彼女とわたしの猫時間00
とある大手通信会社の調査によると、現在我が国の個人における携帯電話の保有率は九割、スマートフォンだけに限定しても八割を超えているという。実に十人中九人が携帯電話を、十人中八人がスマホを保有しているのだから、ちょっとした調べもの――たとえば知らない言葉の意味を調べるのだってわざわざ分厚い辞書を引いたり電子辞書を準備したりしなくとも、ほとんどのひとは時を選ばず場所を選ばずいつでもどこでもスマホひとつでことが足りてしまうのだ。
便利な世の中になったものだ。
とはいえ、どんなに世の中が便利になったとしても、お仕着せに近い状態で押しつけられたこどもケータイを惰性で持ち歩いてるようなわたしの場合、少しばかり事情が違ってくる。
そもそもわたしに支給されたこどもケータイに搭載されているのは通話機能と簡単なメッセージ機能と防犯ブザーのみなのだから、何でもかんでもスマホでちゃちゃっとやっつけてしまうというわけにはいかない。先ほど例として挙げた辞書にしても、スマホユーザーではないわたしは、紙の辞書もしくは電子辞書に頼らざるを得ないのだ。
(もっとも、わたしが通う私立指輪学園では授業中のスマホ及び電子辞書類の使用を禁止しているので、授業時間内に限っていえば児童生徒が使っているのはもっぱら紙の辞書ばかりなのだけれど)
調べ方は千差万別。
スマホユーザーの中には、ネットで検索したり電子辞書を使ったりするよりも紙の辞書の方が使いやすいというひとがいるかもしれないし、どちらが優っていてどちらが劣っているというような話でもない。
スマホを使うのも紙の辞書の使うのもそのひと次第。
わたしに言わせれば、マジョリティに属するひともマイノリティに属するひとも、それぞれがそれぞれにやりやすいやり方を選べばいい。その程度のことだ。
前置きはこのくらいにして、ここらでページの向こう側にいらっしゃる読者の皆様にお願いしたいことがあるのだが、スマホをお持ちのひとはスマホの画面をタップして、スマホをお持ちでないひとは本棚からお手持ちの辞書を抜き出して(もしくは電子辞書を取り出して)、ぜひ『押し倒す』という言葉の意味を調べてみてほしい。
誤解のないよう予め断っておくけど相撲の決まり手じゃあないわよ。
まあ、読んで字の如くの意味であるから、この言葉がどのような状況を指しているのかは調べるまでもなくそれなりに察してもらえるかと思うけれど。
どうしてわたしがこんなにも回りくどい言い方をしているのかというと、回りくどい言い方をしないと到底正気を保っていられない状況にいるからに他ならない。
端的にいえば、わたし『美観のマユミ』こと瞳島眉美と『美食のミチル』こと袋井満くん――不良くん――のふたりは、今まさに現在進行形で、誰の目から見ても『押し倒す』以外の言葉では言い表すことができないシチュエーションに置かれているのだ。
事故ではない。
事故だったらまだしも救われようがあったかもしれないと思うけれど、生憎と事故ではない。
ひっそりと静まり返った保健室の、三方をカーテンに囲まれた仄暗いベッドの上で、瞳島眉美の肉体は確固たる意志の力に動かされて袋井満の身体を押し倒しているのだ。
仰向けになった不良くんの腹の上に馬乗りになって彼を組み敷いているのは、他ならぬわたしなのだ。
中学生ふたり分の体重に耐え兼ねたように、スチールベッドのパイプがみしりと軋む。
消毒液の匂いが鼻をつく。
「まゆ……み……?」
まんまるに見開かれた不良くんの瞳に、彼をのぞき込むわたしの顔が映っている。
「おまえ、何して――」
続く声を封じるように、不良くんの唇にわたしの指が触れる。
ふみゅっ。
指の先に伝わる、あたたかくて少し湿った、やわらかな感触。わたしの心臓が、とくんと小さな音を立てて跳ねる。
不良くんの瞳に映るわたしの口もとが、勝ち誇ったように歪む。
「つかまえた」
わたしの唇からこぼれるわたしの声を――恋する乙女みたいに甘い熱を帯びたその声を――わたしはタチの悪い白昼夢にうなされるような心地で聞いていた。
――だーかーら! 不良くんと相撲を取っているんじゃないってば!
「瞳島さんの四股名は何ですか」とか「ただいまの決まり手は『押し倒し』ですか」なんて質問は一切合切受けつけないわよ。
01
時間は少し遡る(回想開始)。
今日は二月十四日、バレンタインデー。
世間は右を見ても左を見てもチョコレートの話題で溢れ返っているけれど、わたしが通う私立指輪学園では、数年前に中等部で勃発したというチョコレートをめぐる流血沙汰によって学園内でのバレンタインに関する行為は一切禁止されている。したがって今年のわたしもバレンタインとは無縁のマユミだ。――校則云々に関係なくバレンタインとは無縁のぼっちじゃないのか、なんて声はちっとも聞こえないわね。
放課を告げるチャイムの音とほぼ同時に、授業中からすでにそわそわしていた生徒達が足早に教室を飛び出していく。学園内ではバレンタイン禁止でも、敷地の外に出てしまえ話は別だ。今頃校門の向こう側では、生徒達がスクールバックに忍ばせていたチョコレートを取り出して、ある者は意中の相手へ渡し、ある者は親しい相手へ渡しているに違いない。
折りよく今日は美少年探偵団の招集もかかっていないし、急ぎで済ませなければいけない生徒会の業務もない。
教室に残って、誰かが置き忘れていったチョコレートのカタログ(四百ページもある。ほとんど凶器だ)をぱらぱらしながらひまをつぶして数十分、そろそろ外も落ち着いてきた頃合かしらと、わたしは教科書とノートと筆記用具しか入っていないスクールバック片手に席を立った。
遠回りになってしまうが、ひとごみを避けるため管理棟へ回る。人気のない東階段を下りているときだった。
「――くんが好きなの」
二階と一階の間の踊り場に差しかかったところで、階下より聞こえてきた声に足が止まる。
え?
今、誰か「好き」って言った?
頭の中で赤信号が点灯する。本能がそれ以上進むなと警告する。
わたしはその場に屈み込んだ。手すりの陰から首を出して階下の様子を窺う。
階段下倉庫の扉の前に、向かい合って立つ女子生徒と男子生徒の姿が見える。長い髪をポニーテールに結った女子生徒の顔に見覚えはないけれど(もっとも、交友関係の広さは猫の額級だといっても過言ではないわたしの場合、顔と名前が一致する生徒なんて数えるほどしかいないのだが)、男子生徒の後ろ姿――ぴょこんと跳ねた猫っ毛に見覚えがあった。というより男子生徒が誰なのかすぐに分かった。不良くんだ。
わっ!
わわわっ!
なんてことだなんてことだ、クズとは無縁の甘酸っぱい青春の一ページ、生の告白現場に――それも不良くんへの告白現場に遭遇してしまった!
おいおい、学園内でのバレンタインは禁止じゃないのかと思ったそこのあなた。バレンタインに関する行為というのはいわゆるチョコレートの受け渡しのことを指しているのだから、チョコレートが絡まない愛の告白ならばいつなんどき学園内で行われていても校則違反には該当しない。見た限りでは女子生徒も不良くんもチョコレートを所持していないようだ。けれども、女子生徒の手の中に封筒のようなものが見える。あれはもしや……ラブレター?
「ああ……」
不良くんが何やら言いかけたみたいだけれど、彼が言葉を続ける前にわたしは両手で自分の耳を覆っていた。
たまたま通りがかっただけとはいえ、名前も知らない他人の告白の行方を聞いてしまうなんて(しかも想いを告げている相手はわたしの数少ない知人のひとりだ)悪趣味にもほどがある。クズはクズでもわたしもそこまでクズじゃない。クズにだって矜恃はある。ここは何としてでも未遂で済ませなければ……と、力を込めて耳を押さえつける。
生憎、人間のてのひらにノイズキャンセリング機能は搭載されていないので、周囲の音を百パーセント遮断することはできない。耳をふさいでいても、もごもごとくぐもった――会話の内容までは聞き取れない程度に聞こえていたふたりの声が、ようやく止んだ。話が終わったのだろう。
時間にするとほんの数分だが、気配を悟られないようにずっと息を殺していたからか、胸の左側がちくちくしてきた。喉もからからだ。
会話が終了したということは、この後、不良くんないし女子生徒がこの階段を上がってくる可能性だって充分考えられる。このままこの場所にいて鉢合わせでもしたら厄介だ。
ぐずぐずしていられない。来た道を戻ることになるけれど、校舎の反対側――HR棟へ戻ってから昇降口へ向かうとしよう。
ひとつ息を吐いてから立ち上がり、踵を返したそのときだった。
ちりりり……と、何処からかふいに鈴の音が聞こえてきたと思った途端、風が吹き抜けるように、わたしの足もとを白い影がよぎった。慌てて避けようとして目測を誤った。
踊り場の端で靴底が滑る。重心が揺らいで、身体が背中側へ傾く。
一瞬、此処は階段の踊り場なのに校舎の屋上にいるような、今は昼間なのに星空を見上げているような錯覚に襲われた。そうだ、あの夜はリーダーが助けてくれたんだっけ。
既視感に浸る間もなく、わたしの身体は宙を舞った。
02
はっとして、目を覚ます。
わたしは美術室にいた。すっかり定位置となったひとりがけソファのひとつに腰を下ろしていた。
あれ? わたし、階段の踊り場で足を滑らせて、背中から落ちたはずなのに……。
背中も腰も、頭もお尻も、手も足もどこも痛くない。
あれは夢? 美術室でうたた寝しちゃってたのかしら。
ソファに座ったまま、きょろきょろと周囲を見回す。部屋にいるのはわたしひとり、他にひとの気配はしない。
ふと違和感を覚えた。
重厚な造りのホールクロック。
ぎっしり本が詰まった書架。
猫足のチェスト。
天蓋つきの円形寝台。
絵画や彫刻といった美術品――
見慣れた美術室なのに、いつもと様子が違って見える。
もう一度、今度はじっくり時間をかけて、慎重に辺りを窺う。
その甲斐あってか、わたしは違和感の正体を突きとめた。それは全部でみっつあった。
ひとつ目。ホールロックが止まっていること。止まっているというより壊れている? 長針と短針が文字盤から外されているし、振り子も揺れていない。
ふたつ目。シャンデリアには煌々と明かりが灯っているのに、どういうわけか部屋全体にうっすら靄がかかっているように見えること。まるで乳白色のサングラスをかけているような具合だ(乳白色のサングラスって何だ? 風呂場の眼鏡か?)。
そして、みっつ目。『美脚のヒョータ』こと足利飆太くん――生足くん――がいつも猫のように寝そべっているソファの上、筒状のクッション(正式にはボルスターと呼ぶのだっけ)の手前に、見たことのない白猫のぬいぐるみが置いてあったこと。
ふかふかとやわらかそうな毛並みといい、アーモンド型のぱっちりした瞳といい、本物と見分けがつかないほどリアルな造りの白猫ちゃんだ。首輪代わりに結んだばら色のコットンレースが白い毛並みに映えている。下世話な言い方になるけれど、ずいぶんお高そうだ。
こんなところにぬいぐるみなんてあったっけ? 誰かの忘れもの?
白猫ちゃんの持ち主として可能性がありそうなのは、ぬいぐるみを自室に持っていそうな『美学のマナブ』こと双頭院学くん――リーダー――もしくは、ぬいぐるみを贈りそうな相手(小学一年生の婚約者)がいるロリコン、もとい、『美声のナガヒロ』こと咲口長広先輩――先輩くん――はたまた、ぬいぐるみをモチーフにして作品を制作していそうな(或いは自らぬいぐるみを拵えていそうな)『美術のソーサク』こと指輪創作くん――天才児くん――だけど……と、
「ご機嫌いかが」
「ひゃっ!」
ふいに聞こえてきた声に肩が跳ねる。
「だ、誰?」
思わず手近にあったクッションを引き寄せて身構えた。少なくとも探偵団のメンバーが発した台詞ではない。そう断言できるのは、その声がわたしと同年代くらいの少女の声だったからだ。
前述した通り部屋の中はひっそりしていて、わたし以外にひとがいる気配はない。とすると――到底信じられないことではあるが――声の主が誰なのか、可能性はひとつしかない。
ちょこんと座る白猫ちゃんのぬいぐるみに、わたしはおそるおそる視線を向けた。
「ぬいぐるみが喋った?」
白猫ちゃんの耳がぴくりと動く。
可愛らしくも尖った声で、
「失礼ね。あたし、ぬいぐるみじゃないわ」
やっぱり喋った!
喋ったといっても、白猫ちゃんが人間のように口から言葉を発したわけではない。白猫ちゃんの思考が、あたかもテレパシーで語りかけるように、わたしの頭の中に直接伝わってくるのだ。
十四年の人生で一度だって猫を飼ったことはないし身近に猫がいたこともないから猫の年齢なんて見当もつかないけれど、声の調子や『あたし』という一人称(一猫称? 一匹称?)から察するに、白猫ちゃんは、おそらくまだ年若い雌猫なのだろう。それにしても、お喋りする猫にお目にかかるのは、わたしにとって生まれてはじめてのことだった。
多少のことでは動じないほど鍛えられたわたしでも、さすがに心中穏やかではいられなくなる案件だ。
「どうして美術室に猫――それも、お喋りする猫がいるのよ」
白猫ちゃん――どうにもまどろっこしいので、ここから先は白猫ちゃんのことを『彼女』と呼ぶことにしよう――彼女は、ガラスのような琥珀色の瞳をきらりと光らせた。
「理由を教えてあげる。此処があなたの夢の中だからよ。猫は人間の言葉を理解しているし、いつだって人間に話しかけているわ。日本の猫なら日本語で、アメリカの猫なら英語で、イタリアの猫ならイタリア語で……といった具合にね。でも、猫と違って人間は、猫の言葉を理解することができない。だけど夢の中――心や精神と呼ばれる世界の中でなら、種の垣根を越えて猫と人間は言葉を交わすことができるのよ」
「夢――ってことは、わたしは眠っているの?」
「あら、覚えていないみたいね。あなたは階段から落ちて気を失ったの。あなたの肉体は保健室へ運ばれて、今はベッドで眠っているわ。かすり傷ひとつ負ってないから安心してちょうだい」
階段から落ちたことは記憶違いじゃなかったんだ。夢の中なら時計が止まっていたことも部屋の様子がいつもと違って見えたことも腑に落ちる――うん? ちょっと待てよ。
「わたしが階段から落ちて気を失って、夢を見ているってことは分かったわ。でも、今の説明だけだと、あなたがわたしの夢の中にいることの答えになってなくない? この夢はわたしが自発的にみている夢? それとも強制的にみせられている夢?」
わたしが問いかけると、「ああ、それはね……」と、彼女はどこか申し訳なさそうな顔をして言葉を継いだ。
「あなたが階段から落ちるように仕向けたのがあたしだからよ。あなたの精神世界へ入り込むために――あなたにあたしの話を聞いてもらうために、まずあなたを眠らせる必要があったの。そういう意味では、強制的と呼べるかもしれないわね」
何だって?
「じゃあ……、階段から落ちる直前にわたしの足もとをよぎった白い影は……」
「ええ。あたしよ」
彼女が頷く。ちりりりと鈴が鳴る。その音に聞き覚えがあった。
彼女の首ねっこの辺り、蝶々のかたちに結ったコットンレースの結び目のところに小さな金銀の鈴が揺れているのが見えた。――わたしを転がした犯人はおまえか!
「より正確にいえば、あなたを転がしたのはあたしの精神体だけどね。あなたの肉体が保健室で眠っているように、あたしの肉体もあたしの寝床で眠っているの。肉体が眠っている状態なら精神体を飛ばすことができるから。ずっと寝ていて家のひとに不審に思われないかですって? ほら、猫の名前の由来の話、『寝る子』から『寝子』……『ねこ』という名がついたって、あなたも聞いたことがあるでしょ? 兎角猫はよく寝るものよ。多少長く眠っていたとしても、ご主人に『今日はよく寝ているな』と感心されることはあれど怪しまれることなんてないわ」
いや、別に訊いてないし、「聞いたことあるでしょ?」と言われても、『寝子』なんてワードは初めて耳にしたぞ。
「ええっと……」
何がなにやら、こんがらかってきた。
「つまりあなたは、わたしに聞いてほしいことがあった。でも、人間と猫は目覚めているときだと話ができないから、あなたはわたしを階段から落とすという強硬手段に出て、わたしを眠らせた――ということ?」
「概ねその通りよ。そうそう、順番が前後しちゃったけど、あなたに謝らないといけないわね。手荒な真似をしてごめんなさいね」
彼女はちらりと舌を出した。そこはかとなくあざとい。
「それで、そこまでしてわたしに聞いてほしいことって何なの?」
いたずらっぽい表情から一転、彼女は居ずまいをただし、琥珀色の瞳をきらめかせてわたしを見据えた。
「単刀直入に言うわ。あなたの肉体をあたしに貸してほしいの」
03
――は?
「わたしの肉体を」
「ええ」
「貸してほしい?」
「だからそう言ってるでしょ」
わたしは大いに面食らった。
「か、貸してほしいって、もしかしてわたしに取り憑くつもり? さてはあなた妖怪ね! 猫又ね!」
「勝手に曲解しないでちょうだい。あたしは妖怪じゃないわ。ごく普通の猫よ。見ての通りあたしのしっぽは二本に分かれてないし、だいいち、少なくとも二十年は生きないと猫は猫又になれないのよ」
わたしに見せつけるように、彼女は細いしっぽをぱたぱた動かした。確かに、しっぽは一本だけだ。
「そ、それじゃあ、普通の猫なのに精神体になってわたしの心の中に入り込んでいるのはどういうわけなの? 危うく聞き流しちゃうところだったけど、常識的に考えると、普通の猫ならそんなことできないでしょ!」
物憂そうな目をして、彼女は「あなた、『猫に九生あり』って聞いたことはないかしら?」と言った。
「きゅう……しょう?」
彼女の言葉を繰り返して、わたしは首を傾げる。「ええっと、鳩尾とか額とか顎とか?」
「それは急所。あたしが言っているのは九生」
猫もツッコミみたいな合いの手を入れるのね。
わたしが感心していると、「話を戻すわよ」と彼女はぴりりとひげを揺らした。
「猫はね、九つの生――分かりやすく言い換えれば、九つの命を持っているの。つまり、一度命を落としてもあと八回生まれ変わることができるのよ」
「へえ。百万回生きた猫なら子どもの頃に絵本で読んだことがあるけど」
「あれは別格よ」
彼女はちょんと前肢を動かした。おそらく、人間の仕草でいうところの肩をすくめたのだろう。
「あのトラ猫ちゃん、自分以外に関心がないように見えて、よっぽど執着が濃かったのでしょうねえ」
他人事(ねこごと?)みたいに言ってるけど、自分だって猫じゃないか。
「猫が命を九つ持っているってことは分かったわ。それじゃ、あなたは今何生目なのかな?」
「あたしは一度も死んだことはないから、まだ一生目よ。春がきたら一歳になるの」
「一歳未満! まだ赤ちゃんじゃない」
「子ども扱いしないで」
彼女はぴしゃりと言った。不服そうにわたしを睨めつけてくる様子は、どことなく湖滝ちゃんを彷彿とさせる。
「猫の一歳は人間年齢に換算すると十六から十八歳くらいになるのよ。女子高生よ。あなたよりおねえさんなんだからね」
きれいなおねえさんは好きですか?
猫の世界の美の定義なんて知らないけれど、確かに彼女は、もしも人間ならば美少女に違いないと思えるほど可愛らしい容姿をしている。
「あなたと話していると本筋から脱線してばかりね。どうして普通の猫のあたしが、精神体になったりあなたの心の中に入ったりできるのかを知りたいんじゃないの?」
それはもう、ぜひとも知りたいわ。
「あなたの言った通り、普通の猫は精神体になれる能力なんて持ってないわ。でも、普通の猫にも九生はある。そこであたしは、猫の神様にお願いすることにしたの。『猫の神様、あたしに与えられた九つの命の内ひとつを神様にお返しします。だから、あたしを人間にしてください』って。猫の神様はあたしの願いを聞き届けてくださったわ。――といっても、ちょっとした手違いがあって、あたし自身が人間になるのではなくて、人間から肉体を借りるということになっちゃったのよ。命と引き換えに手に入れた精神体になれる力を使って、あたしはあなたの肉体を借りにきたってわけ」
「手違い……。猫の神様っていっても万能じゃないのね」
「猫の神様をバカにしたら爪でひっかくわよ」
猫の爪でひっかかれると傷口から菌が入ってよろしくないという話を聞いたことがある。物理的に痛いのも嫌だから、それは御免こうむりたい。
猫の世界のあれやこれやについてはこれっぽっちも知らないし、特に知りたいとも思わないけれど、命――生まれ変わる権利――を差し出すなんてよっぽど覚悟が必要なことだってくらい、わたしにも分かる。覚悟を決めるのに猫も人間も関係ない。
「ね、ひとつ……じゃないや、ふたつ訊いてもいい?」
「ええ、どうぞ」
「一、どうしてそこまでして人間になりたいの? 二、どうして肉体を借りる対象にわたしを選んだの? たまたま?」
「ひとつ目の答え、人間の姿になって会いたいひとがいるの。ふたつ目は……」
言いかけて、彼女は口をつぐんだ。ちょっぴりおもしろくなさそうに、
「――教えてあげない」
「そうかそうか。やっぱり猫でも気づいてしまうほどわたしの全身から親切心が滲み出ているってことなのか」
「ほざくのは自由だけど、人柄は関係ないわ。あたしが会いたいひとと近い立場にいる人間がたまたまあなただったってだけよ」
「そうそう、それよ。質問みっつ目いいかしら。命を捧げてまであなたが会いたいひとって誰なの?」
「あなたもよく知ってるひとよ。この学園の生徒、私立指輪学園中等部二年A組の……」
ひと呼吸置くと、彼女は少し目を伏せ、うっとりと夢みるような声でその名を口にした。
「フクロイミチルさん」
「フクロイミチル……袋井満……って、不良くん?」
意外な名前――今、あまり耳にしたくない名前、ともいう――に、わたしはごくりと喉を鳴らした。
「え、で、でも、どうして?」
さて、どこから話そうか――とでもいうふうに、彼女はゆったりした仕草で香箱をつくると、何処ぞの誰かさんと違って前口上なしに「先週の、大雪が降った日のことよ――」と語り始めた。
04
「あたしは深窓の令嬢なの。この学園の近くの家で飼われているの。
「ええ、そうよ。校門を出て、坂を下る途中の路地を抜けた先にある、大きな家の建ち並ぶ閑静な住宅地。あそこにあたしの家があるの。
「あたしのご主人は大きな舞台に立って歌をうたったりお芝居をしたりする仕事をしているひとで、あたしはご主人に、それはもう目の中に入れても痛くないってくらい大切に大切に可愛がられて育ったのよ。
「文字通りの箱入り娘ね。
「生まれてこのかた、ずっと室内で暮らしていたから、お医者様は別として、これまで外の世界に出たことなんてなかった。テラスにさえ出たことなかったのよ。ご主人もあたしが外へ出ないように、戸締りには人一倍用心していたわ。
「でもね、あの大雪の日――そう、天気予報だと雪のマークなんて出ていなかったのに、朝からちらちら降り出した雪が昼過ぎには吹雪に変わったあの日よ――、雪を見たのはあの日が初めてじゃないけれど、やっぱり美しくて珍しいものには興味をひかれるじゃない? 二階の部屋の窓越しに雪景色を見ようとして、あたしは張り出し窓に飛び乗り、鼻の先をガラスへ押しつけたの。
「そうしたら、たまたまその窓の鍵が弛んでいて――おそらく先に外の様子を見ていたご主人が窓を閉めた後に鍵をかけるのを忘れてしまったのでしょうね――思いがけずに窓が開いて、あたし、窓から落ちてしまったの。
「猫のくせにどんくさいって思ったでしょ。
「別にいいのよ、自分でもどんくさいと思ったんだから。
「そうね、猫ですもの。いつものあたしなら華麗に着地していたわ。
「でもそのときは、窓が開くはずないって油断していたのね。雪が積もった屋根の上をころころと転がって、そのまま塀の外に出てしまったの。
「あたし、見ての通り耳の先からしっぽの先まで真っ白でしょ? それこそ雪と見分けがつかないくらいに。
「雪はまだ降り続いていたから、このままこの場所にいたら雪に紛れてしまう、それはまずいわ、早くご主人に知らせなきゃと思って、すぐに二階の窓を見上げたわ。
「でも、折り悪く突風が吹いて、三分の一ほど開いていた窓を閉めてしまったの。
「『あたしはここよ。ご主人、気づいて』って何度も何度も鳴いたわ。
「だけど、雪と風に邪魔されて、あたしの鳴き声はご主人に届かなくて。塀の上へジャンプしようにも、積もった雪に足が滑って上手くいかなくて。
「寒くて冷たくて冷気に息が詰まりそうで、ああ、あたしはこのまま雪に埋もれて死んでしまうのかしら……って諦めかけたときに、偶然通りかかったあのひとがあたしを見つけてくれたの。あたしの弱々しい鳴き声に気づいて、雪の中からあたしをすくい上げてくれたの。あたしに積もった雪を払って、凍えるあたしを赤いマフラーでくるんでくれたの。
「『おまえ、この家の猫か? 窓から落っこちたのか?』って、あのひとが呼び鈴を鳴らしてご主人を呼んでくれたから、あたし、お家へ帰ることができたの。
「ご主人へあたしを手渡すときに、あのひと、『もう落ちんじゃねーぞ』って、大きな手であたしの頭を撫でて、あたしに笑いかけてくれたの。あのひとはあたしの命の恩人なの」
そっか。不良くん、人助けならぬ猫助けをしていたのね。梅に鶯、番長に猫。
くるるると喉を鳴らすと、少女のようにはにかんで、彼女は言葉を継いだ。
「あのひとの腕の中、すごくあたたかかったわ。紅茶の香りと、それから、ご主人が好きなお菓子――マドレーヌやクッキーみたいな甘い匂いがしたわ。ご主人のもとへ帰れるって分かったときはとてもうれしかったけど、あのひととサヨナラするんだと思ったら胸が張り裂けそうにさびしくなった。それ以来、あのひとの笑顔や声が忘れられなくて、あたし、あのひとに恋をしているって気づいたの」
熱っぽい声音でそういうと、彼女はすっと立ち上がった。ちりりりと鈴を鳴らしながら軽々とテーブルを飛び越え、わたしの膝の上へ音も立てずに着地した。しなやかな動きで背を伸ばし、上目遣いにわたしの顔をのぞき込んだ。
「さっきあなたに『身体を貸してほしい』と言ったけれど、この通り、あたしはすでにあなたの中に入り込んでいるわ。忠告も兼ねて先に言っておくけど、あたしを簡単に追い出せるなんて思わないことね。望みを果たすまであなたの身体から出ていかないから、そのつもりでいてね。猫の神様の力はとても強力なの。下手にみくびったら痛い目にあうわよ」
「い、痛い目って、望みを果たせなかったら、わたしをどうするつもりなのよ」
「さあ? 猫の神のみぞ知るってところかしら。でも、これだけは確実に言えるわ。おとなしくあたしに協力したほうがあなたの身のためよ」
嫌な予感がするけれど、訊かずにはいられなった。
「あなたの望みって何?」
よくぞ訊いてくれたと言いたげに、彼女は猫の笑顔で美しく微笑んだ。白い毛に包まれた前肢の先―ピンク色の冷たい肉球でわたしの喉笛に触れて、こう言った。
「あたし、人間の女の子になって、あのひとにキスしたいの」
05
そして時間は冒頭へ戻る(回想終了)。
これでもうお分かりだろう、保健室のベッドの上で不良くんを押し倒していたのは、わたしであってわたしでない。わたしの肉体を動かしているのは、わたしの肉体に入った彼女の精神だ。意図して行われている行為であるからして事故ではない――と思ったけど、よく考えるとわたしは巻き込まれたも同然なのだから、これは『もらい事故』と呼んでも構わないのではないだろうか。
よくある入れ替わりもののように彼女とわたしの身体と心があべこべになったわけではなく、わたしの精神がわたしの肉体からはじき飛ばされたわけでもなく、わたしの精神は今もちゃんとわたしの肉体に収まっている。わたしの意志で肉体を動かすことができないだけで(『だけで』という言葉でまとめるには事態が由々し過ぎるけれど)、わたしはわたしがどんな動きをしているのかを、わたし自身の目を通して見て取ることができる。
そうね、わたしの肉体を車に、そしてわたしの目(視界)をフロントガラスにたとえるなら、運転席に彼女の精神が、そして助手席にわたしの精神が座っていて、フロントガラスの外に見える景色を一緒に見ている……という感じだろうか。
ここまでの説明で、あれ、それはちょっとおかしいぞ、瞳島眉美の肉体に瞳島眉美の精神が収まっているのなら、瞳島眉美の肉体をどうこうする主導権は瞳島眉美の精神が握ってしかるべきなのでは? と思われるかもしれない。思われるかもしれないが、ちょっと想像してみてほしい。ひとつの肉体の中にふたつの人格(正確にいえば、ふたつの内ひとつは『猫格』かもしれないけど)が内在している状態を――
肉体的にも精神的にも不健全なことこの上ない。
事実、彼女がわたしに取りついてから正味一時間も経っていないのに、わたしはすでに疲労疲弊の波にもまれてあっぷあっぷしていた。心身ともに安定しているとは言い難いところへ弱り目に祟り目、猫の神様の力が追い風となり、肉体の本来の持ち主であるわたしの精神を差し置いて、居候である彼女の精神が優位な立ち位置へ押し上げられているのだ。
せめてもの抵抗のつもりで、先ほどから右手だけでも動かせないかと試みているものの、わたしの指はぴくりともしない。わたしの身体なのにわたしの意志はガン無視かよ。
ともかく。
彼女とわたしのどちらがわたしの肉体のステアリングを握っているにせよ、今のこの状況は、どこからどう見ても、わたしが不良くんを押し倒している――さらに説明をつけ加えるなら、階段から落ちそうになった生徒会長を間一髪のところで抱き止めた後、気を失ってしまった生徒会長を保健室まで運び、すやすや眠る生徒会長の枕もとで様子を見守っていた番長が、突如として目を覚ました生徒会長にいきなり押し倒されてしまった――ようにしか見えない。
こんな現場を一般生徒に見られでもしたら生徒会長就任早々リコール待ったなしだわ。ロリコンであることが露見しないかひやひやしていた(に違いない)先輩くんの気持ちがちょっぴり理解できた気がするわ。お願いだから誰も保健室に入ってこないでね。
「あなたはあたしのものよ」
ふふっと笑みをこぼし、わたしの肉体に乗り移った彼女が上体を屈める。枕に広がる猫っ毛を指の先で撫でながら、仰向けになった不良くんの顔に顔を寄せる。
望みを果たすまであと少し、彼女はうれしくてたまらないのだろう、先ほどからずっとわたしの心臓が草原を駆ける子馬のように跳ねていた。
ていうか、不良くんの腕力ならわたしのひとりやふたりくらい簡単に振り払えるでしょうに、不良くんってばどうして少しも抵抗しないのだろう。
少年の格好をしているとはいえ仮にも女の子に押し倒されているのよ。そこまで冷静沈着な態度を見せられると、さてはおぬし、こういうシチュエーションに慣れているな、って勘繰っちゃうわよ。
そんなことを考えているうちに、吐息が産毛を震わせた。
不良くんの唇と彼女の唇が、あと数センチで重なりそうなほど近づいたところで、不良くんがゆっくり口を開いた。
「――あんた、眉美じゃないだろ」
ポーズボタンを押されたように、彼女が動きを止める。不良くんの瞳に、鏡のように映り込むわたしの虹彩がきゅっと細くなった。
「どうしてそう思うの?」
「どうしてって……。眉美は、なんつーか……もっと雑だ」
雑?
言うに事欠いて雑?
わたしがわたしでないことに気づいてもらえてうれしいはずなのに、喜んでいいのかどうか分からない理由だわ。
「それに、あいつは自分のことを『あたし』って呼ばねーんだよ」
不良くんはやれやれといった調子で息を吐き、こちらの胸が痛くなるほど鋭い眼差しで彼女を見上げた。
「あんた、誰だ? 眉美の身体を使って何するつもりだ? 返答によっちゃあ、はっ倒すぞ」
やめてやめてやめて、わたしの身体よ。振り払われるだけならまだしも、はっ倒される(物理的に痛い)のは御免こうむりたい。
「あたし、は……」と、声を強ばらせて彼女が言い淀んだときだった。シャッという音を響かせて、ベッドを取り囲むカーテンが無遠慮に引き開けられた。
「あー! 眉美ちゃんとミチルがなーんかイカガワシイことしてるー!」
眉美ちゃんが階段から落ちたって聞いて心配して飛んできたのにーと、声は楽しげに続く。秘密を暴くように開かれたカーテンの向こうに、心配というより興味津々って顔をした生足くんが立っていた。
06
現場を見たのが一般生徒でなくてよかったと、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、横目で生足くんを睨めつけながら「邪魔しないで」と彼女が不良くんにしがみついたものだから、話はちょっぴりややこしい方向へ進みかけた。
「え? なに? もしやマジで濡れ場なの?」
両手を頬に当てて「わあお!」と色めき立った生足くんだったが、すぐにわたしの様子がいつもと違っていることに気づいたらしい。猫みたいに(実際中身は猫なのだけれど)不良くんにしがみつく彼女をどうにかひっぺがすと、
「今は留守みたいだけどさー、そのうち養護教諭が戻ってきちゃうかもしれないよ。ね、誰にも邪魔されずに、ゆっくり話ができる場所へ行こうよ」
天使長の笑顔で説得された彼女は、不良くん生足くんと連れ立ってゆっくり話ができる場所――美術室へ向かうことになった。
この短時間でどういう根回しがあったのか知らないけれど、彼女達が美術室へたどり着いたとき、部屋の中にはリーダーと先輩くんと天才児くんの三人が集合していた。
「やあ。ようこそ、美少年探偵団事務所へ」
彼女に向けて意味ありげな台詞を口にしながら、リーダーが腕を広げる。
不良くんはお茶の準備をするために厨房へ向かい、生足くんは定位置のソファにごろんと寝そべり、彼女はわたしが夢の中でしていたのと同じように、ひとりがけソファのひとつへ腰を下ろした。
ちらりと見た限りでは、ホールクロックは正常に動いているし、部屋に靄がかかっている様子もない。うん、今は夢の中ではないようだ。
「緊張しているようだね」
ソファにゆったり腰を据えたリーダーが彼女に微笑みかける。
「――此処、この子の夢の中に出てきた場所と同じね」
彼女がつぶやく。
「『この子』とは誰のことかね?」
リーダーが問いかける。彼女は答えない。
微妙な沈黙が流れる中、ふわり、紅茶の香りが漂ってきた。ああ、と、リーダーが目を上げる。
「ちょうどミチルの紅茶がきたようだ。さあ、遠慮は無用だ。熱くて美味なる紅茶を心ゆくまで味わいたまえ」
不良くんはワゴンに乗せて運んできたティーセットで人数分の紅茶を淹れ、「ほらよ」と如才ない手つきで彼女の前にティーカップを置いた。
温かいものは温かいうちに。作り手に対する礼儀だ。
彼女はティーカップを手に取った。
ふうふうと息を吹きかけるものの、ティーカップに口をつける直前で動きが止まってしまうのは、猫舌な彼女の本能が働いているからだろう。何度も果敢にチャレンジするが芳しい成果は見られないようだ。
「おや、どうかしたかい?」
問いかけるリーダーの声は――意図的にそうしているのかどうかは分からないけれど――白々しさの欠片もない。余計なものがついていない分だけ失速せずに最短距離でこちらを突く。
「熱い紅茶の気分でないのなら無理をせずとも良いのだよ」
紅茶の香りだけを楽しんで(というより、楽しむふりをして)ソーサーへ戻したティーカップをテーブルへ置くと、彼女はふうと息を吐き、リーダーに向き直った。
「もう気づいているんでしょ」
「と、いうと?」
リーダーが目をしばたたかせる。
「分かってるくせに。あたしが『この子』じゃないって」
険のある調子で彼女が応じる。
彼女の皮肉を春風のように聞き流して、リーダーはいとも優雅に目もとを弛ませた。
「君の様子がどうもおかしいみたいだとヒョータから聞いているよ。そこでものは相談なのだが、君の企図するところを僕達にも聞かせてくれないか。勿論、君さえ構わなければの話だがね」
僕達は君の敵ではない、事情によっては、美少年探偵団は君への助力を惜しまないつもりだよ、と、リーダーが優しく語りかける。
彼女はうつむいた。テーブルの上、手つかずの紅茶にわたしの顔が映っている。眼鏡越し、瞳が揺れる。彼女の逡巡がわたしにも伝わってくる。一度、ぎゅっと強く目を閉じてから、彼女は顔を上げてリーダーを見据えた。
「あたしは――」
彼女が語り出す。それは、夢の中で彼女から聞いた話とほぼ同じで、わたしはわたしの声で語られるあらましをわたしの耳で聞いていた。キスの件にさしかかったところで不良くんの肩が一瞬びくりと動いたような気がしたけれど、目の錯覚かしら。
「――という事情で、あたしはこの子の肉体に入り込んだの。望みを果たしたら、すぐにこの子を解放するわ」
しおらしく右手の小指を立てて、「約束するわ」と指切りげんまんのポーズ。
ふと思ったのだけど、約束が守られなかった場合、針千本飲むのはやっぱりわたしなのだろうか。
話を聞き終えたリーダーは、興味深げに頷きながら口もとに指を当てた。
「つまり、此処にいる眉美くんは、眉美くんであって眉美くんでないということだな。ふむ。まぎらわしいので君のことを『眉美(猫)』くんと呼んでもいいだろうか」
はいはい、もう好きにして。
「猫にまつわる摩訶不思議な話は僕も耳にしたり本で読んだりしたことがあるが、猫が九つの命を持っているという話は初めて聞いたぞ」
「『猫に九生あり』というのは西洋のことわざですね。初出は十六世紀にイギリスで書かれたボールドウィンの作品だといわれています。シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』にもティボルトを挑発するマキューシオの台詞として登場しますね」
ロリコンの註釈はどうでもいいけどさー、と、生足くんが脚をぶらぶらさせる。
「眉美(猫)ちゃんの話をまとめるとさー、要するにミチルとキスすると眉美(猫)ちゃんは満足して眉美ちゃんの身体から出ていくんでしょ? 何も最高学府の入試問題を解けっていわれてるわけじゃないし、めちゃくちゃ簡単じゃん。さっきはそうと知らずに止めるようなかたちになっちゃったけどさー、ちゃっちゃとちゅーしちゃいなよ」
「そうは言っても、こればかりは相手があることですからねえ……」
悩ましげな仕草で顎に手を当てた先輩くんが、少しも悩ましくない、むしろ煽るような口ぶりで言葉を続ける。
「ミチルくんはどうなのでしょうか。猫助けの延長として、眉美(猫)さんとキスを交わすことはできますか? できますよね?」
「俺は……」
何かを言いさして不良くんはちらっと彼女を見たが、彼女と目が合うと、ちょっぴり怒ったような顔をしてすぐに視線を外した。何だ何だ、態度が悪いぞ。
「少しいいかね、眉美(猫)くん。君は『猫の神のみぞ知る』と言ったそうだが、実際のところ、君が望みを果たせない場合、眉美くんの肉体はどうなってしまうのだろうか」
そうね、と考え込むように、彼女が首を傾げる。
「あたしも詳しくは知らないけど、いつまでもあたしの肉体――猫の身体を留守にしておくわけにはいかないから、あたしの精神は遠からずこの子の肉体から出て、もとの身体に戻ることになると思うわ。でも、この子の肉体は……」
あくまでこれはあたしの想像だけど、と前置いて、
「あたしの精神が出ていっても、望みを果たせなかった、願いを叶えられなかったというあたしの無念がこの子の肉体に留まることになるから、猫の神様の力とあたしの無念が相互に作用して、この子の精神は抑え込まれたまま猫の耳が生えたり猫のおひげが生えたり猫のしっぽが生えたり、味覚が変わったり熱いものが苦手になったりそのうち本物の猫になったりするんじゃないかしら」
さらりと話してるけど、いわゆる猫化かよ!
「なるほど!」
目をきらきらさせたリーダーが、何かを思いついたようにぽんと手を打った。
「他にも夜中に油を舐めたり小豆をといたりするようになるのだな!」
「それは猫というよりもろくろ首や小豆洗いの習性ですよ、リーダー」
先輩くんがすかさず訂正を入れる。
阿吽の呼吸で天才児くんがタブレット端末にしゃかしゃか描いたろくろ首と小豆洗いの絵をリーダーに見せた。どちらも悪夢をみそうなヴィジュアルだった。リーダーがきゃらきゃらと歓声を上げる。そうか、小五郎の心をくすぐるようなヴィジュアルでもあったのか。
「猫耳かー。そーゆーのってナガヒロの得意分野だよねー」
生足くんのつぶやきを耳聡く聞きつけて、先輩くんは眉根を寄せた。
「何なんですか、得意分野が猫耳って。そんなスキルは初めて聞きましたよ」
「スキルというより性癖の話だよ」
クッションをむぎゅむぎゅしながら生足くんがくふんと鼻を鳴らす。
「だって、小学一年生の婚約者ちゃんにお願いして猫耳や猫しっぽを装着してもらってるんでしょ?」
「確かに湖滝さんはホームパーティでそういった格好をされたことがありますが、別に私がお願いしてやってもらっているわけではありません」
ホームパーティじゃなくてルームパーティだろ、衣装を用意しているのも手前だろ、湖滝ちゃんから聞いて知ってるぞ、と、わたしは心の中ですかさず訂正を入れた。
美声と美脚の毒にも薬にもならない会話を黙って聞いていた彼女が、いかにも不審者を見るような目で先輩くんを見た。わたしの心の中に「このひと、変態なの?」という疑念が流れ込んでくる。彼女が抱いた感想は概ね正しい。否定はしないでおこう。
「事情はよく分かった。兎にも角にも、僕は眉美くんに会えなくなるのは嫌だ」
リーダーがぱちんと手を合わせて言った。
「と同時に、眉美(猫)くんの命を賭した願いが成就することを切に望んでいるよ。となれば、先ほどヒョータが言ったように道はひとつだ」
リーダーが人差し指をぴんと立てる。
不良くんと彼女に等分に視線を送りながら、リーダーはにっこり笑ってこう告げた。
「ミチル、そして眉美(猫)くん。ふたりに美術室を提供しよう。この部屋を存分に使って美しい口づけを交わすといい」
マジかよ!
07
マジだった。
ミチルはここ、眉美(猫)ちゃんはこっちに座ってね、ではではごゆっくり――とてきぱき段取りを整えるだけ整えて他のメンバーは出ていってしまったので、美術室には不良くんと彼女のふたりが残されることになった。
舞台の配置にたとえるなら、寝台を背にして、上手側――三人がけソファの右側に不良くん、クッションひとつ分の間を開けて下手側――左側に彼女が座っているというシチュエーションだ。
「やっとふたりきりになれたわね。それじゃあ保健室の続きを始めましょうか」
彼女はやる気に満ちていた。あれよあれよとことが進んだせいで不機嫌がほぼピークに達した不良くんの仏頂面(そのおっかなさといったら、君子なら絶対に近づかないレベルだわ)なんてなんのその、今にも不良くんを押し倒し――というより取って食らいそうな勢いで身を乗り出す。
保健室でも薄々感じていたけれど、彼女、深窓の令嬢とか言ってたわりにはがっつり肉食系ガールよね(猫だけに?)。リーダーの前だと借りてきた猫みたいに殊勝な態度を見せていたけれど、あれも実は猫をかぶっていたな(猫だけに!)。
「ちょっと待て」
じりじりにじり寄る彼女を不良くんが手で制する。動きを遮られて、彼女はぷうっと頬をふくらませた。
「今さら何を待つ必要があるの? あなた達のリーダーさんもあたし達がキスしやすいように便宜を図ってくれたのに。リーダーさんの厚意を無下にするつもり?」
ここでリーダーを持ち出してくるなんて、知るや知らずや、彼女、なかなか痛いところを突いてくる。
不良くんは一瞬ぐぐっと言葉を詰まらせたけれど、
「それとこれとは話が別だ。リーダーがゴーサインを出しても、当事者は俺だからな」
すぐに調子を取り戻した。
「むずかしく考えなくても、キスしちゃえばすべてが丸く収まるのに」
彼女が口を尖らせる。制服の胸もとへ手を当てると、ちょこんと首を傾げて、
「あたしとキスするのは嫌?」
「嫌っつーか……」
再び言葉に詰まる不良くんを興味深そうに見やって、「それとも」と、彼女はおもむろに指で自分を指した。もう少し具体的にいうと、わたしの唇の辺りを指した。
「この子とキスすることに思うところがあるのかしら」
「なっ……」
不良くんがますます言葉に詰まる。目が泳ぐ。心なしか不良くんの鼻の周りが赤く染まっているように見える。キスひとつでたじたじしている不良くんっていうのもなかなかレアだわ(もしや番長は意外と純情ボーイなのかしら?)。
そんなのどうでもいいだろと仕切り直すように咳払いをして、不良くんはこう続けた。
「そもそも何でキスなんだよ」
「そうね。助けてもらった恩返し的な?」
「恩返しって、ちっとも恩を返されている気がしねえよ」
それな。
不良くんの言うことも分からなくはない。助けた相手が恩を返すのではなく、唇を奪いにきてるんだものね。恩返しというより、むしろ恩を仇で返す的な?
「好きなひととキスをしたいって思うのは、人間が持つごく自然な感情、愛情表現のひとつなのでしょう? それに――」
猫が伸びをするような仕草で彼女は身を起こした。ソファに並んでいたクッションをひとつ、胸もとに抱き寄せて、もっともらしい口調で言葉を継ぐ。
「猫のキスにはご利益があるのを知らないの?」
え? そうなの?
「どうせ口からでまかせだろ」
後ろ髪をがしがしやりながら、不良くんが呆れ気味に息を吐く。
「猫は下手な政治家よりごまかすのがうまいって聞いたぜ」
「ひどーい。それって猫に対する偏見よ」
頬をぷりぷりさせてから、バレちゃったか、というふうに彼女はちらりと舌を出した。そして、くすぐったそうに笑った。
「夢みたい」
「夢?」
「そう。あたしね、あなたとこんなふうにお話ししてみたかったの。あなたの隣に座って、あなたの目を見て、あなたとお話しできたらどんなに素敵だろうって、あなたに助けてもらったあの雪の日から、ずっとずっとそう思っていたのよ。だから、うれしくて」
クッションを撫でるようにしながら、彼女はふふっと頬を弛めた。
「欲を言えば、あなたの紅茶を飲みたかったなあ。自分の猫舌をこんなに恨んだことってないわ」
不良くんは、めずらしいものを見るような眼差しで、楽しげに笑う彼女を見つめた。
「――なあ」
「なあに?」
「眉美はどうしてるんだよ?」
え? わたし?
笑みを引っ込めて、彼女はじいっと不良くんを見つめた。
「この子のことが心配?」
「心配っつーか……」
不良くんが言い淀む。
「眉美に訊きてえことがあんだけど、無理か?」
クッションを抱え直すようにして、彼女は肩をすくめた。
「猫の神様の力を使って、この子の精神は今、この子の身体の深い場所に押し込めているの。といっても、強制的に眠らせたり危害を加えたりしているわけじゃないから安心して。あなたの声も聞こえているはずよ。あたしがこの子の返答を通訳してあげるわ。何を訊きたいの?」
「おまえは――眉美は、その……平気なのかよ?」
「平気? 平気って、どういうこと?」
「えっと……」
不良くんは、ひと言ひと言考えるようにして言葉を続けた。
「自分の身体を勝手に使われて、好きでもない男とキスさせられそうになって、おまえは何とも思わねえのかよ。さっきの保健室にしたって抵抗しようと思えばできたんじゃねえのかよ……って、そういうことだ」
「ああ、それはね」
彼女は小さく頷いた。
「通訳するまでもないわ。あたしとこの子、ふたりにとって好都合だったからよ」
どういうことだ、と不良くんが眉根を寄せる。わたしも眉根を寄せたい気分だった。――彼女にとってはともかく、わたしにとっても好都合ってどういうことだ?
「あたしはあなたとキスしたい。この子は自分の身体を取り戻したい。キスをすればどちらの希望も叶えられる。キスをするのがいちばん手っ取り早い方法だと無意識に分かっていたから、この子は抵抗しなかったの」
ちょっと待ってよ、今の発言は聞き捨てならないわ。手っ取り早いって何のことよ。その言い方じゃあ、まるでわたしが自分の望みを果たすためなら誰とでもキスするような――アンデルセンの童話に出てくる高慢ちきなお姫様みたいじゃない。
それに、あのとき、保健室のベッドの上でわたしは自分の右手を動かそうとした。だけど、わたしの指はぴくりともしなかったわ。抵抗しようとしたのに、わたしはわたしの身体にガン無視されていたのよ。――って、スルーしないでちゃんと通訳しなさいよ!
「そんな理由かよ……」
まったく、打算が過ぎるぜ……と続く声は――わたしの気のせいかもしれないけど――少しばかり気落ちしているように聞こえた。
ソファの背にもたれかかってやれやれと天井を仰ぐ不良くんを見やると、彼女は意味ありげに目を伏せた。
「――そんな顔しなくてもいいじゃない……」
とりとめもないように「灯台もと暗しっていうけど、人間って本当に面倒くさい生きものね」とひとりごちる。
「何か言ったか?」
「何でもないわ。こっちの話よ。――あーあ」
首を横に降ると、彼女は顔を隠すように、クッションに額を押し当てた。ぎゅっと目を閉じ、その姿勢のまま「やんなっちゃうわ」とつぶやく。真っ暗な視界の中で、じわりと目頭が熱くなる。
何がそうさせているのか原因は不明だけれど、この数秒で彼女の感情がひどく不安定になったのが分かった。うらうらとした陽だまりで微睡んでいたと思ったら、次の瞬間には風が吹きすさぶ断崖絶壁の端の端まで移動していたような感覚だ。
「どうした?」
彼女の様子を不審に思ったのだろう、訊ねる不良くんの声が幾分穏やかになる。
彼女は緩慢な動作でクッションから顔を上げた。
「感情が揺らぐだけで目から水が出るなんて、わずらわしいったらないわ」
猫の身体ならしっぽを振るだけで済むのに……と、いまいましげにぼやきながら眼鏡を外し、濡れた頬を手の甲でごしごしこする。と、ふいに伸びてきた大きな手が、彼女の目尻を拭った。
「――こいつの身体で泣いてんじゃねえよ」
俺が泣かしてるみたいだろ、寝覚めが悪いったらないぜと続く声は、ぶっきらぼうなようでいて、こちらの鼻の奥がつんと痛んでしまうほど優しい響きを帯びていた。
彼女は赤くなった目をうっとりと閉じた。撫でてもらってくるるると喉を鳴らす猫のように、不良くんの手に頬をすり寄せる。
「あたし、あなたの手って好きよ」
「いい趣味してんな」
「だって猫だもの」
ふふっと笑みをこぼし、彼女は甘えるように不良くんの手に頬をこすりつけた。
「優しくて大きくて、紅茶とお菓子の匂いがするわ。あなたの手、好きよ」
あたし、あなたが好きよ、とうたうように繰り返し、彼女は不良くんを見上げて言った。
「あたしが肉体を借りる対象にこの子を選んだ理由が分かる?」
「ああ?」
不良くんは怪訝そうに目を細めた。
「さっき自分で言ってたろ。俺と近い立場にいる人間がたまたまこいつだったって」
「それも理由のひとつだけど、それだけじゃないわ。あなたの近くにいる人間なら誰でもよかったってわけじゃないの。たとえば、先刻、あなたの友人へ宛てた恋文をあなたに託そうとした女子生徒がいたわよね。『こういうのは自分で渡せ』って、あなたは断っていたけど」
不良くんの友人に宛てた恋文?
え、ということは……、管理棟の東階段で、ポニーテールの女子生徒が不良くんへ告白している現場を見たと思ったのは、わたしの勘違いだったの?
うひゃあ……!
お腹の底から気恥ずかしさが湧き起こる。
できるものなら「まったくもう、そそっかしいんだから、わ・た・し!」と数時間前の自分を笑い飛ばしたかったけれど、生憎、今のわたしは身体の自由が利かない。
見てたのかよと、不良くんはきまり悪そうに顔をしかめた。
見てたのよと、彼女は笑って答えた。
「あの女子生徒じゃダメだったのよ。この子じゃなきゃダメだったの。近くにいる人間ってことも勿論重要だけど、白羽の矢が立つには白羽の矢が立つなりの理由があったのよ」
何やらこむずかしい話をしてるけれど、夢の中ではぐらかされたふたつ目の質問の答えを聞かせてくれるのだろうか。
「猫の神様の力ってすごいのよ。いろいろなことが分かるの。分かっちゃうの。あなたの名前が〈フクロイミチル〉さんだってことも分かったし、あなたが今日あの場所に呼び出されることも、この子があの階段を通ることも、この子が無自覚な食わせ者だってことも、抵抗しようとしたのも実は無意識のパフォーマンスだったってことも、あたし、ちゃんと分かっているのよ」
猫の神様がけっこうチートだということは何となく分かったけれど、無自覚な食わせ者とか、無意識のパフォーマンスとか、何の話をしているの?
つまりね、と、彼女が朗らかに笑う。
「あたしとこの子だけじゃなく、別の誰かさんふたりにとっても好都合だったのよ。そのふたりはね、口に出さずとも態度に出さずとも、心の奥の奥の本人も意識していないような深い場所で、お互いに『このひとが相手ならキスをしても構わない』って思っていたのよ。だからこの子を選んだの。この子なら、間違いなくキスできるって思ったの。そういう意味では、いちばん打算的なのはあたしなのかもしれないわね」
さっきから誰の話をしてるんだ……と、不良くんは首を傾げた。
一瞬、不良くんが無防備状態になる。
彼女はその隙を見逃さなかった。猫のようにしなやかな身のこなしで不良くんの懐へ飛び込んだ。
絨毯の上にクッションが落ちる。
不良くんの頬に手がかかる。
彼の顔を自分の方へ向けさせるようにして、彼女の唇――わたしの唇が不良くんの唇に重なった。
「んっ……」
漏れる吐息は、跳ねる鼓動は、どちらのものだろう。
「奪っちゃった」
不良くんの唇の上で彼女がいたずらっぽく微笑む。慈しむような手つきで不良くんの猫っ毛を撫でる。
「ねえ、聞いて。あたしの夢の話。あたしに残された七つの生の中で、いつかあなたの飼い猫になって、しわくちゃのおばあちゃんになるまでずっと一緒にいて、あなたの腕の中で眠りにつくの。夢物語だと笑われたっていいわ。それがあたしの夢よ」
彼女の意識が薄くなる。
彼女の気配が遠ざかる。
不良くんの瞳に映るわたしの口もとが、満足げに弛む。
「ありがとう。あの雪の日、あたしを見つけてくれて。あたしを助けてくれて。これでもう、思い残すことはないわ」
ちりりり、軽やかな鈴の音がわたしの睫毛をくすぐる。「ミャオウ」と鳴く声がわたしの耳の底に響く。その声は「あたしのワガママを聞いてくれてありがとう」とささやいているように聴こえた。
「眉美!」
名前を呼ばれてはっとした。
わたしは軽く頭を振って、二、三度まばたきをした。
此処は美術室。三人がけのソファ越しにホールクロックと書架が見える。と、斜め上からふいに影がさした。顔を上げる。身をかがめてわたしをのぞき込んでいる不良くんと視線がぶつかった。
「ふりょう……くん?」
「眉美、なんだな」
不良くんの目もとが、ほっとしたように弛む。はああと深いため息をつきながら片手で前髪を掻き上げて、不良くんはへなへなとその場にへたり込んだ――いわゆるヤンキー座り。そのポーズで生まれてきたんじゃないかと思えるほど様になっている。
「わたし……」
言いかけて、はっと気づいた。
思うがままに声が出せる。首を動かせる。
続けて、わたしは自分の手を動かそうと試みた。手は左右とも、わたしの思う通りにすんなり持ち上がった。
しばらく握ったり開いたりを繰り返して、指が自由に動くことを確かめてから、わたしはヤンキー座りの不良くんに向き直り、彼の名を呼んだ。
「不良くん」
ゆっくり首をもたげながら何だよと目顔で訊ねてくる不良くんを見つめて、わたしは言葉を続けた。
「紅茶を淹れてよ」
台詞だけなら図々しく聞こえるかもしれない。けれども、何かを察したように頷くと、不良くんはすっと立ち上がり、踵を返して厨房へ向かった。
ほどなくして、ひとり用のティーセットをトレイに載せて、不良くんが戻ってきた。先ほどと同じように流れるような手つきでティーポットを扱い、ティーカップへ紅茶を注ぐ。不良くんは、最後の一滴――ゴールデン・ドロップまで落としたティーカップをわたしの前に置いた。
白い湯気を立てる紅茶に角砂糖をひとつ落として、わたしはティーカップを手に取った。この数か月ですっかり馴染みになったわたし専用ブレンド――マユミナンバーシックスの香りが鼻をくすぐる。
ティーカップに唇を寄せ、こくんとひと口、紅茶を飲む。
「おいしい……」
舌に心地よい柑橘系の香味を噛みしめながら、わたしは乳白色のカップからふわりと立ちのぼる湯気を見つめた。ああ、わたしは今、彼女が飲みたかった紅茶を飲んでいるんだなと思った途端、予期せぬことが起きた。
目の縁に熱いものがふくれ上がる。涙がひとしずく、わたしの頬を流れ落ちた。
不良くんの手がわたしの頬に触れる。こぼれたしずくを掬い上げるように指先が動いて、不良くんは親指の腹でわたしの目の端に残った涙の欠片を拭った。
「――泣いてんじゃねえよ」
わたしは鼻声で言った。
「泣きたくて泣いてるんじゃないわ。不良くんの紅茶がおいしすぎるのがいけないのよ」
「ひとのせいにするな」
憎まれ口を叩くわたしの頭を雑な手つきでぽんと撫でながら、不良くんが笑う。
わたしも笑う――笑おうとした。だけど、うまくできなかった。
ひっ込めたつもりだった涙が湧き上がり、わたしの視界を曇らせる。ティーカップの輪郭を歪ませる。
彼女の精神がわたしの肉体に乗り移っていたときに一度泣いていたから涙腺が弛みやすくなっていたことも影響しているのだろうけれど、それだけじゃない。流した涙の理由も、その理由に言及するのが野暮な行為だということも、わたしは分かっていた。それはきっと、不良くんも同じだったと思う。不良くんは何も言わずに、わたしの隣へ腰を下ろした。
ぐしっと鼻をすすって、わたしは紅茶の続きを飲み始めた。湯気の向こうから、あらあら、あなたに同情されるなんて、あたしもずいぶん見くびられたものね、と晴れやかに笑う彼女の声が聞こえてきそうだった。
――うん、そうだね。泣かない。泣かないわ。
あふれ出そうになる涙を、わたしはまばたきで散らした。
「彼女は約束を守ったわ」
「うん」
「わたしにも『ありがとう』って言ってた」
「そうか」
ソファの背もたれにゆったり背中を預けて、不良くんはくつろいだ様子で、紅茶を飲むわたしを眺めていた。そして、紅茶を飲み干したわたしがごちそうさまをするのを待って、いつかの浜辺のようにわたしの方へハンカチをそっと差し出し、こう言った。
「おかえり」
08
翌日、二月十五日の放課後、わたしと不良くんは彼女の家を訪れることにした。
ちなみに発案者は不良くんだ。彼女にちょっとした用があるらしい。一緒に行くかと誘われて、わたしはふたつ返事で頷いた。わたしも彼女に――用というほど大したことではないけれど――聞き忘れていたことがあったのだ。
他の生徒と下校のタイミングが被らないように、昨日と同じように教室で時間をつぶしてから、わたし達は校門前で落ち合った。
校門を抜け、坂道を下る。途中、路地に入り、街灯と街路樹が等間隔で並ぶ歩道を並んで歩く。
不良くんはわたしより十七、八センチばかり背が高いから、コンパスの長さ――歩幅も当然違うのだけれど、今日は心なしかいつもよりゆっくりめに歩いている気がする。お腹でも痛いのかしらと思って、不良くんの、赤いマフラーをぐるぐる巻いた肩の辺りを眺めていると、
「体調はどうだ?」
わたしの体調を気遣う質問をされてしまった。
「すこぶる快調よ。昨夜なんか、いつもよりぐっすり眠れたくらいだもの。泣くと体力を消耗するって本当なのね。身をもって実感したわ」
快眠を貪り過ぎて寝坊しそうになったことは伏せておこう。それにしても……と、わたしはさりげない調子で言葉を継いだ。
「不良くんのことだから、てっきり奪われた唇を取り戻しに行くのだと思っていたわ。ほら、何て呼ぶのだっけ、『その節はどうもお世話になりました』って相手をボッコボコにしに行くヤツ」
そうだそうだ、思い出した。
「お礼参り的な?」
「不穏な流れに持っていくな。別に取り戻そうなんて思っちゃいねえし」
「でも、このままだと不良くんのプロフィール欄に『ファーストキスは中学二年生のとき、相手は同学年の女子生徒(猫)』って書かれちゃうわよ」
誰がそんなの書くんだよ、と、隣を歩く不良くんが眉根を寄せる。不服そうな口ぶりで、「あと、勝手にファーストキスって決めつけてんじゃねえよ」
わたしは不良くんを見上げた。
「ファーストキスじゃないの?」
「俺のことなんてどうでもいいだろ」
それは、まあ、そうだけど。
「――だいたい、おまえはどうなんだよ」
「え? わたし?」
「おまえこそプロフィール欄に『ファーストキスは中学二年生のとき、相手は同学年の男子生徒』って書かれるんじゃねえの?」
「わたしのことだってどうでもいいのよ」
わたしと不良くんとの間に、そこはかとなく気まずい沈黙が流れる(不良くんのファーストキス云々はともかく、昨日のあのキスがわたしにとってのファーストキスかどうかについてはノーコメントです、よろしくどうぞ)。その気まずさは、昨日、そろそろ終わった頃合かと美術室へぞろぞろ戻ってきた探偵団の面々が、不良くんに貸してもらったハンカチで顔を拭いている最中のわたしを見て抱いたに違いない感情を美しくとりすました表情の裏側にさっと潜ませ、
「いえいえ何も見ていませんよ」
「やだなー、目にゴミが入っちゃったみたい」
「…………」
と、何ごともなかったかのように振る舞おうとしていることを察したときの気まずさにちょっぴり似ていた(演技ヘタか)。ちなみにリーダーは「これにて一件落着だな」と、どこぞの町奉行みたいな台詞を口にしながら、わたしの背中を労うように撫でてくれた。
「――ねえ」
気まずいままなのは御免こうむりたい。とりあえず話題を変えることにした。
「不良くんは彼女に用があるのよね。それって何なの?」
歩みを止めずに、ああ、これだよ、と不良くんは手に提げていた紙袋を持ち上げた。
「俺の紅茶を飲みたいつってたろ。紅茶は無理だけど、猫用のおやつなら猫舌でもいけるかもと思って、ささみのジャーキーを作ってきた」
番長は意外とまめだったのね。
「受け取ってくれるかしら」
「どうとでもなるだろうよ」
ノープランかよ。番長は意外とオプティミストだったのね。
「ところで、おまえに取りついてた猫の名前、何ていうんだ? 訪ねていくにしても名前を知ってた方が何かと都合がいいだろ」
「それなんだけど、実はわたしも知らないの。一応彼女に訊いてみたのよ。でも、『教えてあげてもいいけど、笑わないでよね』って言われて。結局、タイミングを逃して教えてもらえなかったのよね」
そう、わたしが彼女に聞き忘れていたこと――それは彼女の名前だ。彼女のご主人――飼い主さんから彼女の名前を聞き出せないかと思い、わたしは不良くんに同行したのだ。
笑うなと、あらかじめ釘を刺されるほど抱腹絶倒不可避な名前――ちょっぴり気になるじゃないか。一度聞いたら忘れようにも忘れられなくなるじゃないか。
石畳の敷かれた道をゆるゆる歩いていくと、洋風の大きな家が建ち並ぶ住宅地に出た。
「こっちだ」
不良くんに先導されて、わたしは角を曲がる。右も左も目をみはるような豪邸ばかりだ。こういう場所を山の手と呼ぶのだっけ。
「学校の近くなのに、この辺りって初めて来たわ。そういえば、不良くんはどうしてあの大雪の日に、この場所へ来ていたの?」
「この先に自宅を改装して手作りの焼き菓子を出してる店があるんだよ。最近オープンしたばかりでシュークリームが美味いって評判だから一度食ってみたくて、あの日、学校帰りに寄ったんだ。俺が猫を見つけたのは――ああ、あの家だ」
不良くんが目で指し示したのは小さな天窓(確かドーマーと呼ぶのだっけ)がついた可愛らしい洋館だった。屋根も外壁もチョコレート色なので、眺めているとクリスマスに食べるケーキを彷彿とさせる。
「あの日はこの家にも雪が積もっていて、色合いがブッシュドノエルみてーだなと思って足を止めたんだ。そしたら、すぐそこで猫の鳴き声がして――」
不良くんが雪に埋もれる彼女を見つけたという場所から二階を見上げれば、張り出した窓と勾配のついた屋根が見えた。なるほど、あの角度なら、俊敏な猫ちゃんでもうっかり足を滑らせて落っこちちゃいそうだわ。
敷地を囲う塀に沿って、わたし達は門扉がある方へ向かった。表札横のインターフォンを押す。家の中で音がしているようだけれど応答がない。
もう一度、インターフォンを押してみる。やはり応答がない。中にひとがいる気配もない。よくよく見れば、雨戸がすべて閉まっていた。
わたしと不良くんは目と目を合わせた。
「留守かしら」
「みたいだな。今日のところは出直す――」
不良くんの唇が「か」のかたちになる前に、隣のお家の玄関が開いて、上品な雰囲気の初老の女性が顔をのぞかせた。わたし達の姿を認めると、
「あなた達、そちらのお宅にご用? あらあら、ひょっとして、教室の生徒さんなのかしら」
女性が訊ねる。
え、あの、と挙動不審になってしまうわたしを手で制して、不良くんが一歩前に出た。
「はい。小学生の頃、レッスンを受けていました。今日は先生を訪ねてきたのですが……」
レッスン? 先生?
不良くんってば、いきなりかしこまった口調で何を言ってるの?
きょとんとしかけて、ひらめいた。この家では何か習いごとの教室をやっていて、わたし達くらいの年頃の生徒が通っているんだ。不良くんは咄嗟に元生徒のふりをすることしたんだ。頭いい!
やっぱりそうなのね、そうだと思ったわ、と、うんうん頷きながら、女性は門を出てこちらへ歩み寄り、気立てが良さそうな眼差しでわたしと不良くんの顔を見回した。ぷっくりとした手で肩に羽織ったショールの位置を直して、
「その様子だと知らなかったみたいね」
「と、いうと?」
不良くんが先を促す。不良くん、強面ではあるけれど端正な顔立ちの美少年だから、こんなふうに丁寧な物腰で受け答えしているとそれなりに真面目な中学生に見えてくるから詐欺だわ。
「お隣さん、今朝がた日本を発たれたのよ」
「え……」
わたしは息を飲んだ。――日本を発った?
思わず絶句したわたしの反応を、何も知らされていなかったショックによるものと受け取ったのだろう。女性は、驚かせてごめんなさいねと言いたげな顔をして言葉を継いだ。
「世界各地を回る演奏旅行だから、少なくとも三年は日本へ戻らないそうよ」
演奏旅行!
そうだ、彼女は言っていた。彼女のご主人は舞台でお芝居をしたり歌をうたったりする仕事をしていると。舞台、お芝居、歌、演奏旅行とくれば、彼女のご主人――飼い主さんの職業はオペラ歌手もしくはミュージカル俳優だと推測できる。おそらく本業の傍ら、飼い主さんは自宅で音楽教室を開いていたのだろう。
「あ、あの、猫ちゃんは……」
「勿論ファリーナちゃんも一緒よ。不在の間、ご自宅は知人に貸し出すみたいだけれど、お隣さんはファリーナちゃんを溺愛しているから、日本でお留守番させるなんて選択肢はなかったのでしょうね」
ふっくらした頬に手を当てて、女性はしみじみと言った。そして、懐から取り出したスマートフォンを器用な手つきで操作すると、わたしと不良くんに写真を見せてくれた。
「今朝、ここを発つ前に撮ったのよ」
スマートフォンには、つんとすました顔をした白猫ちゃんが写っていた。雪のような毛並み。琥珀色の瞳。首にばら色のコットンレースを結んでいる。白猫ちゃんは、紛れもなく、わたしが夢の中であった白猫ちゃん――彼女だった。
「ファリーナちゃん、ふかふかで真っ白で、もともと美人さんな猫ちゃんだったけど、今日は一段ときれいに見えたわ。なにか素敵なことがあったのかもしれないわね」
いろいろ教えてくださってありがとうございましたと女性に会釈をして、わたし達はその場を離れた。来た道を戻る。頬を刺す風が冷たくて、わたしは小さなくしゃみをした。マフラーに顔をうずめる。
彼女の名前を知りたいというわたしの目的は、思いがけないかたちで達成されてしまった。それはそれですっきりした反面、ちょっぴり複雑な心境でもあった。
「彼女の名前、ファリーナちゃんっていったのね」
わたしのひとりごとのようなつぶやきに、不良くんが「ぴったりだな」と反応する。
「ぴったりって、どういうこと?」
オウム返しにわたしが訊ねると、不良くんは淀みない口調で教えてくれた。
「『ファリーナ』はイタリア語で『小麦粉』って意味だよ。正確には、『小麦』は『グラーノ』、『粉』は『ファリーナ』だから、『ファリーナ・ディ・グラーノ』で『小麦粉』だけどな。小麦粉みてーに真っ白だったろ。だから、ぴったりな名前だと思ったんだ」
へええ。
「ファルファッレって知ってるか? 蝶ネクタイのようなかたちをしたパスタだ。小さいサイズのファルファッレをファルファリーナとも呼ぶんだ」
へえええ。
「さすが美食、食に関することなら何でも知ってるのね。ファルファッレか。初耳だわ。ファンファーレは聞いたことあるけど」
「別に何でもかんでも知ってるわけじゃねえよ。今回は食材の名前をたまたま知ってたってだけだ。食ったことねえんなら、今度夜食にファルファッレを使った一品を作ってやるよ。スープに入れてもサラダにしてもソースを絡めても、どんな調理法でもファンファーレで祝福したくなるほど美味いぜ」
「ラッパを準備しておかなきゃいけないわね」
にしても……と、わたしは首を傾げた。素朴な疑問を口にする。
「笑われちゃうかもって心配するような名前かしら。わたしはファリーナって、響きも字面も可愛らしいと思うけどな」
「同じ白をイメージするなら『小麦粉』よりも『雪』とか『ミルク』とかの方がロマンチックだと思ったんじゃねえの。知らねーけど」
わたしは不良くんの顔をしげしげと見つめた。
「何だよ」
「そんなふうに捉えている不良くんもよっぽどロマンチックだと思うわって言ったら、怒る?」
「やめろ」
不機嫌そうに――それとも照れ隠しだろうか――ぷいっと顔を背けて、不良くんは「なあ」とつぶやくように言った。
「日本を離れるとか、知ってたか?」
わたしは首を横に振った。
「そんなそぶりはなかったと思う。でも、今にして思えば、合点がいくこともあるわ」
猫の神様の力にも携帯電話のように圏内圏外があるのかどうかは知らないけれど、おそらく猫の神様の力をもってしても、遠く離れた異国の地から日本へ精神体を飛ばすことは難しかったのだろう。
彼女には時間がなかった。だから、なりふり構わず不良くんにぶつかっていったのだ。
いやはやまったく、恋する乙女の行動力に感服してしまう。誰かを好きになるのに猫も人間も関係ない。
わたしはふうっと息を落とした。
「わたしね、昨夜、寝る前に考えたの。ファリーナちゃんが望みを果たせなくて、彼女が想像した通りにわたしが本物の猫になっていたら、どうなっていたんだろうって」
「どうもこうも、瞳島眉美の捜索願が出されて、所在も生死も不明のまま七年経過、場合によっちゃ家族が失踪宣告の申し立てをするかもな」
「いかにもうちの両親がやりそうな、身も蓋もない解説をありがとう。でも、そうじゃなくてそういうことじゃなくて、わたしが言ってるのは猫になってしまったわたしの行く末みたいな? わたしが考えていたのは、『不良くんがキスに応じてくれなかったから猫になったのよ。責任取ってよね』って血判状を咥えて、不良くんのところへ押しかけようって案だったんだけど」
「責任の所在を俺になすりつけるな」
くつくつ笑いながら、不良くんがひらひら手を振る。不良くんの手の動きに合わせてかさかさ音を立てる紙袋に、わたしは視線を向けた。
「おやつ、せっかく作ったのに無駄になっちゃったわね」
「食うか?」と、不良くんは足を止めて、わたしに紙袋を差し出した。
「ささみのジャーキー、猫用に作ったから味つけしてねえけど、人間でも食えるぞ」
わたし、そんなにもの欲しそうな顔をしていたのかしら(もしもそうだとしたら、それはきっとシュークリームとかブッシュドノエルとかパスタとかスープとかサラダとか食欲を刺激するような話題を出した不良くんのせいね)。でも、誰かに食べてもらったほうが、ジャーキーだってうれしいはず。うん、そうだ、そうに違いない。
頷いて、わたしは紙袋を受け取った。ごそごそ、ワックスペーパーの包みを開けて、こんがりきつね色にローストされたささみのジャーキーをつまみ、
「いただきます」
ぱくりと口に含む。
ひと口噛むごとにささみの旨味が口の中に広がる。不良くんお手製のささみのジャーキーは、味つけされていなくても充分おいしい。二本目、三本目と、つい手が伸びてしまう。
「ドカ食いするなよ」
今まさに四本目のささみのジャーキーを口へ運ぼうとしたわたしの手を、不良くんが掴む。手の甲を手のひらですっぽり包み込むような掴み方だ。不良くんの手って大きいのねと思った次の瞬間、掴んだわたしの手を自分の口もとへ引き寄せると、不良くんは大きく口を開けて、わたしがつまんでいたささみのジャーキーにかぶりついた。
「……?」
指の先に不良くんの唇が触れて、コンマ一秒後、わたしは状況を理解した。
「――!」
心臓が跳ねる。
わたしは慌てて手を引っ込めた。
「び、びび、びっくりした。指ごと食べられちゃうかと思ったわ」
びっくりしすぎて、思わず声が上擦る。まだ心臓がばくばくしている。
「ああ? んなことしたら、俺が腹を壊しちまうだろ」
わたしの指は取り扱い注意の劇薬か。
「ん。初めて作ったにしては悪くねーな」
声をもごもごさせながら不良くんが頷く。
「悪くないって、ひょっとして味見してなかったの?」
「俺を誰だと思ってる? 味見なんて必要ねえだろ」
傲岸不遜も甚だしい台詞だけれど、実際不良くんの言う通りなのだから反論の余地もない。『美食のミチル』のささみのジャーキーは絶品だ。
味のことだと勝ち目がないのは目に見えている。賢明なわたしは別の方面で抗弁を試みることにした。
「食べたいのなら食べたいってひとこと言ってくれたらいいのに。わたしの手は不良くんのお箸代わりじゃないのよ」
「ちょうどいいところにおまえの手があったんだよ」
「ああ言えばこう言うんだから」
美声に似てきたんじゃないのとぼやいて、わたしは五本目のささみのジャーキーをかじった。
「ファリーナちゃんにも食べてほしかったな……」
心の底から、そう思った。このささみのジャーキーは、彼女のために作られたものだ。
「『あたしのジャーキーを横取りしてんじゃないわよ』って、ファリーナちゃんに文句を言われちゃうかもしれないな」
琥珀色の瞳でわたしを睨めつけながら、白いしっぽをぱしんぱしんと振る彼女の姿が目に浮かぶ。
「ね、いつか――」
ささみのジャーキーの欠片を飲み込んで、わたしは不良くんを見上げた。
「何年先かは分からないけど、いつか不良くんが、ふとしたなりゆきで、小麦粉みたいに真っ白な猫ちゃんを飼うことになったら、その猫ちゃんはきっとファリーナちゃんの生まれ変わりね」
「そうかもしれねーな」
「そのときは、彼女にとびきりおいしいささみのジャーキーを作ってあげてね」
「言われなくてもそうするし、ささみのジャーキー以外にも腎臓にやさしい猫舌仕様の美味いもんを作ってやるよ」
わたしの頭に手を置き、不良くんはニッと口の端を上げた。
「そのときは、おまえも素直に『ジャーキーを横取りしてごめん』って謝れよ」
大きな手でわたしの頭をくりくりと撫でてから、ひらりと上着の裾を翻して、不良くんが歩き出す。あ、待ってよ、と不良くんのあとを追おうとして――あれ?
一瞬、わたしはその場に立ち尽くした。
――今、不良くんから、何かすごく重要なことを言われた気がするけれど……、気のせいかしら。
くしゃくしゃにされた髪を撫でつけながら、それよりも、と、わたしはむうっと頬をふくらませた。
素直に、ですって?
失礼しちゃうわね。わたしだってそこまでひねくれちゃあいないわよ。不良くんにひとこと物申してやらなくちゃ。
茜色から葡萄色へ、黄昏色に染まり始めた空の下、石畳の道を颯爽と進んで行く不良くんの背中を追いかけるように、わたしも一歩を踏み出した。
09
終わりかと思った?
いやいや、まだエピローグが残っている。もうしばらくおつき合い願いたい。
不良くんの唇をめぐる(といったら語弊があるかもしれないが)彼女とわたしの物語は、ひとまずこれにて終幕となる。
だがしかし、彼女はわたしと不良くんの記憶の底に意味深長な置き土産を残していった。
何かって?
不良くんにキスする直前に彼女が語った「別の誰かさんふたりにとっても好都合云々」という言葉だ。
別の誰かさんふたり、とは誰のこと?
好都合、とはどういうこと?
疑問符がいっぱいだ。
わたしと不良くんが、彼女が残した――ある意味時限爆弾的な―言葉の意味について知るのは、もう少しだけ未来の――また別の物語。