ワンライ(ドギー/ビースト) ホリデーシーズンとは思えないほどまぶしい朝日が差し込んでいる、オフィス・ナデシコのリビング。そこへあくびしながら顔を出したルークの目の前には、異様な光景が広がっていた。
「おはようさん、ルーク」
「おはようございます、ボス」
九〇度ほど横に傾きそうになる首を堪えながら、ルークはどうにかふたりに朝の挨拶を返した。
大人が六人ほど座ってもゆとりがあるほど広いソファー。モクマとチェズレイは、何故かその両端に腰掛けていた。
……どうしてそんなに離れて座っているんだ? 疑問を口に出す前に、優雅な所作でチェズレイが立ち上がった。
「ボス。朝食はこれからですか?」
「うん、そうだけど」
「宜しければ私が用意いたしましょう」
「えっ、いいよ。君、病み上がりなんだろ?」
「三週間も休養しましたので問題ありませんよ」
せっかくの好意を無碍にすることも憚られ、ご相伴に預かることにした。エドワードに引き取られた頃から、朝食は多忙な父親に代わって自分で作ることが多かった。その上この十年以上は、自分のことは全て自分でこなしてきた。こうして他人に朝食を作ってもらうというのは、何とも不思議で、くすぐったい気分だ。
チェズレイの食事は『完璧』だった。焼き魚に豆腐とわかめの味噌汁、生野菜のサラダに加えて二品の副菜。卵料理はお洒落なココット焼きだ。そして極め付けは、つやつやに炊き上げられた白米。さらにデザートのカットフルーツまで添えられていた。栄養バランスまでしっかり考慮された朝食だ。
「ありがとう。でも朝からこんなに食べられないよ」
「残していただいて構いませんよ。こんな時にしか、滋養のある食事を振る舞って差し上げられませんから」
いただきますと手を合わせ、まずは味噌汁を啜る。さすがはチェズレイ、味も完璧だった。いささか薄味にも感じるが、健康面を考えればこのくらいが適量なのだろう。彼らしい気遣いだ。
次に焼き魚に箸を付ける。
「うまーい! じゅわっと滲み出る魚の脂と引き締まった身のハーモニーが絶妙なんだけど、焼き加減も絶妙だな、チェズレイ!」
「恐れ入ります」
「君とモクマさんは、もう朝食は済ませたのか?」
焼き立ての魚と白米を一緒に頬張りながら尋ねると、チェズレイは淡々と「ええ」と答えた。
チェズレイが準備してくれた料理は、焼き魚以外は鍋を温め直した程度で、ほとんどの品が出来上がっていた。つまり、食事を準備した時点で自分は済ませている可能性が高かった。恐らく、モクマも一緒に。味噌汁に入っている不揃いで大粒の豆腐は、とてもチェズレイが切ったものとは思えなかった。
食事を一緒に摂ったということは、何故あんなに離れて座っていたのだろうか。それとも、朝食の席で何かあったのか?
ルークが頭に浮かんだままの疑問を、そのまま目の前の麗人にぶつけようとした瞬間。
「なあルーク。今日の昼、忘れてないよね?」
モクマがダイニングにひょっこりと顔を出した。
「もちろんです、モクマさん! ずっと楽しみにしてたんですよ」
「そりゃあよかった。じゃあ、正午にオフィスの入り口でね」
それだけ言うと、モクマはすぐにダイニングを出て行った。相棒とは碌に目も合わせないままで。
「なあ、チェズレ……」
無表情の美形というのは、得てして笑顔よりも恐ろしいものだ。ルークは「何も聞いてくれるな」とオーラを発しているチェズレイを前に、黙って食事を進めることしかできなかった。
部屋で出かける支度を済ませ、リビングを通りがかったところで、アーロンに遭遇した。どうやら今起きてきたらしい。
「んだよドギー、神妙な顔して」
事が起こったのが今朝方なのであれば、アーロンには知る由もないだろう。けれど既に解散したとはいえ、かつてのチームメンバーの関係については、同じくチームメンバーだった人間に聞くのがベストだ。
「あのさ、今日、モクマさんとチェズレイに会ったか? あのふたり、何だか様子がおかしくないか?」
そう尋ねた途端。アーロンは盛大に顔を顰めた。
「俺に聞くな! 俺は何も見てねえからな!」
けれどこの様子を見れば、彼が何かを知っていることは明白だった。見ていない、けれど知っている。……ということは。
「あ。君、見てはいないけど聞いたんだろ。ビーストイヤーは地獄耳だもんな!」
「っせえ!! テメェだって自慢の鼻でコソコソ嗅ぎ回ってんじゃねえかよドギー!」
「世界一キュートな鼻だろ? で、何を聞いたんだ?」
アーロンは毛を逆立てた猫のように「余計なことに首突っ込むな!」と忠告を残して立ち去ってしまった。
かねてからの約束通り、ルークとモクマはミカグラの居酒屋へランチにやってきた。久し振りに会う人生の先輩に、父親との関係についてアドバイスを貰い、酒も入って気分は上々だった。
あれほど本人たちに聞くのを躊躇っていた質問だったが、酒というものは往々にして、人の口を軽くするものだ。
「ところでモクマさん、チェズレイと何かあったんですか?」
「うん?」
さすがと言うべきか、モクマは表情を変えることはなかった。けれど彼に「何もないよ」と言わせる前に遮ることができたのは、ルークの成長の賜物だろう。
「さっきは僕の悩みを聞いてもらいましたし、今度は僕がモクマさんの話を聞く番です。モクマさん、僕はまだ頼りない後輩ですか?」
モクマが小さな目を丸くする。
「……いいや、お前さんがいなかったら、ヴィンウェイでの一件も丸く収めることはできなかったよ。うーん……」
話したことチェズレイには内緒ね、と前置きをして、モクマはいつもより重たげな口を開いた。
「んだよ、シケた面して」
居酒屋で酔い潰れ、モクマの背に負われてオフィス・ナデシコに戻った、その夜。
「ああ、アーロン。いや、あの後モクマさんから話を聞いたんだけどさ……」
モクマの話はこうだった。
昨夜、モクマとチェズレイは遅くまでシキと飲んでいた。チェズレイは以前より酒を飲み慣れてはきたものの、初めて酒を飲むシキのペースにつられ、うっかり酒量を間違えてしまったらしい。酔っ払ったチェズレイを、モクマが抱えてベッドまで運んで行ったところ――。
『どうして部屋から出て行ってしまうんです、モクマさん。いつも一緒の部屋で寝ているでしょう』
『いや~、この部屋シングルベッドひとつしかないし、さすがにオフィスにはみんながいるからね……』
『みんな!? まさか、私以外の誰かと寝たいとおっしゃる!?』
『そうじゃなくてね!? ああもう、こいつ相当酔っとるな……』
酔っ払いを宥めることができず、結局そのまま一緒に寝たら、翌朝全く覚えていなかったチェズレイはひどく機嫌を損ねたそうだ。
『皆がいるオフィスだというのに、何とだらしのない。ボスの教育にもよくありません』
寝室を出た後はふたりで朝食を作り、共にダイニングで食事したらしいが、結局チェズレイの機嫌は直らず仕舞いだった。
『……まああいつのことだから、ほんとは全部覚えてるんじゃないかねえ。ちとバツが悪かったんだろ。ほとぼりが冷めた頃にちゃんと話すよ』
喧嘩してもさすがは一年半もずっと行動を共にしてきた相棒同士だ。モクマは困った顔をしながらも、ちっとも悩んでいる様子はなかった。
「……だから言ったろ、首突っ込むなって」
「へ?」
首を傾げると、アーロンは盛大にため息をついた。
「ナントカは犬も食わねえって言うのに、お前ときたらマジで食い意地の張りすぎた駄犬だな!」