コーヒー「オレはコーヒーを」
「私も同じものを」
店員は小さくお辞儀をして去っていく。ガンガディアは神妙な顔でマトリフを見た。
「暫く会えなかったから寂しかったよ」
ガンガディアはそう言って机にあったマトリフの手に手を重ねた。マトリフはその温もりに思わず目頭が熱くなる。今の自分にガンガディアの存在がいかに必要なのか、嫌というほどわかっていた。
前世の記憶が思い出さられたのは突然だった。それはマトリフが二人で住むための家を探していた時だった。
マトリフはガンガディアから同棲しようと誘われていたが、ずっと断っていた。その覚悟を持てなかったからだ。ガンガディアはマトリフより若い。それを言い訳にしながら、自分が一歩踏み込む勇気が持てないでいた。
だが、これまでガンガディアと過ごした日々を思い返して、ようやくマトリフは重い腰を上げた。
新しく住む家を探したのはマトリフにとって今のガンガディアの家の居心地が悪過ぎるということも大きいが、二人で過ごす家を二人で探すのもいいかと思ったからだ。
マトリフはガンガディアに提案する前に住宅情報サイトを眺めた。すると自然と目がいく物件があった。それは海沿いの家で、なぜだか強く惹かれた。青い海が窓から見える内装写真をじっと見つめては、こんな家でガンガディアと生活が出来たらと夢想した。
二人で生きる未来は輝いて見えた。マトリフは残りの人生をガンガディアと生きることを選んだ。
だがそのとき、海の青さが何かを思い起こさせた。突然に本のページを開いて突きつけられたように、鮮やかな青が視界いっぱいに広がった。海かとマトリフは思った。いつか行った海を思い出したのかと思ったが、目を凝らすように記憶を探れば、それは海ではなかった。
眩い光の中にガンガディアがいた。なぜだかガンガディアの肌は青かった。耳も長くて尖っている。ガンガディアは眩い光に包まれて、消滅した。
マトリフは今見た光景が何なのかわからずに困惑した。だが、それをきっかけに次々と知らない記憶が蘇ってくる。それはガンガディアが語った前世の話と同じだった。
マトリフはあらかた思い出して気付いた。ガンガディアとは恋人などではなかったのだと。ガンガディアはマトリフがこの手で殺したのだ。
最初に思い出した光景は、まさにガンガディアを殺す瞬間だった。マトリフはそれを理解して、吐気が喉の奥に込み上げてきた。今のマトリフにとってガンガディアは大切な人で、その人を前世で殺したという事実に、臓腑が締め付けられて抉られるようだった。
「お待たせしました」
店員が二人分のコーヒーを運んできた。本当ならいい香りがしたのかもしれない。だがマトリフはそれを感じられなかった。
「ガンガディア」
マトリフは目の前のガンガディアを見つめる。
「オレたち、別れよう」
***
ガンガディアは静かな驚きを感じながらも、取り乱すことはなかった。まるでこうなることを予測していたかのようだ。
「理由を聞かせてくれないか」
ガンガディアの声はいたって冷静だった。だが込み上げる感情を抑えようとしてるのが見ていてわかった。それが昔の姿と重なる。
「お前のことが好きじゃなくなった。簡単だろ」
それは本心ではなかった。マトリフはすっかりガンガディアを愛してしまっていた。過去の出来事はこの数年の二人の出来事を覆すことはできなかったのだ。
「私たちは上手くいっていると思っていた」
「オレたちは違いすぎる。上手くやれるわけがなかったんだ」
記憶が戻ったのだと言ったらガンガディアはどんな顔をするのだろうか。打ち明けたい気持ちがもたげる。だがマトリフにはそれがどうしてもできなかった。
マトリフは汗の滲んだ手を握りしめる。ガンガディアを見ていると、あの光景が今も鮮明に頭に浮かぶ。そのときの後悔が、今まさに感じているように戻ってくるのだ。
「お前とは一緒にいられねえ」
マトリフは立ち上がった。立ち去ろうとして、手をガンガディアに掴まれる。マトリフは肩をびくりと震わせた。ガンガディアは優しい手つきでマトリフを引き寄せる。
「君に出会えてよかった」
ガンガディアはそれだけ言うと、伝票を取って先に行ってしまった。会計を済ませている姿を見ながら、マトリフはさっき座っていた席へと腰を下ろす。
ガンガディアは振り向かずに店を出て行った。それを目で追って、ゆっくりと息をつく。
机の上に残された二人分のコーヒーを見る。まだ冷めていないようで、細く湯気が立っていた。
***
ガンガディアが最後に見た光景は美しい輝きだった。
あらゆるものを消滅させる呪文がこれほど美しいのかと、ガンガディアは指先から消えていく手を見つめながら思った。
ガンガディアは負けた。だが満足だった。大魔道士と戦い、その圧倒的に美しい呪文で負けたのだから。
不思議と痛みはなかった。消滅は苦痛とは正反対だった。己という存在が消えていくというのに、まるで呪縛から解放されていくかのようだった。
大魔道士と出会えてよかった。ガンガディアの意識はその思いでいっぱいだった。それは間違いなく喜びで、肉体が消滅しようとしているのに、意識だけは最後まで残って喜びを感じていた。
ふっと、呪文が消えた。輝きが弾けていく。ガンガディアはいったいどれほど肉体が消滅したのかを確かめることすらできなかった。
だが大魔道士が見えた。ということは目や脳はまだあるのだろう。ガンガディアは必死に目を見開いて彼を見た。
大魔道士は悲しそうだった。
ガンガディアは目を疑った。これは死ぬ直前の歪みなのかと思ったほどだ。大魔道士は勝ち誇った顔をしているか、彼らしく皮肉げに頬を歪めているかと思ったのだ。
途端にガンガディアは消滅したくないと思った。もう少しも肉体が残っていないというのに、どうにかして生きたいと思った。だが肉体の最後の欠片は崩れ去った。
なぜ悲しい。なにが彼を悲しませているのか。
それは強い思いとなって最後までガンガディアの心に残った。その思いが一番最後に消滅した。
そしてガンガディアは今世で人間として生を受けた。世界はあまりに変わっており、前世の記憶を残したまま生まれ変わったガンガディアを混乱させた。
だが、まるで前世の埋め合わせのように、今世でガンガディアは恵まれた環境にあった。自分を愛してくれる両親と、何不自由ない生活。知識を望めば与えられ、それを発揮する場も与えられた。
だが、その恵まれた生活があっても、どこか満たされない気持ちがあった。その欠落が大魔道士であると気付くのに時間はかからなかった。
ガンガディアのように前世の記憶を有した者は珍しくなかった。そして存在が引かれ合うかのように、前世で親交があった者たちとの再会があった。だが大魔道士と出会うことはなかった。最後に見た大魔道士の表情をガンガディアは忘れていない。忘れられないのだ。きっと最後まで大魔道士のことを考えていたからだろう。
ガンガディアはあらゆる方法を使って大魔道士を探した。しかし見つけることはできなかった。求めても得られない存在は暗い影となってガンガディアの心を暗くさせた。
だがある日、それは偶然に、そして突然に現れた。あれは早春の寒い日で、朝から雨だった。
ガンガディアは仕事の打ち合わせのために急いでいた。どうも行き違いがあったらしく、一刻も早く取引先の会社に行かねばならなかった。
早足で歩いていたせいで、足元の水が跳ねて裾を濡らした。その不愉快さに顔を顰めながら、ふと先の信号が赤であると気付いた。苛立つ気持ちが膨れ上がる。それを宥めようと傘を少し上げて、空を見上げた。大きく息を吸おうとしたそのとき、視界の端に何かが映った。
まるで体に電気が通ったかのように痺れた。脳の理解が遅れる。目だけは必死に彼を見ていた。
大魔道士がいた。全国展開のファストフード店の二階の席の、硝子の向こうに彼がいた。大きな口を開けてホットドックを頬張っている。
そこからはただ夢中に動いていた。あまりに必死だったせいで、大魔道士には不審者を見る目で見られてしまった。大魔道士には前世の記憶がなかったからだ。
なんとか連絡先を渡したが、電話をかけてきたのは大魔道士ではなく勇者だった。
「お元気そうでなによりです」
皮肉かと思ったが、アバンは本気で言っているようだった。アバンはガンガディアの名刺をマトリフのゴミ箱から拾ったのだと言った。
「偶然に目に入ってしまって」
と、アバンは朗らかに言ってから、声を落とした。
「それでマトリフに何の用ですか?」
その声音に背筋がぞくりとした。警戒と牽制を感じて、ガンガディアは戦場で対峙しているかのように感じた。
「何も。ただ彼を見かけて、思わず声をかけただけだ」
言ってから、ガンガディアは前世での自分と彼らの立場を思い出した。
「彼に危害を加えるつもりはない」
自分たちが敵同士であったこと、そしてガンガディアにとって大魔道士は命を奪った相手だ。恨みを持っていると思われても仕方がなかった。
「マトリフには前世の記憶がありません」
「そのようだな」
「不用意な接触は彼を混乱させてしまいます」
「わかった。彼には二度と会わない」
ガンガディアは音もなく息を吐く。大魔道士に再会できた喜びは砕けていた。だが大魔道士に前世の記憶がないということは、彼はもう悲しくないということだ。
ガンガディアが消滅する最後に見たマトリフは悲しそうだった。それがどうにも心に引っかかっていた。だが前世のことを全て忘れているということは、あの悲しみも、もう存在しないということだ。
「会ってほしくないわけではないんですよ。ただ」
電話の向こうのアバンの声に覇気がなくなった。戸惑いを払うためか、アバンは息を吸った。
「マトリフはあの頃の彼ではないんですよ」
それは鈍い衝撃となってガンガディアを襲った。どのような意図でアバンがそんなことを言ったのか理解しかねる。前世の記憶がないことはわかっていた。
「彼は今世だけの人生を歩んでいます。魂……と呼べるものが同じであっても、経験してきたことは違うんです。ですから」
アバンはまた言葉を切った。いつも明瞭に喋っていた彼には珍しいことだ。
「だから何かね?」
「新しい出会い方が出来る反面、以前の彼とは会えないということです」
「彼が大魔道士であるということに変わりはない」
「あなたがそう思うなら、それもまた真実ですよ」
ではまた、と言ってアバンは電話を切った。
大魔道士と会うつもりはない、と言ったにも関わらず、それから間もなく大魔道士と再会した。
そのとき大魔道士は酔っていた。だがガンガディアも酔っていた。酔いは口を軽くさせ、前世の出来事を喋ってしまった。前世の話を聞けば大魔道士が思い出すのではないかと期待する気持ちもあった。
ガンガディアは大魔道士を求めていたのだ。前世で戦い、憧れた、あの大魔道士を求めていた。
だが同時に、大魔道士に対する思いが憧れだけではないと気付いてしまった。強い執着は独占欲となり、独占欲は性欲となった。彼を我が物にしたいと願ってしまった。
そのためにガンガディアは嘘をついた。前世では恋人だったのだと嘯いた。なんて酷い嘘なのか。己の欲望を満たすために、相手を謀ったのだ。
ガンガディアは大魔道士の細い身体をかき抱いて快感を得た。あの大魔道士が自分の手で悶え、快楽に震え、もっととせがむ姿は、ずっと抱えていた満たされなかった気持ちを埋めていった。
歪んでしまった憧れは、醜い形になってガンガディアの心を支配した。彼を手に入れたいとそれだけを願った。
だから彼のためだったら何でもした。何も惜しまなかった。恋人となり、その後に過ごした数年も、ずっと大魔道士のために生きていた。しかしいくら求めても足りず、不満が募ることもあった。どうしても前世の大魔道士のことを忘れられず、彼が大魔道士らしくない振る舞いをすると苛立った。早く思い出してくれと望みながらも、思い出してほしくないとも思った。恋人などと嘘をついたことを大魔道士が知ったら、どれほど怒るだろうか。だがその罵声を浴びたいと思った。君が思い出さないからだと言い返したかった。そして抵抗する彼を捩じ伏せて繋がりたかった。何が君を悲しませたのかと問いたかった。
だがある日からぱったりと大魔道士からの連絡が途絶えた。こちらから電話をしても出ず、メッセージに既読は付くものの、返事は返ってこなかった。
***
ガンガディアは呼び出された喫茶店で別れを告げられた。
醜い心の内を見透かされたのだとガンガディアは思った。憧憬と破壊衝動と性欲が入り混じった汚い気持ちに、嫌悪感を持たれたのだと。むしろ何故今まで耐えたのかと不思議なくらいだった。罵詈雑言を浴びせられてもおかしくないのに、彼は申し訳なさそうに、目を合わせないでいた。
彼を愛していた。それは間違いない。だが愛がこんなにも醜いはずがない。もっと美しく、そう、あの消滅呪文のように美しくきらめているはずだ。
ガンガディアは別れを受け入れた。縋りついて行かないでくれと泣き叫んだところで、結果は変わらないのだろう。
翌日、ガンガディアはダンボールを抱えて車から降りた。中には大魔道士が置いていったものが詰まっている。
大魔道士はガンガディアの部屋を嫌がっていたが、それでも何度も訪れるうちに、細々としたものが持ち込まれた。ガンガディアが買ったものは処分しても構わないかもしれないが、彼が持ち込んだものは捨てるわけにはいかなかった。それらを箱に詰めていると、それなりの量になってしまった。
ガンガディアは古い木造のアパートの、錆びて耐久性のない階段を上がっていく。大魔道士がなぜこんな場所に住み続けるのか理解に苦しんだ。この広い世界ならもっと良い環境がいくらでもあるのに。
ガンガディアは通路の突き当たりの部屋の前まで来た。通い慣れたこの部屋は薄暗くて清潔ではない。大魔道士がいるから通ったが、そうでなかったら足を向けることはなかっただろう。
ガンガディアは扉を拳で叩いた。返事を待つ。だがいくら待っても返事はなかった。今度は強めに叩いたが、やはり返事はなかった。
ガンガディアはドアノブに手をかけた。大魔道士が鍵をかけないことは知っている。案の定ドアノブは回り、扉は開いた。
そこはもぬけの殻だった。
がらんとした何もない部屋を見てガンガディアは立ち尽くした。家具の跡が薄く残った床を見つめる。確かにここに大魔道士がいたのだという証拠を探したかったのかもしれない。
ガンガディアはスマートフォンを取り出して大魔道士の連絡先を探すが、それもアカウントが削除されていた。焦る気持ちでアバンに電話をかける。コール音を繰り返すのさえ煩わしく感じた。
「もしもし」
その声のトーンで、もはや手遅れであるとガンガディアは気付いた。
「マトリフは」
「彼なら仕事も辞めちゃいましたよ。私も昨日知らされたばかりで」
「では無事なのだな」
ガンガディアはそこで力が抜けて抱えていたダンボールを足元に落とした。大きな音が通路に響く。
「大きな音がしましたけど、大丈夫ですか?」
ガンガディアは屈むとダンボールを拾おうとした。中に入れた彼の気に入っていたマグカップは今ので割れてしまったかもしれない。
「ガンガディア?」
返事がないガンガディアを訝しんでアバンが呼びかける。だがそれに答えられなかった。込み上げてくる嗚咽を手で押さえていたからだ。
彼が最悪の選択をしたのではないかと、そんな気がしてしまったからだ。
大魔道士なら絶対にそんなことはしない。そう思えるのに、今世で生きる彼は、どうしてか生への執着が薄いようだった。どんな状況でも頭を回転させ、生へとしがみつくあの大魔道士の姿はそこにはなかった。
生きてさえいてくれるなら、とガンガディアは思った。ガンガディアと共にいることを選ばなくても、彼が生きていてくれるならそれでよかった。
***
十数年という月日はあっという間に過ぎていった。それがガンガディアにとって空虚な日々だったからだ。
大魔道士のことを探さなかったのは、それが彼のためだと思ったからだ。黙って姿を消すということは、探すなという意味に違いない。
それでも雨の日や、あるいは陽射しの眩しい日、珍しく雪が降る日などには、大魔道士のことを思い出していた。思い出の中にいる大魔道士を探しては、手が彼の感触を忘れていくことを悲しんだ。
その悲しみは時に怒りに変わり、その怒りの対処にガンガディアは窮した。感情のコントロールは前世からの課題だが、それは手綱のつけられない化け物に育っていた。
ガンガディアは上司から休暇を勧められた。前世から縁のある上司は、ガンガディアが知る頃からは随分と変わり、部下をよく思い遣ってくれるようになっていた。
「仕事以外にやりたい事などありません」
ガンガディアの意欲は全て失われていた。仕事さえも、残りの人生を埋めるためだけに行なっていた。
「だったら休め。何もせず過ごすのもいい」
「そんな人生に意味がありますか」
ハドラーは深い溜息をついてガンガディアの肩を叩いた。
「だったらその意味を探しに行け」
ガンガディアは押し付けられた休暇を前に途方に暮れた。しかしこれも仕事と割り切って、休暇を過ごすことにした。
ガンガディアが訪れたのは海だった。休暇、過ごし方、と検索して、一番最初にヒットしたページを読み、それをそのまま実行することにした。
空港から乗ったバスは数時間かけてガンガディアを何もない海へと連れてきた。そのバス停で降りたのはガンガディア一人で、どう見ても観光地でないことは確かだった。バスは左右に揺れながら走り去っていく。
ガンガディアはスーツケースを引っ張って歩いた。しかし足元は石畳で、スーツケースは宿に到着する前に壊れそうだった。ガンガディアはスーツケースを持ち上げて、目的地まで歩いた。
そこは小さな町で、夏こそ海水浴客が来るかもしれないが、まだ寒さの残る春には随分と寂しい風景が広がっていた。昔は栄えていたと思わせる跡が随所に残っているが、それが一層侘しさを感じさせる。大きな岩が海風に風化させられていくように、ゆっくりと朽ちていく町に思えた。
ガンガディアは地図を見ながら宿に辿り着いた。廃校になった木造小学校を改装したというその宿は小綺麗だが、町にぴったりと馴染んでいた。宿の玄関にはカラフルに塗られた小さな椅子が並べられている。ガンガディアからしたら小さすぎるが、そこにちょこんと座る少年にはぴったりのようだった。
「おぅ、おやじ! お客さんだぜ!」
少年はそれこそ小学生ほどの歳だったが、ませた雰囲気を持っていた。跳ね返った黒髪に元気の良さを感じる。
「いらっしゃい」
宿の中から少年に似た男が出てきた。男はガンガディアから荷物を受け取って、チェックインの手続きをする。ガンガディアはやるべき仕事をひとつこなしたような気がして、あとのスケジュールを確認した。今日はとりあえずこの近くを散歩することになっていた。
ガンガディアは案内された部屋に荷物を置くと、そのまま宿を出た。少し歩けばすぐに海が見えてくる。
「さっきのおっさん」
宿の少年が堤防に座っていた。堤防は背が高いガンガディアの目線ほどの高さで、この年齢の少年が座るのは危険なように思えた。
「落ちたら危ないのではないかね」
「へーきへーき」
少年はガンガディアを手招きした。すぐ近くに階段があり、ガンガディアは呼ばれるままに堤防へと上がる。堤防の向こう側は一段低くなっており、釣りに丁度良さそうだった。実際、少年の横には大きな麦わら帽子を被った人が釣り糸を垂れている。といっても竿は竿受けに置いたままで、釣り人は麦わら帽子を目深に被って眠っているようだった。
「なぁ師匠、晩飯釣れた?」
少年が釣り人の肩を揺さぶる。すると麦わら帽子が弾みで落ちた。顕になった白髪を海風がさらう。
ガンガディアは信じられない気持ちで息を飲んだ。呼吸さえ忘れてその姿を見つめる。
「大魔道士」
その声に大魔道士が目を開けてこちらを見上げた。その顔が驚愕に染まる。大魔道士は思わぬ攻撃でも受けたように飛び上がり、身体が大きく後方に傾いた。後方は海である。
「師匠!?」
少年の驚きの声と、水飛沫が上がったのは同時だった。ガンガディアは思わず後を追って海に飛び込む。白く泡だった海からその身体を引き上げた。
***
「離せって言ってんだろ!」
ずぶ濡れの大魔道士が暴れる。ガンガディアは落とさないように腕に力を込めた。
「あと少しで着くから暴れないでくれ」
「そーだぜ師匠。大人しく抱っこされてろよ」
ポップと名乗った少年が言う。すると大魔道士は余計に手足をばたつかせた。
海に落ちた大魔道士を引き上げたものの、大魔道士は足を挫いていた。病院へ連れて行くと言ったが大魔道士はそれを拒否し、ではせめて家まで送ると言うと、ポップがうちの宿に来ればいいと言った。
どうやら大魔道士はあの宿に住んでいるらしい。宿の半分は長期滞在者向けの部屋で、その一室に長く住んでいるらしかった。
ポップが先に宿へと走って行く。大魔道士は暴れて疲れたのか、息を切らせていた。ガンガディアは大魔道士を抱え直す。
「ここでいい」
宿の玄関に着いた途端に大魔道士は言った。ガンガディアはそっと大魔道士を下ろす。ちょうど宿の主人が大きなタオルを持って出てきた。宿の主人はその大きなタオルを大魔道士の頭にかけた。
「こんな時期に水泳かい、旦那」
「うるせえよ」
大魔道士の憎まれ口にガンガディアは眉間に皺を寄せる。しかし宿の主人は慣れているのか気にもしなかった。宿の主人はガンガディアにもタオルを手渡した。
「お客さんも災難だったな。けど助かったよ」
「いや、私が彼を驚かせてしまったせいだ」
宿の主人は片足で歩く大魔道士に肩を貸した。大柄な主人は背を屈めて大魔道士を支えている。
「おいポップ、オレの着替え用意しとけ」
「人使い荒いぜ師匠」
言いながらもポップは元気よく駆けていく。その様子から、彼がこの宿に馴染みが深いとわかった。
ガンガディアは大魔道士のことが心配だから部屋について行きたかったが、自分もずぶ濡れだと気付いて着替えに行った。するとノックされて、返事をすれば主人が風呂を沸かすと言ってくれた。海で濡れたのなら洗い流さないとベタつくだろうというのだ。
案内されるままに向かえば、温泉マークの暖簾が見えた。そこの前の椅子に大魔道士が腰掛けている。大魔道士はちらりとガンガディアを見て、やっぱりかというように口の端を曲げた。
「お客さん、悪いが旦那が転ばないように見ててやってくれないか」
宿の主人は手のひらを合わせてガンガディアに頼んだ。
「年寄り扱いすんじゃねえ」
「師匠はじゅうぶんジジイだぜ」
ひょっこりと現れたポップが歯を見せながら笑う。そして大魔道士が怒るより先に逃げていく。
「……ったく」
大魔道士は溜息をついて立ち上がった。見れば捻った足首は赤く腫れている。思わず大魔道士の手を取った。
「こんなとこで転んだりしねえよ」
「すまない、つい」
握っていた手を離す。嫌っている相手に急に手を握られては不快だろう。もう昔のような関係ではないのだ。
「私が一緒では君が嫌だろう」
「お前もはやく洗い流したいだろ。一緒でいい」
「ではそうさせてもらう」
ガンガディアはできるだけ大魔道士を見ないようにした。しかし彼が入浴で困らないようにと気を配る。
一人でシャワーを浴びる大魔道士の背は昔よりも細くなっているようだった。そこに過ぎていった年月を感じる。一緒に過ごした年月より、離れていた時間のほうが長いのだ。
「おっと」
その声が聞こえて思わず手を伸ばした。濡れた腕を掴む。大魔道士は立ちあがろうとして体勢を崩したらしい。
「……あんがとよ。もう大丈夫だ」
ガンガディアは手を離したが、掴んだ大魔道士の腕が赤くなっていた。日に焼けていない白い腕にガンガディアの手の跡が残る。
「すまない。強く握ってしまった」
大魔道士の身体につい目がいってしまう。所有物だと示すかのような赤い跡が、ガンガディアの身体のうちに潜む何かに火をつけそうだった。
「オレはもうあがる」
「湯に浸からないのかね。こんなに冷えているのに」
肩に触れると大魔道士が牽制するように睨み上げてきた。だが一度火がついた情欲は引き返すということを知らない。理性の制止は脆かった。
「ずっと君に会いたかった」
抱きしめようとしたが小さな身体は腕をすり抜けていった。その身のこなしにふと違和感を覚える。大魔道士は片足を引き摺りながら風呂場を出ていった。
***
翌朝、ガンガディアはぼんやりと海を眺めていた。どうやら海を見ることは精神に良いらしい。そんな真偽不明な情報を実践していると、宿の玄関が開いた。思わず振り返ると、そこにいたのは大魔道士だった。
「おはよう」
つい声をかけたが、大魔道士は無視してすたすたと歩いて行ってしまう。その歩き方があまりにも自然で、またつい声をかけてしまった。
「足は大丈夫なのかね」
昨日見た大魔道士の足は赤く腫れ上がっていた。あれが昨日の今日で治るとは思えない。しかし大魔道士は怪我などなかったかのように歩いていく。
ガンガディアは立ち上がって大魔道士の後を追った。
「ついてくんな」
「君が心配なんだ」
「ただの散歩だ」
「では同行させてくれ」
大魔道士は盛大な舌打ちをした。だが見たところ足は本当に無事なようだった。大魔道士は素足にサンダルを履いている。その足首は腫れていなかった。まるで魔法でも使ったかのように傷は癒えている。
ガンガディアは自分の想像に苦笑した。この世界で魔法は使えない。
魔法とは精霊との契約で成り立つ。そしてその行使には自らの魔法力が必要だ。だが現代において精霊は殆ど存在しておらず、魔法力を備えて生を受ける者もほぼいなかった。
そんなことを考えていると、大魔道士が急に立ち止まった。ガンガディアも足を止めて振り返る。大魔道士は片手で頭を押さえていた。
「どうかしたのかね」
「……なんでもねえ」
大魔道士は長く息をついた。見れば顔色が悪い。ガンガディアは大魔道士の額に触れる。どうやら熱があるようだった。
「具合が悪いのかね」
「まだ海水浴には早かったみてえだな」
「やはりきちんと体を温めるべきだったのではないか」
昨日風呂場で冷えた体のまま出ていった大魔道士を思い出す。しかし大魔道士が海に落ちたのも、風呂を早々に出ていったのもガンガディアのせいだ。
「すまない。私のせいだな。今度こそ医者に診てもらうことをお勧めする」
「わかってんだよ。だから今行こうとしてんだよ」
昨日は散々に医者に行きたくないとごねていたが、流石の具合の悪さに医者に行く気になったららしい。
「では付き添う」
「いらねえ。ついてくんな」
大魔道士はゆっくりと歩き出す。だが体調が悪いからかその足取りは危なっかしい。
「私が運ぼうか?」
「昨日みたいに抱きかかえたら許さねえ」
「では背中に乗るのはどうかね。君の足取りでは到着するのは夕方になる」
大魔道士は苦虫を噛み潰したように顔を歪めたが、小さく頷いた。ガンガディアは大魔道士の前に背を向けて屈む。その背に大魔道士が体を預けた。軽い体を乗せてガンガディアは立ち上がる。
そこから少しの距離にあった町医者に大魔道士を診てもらい、薬を貰って宿へと帰った。大魔道士は堪忍したのかガンガディアの背の上で大人しくしていた。
大魔道士を部屋に寝かせる。部屋は随分と物で溢れていた。以前の老朽化が進んだアパートの部屋は何もなかった。
ガンガディアは足元に落ちている小さな車を拾い上げる。子どもの玩具のようだ。よく見れば裏面にはポップとペンで書かれてある。あの少年はこの部屋にも遊びに来ているのだろう。
「君はここでの生活を気に入っているのかね」
「まあな」
大魔道士は言ってこちらに背を向ける。ガンガディアは手にしていた玩具を窓際に置いた。
ふと外を見れば、二人の少年が駆けてくる。学校帰りなのかリュックを背負っていた。一人はあのポップという少年で、もう一人はポップより少し小さな少年だった。ポップはその少年をダイと呼んでいる。まるで兄弟のようだった。
「ただいま〜師匠」
ポップは外から窓を開けて言った。そしてさっきガンガディアが窓際に置いた車の玩具に目を止めて、あっと声を上げた。
「なんだあここにあったのかよ」
「見つかってよかったね」
少年たちは玩具を宝物のように手に取った。
「お前らあっち行ってろ。この部屋に入ってくんな」
大魔道士の低い声が響く。そのぶっきらぼうな言い方に、ガンガディアのほうがひやりとした。子供相手の言葉にしては遠慮がないと思ったからだ。
「すまない。彼は風邪を引いてしまったんだ」
「じゃあピカッてしたら?」
ダイが屈託のない表情で言った。
「だから、ホイミは怪我は治るけど病気はダメだって言ったろ」
ポップが呆れたように言い返す。ガンガディアは耳を疑った。
「ホイミ?」
「そうだよ。マトリフさんはホイミが出来るんだよ」
ダイは嬉しそうに言うが、ポップはそんなダイを肘で突いた。
「それ言っちゃダメだって師匠に言われたろ」
「どうせ言っても誰も信じないって言ってたもん」
少年たちの会話はまだ続いたが、ガンガディアはそれが聞こえなかった。ガンガディアは大魔道士を見る。
「回復呪文を使える? なんの冗談だ」
大魔道士はゆっくりと起き上がるとベッドから出た。そのままこちらへ歩いてくると、窓の外にいた少年たちを見下ろした。
「今日は帰れ」
その雰囲気に気圧されたのか、少年たちはこくりと頷くと駆けていった。
部屋がしんと静まる。大魔道士は窓を閉めた。
大魔道士は真っ直ぐにガンガディアを見る。その表情は、まさに大魔道士そのものだった。不敵で計算高く、冷静さの仮面の下でこちらの命を虎視眈々と狙っている、あの大魔道士マトリフだ。
「久しぶりだな、デカブツ」
沸き起こる感情を全く制御出来なかった。それが怒りなのか喜びなのかもわからないままに、ガンガディアは大魔道士を掴むと押し倒していた。
***
「いつから思い出していた」
ガンガディアは言ってから、それが自明であると気付いた。
「あのとき……君が別れを告げたときにはもう……」
大魔道士は押し倒された痛みに顔を歪めながらも、頬に笑みを浮かべていた。
「そうだ。思い出していた」
「ではなぜ何も言わずに去ったんだ。ああ、それほど私が憎かったからか」
記憶を取り戻した大魔道士はガンガディアの嘘に気付いただろう。その嘘を許せなかったに違いない。身勝手な嘘だった。前世で果たせなかった思いを、捻じ曲げて実現させたのだから。
「お前はどうするんだ。前世の復讐を果たすか? オレは大人しく殺されてやらねえぞ」
癪に障る声音で大魔道士は言う。ガンガディアは思わず大魔道士の肩を強く掴んだ。歪んだ欲望の暴走していく。
だが、見つめた大魔道士の瞳が不安げに揺れているのに気付いた。それは恐怖とはまた違うものだった。
ふと、ガンガディアはあのときのことを思い出した。前世でガンガディアが消滅するときに見せた、あの大魔道士の表情だ。今の大魔道士の目はあの時のものに似ている。
ガンガディアは激情が引いていくのを感じた。
「どうした。殴り方すら忘れたか?」
「君こそベギラゴンでもマヒャドでも撃てばいい」
大魔道士は息を飲んだ。何かに耐えるように口を引き結ぶ。まるで見えない巨大な手で締め付けられているかのようだった。
大魔道士の悪態は虚勢だ。大魔道士はわざとガンガディアを煽っている。煽るのは本来の目的を隠すためだ。
「なぜ嘘をつく。君の本心はどこにあるんだ」
ガンガディアは大魔道士を掴んでいた手を離した。大魔道士は訝しんでガンガディアを見上げる。
「なぜ君は悲しんでいる」
大魔道士は目を見開いた。途端に顔が歪む。
「私は君に幸せになって欲しかった」
「勝手なこと言いやがって。オレはお前を殺したんだぞ!」
「それは前世でのことだ。私たちは新しい道を選べる」
大魔道士は手で髪を掴んだ。目をきつく閉じている。今にも泣き出しそうだとガンガディアは思った。
「お前を殺したあの時のことが忘れられねえんだよ……」
大魔道士の声は細く震えていた。これ以上大魔道士を傷付けたくはない。だが、ガンガディアはどうしても聞いておきたかった。
「あの時、君は何を思っていたんだ」
あの悲しみは何だったのか。それはずっとガンガディアの疑問だった。大魔道士を悲しませるものを、許せないとすら思っていた。
もう目を逸らしたくない。最初から向き合うべきだった。嘘も偽りもなく、ただ二つの命として、心を曝け出せばよかった。
「お前を殺したくなかった……お前が消えちまうのが怖かったんだ」
それはようやく聞けた大魔道士の本心だった。
「私も消えたくなかった。悲しむ君を置いていきたくなかった」
ガンガディアは大魔道士を抱き起こした。
「私たちは過去の自分と決別すべきだ。先へ進むために」
ガンガディアは大魔道士を、いや、マトリフを見つめた。これまでの出来事を無かったことにはできない。だが、過去は変えられなくても、未来は選べるはずだ。
「今からでも遅くないと言ってくれ。私たちはまだやり直せる」
***
「あのとき」
マトリフが低く掠れた声で言った。それは嵐のようであり、荒波のうねりのようであった。だが厳しさの中に温もりがある。ガンガディアはその声に耳を傾けた。
「あのときの後悔を、今でも覚えている」
マトリフは手を見つめていた。まるでそこに失った何かがあるようだった。
「自分の選んだ道は間違っていなかったと、どうしても思えなかった。だから自分に魔法をかけた。記憶を消す呪文だ。オレはお前を消してしまったことを忘れてしまいたかったんだ」
罪の意識も後悔も、すっかり忘れて新たな命として生まれ変わったとマトリフは言った。マトリフに前世の記憶がなかったのはそのためなのだろう。
「お前を殺して、それすら忘れて、のうのうと生きていた。そんなオレを許せるのか」
「許すと言ったら、そばにいてくれるのかね」
ガンガディアはマトリフを恨んでいなかった。だがマトリフが許しを乞うならいくらでも与える。マトリフの苦しみを取り去ってしまいたかった。
「いや……たぶんオレはオレ自身を許せねえ」
ガンガディアはマトリフの手に手を重ねた。大きさが違う手だ。違いに目を向ければいくら数えても足りない。
「ならば君の罪を私の罪で相殺できないか。私は君に嘘をついた。恋人だったなどと言って君を手に入れようとした」
「そんな嘘でチャラにできるかよ」
「そうしてくれ。君が少しでも私と生きたいと思うのなら、ここからはじめよう」
背負いきれない過去を捨てられないのなら一緒に背負おう。その手を取って、今度こそ同じ方向を向いて歩めるはずだ。
マトリフは長く息をついた。そのぶん、長く息を吸う。一筋の光を見たように、表情に温もりが宿った。
***
波の音が聞こえる。外が急に明るくなったように思った。見れば雲の切れ間から陽が差している。窓から見た外は風がないようだった。だが穏やかに見える海も波の音は絶えず聞こえている。
「オレはお前に愛してるって言ったことがあったか?」
マトリフの問いに思わず苦笑してしまう。
「さあ。どうだっただろう」
ガンガディアはその問いの答えをわかっていたが、曖昧に誤魔化した。それが些細な問題だったからだ。いま目の前にマトリフがいることの方がずっと大切だった。
するとマトリフは立ち上がって、ガンガディアを抱き寄せた。驚いて目を見張る。
「お前を愛している」
「マトリフ」
「もう嘘はなしだぜ。これから進む道はお前と幸せになる道だけだ」
ガンガディアはマトリフの背に手を回した。耳をつけたマトリフの胸からその命の鼓動が聞こえる。きっと自分の胸も同じように鼓動を刻んでいるのだろう。
「ずっとこうしていたい」
二人は暫くそうして抱きしめ合っていたが、やがて二人して腹が減ってきた。ガンガディアの腹の音を聞いてマトリフは声を上げて笑い、それも生きているからだと幸せそうに言った。
さて何を食べようかと二人で話した。ところがお互いに別々のものが食べたいのだと言う。まあそれも良かろう結論付けた。きっと明日も明後日もその次も、こんな日々が続いていく。