いらっしゃいませ、と落ち着いた調子の店員の声に促され、江澄と藍曦臣は店の奥へと足を運んだ。店内は鉄板焼きの香ばしい匂いで満ちている。
江澄と藍曦臣が向かい合って席に着くと、すかさず店員が水を持ってやってきた。
「お飲み物をおうかがいいたします」
「地ビールで」
「烏龍茶をお願いします」
「かしこまりました」
店員は注文を受けると、まずテーブルの脇のつまみをひねって鉄板に火を入れた。それから、江澄の前にメニューを置いて去っていった。
「ちゃんちゃん焼きは予約してある。ほかに食べたいものはあるか?」
「そうですね……」
江澄の手からメニューを受け取り、藍曦臣はページをめくった。
鉄板焼きの店である。肉でも、魚介でも、おいしそうではあるけれど、とりあえずは今夜のメインをいただいてからでないと食指が動きそうにない。サラダ、とも考えたが、ちゃんちゃん焼きは野菜もたっぷり入る。
「後で考えましょう」
江澄はうなずいて、藍曦臣から戻ってきたメニューをぱらぱらとながめた。あとでとうもろこしを頼んでもいいかもしれない。
「失礼します」
江澄の前にはビールのグラス、藍曦臣には烏龍茶が置かれ、店員は続けて「もう、ご用意してよろしいですか」と尋ねた。
すでに鉄板からは熱を感じる。
江澄が「お願いします」と頼むと、店員はカウンターの向こうから大皿を二枚持ってきた。一枚にははみ出すほど大きな鮭の切り身が載り、もう一枚にはキャベツやたまねぎ、ニンジンが山盛りになっている。
鮭は切り身とはいえ身が厚い。半身の三分の一ほどもあるだろうか。
店員はさらにバターと、たれの入った器をテーブルの端に置いた。
「こちらでお焼きしてよろしいですか」
「はい、お願いします」
まず、バターが鉄板の上をすべった。五センチほども厚みのあった黄色いかたまりは、返しに操られてあっという間に溶けていく。
じゅうぶんにバターがいきわたったところで、店員は鮭を鉄板に載せた。
ジュウウウという音が響く。
藍曦臣がふと顔を上げると、江澄が食い入るように店員の手元を見ていた。
今夜のちゃんちゃん焼きをリクエストしたのは江澄だった。北海道旅行の話が出たときに、一番に決まったのはホテルではなくて、このレストランでの食事だった。
札幌から石狩まで、わざわざ足をのばすことになるのを承知で、江澄はこの店を予約したのだった。
鮭の切り身は店員の手で空を舞い、裏返って再び鉄板に戻った。
焦げ目がついた鮭の身は白い湯気を立て、江澄と藍曦臣の胃を刺激した。
その鮭を囲うようにキャベツが敷かれ、ニンジンとたまねぎも後に続く。最後にきのこがちりばめられた。
「たれが飛ぶことがあるのでご注意ください」
「あ、はい」
江澄はわずかに身を引いたが、その視線はやはり鉄板にくぎ付けだった。
店員は手早くみそだれをかき混ぜ、さっと鮭と野菜の上に回しかけると、ジュウジュウと音を立てる食材たちを蓋で隠した。
さっそくみその焦げる香ばしい匂いが立ちのぼる。
「少々、お待ちください」
店員が去っても、江澄は鉄板を見つめたままだった。
藍曦臣はふと、十何年も前のことを思い出した。聶家で遊んでいたときに、みんなで昼食をいただいたことがあった。ホットプレートを前にして、蓋が開くのをじっと待つ江澄はまさにこんな顔をしていなかっただろうか。
あのとき、昼食を作ってくれたのは年長の聶明玦だった。彼はたしか、ホットプレートの蓋を開けた後、中身を鮮やかな手つきで混ぜていた。
あれはもしや——
店員が戻ってくると、江澄は腰を浮かして言った。
「あの、この後、自分でやってもいいですか」
「ええ、どうぞ。やけどなさらないように、お気を付けください」
ふたを開けると、白い湯気がむわりとふくらんだ。みそだれをまとった鮭と野菜は、蒸されてつやつやとしている。
そこに、江澄は返しを突き立てた。大雑把に鮭を切り分け、野菜と一緒に返しで混ぜる。金属と金属のぶつかる音が小気味いい。
「皿、出してくれ」
藍曦臣が取り皿を差し出すと、江澄はそこにたっぷりとちゃんちゃん焼きを載せた。そうして、よし、と満足げに笑う。
「おいしそうです」
「だろう?」
江澄は自分の分を取り分けて、ようやく藍曦臣を見た。
二人で「いただきます」と言い、箸を取る。
鮭はほろほろと口の中でほぐれ、キャベツはしゃきしゃきと噛み応えがあり甘い。
バターとみその香りが鼻を抜けていく。
「うまいな」
「ええ、おいしいですね」
「ごはんがほしい」
「そういえば」
江澄は追加で二人分のごはんと、とうもろこしを注文した。
とうもろこしは鉄板の端でじっくり焼くことにして、江澄はその間にちゃんちゃん焼きをおかわりした。
ごはんの上に鮭をのせて口に入れる。
ビールも飲む。
ニンジンとたまねぎを食べる。
また、ごはんが食べたくなる。
「ふふ……」
「なんだ?」
「いえ、来てよかったなと」
藍曦臣もおかわりを皿によそって、ごはんと交互に口に運ぶ。
「俺も、来られてよかった」
「おいしいですものね」
江澄は返しで残っていたちゃんちゃん焼きを二人分に分けた。これだけでもうだいぶお腹がいっぱいになった。
「追加します?」
「……いや」
「ラムもあるみたいですが」
「ラム……」
「はい」
それはそれでなかなか食べる機会はない食材である。
江澄はメニューを開いた。ビールももう残り少ない。
次はなにを頼もうか。