宵待草、鳥がよぶまで 7ちょっとだけ・・・・・
夢見が悪い、というのは、もはや疑いようのない事実だった。
週に一、二度は、寝汗をかいて飛び起きる。それがもう二か月は続いていた。夢の内容は思い出せない。絶望的な気分だけがべったりと背中にはりつき、はげしく打つ鼓動を聴きながら肩で息をする。絶望感の正体もまた不明だった。自分自身が危害を加えられたというよりは、取り返しのつかない行為に手を染めてしまったというような、そういう種類の絶望感だという気がした。
食いしばりも日に日にひどくなるようで、顎から首にかけてこわばったようになって目覚めることもあった。職場で雑談の一環として何の気なしに口にすると、歯科にかかったほうがいいと熱心にすすめられた。部下からは「マウスピースは食いしばりを解消するのではなく歯への負担を軽減するものなので、ボトックス注射によって食いしばりを抑える治療がおすすめ」だと言われた。ボトックス注射というのは美容医療の領域でしか耳にしたことがなかったので、月島はおどろいた。「歯ぎしりが治まるだけじゃなく、フェイスラインもすっきりするのでお得」と言われたものの、月島は別段顔まわりをすっきりさせたいと考えたことはなかったけれど。
地上への階段をのぼって駅の外に出ると、秋晴れの空はやたらと高く澄んでいた。よそよそしい空だ、という感想が月島の頭に浮かぶ。ここのところ眠っても疲れがすっかりとれない感じがするから余計にそう感じたのかもしれない。鯉登の姿を目で探す必要はなかった。周囲を見渡すより前に、こちらをめがけてまっすぐに歩いてくる人影が視界に入ったからだ。
「月島」
歯切れのよい彼の声が呼ぶと、自分の名前さえ耳に心地いいのが不思議だった。ほとんど反射的に月島はそう思い、その一方で、たびたび鯉登をさがして方々を歩き回っていた以前を思い出して説明のつかない不安が影のようにちらりと胸にさすのを感じる。最近の鯉登は、待ち構えたように月島めがけて歩いてくる。ほとんど競歩のように、笑ってしまうくらいまっすぐに。約束した時間よりかなり早くから鯉登が待ち合わせ場所に着いているというのは、付き合いが始まったばかりの頃からしばしばあることだった。けれど以前はそういうとき、鯉登はそこらへんの服屋に入って色違いのアウターをためつすがめつしていたり、買う予定もないのに単価の高い惣菜を見て回っていたりして待ち合わせ場所にいないことがほとんどで、結局月島が彼を探してまわる羽目になることが多かった。最近はそういうことは全然ない。鯉登はまるで、目を離すとどこかにいってしまうとでもいうように(月島に言わせればそれは鯉登のことなのだが)、月島が発見するよりも先に競うようにこちらを見つけて駆けつけようとする。
彼は何かを不安がっている。
それはたぶん確実なのだが、月島はその不安にてんで見当がつかない。
「おまえ、まだ眠れていないのか」
一歩前をいく鯉登がふりむいて訊ねる。常に月島の前を歩こうとするのは出会った頃から変わらないが、以前はこんなにまめにふり返らなかった気がする。黒いスウェットパーカーのフードにTHE NORTH FACEと書いてあった。かぶると文字が逆転してしまう向きなので、フードをかぶらないことを前提にデザインされているのだろうか。
「眠れないわけじゃないんですけど…わかります? 職場ではばれないんだけどな」
「わかるに決まってる」
微笑した横顔に、月島はどきりとした。彼らしくない、不器用な微笑みだったからだ。かすかないたいたしさを含んだ、感傷的な微笑。
「よし。今日はとびきりの枕を買うぞ」
打って変わってはつらつとした声を聞くと、月島の気持ちはなんだかちぐはぐになってしまう。
「なにか動物を飼ったらどうだ」
「え?」
突然話が飛んだので、月島は面食らって訊き返す。たった今まで、この間家で観た映画の話をしていたと思ったのだが。
昼時のピザ屋にはなぜかクラシック音楽がながれていて、離れた席で子供がしきりに駄々をこねる声がする。月島の耳には「ママがいい」と聞こえた。大人の声のほうはぜんぜん聞こえない。子供の声というのは、どうしてこう遠くまで響くのだろう。
「…月島はどこかに行ってしまいそうだから」
鯉登が小さい声で付け加えるのが聞こえて、月島は顔を上げた。
「手のかかる動物がいい。犬とか、クズリとか」
鯉登はにやりと口角を上げていた。茶化す響きの声。ひとつ前の言葉はほんとうに彼が言ったのだろうか? 月島はまた、ちぐはぐな気分になる。聞き間違いだったような気もしてくる。慢性的な寝不足のせいか、ここ最近、目覚めているのに夢の中のように現実味が薄く感じられることが、月島にはままあるのだった。
「クズリって何ですか?」
鯉登はこたえない。ななめ横を向いてソーダをのんでいる。
「なにかを所有したほうがいい」
所有、と、月島はおうむ返しにつぶやいた。鯉登の言いたいことはよくわからない。
「なにも所有することはできない、って、あれで言ってたじゃないですか。このまえ観た映画…なんだっけ。俺、あれは納得しましたよ」
「あの男、死んだではないか」
鯉登がくすくすと笑い、月島はなんとなく安堵する。
「それに、手のかかる鯉登さんがいるからもう十分」
まだなんとなく腑に落ちない感じがしながら、こちらも茶化してみる。怒り出すかと思ったが鯉登はふふふと笑った。けれどその笑い方は以前の弾むようなそれではなく、かすかに後ろめたそうに響いた気がした。
「鯉登さんってもしかして、転勤の予定とかあるんですか?」
鯉登はきょとんとした。
「別にないが。なんで?」
「いや…なんとなく。なんか、離れていくような言い方だなって」
「そんなことしない。寝不足だからそんなこと考えるんだ」
寝不足は関係ないでしょう、とこたえながら、鯉登がむっとした声で即座に否定したことに、月島はひどく安心していた。彼の言葉は嘘ではないと信じられた。けれどもその前に一瞬だけ、鯉登が小さく息を止めた気配もまた見逃していなかった。鯉登から離れていく気がないのだとしたら、彼が不安がる理由にはますます見当もつかない。
何が不安なんですか?
そう訊いてもどうせはぐらかされることが目に見えている。そう思ったのもほんとうだったが、はっきりと口にして確かめたくないと思ったのも、また事実なのだった。