どっちがいい? カンカン照りの空の下、音之進はドディオン・ブートンのアクセルを思い切り吹かした。ドルンドルンと重く空吹かしになり、舌打ちする。やっぱり少しでも上り坂になると動きが悪い。父上に言えば調整してくれるだろうか……いや、忙しいと一喝されておしまいだろう。それすらもされないかもしれない。悪くすれば取り上げられるかも……思えば、父の顔もこの数日見ていなかった。
ふんと鼻息荒く、更に吹かす。音之進の気合が乗り移ったか、ドルンッと強く反応した。今のうちだ。体重を前に掛け、勢いをつけた。ドディオンは音之進の意志のまま、加速した。
その瞬間、目の前を人影が横切る。あっと思った時には遅かった。跳ね飛ばされた人間が、ぐるん! と大きく回転した。
——しまった。しかし構うもんか。こんなに大きなエンジン音の前に飛び出してくる方がどうかしている。どうせ『鯉登のボンボン』だと知っているだろう。文句があるなら言ってくればいい。……言えるものならば。
「気をつけんか、ばかたれが!」
まだ声変わり前の甲高い声に、音之進はイラついた。もっとドスが効けばいいのに。そうしたら、もっと舐められなくなるのに!
まったくもって、世の中ばかばかりだ。イライラと共に振り返って毒を吐き捨てる。ぎょっとした。立ち上がった男が追いかけてくる。上り坂だ、ドディオンは馬力が足らずのろい。背後にひらりと乗られ——なかった。
革靴が滑って、ツルミがたたらを踏んだ。見守っていたスタッフがアッと声を上げる。しかし素晴らしい体幹バランスで、大きく転ばずに済んだ。
ドディオンはドドドドと走り続けたが、長いブレーキ音と共にゆっくり止まった。スタッフがすかさず駆け寄るが、それを待たずにオトノシンはさっと飛び降りた。
「ツルミさん! 大丈夫ですか!」
慌てて走ってくるのを、ツルミは笑って押しとどめた。
「大丈夫大丈夫。かっこ悪いなア、滑ってしまった」
監督も駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか、どこか痛めてませんか」
「うん、大丈夫だ。しかしエンジンの方が調子悪いんじゃないかね?」
「はあ、博物館にあっても不思議じゃないヤツですからね。しかも無傷で返さなきゃならないんで……」
見れば、ドディオンの周りにスタッフが集まって何か協議している。
「ありゃ? どっか壊れたかな……」
「おいのせいですか」
監督の呟きに、おずおずとオトノシンが問いかけた。いたいけな様子で、目が潤んでいる。細身の少年は、クラシカルないでたちがよく似合っていてそこはかとない育ちの良さが滲み出ていた。
「あっ、大丈夫だよ、心配しないで! キミのせいにしたりしないから。ちょっと休憩にしましょう!」
ツルミの付き人が日傘と大きな保温ポットを持って駆け寄ってきた。
「ふう、今日は暑いね。水分と甘いものでも取ろう。オトノシンくんは冷たいものの方がいいかな?」
「ツルミさんと同じので」
うふふと笑い合い、日傘に二人で入り、休憩テントに連れ立って向かった。
近くの小学校の校庭の隅を借りて、ベースキャンプを作ってある。演者やスタッフの休憩場所や、機材置き場になっている。
冒険活劇ドラマゴールデンカ○イは第四期の撮影真っ最中である。鶴見と鯉登の邂逅の場面だ。本来なら鹿児島でロケをするところだが、同じく大事なシーンの連続となる函館で行われている。「後でいい具合に背景処理します」と監督に言われ、ツルミは「随分と便利な時代だねえ」と感心していた。
鹿児島ロケを諦めた理由の一つに、ドディオンの持ち主があちこちに輸送させるのを嫌がったということがある。デリケートな骨董品なのだ。偶然にも北海道在住の人だったので、函館ならばと許可を貰えた。これにもツルミは「小物の方が大事なのかね」と少し不満そうだったが、これは致し方なかった。
過去編を撮るにあたって、監督を悩ませたのはコイトの成長具合である。身長百八十センチ越えでは、到底十四歳、十六歳には見えない。
ツルミは「それこそCG処理じゃないか」と言ったが、監督はさすがにそれはと頭を抱えていた。後々の展開に繋がる大事なエピソードだ、下手なカットをするわけにも行かない。子役を探すのが常道だが、コイトの容姿に似た子役というのも難問だった。
容姿の少しくらいの違いならともかくだが、クソ生意気でありながら凛として、しかも大人の頭をカチ割ろうという気迫で木刀を振り下ろす胆力が必要なのだ。この子ならと思う子役数人と面接したが、どうもピンと来ない。
困った末、本人に相談してみた。
コイトは、うーんとしばし考え込んでいたが「……困っているんですよね?」と確認してきた。
困っている。とっっっても困っているのだ。
相談してみます、とコイトは言った。
——ということは、心当たりがあるのだ!
ワクワクして待っていた監督の前に、コイトが連れてきたのは、二十センチくらい小さなコイトだった。
「はじめまして」
礼儀正しく微笑みさえ浮かべて挨拶するさまは、まさにミニコイト。聞けば母方のいとこで、親戚内でもよく似ていると評判だとか。年齢も十六歳、高校一年生だ。
こんなにぴったりな人材がいるだろうか。合格! と監督はすぐさま叫んだのであった……。
一回だけのゲストだが、コイトによく似ているせいか、本人の人懐っこい気質か、すぐにレギュラー陣に馴染んだ。役名で呼び合うのが定着しているが、「コイト」はもちろん既にいるので「オトノシン」と呼ばれている。
テントに到着すると、キクタとオガタ、そしてツキシマがテントの下で談笑していた。
「お疲れ様です」
ツキシマが役柄通りか、さっと立ち上がって迎えた。年齢的に一番若いのはオガタだが、そういう上下関係に一番敏感なのはやはり苦労人のツキシマだった。
「お疲れ様でーす!」
オトノシンがツキシマに駆け寄り、エイッとばかりに胸から飛び込んでいく。
「ちょっ……オトノシンさん、それやめてくれって言ったでしょ」
「うふふ♡」
ツキシマが狼狽するのが面白くてたまらないらしく、よくこうやってベタベタ絡んでいる。
ツキシマとコイトが、ふんわりと良い雰囲気なのは出演者は皆察していて、にやにや見守っている。そこに現れたオトノシンは、明るく溌剌としていて、実にオープンな性格だった。演技未経験なのがネックだったが、コイトと同じくカンが良かった。物怖じしない家系なのか、先輩俳優たちにどんどんアタックして、練習相手に遠慮なくなってもらったりしていた。
特に相手を引き受けていたのが、ツキシマである。コイトの親戚ということもあり、妙な責任感が生まれたのだろう。二人で読み合わせや、暴れる演技の流れを熱心に練習していた。オガタに頭突きを食らわせて、足で首を締め付けて……と、手順を繰り返した。押さえつける役のツキシマに組み敷かれてオトノシンがつい「きゃ」と言ったりすると、慌てて真っ赤になって手を放すので、なかなか進捗がうまくいかなかったのはご愛嬌である。おかげでオトノシンはすっかり懐いた。ツキシマの姿を見つけると、走っていって身体ごと預けるようにぶつかるのである。
——もちろん、それを面白く思っていないのは。
「おいっ! 先輩に失礼だと思わんのか! この無礼者め!」
「あれえ、なあんで兄さあがここにおんの? 函館の鯉登役はアタイじゃっでね! 出番はなかよ!」
コイトが目を釣り上げて怒っても、さすがにいとこ、怖くもなんともないらしい。益々ツキシマに絡みつく。
「ツキシマに迷惑だ!」
「ええ? そうかな……ツキシマぁ、アタイんこつ迷惑? 嫌い? どっか行けち思う?」
「いや、そんな……そこまでは」
「だよね! ツキシマぁ、大好き!」
首まで赤くなるツキシマと、顔色が変わるほど激怒するコイトと、あけっぴろげに大好きアピールのオトノシンの三つ巴は、ここのところの名物である。
「ははは、オトノシンくんは正直だなあ。ほらほら、新作フラペ買ってきてもらったよ」とツルミが付き人から受け取った飲み物を差し出す。
「わあ、やった! ツキシマも味見してみる? 全部はよう飲みきらんち言うとったもんね。美味しいよーアタイの一口、あげる。間接キスじゃね!」
「ツキシマにはおいが分ける!」
「いやいいです……アイスコーヒーいただきます……」
まだ出番前なのに、ツキシマはげっそり疲れ切っている。
「いやもうカオスだな……」
「俺は今、これが楽しみで楽しみで」
「お前なあ……」
キクタとオガタはコソコソ囁きあっている。彼らにはホットのカフェラテとカプチーノだ。意外に甘党なのだが、外では体裁を整えておきたい。ツルミのようにはいかないものだ。
「だってあんなツキシマさん、滅多と見られないですよ」
「うん、まあな……あいつあんな表情豊かとは知らなかったよ」
キクタも刑事ものでよくツキシマと共演していた。若い頃にハードボイルドの探偵役でブレイクしたキクタは、なかなか大きく芽が出ないツキシマを心配していたのだ。このドラマで一緒になって、一番素直に喜んだのはキクタである。
「しかしこんなことになるとはな……」
「キクタさんは、どっちが優勢だと思います?」
「どっちって……普通ならオトノシンだろ?」
「えーまじすか。コイトじゃなくて?」
「なんでだよ。コイト、男じゃん」
「じゃあ賭け成立ですね。俺、コイトに賭けてますから」
「えっ……そんな感じなのか」
キクタは驚きで目を丸くした。オガタが台本の白紙ページに誰がどちらに賭けているかのメモを見せた。七対三でコイト優勢だ。
「逆に聞きますけど、なんでオトノシンなんすか……キクタさん、意外とロリ好み?」
「そうじゃねえけど……だってオトノシン、女子高生じゃねえか。怖いもの知らずでイケイケだろ」
——そう、オトノシンは女子高生である。スレンダーで(女子にしては)長身、剣道部のエースで地元に帰れば女子校のアイドルだ。
無敵感満タンの女子高生に、おじさんたちは振り回されっぱなしなのである。
「いやいや、逆に怖ぇですって。手ぇ出したらそのまま幼な妻コースですよ。俺はツキシマさんの鉄の倫理観に期待しますね」
ちらりと伺えば、右にコイト、左にオトノシンが張り付いているツキシマは、だいぶ顔色が悪い。
「ツキシマ自身にそんな元気なさそうだし、そこまでいかねえだろ」
「え、じゃあコイトにしときます?」
キクタは腕組みをして熟考しだす。意外に現場に娯楽は少ないのだ。仕事に来てるんだろうと水を差すのは野暮である。
「……いや、オトノシンにしておこう」
「お嬢ちゃんに手を貸すのはナシですよ」
わかってるよ、とキクタはニヒルに笑った。