言葉など聞く気はないようだ。暗い部屋の中でその背はガンガディアを拒絶していた。
    「君が無事ならそれでいい」
     その言葉にもマトリフは反応しなかった。ガンガディアは開いた窓をそっと閉める。思いを振り切るようにガンガディアは上空に向けて飛び立った。
     もうマトリフは決めたのだろう。マトリフはガンガディアのように未練は残していない。きっぱりとした拒絶の態度に、ガンガディアはこれで終わりなのだと悟った。
     先ほどまであたりを照らしていた満月を雲が覆い隠していた。暗い夜をガンガディアは飛ぶ。後悔も思い出も全て捨ててしまえれば楽なのに、いつまでもガンガディアの胸から去ろうとしない。
     ガンガディアにとってマトリフは手の届かないところで輝く星だった。それが幸運にも自分のところに落ちてきた。そのことに優越感や支配欲がなかったと言えば嘘になる。けれどそれ以上にその存在が愛おしかった。
     しかしマトリフはやはり手の届かない存在のままで、戯れにガンガディアに手を差し伸べていただけだった。元から同じ場所に立っていない。それはどうしようもない寂しさだった。

     ***

     目が覚めたら覗き込んでくるアバンが見えて、マトリフは盛大に顔を顰めた。そうしてから何故そのような事になっているのか思い出して、もっと顔を歪めた。
    「説明してくれますよね?」
     アバンの背後に大きく割れた窓が見える。そこから朝陽が差し込んでいた。それが嫌に眩しく見える。マトリフは両手で顔を覆った。
     昨夜、ガンガディアが出ていった。そのあとでマトリフは急な息苦しさを感じた。そこからさらに息ができなくなり、咄嗟にリレミトで洞窟を出てルーラを唱えた。アバンを頼ったのは回復呪文が使えるし、多少のことなら驚かずに対応できると思ったからだ。窓が派手に割れているところを見るに、ルーラの着地に失敗して窓へ突っ込んだのだろう。それを傷ひとつなく目覚めたのだから、アバンが回復してくれたということだ。心なしかアバンの顔に疲労が見える。
     悪かったな。助かったぜ。
     マトリフはそう言おうとしたが声が出なかった。マトリフは開けた口をそのままに喉に手をやる。傷などはなかった。
    「水を飲みますか?」
     アバンから差し出されたコップを受け取って飲み干す。水が喉を滑り落ちていく感覚を確かに感じた。マトリフはアバンの名前を呼ぼうとしたが、やはり声は出なかった。アバンは眉根を寄せる。
    「……声が出ないのですか?」
    「……っ」
     マトリフは無理矢理に喉から声を上げようとした。だが空気だけが切れ切れに出るだけで声にならない。
     マトリフはふと思いついて喉を指差す。次に壊れた窓を指差した。アバンは少し考えるようにしてからマトリフを見た。
    「あの窓を突き破った時には喉は怪我していませんでしたよ」
     マトリフは考えが外れた。もしかして回復呪文の手違いでうまく機能が再生しなかったのかと思ったのだ。
     マトリフは喉に手を当てて回復呪文を唱える。詠唱はできなくても呪文は発動した。しかし呪文は発動しても体が回復している様子はなく、声も出なかった。

     ***

     マトリフは紙にペンを走らせる。声が出ない代わりにそうやって意思疎通していた。アバンは横で本を読んでいる。書斎から関連しそうなものを片っ端から取ってきたらしく、アバンの周りには本がいくつもの塔になっていた。
     マトリフの周りには紙が散乱していた。マトリフの言葉が記されたそれが、取り止めもなく散らばる。その一枚に「喧嘩した」「知らねえ」と書かれたものがある。アバンからガンガディアの所在を尋ねられたマトリフが書いたものだ。あれを喧嘩と呼ぶのがおかしい気がしたが、それ以上に詳しくは言いたくなかった。アバンは何か察したようだったが、それ以上に追及してはこなかった。
     マトリフは書き終えた紙をアバンへ差し出した。アバンはそれを受け取ったが、書かれた文字を見て残念そうに眉を下げた。
    「また、何でもいい、ですか?」
     アバンは不満そうに言う。昼食のメニューは何がいいかとアバンにたずねられたから、マトリフは何でもいいと書いたのだ。マトリフはインクが付いた指を擦る。滲んだそれを見てから、ベッドに寝転がった。
    「何でもいいが一番困るんですよ。せっかく腕を振おうと思ってるんですから」
     一体どこにそんな暇があるのか、アバンは国政の補佐をしながらマトリフの世話まで焼いてくる。声が出なくなった原因を探すために本を読み、食事まで作る。食事なんて厨房に言えばいいだろうに、毎回マトリフの希望を聞いて作ろうをするのだ。
    「また寝るのですか? やはり体調が悪いのでは?」
     マトリフは頭まで引き上げたシーツから手を出して振る。否定の意を示したが、それだけでアバンは引き下がらない。
    「だったらマトリフも本を読んで原因を探してくださいよ」
     マトリフはそれにも手を振る。そもそも、原因などどうでも良いのだ。声が出ない。それだけだ。簡単に治りそうもないなら、治らなくてもいい。マトリフはアバンが何故そこまで熱心なのかわからなかった。
    「さて、もうこんな時間ですか。じゃあ私は昼食を作ってきますね」
     ぱたんと本を閉じる音がして、アバンが部屋から出ていった。マトリフはシーツから手だけ出してひとつの本を掴む。それはアバンが熱心に読んでいたものだ。ぱらぱらと捲って目当てのページを見つける。そこには強いストレスが原因で声が出なくなることがあると書かれてあった。
     マトリフは本をベッドから追い出した。何が強いストレスだ。そんなやわな神経をしてる筈がないときつく目を瞑った。

     ***

     マトリフがカールに居着いてから半月ほどが経った。マトリフは紙とペンをいつも身近に置いている。しかし今では手話が主な意志伝達の手段になっていた。
     マトリフは訓練場で若い魔法使いたちの呪文を見ている。マトリフが手話で横にいるアバンに伝えると、アバンがそれを言葉にして若い魔法使いたちに伝えた。マトリフの一応の身分は魔法使い指南ということになっている。マトリフには勇者一行の魔法使いという肩書きがあり、それはいまだに威力を持つらしく、若い魔法使いたちは尊敬の眼差しでマトリフを見てくる。それが鬱陶しいのだが、窓を突き破った借りがあるからその役目を引き受けていた。それにアバンから城に残るようにとしつこく勧められ、根負けしたという部分もある。
     どうやらアバンはまだマトリフの声を治す方法を探しているようだ。だが当の本人であるマトリフはすっかり諦めていた。声が出ないことに多少の不便はあるが、それもマトリフにはどうでの良いことだった。
     マトリフはふわりとトベルーラで浮き上がる。アバンがマトリフを見上げた。
    「あれ? 今日はもう終わりですかマトリフ」
     そうだ、と手話で伝える。この魔法指導も体調が良ければ、という条件付きで引き受けたものだ。面倒臭くなればマトリフはマトリフはさっさと訓練を切り上げてしまう。
     そのままマトリフはトベルーラで部屋まで戻ると鍵をかけた。呪文でしか開けられないからアバン以外は入ってこられない。マトリフはベッドに倒れ込むと息をついた。疲れてはいないが色んなことが面倒に思えて仕方ないのだ。毎日毎日がつまらない。マトリフはそのままうとうとと眠りに引き込まれていく。

     ***

     目が覚めたら部屋は暗かった。やけに静かで、マトリフは不思議に思いながら体を起こす。サイドテーブルには冷めた食事が置かれてあった。起きたら食べてください、とアバンの文字で書かれた紙が置いてある。それを目に止めたのだが、食欲がなかった。
     マトリフはベッドから抜け出して窓辺に立つ。いったいどれほど眠っていたのか、やけに体が重い。窓枠に腰掛けて体を預ける。窓から見上げた月は半分が欠けていた。高い位置にあるから随分と遅い時間なのだろう。
     アバンは洞窟にガンガディア宛の手紙を残したと言っていた。マトリフがカールにいると書いたらしい。余計なことを、とマトリフは思ったのだ。どうせガンガディアはもう戻ってこない。その書き置きは誰の目にもとまらないだろう。
     この歳になって誰かを本気で愛するなんてやってられるかよ、と捻くれた自分が嘯く。それは傷付きたくないと怯える姿の裏返しだった。そのせいで何度ガンガディアを傷付けただろうか。
     マトリフは窓の向こうを眺める。そうすることが増えていた。素直に認めるのは癪なのだが、ガンガディアが来るのを期待している自分がいた。もし彼が来たら、と有り得ない想像をする。そして今度こそ、と何度目かの決意をするのだ。今度こそ本気で彼を愛することができるかもしれない。だがそう決めたところで、ガンガディアは来ない。今度こそ愛想を尽かしただろう。
     見上げる夜空には雲ひとつなかった。その星々の間にガンガディアを探す。どこからか彼が飛んでくるのではないか。だが空にあるのは星々の輝きだけで、あの青い姿はどこにもない。
     マトリフは物思いに耽りながら空を見上げていたのだが、突然に肩を叩かれた。驚いて振り返るとそこにはアバンが立っていた。音もなく部屋に入ってきたらしく、その存在に全く気付かなかった。
     脅かすなよ、とマトリフは手話で伝える。するとアバンは困ったように何かを言った。口が動いたから何かを喋ったのだろうが、その言葉が聞こえなかった。部屋は静まりかえっている。いや、静かすぎるほどだった。
     アバンの口がまた動く。不思議そうな顔をしていた。音もなく口が動いていく。だがマトリフの耳は音をまったく拾わなかった。何の反応も返さないマトリフにアバンが何か気付いた。
     私の声が聞こえていますか?
     アバンの手話が伝えてくる。マトリフは首を振った。

     ***

     マトリフはシーツに包まって窓辺に立っていた。耳まで聞こえなくなって世界は静かになった。元から聞きたくないことは無視する性格であるから、不便に思うことは少ない。
     今もアバンが何やら手話で伝えてくる。それを視界に入れながらも、読み取ることを放棄していた。どうせいつものように飯を食えとか規則正しい生活をするように、と言っているのだろう。マトリフは適当に頷いてまた窓の外を見る。外は夜空が広がっていた。
     マトリフはすっかり昼夜逆転の生活を送っていた。窓の外を眺めるにしても夜のほうが落ち着く。昼の空は青くてガンガディアを思い出してしまうからだ。しかしアバンは真夜中にしか起きていないマトリフに困り果てていた。
     アバンの手話が窓に映る。思わずそれを読んでしまい、マトリフは気まぐれに返事を返した。
     どうせすぐにあの世から迎えがくる。
     アバンはそれを見ると「悲しい」と返事をした。アバンの手がマトリフの肩を優しく叩く。アバンは部屋を出ていった。
     マトリフは窓枠に区切られた夜空を見上げる。今夜はちょうど満月だった。毎日飽きもせずに眺めているせいで星の位置まですっかり覚えてしまった。
     その夜空に知らない星を見つけた。しかしさっきまでは無かったはずだ。マトリフは硝子に手をついて目を凝らせた。それは星ではなかった。マトリフは思わず窓を開ける。被っていたシーツが足元に落ちていった。
     空に浮かんでいたのはガンガディアだった。こちらを見下ろすようにしている。マトリフが窓から身を乗り出せば、ガンガディアはこちらに気付いたようで飛んできた。その姿に喜びを覚える。
     だがマトリフは目の前に浮かんだガンガディアから目を逸らせた。きっと同じことの繰り返しになる。ガンガディアはマトリフを許し、マトリフはまたガンガディアの愛を試すだろう。そしてガンガディアは傷つき、マトリフは自分が嫌になる。どうせまともな関係など自分には築けないのだとマトリフは思った。
     するとガンガディアに腕を掴まれた。その感触に驚き、思わずガンガディアを見た。ガンガディアが真っ直ぐにこちらを見ながら何かを言った。その言葉が聞こえない。マトリフはそれがショックだった。
     耳が聞こえないのだと、出ない声で言いそうになる。しかし手話で伝えたところでガンガディアにはわからないだろう。
     マトリフはガンガディアの手を振り解いた。そして背を向ける。
     もしガンガディアが今のマトリフの状況を知ったら、間違いなくマトリフから離れなくなる。真面目なガンガディアのことだから、たとえマトリフを恨んでいたとしても、その世話を買って出るに違いないのだ。そんな風に彼を縛り付けることをマトリフは望まなかった。
     とっとと諦めてくれ。マトリフは念じながら背を向けて立ち尽くす。どれほどそうしていたか、振り返れば窓は閉まっていた。もちろんその向こうにガンガディアの姿はない。
     マトリフは窓に駆け寄った。夜空にその姿を探す。二度と会えないかもしれないと思うと激しい感情が込み上げてくる。行くな、と叫ぼうとしたが掠れた呻きにしかならない。そこでようやくマトリフは自分がガンガディアの声を聞きたいのだと気づいた。その声に自分の言葉で応えたい。たとえそのどちらも出来ないとしても、今感じているこの気持ちだけは伝えたかった。
     マトリフは窓を開けた。夜空はいつの間にか薄暗く曇りはじめている。嵐を巻き起こす暗雲が夜に覆いかぶさっていた。マトリフは窓枠に足をかけて飛び出す。ガンガディアの魔法力の軌道を追って全力で夜空を駆けた。

     ***

     夜空は嵐に襲われていた。吹きつける雨は冷たい。遠くでは雷が光り、その音が遅れて耳に届いた。
     ガンガディアは海上を飛んでいたが、背後から近付いてくる魔力に気付いて振り向いた。それはかなりの速度で飛んでくる。ガンガディアは咄嗟に構えたが、それがよく知る魔力だと気付いた。
    「大魔道士?」
     飛んできたマトリフはガンガディアの目の前で止まった。マトリフは雨に濡れた顔を拭いながら肩で息をしている。
    「どうしたのかね。何故ここに」
     思わずその体を支える。マトリフはガンガディアの指に捕まりながら見上げてきた。風を伴った雨が容赦なく二人に吹き付けてくる。ガンガディアは雨から守るようにマトリフに手をかざした。
    「それより雨の当たらない場所に……」
     ガンガディアは言いながら先ほどのやり取りを思い出す。マトリフは話し合うことさえ拒否したではないか。今さら追いかけてきて何を話すつもりなのか。ガンガディアは心を固く閉ざす。もうこの男に振り回されたくはなかった。
    「大魔道士。私は二度と君に会わないと決めたのだ」
     海面が寒々しく揺れる。風が一層強くなってきた。マトリフはガンガディアを見上げているが何も言わない。少なからず期待していたガンガディアは落胆した。
    「また何も言ってくれないのかね」
     マトリフはじっと目を凝らしてガンガディアを見つめていた。その視線はいつになく感情の読めないものだった。
     ガンガディアは苦い笑みを浮かべる。追いかけてきたマトリフが、愛しているとでも言ってくれるのかと思ったからだ。結局はガンガディアが一人で空回りしていただけで、マトリフには響かない。ただ一方的な憧れを押しつけてきただけだった。
     ガンガディアは天をあおぐ。どうにも振り切れない思いが纏わりついていた。本人を目の前にすると余計に思いが強くなる。ガンガディアは雨に濡れた眼鏡を拭った。そしてマトリフを見下ろす。
    「私は君を愛している。君でなければ駄目なんだ。だから……どうすれば君を忘れられる? 私がどれだけ君のことを想っているか……私も君の愛が欲しかった」
     マトリフは何か言い淀んでいるようだった。まるで言葉を発することに抵抗があるように、口を開いてはみるが声を発しない。手が耳を塞ぐように当てられる。ガンガディアはその手を乱暴に掴んだ。
    「私などいらないと言ってくれ。お願いだ。はやく君を諦めさせてくれ」
     マトリフの口が小さく開く。何かを言っているようだが、風が強いせいかガンガディアには聞こえなかった。
    「周りが煩くて聞こえない」
     するとマトリフが何か怒ったように指を叩いた。また何か訴えるように口が動いている。ガンガディアはマトリフに耳を寄せるが、やはり声が聞こえなかった。マトリフは腹立たしさが高じて頬が赤らんでいる。息を吸い込みながら口を大きく開くと、マトリフは叫ぶように言った。
    「馬鹿野郎!」
     突然の大声にガンガディアは目を丸くした。マトリフは大きく息を吸い込むと、ガンガディアを睨めつけて捲し立てた。
    「なんでおまえはいつもそうなんだ!」
    「そう、とは?」
     突然に怒り出したマトリフにガンガディアはわけがわからなくて困惑する。しかしマトリフはガンガディアの手を拳で叩きつけた。
    「オレがおまえのことどう思ってるかとか、勝手に解釈しやがって。オレは……」
     マトリフは言い淀みながらも言葉を続けた。
    「……オレはおまえがいなくなってクソほど苦しかった。息はできねえし、声は出ねえし聞こえねえし、意味わかんねえよ」
    「ちょっと待ってくれ。それはどういう……耳が聞こえていなかったのかね」
    「そうだよ。それが今になって聞こえやがるし声も出る。おまえにどうしても言いたいって思ったら、自然と声が出てたんだよ」
     マトリフは確かめるように耳に手を当てている。さっき城で会ったときは聞こえていなかったのだろう。ガンガディアは拒絶されたと思い込んでいた。
    「私にどうしても言いたい事とは、さっきの馬鹿野郎でいいのかね?」
    「それだけじゃねえよ」
     マトリフはガンガディアを見上げてくる。それは迷いを振り切った表情だった。瞳が真っ直ぐにガンガディアを見ている。
    「オレはもう二度と人を好きになんてなりたくなかったんだよ。オレなんかと一緒になったところで不幸にしかならねえから。でもオレはおまえに絆されて離れられなかった。だから今回のことはいい機会だと思ったんだ。だけどよ」
     マトリフは顔を歪ませる。そして振り絞るように言葉を続けた。
    「だけど耐えられなかったんだよ。おまえがオレの前からいなくなるのは。おまえがいないだけで……だからわかれよ、この馬鹿野郎」
    「全然わからない。ちゃんと言葉にして言ってくれないか」
    「んだとこの野郎! ずっとオレのそばにいろって言ってんだよ! おまえが……朝起きたときにおまえが見えなきゃ嫌なんだよ。おまえの考えてることをおまえの声で聞けなきゃ嫌なんだよ。おまえがいねえと……」
     マトリフの目から涙がこぼれ落ちた。だが吹き付ける雨に混じってすぐにわからなくなる。マトリフはガンガディアの胸元を掴むと顔を押し付けた。
    「オレを好きだというなら一緒にいてくれ。頼むから……オレをひとりにするな……」
     ガンガディアはマトリフの体を抱き締めた。マトリフは大人しく腕の中に収まっている。ガンガディアはマトリフが泣くところをはじめて見た。いつも傲慢なほど自信に溢れて、弱みを見せたがらないのに。ガンガディアはその小さな肩を撫ぜた。
     ガンガディアにとってマトリフがそうであるように、マトリフにとってもガンガディアは特別な存在だったらしい。それに気付かなかった。ガンガディアは胸の底から温かな感情が湧き起こる。それがいっぱいに体を満たしていく。
    「愛している」
     ガンガディアはマトリフの耳元で囁いた。他にどんな言葉にして伝えればいいかわからなかった。
    「愛している。君を愛しているんだ」
     マトリフは顔を上げてガンガディアを見つめる。そしてガンガディアの頬へ手を伸ばした。
    「オレもだよ……オレも……おまえを愛してる」
     それははじめて聞いた言葉だった。捻くれ者の口から素直な言葉なんて滅多に出てこない。固まったガンガディアを見てマトリフが苦笑する。
    「もう離してやらねえからな」
    「それは私の台詞だが? 覚悟するといい」
    「……わかった」
     マトリフは小さく返事をした。ガンガディアの肩に頭を預け、小さな声で囁く。
    「おまえが一緒なら、この世界も悪くねえ」
     ガンガディアはマトリフの背に回していた腕に力を込める。嵐の真っ只中で二人は互いの温もりを感じ合った。ガンガディアはマトリフの耳元へ顔を寄せると囁いた。
    「……もう一度言ってくれないか」
    「あ? 何をだ」
    「君が私のことをどれだけ愛しているのかを」
     するとマトリフは勢いよくガンガディアから離れた。その顔がみるみる朱に染まっていく。
    「はあ! 嫌だよ」
    「なぜ?」
    「恥ずかしいだろ!」
    「だが、君の気持ちを聞きたい」
     ガンガディアは至極真面目だった。せっかく話してくれた内容を一言一句覚えておきたい。ところがマトリフはかなり葛藤しているように顔を歪めている。
    「おまえ……そういうとこあるよな」
    「どういうところだ?」
     マトリフはかなり考え込むようにしてから、そっとガンガディアの耳元に口を寄せた。マトリフは次から次へといかにガンガディアに惚れているのかの理由を並べ立てた。些細な行動から、ちょっとした表情まで、マトリフは途切れることなくガンガディアを誉めそやしていく。
    「ま、待ってくれ……」
     ガンガディアは珍しくマトリフの言葉を遮った。大量の称賛に気持ちがいっぱいになってしまったのだ。
    「なんだよ。聞きたいんだろう」
    「しかし、こんなに言われては……」
    「へっ、ちったあオレの気持ちもわかっただろ」
     マトリフは揶揄うように笑いながら飛び上がる。だが途端にマトリフのトベルーラが途切れた。がくんと落ちそうになるマトリフの体を慌てて捕まえる。
    「大魔道士!」
    「チッ……長期戦は苦手なんだよ」
     ガンガディアを探して全力で飛び回ったせいでマトリフは魔法力を殆ど使い切っていた。嵐の中を飛んだせいで体力も底をついている。ガンガディアは腕の中に抱えたマトリフの濡れた前髪をかきあげる。その指をマトリフが掴んだ。
    「やっぱり寝るならおまえの腕の中が一番だな」
     あと頼むわ、と言い残して目を瞑り、マトリフは動かなくなった。ガンガディアは焦ってカールへ飛んで戻り、勢い余って修繕されたばかりの窓へと突っ込み、アバンを呆れさせた。しかし翌日になって目覚めたマトリフと、窓の修繕を手伝ったガンガディアが仲直りしたと知ると、大いに喜んだ。嵐の後の空はきれいに晴れており、その青空を横切る二つの飛翔呪文が緩やかな曲線を描いた。
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