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年末にドラルクキャッスルマークⅡを訪れた吸血鬼たちの中には、自分の店で働かないかとクラージィに声を掛けてくれる者もいた。とりあえず二週間という話で、クラージィはその店のホール係を勤めている。
「これはアレだろうクラージィ、関西地方のレトリックでテンドンというヤツ」
クラージィがノースディンにバイトがあるので一緒には行けないと言うと、ノースディンとドラルクはすぐさま説明を求めた。
「いつの間にそんなことに。どこの店です?」
「ラーメンヘッド氏の……」
「ダメだーッ!」
言い終わる前に、ドラルクにすごい形相で叫ばれてしまった。
「におい意外は、とても良い店なんだが」
「猛毒ですよ!」
ラーメンヘッドのニンニクラーメンの店は同業者の集まる商業施設の中にある。未明まで開いているような店ではない。万一朝まで居ることになっても、この施設には日光の入る窓がない。昼間でも安全を確保できる……というのがクラージィの主張である。
「日光だけじゃなくてニンニクも気にしなさいよ」
「初日こそ危なかったが、だんだん嗅覚がバカになってきたから大丈夫だ、耐えられる」
「さっさと辞めろ、そんな店!」
「しかし約束をたがえるわけには」
ノースディンやドラルクとの問答の末、クラージィがラーメンヘッドの店で働くのは最初の二週間が終わるまでとなった。ラーメンヘッドの店を辞めたら、まずはノースディンのもとを訪問する。ノースディンが紙袋の下でどんな顔をしていたのかはわからないが、それでどうにか納得して貰った。
ドラウスとノースディンが事務所から引き揚げると、入れ違いでロナルドとヒナイチが帰ってきた。
「ちん!?」
「今の、ドラ公の親父さんと、……誰?」
* * *
ラーメンヘッドは吸血鬼でありながらニンニクたっぷりのラーメンを作ることに情熱を注いでいる。彼のラーメンを求めて人間たちはこの商業施設を訪れ、店の前に行列を作る。客足が途絶えることはない。
「アンタよく働いてくれるのにな。残念だ」
短い雇用期間の最終日、ラーメンヘッドは閉店後の店内で名残惜しそうにしていた。クラージィはテーブルを拭いている。すっかり手際が良くなった。
「すぐに辞めてしまって、すみません」
「気にすんなよ。それより、血族よりこっち優先して良かったのか? ウチは助かったけどよ」
「なんとか」
「そうかい」
ラーメンヘッドは腕を組んだ。クラージィは台拭きを洗ってタオル掛けに干す。
「最初、貴方のこと疑いました。料理で人間を招いて、血を吸うの、吸血鬼の手口ですから」
「いつの時代の話だよ」
ラーメンヘッドはおおらかに笑う。
「いまは血液パックがあるから人間襲わなくていいんだぜ」
クラージィは椅子をテーブルに上げ、ラーメンヘッドの話を聞く。聞きながら店の奥からモップを持ってくる。
「俺はさあ、ニンニクたっぷり入ったこってりラーメンがいちばん旨いと思うんだ。だから他人にも食わせたい。そりゃあ揺らいだこともあったけどよ。あっさり系とか淡麗系とか流行って、客足が遠のいたときなんか」
クラージィはモップで床を拭く手を止めた。
「どうして、あっさりに変えなかったですか?」
「迷うから味が落ちるんだ。俺はニンニクラーメンが好きだ。吸血鬼のくせにとか、流行りと違うとか、余計なことだってわかったのさ。理想のニンニクラーメンを追求するのが俺にとっていちばん重要だったんだ。人間の客が集まるのはただの結果だよ」
ラーメンヘッドは笑い、クラージィもまた笑った。
「ラーメンヘッドさんはすごい吸血鬼ですね」
「そりゃあ、どうも?」
最後の勤務と店主へのあいさつを済ませて、クラージィは店が入っているビルを出た。新鮮な、冷たい空気が肺を満たす。
「旅人くん」
背後から声を掛ける者があった。
「すごいところに勤めてるね、君。嫌なにおいが染みついてるよ」
ヨセフだった。ハンカチで鼻と口を押さえている。
「ヨセフ。このあいだはなぜあんなことを――」
ヨセフは片手でクラージィの言葉を遮った。
「坊やに付いていかなかったんだ?」
「坊や?」
「ノースディンのことさ」
ヨセフが杖で促すので、クラージィはヨセフの後をついて歩いた。
「いや、このあと会いに行く予定だが……貴方とノースディンはそんなに年が離れているのか? 吸血鬼の歳はわからないな」
「それを言うなら君だって二百歳の爺さんだ。それより、今夜は君に用があってね」
「用?」
「後始末。二百年前の。いま風に言うならアフターケア」
ヨセフとはひと気のない路地に入った。クラージィが続こうとすると、ヨセフは路地の入り口で立ち止まり、クラージィに向き直った。
「誰しも隠している欲というものがある。本人にも気づかないくらい、心のずっと奥、本能に近いところにね」
ヨセフはクラージィを見ながら、他人事のように話をする。
「私はそれを吐露させるのが得意なんだけど、もう死んでしまう人間では難しいんだ。心は経験と文脈と時間が絡み合った毛玉のようなもので、死の間際にはどんどんちぎれて無くなっていく」
クラージィが話に付いてきているかどうかは、ヨセフにはどうでも良いらしかった。
「だからあのときは時間との勝負でね、ちょっと雑なことをやった。君がノースディンをなかなか思い出せなかったのはその影響」
ヨセフはクラージィの目をじっと見た。
「ヨセフ?」
「きれいなものがぼんやり鈍ってるのは、つまらないからね」
クラージィが訝しむと、ヨセフはクラージィの額を杖で小突いた。
「あいたっ」
「よしよし、うまくつながった」
「……?」
「じゃあね。今度会ったときには、この街の流儀でもてなそう!」
クラージィが額をさすっている間に、ヨセフは路地の奥へと消えてしまった。
クラージィは目をこらして路地の暗がりにヨセフを探した。夜目がきくはずなのにどういうわけか、あの黄色い姿を見つけることは出来なかった。
クラージィは路地に背を向けた。表通りが騒がしい。街のざわめきに悲鳴や物の壊れる音が混じっている。
「逃げろーッ!」
「誰か退治人を呼べ!」
往来に異形の生物が蠢いて、人々が追い散らされている。人間も吸血鬼も一様に逃げ、あるいは遠巻きに様子を窺っている。
「あれは……なぜこんな街なかに?」
クラージィの時代では悪魔に分類されていた生物だ。大きな蜘蛛に似た姿で、森に隠れ住み、小動物や子供を襲う。
「おいアンタ、逃げたほうがいいぞ!」
すれ違う人がクラージィに声を掛ける。じきに退治人たちが来るはずだ。彼らがすぐに場を納めてくれるだろう。クラージィはすでに杭を持たない。動きは鈍り、膂力は衰えている。
大蜘蛛は人々を追い散らしながら、その中の小柄な女性に迫っていく。女性の足首を前脚で掴み、口を開ける。針を撃ち出すつもりだ。
ゆっくり考えている暇はなかった。
決断するより早く、クラージィの脚が動いた。
クラージィは蜘蛛の大きな体に真横から体当たりした。撃ち出された太い針は女性から逸れ、空を刺した。蜘蛛はクラージィへと向き直る。針の先がクラージィの肩をかすめた。ジャケットの生地が切れて、血が滲む。
蜘蛛は威嚇の声を発したが、少しずつ後退し始めた。さっきまでニンニクラーメンの店にいたのだ。そんな体を針で裂いて、さぞ臭かったことだろう。
「借ります!」
クラージィは近くにいた男の手から傘を奪い取った。胴と頭の境を狙い、傘の石突きで正確に突く。蜘蛛の首が落ち、胴体と同時に塵へと還った。クラージィは安堵の息をつき、傘に残った塵を払った。
クラージィは男に傘を返して礼を言った。男は傘を取り落とし、夜空を見上げて口を開けた。周囲の人々も空を見上げている。
視線の方向に振り返ると、空から鳥型の下等吸血鬼が降りてくるところだった。キラキラ光るガラス片を纏った、カラスのように黒い鳥。あれも昔祓ったことはあるが――知っている個体と比べて、大きすぎる。
「え?」
クラージィは鳥が滑翔していく方向を見た。こんな遅い時間に、子供が三人。遠い。速い。追いつけない。
「クソッ、止まれ!」
クラージィは叫び、走る。止まれ。その声に超常の力が込められたことにも気付かずに。
黒い鳥は子供たちの手前でバランスを崩し、路上へ落ちた。地面が震え、土埃が舞い上がった。
「何だ?」
クラージィは埃と風圧に足を止める。何が起きたのかわからない。子供たちは無事だ。鳥が落ちた場所を指差して騒いでいる。
鳥型の下等吸血鬼が墜落するところをクラージィは初めて見た。とにかく運が良かった。仕留めるなら今だ。クラージィは再び走り出そうとした。
路面を蹴った瞬間、視界がぐらりと傾く。身体が動かない。まっすぐ立っていられない。
眠い。どうして急に。走れ。行ってとどめを刺せ。あの鳥がいつまた動き出すかわからない。その前に!
意思とは反対に、意識は途切れがちになる。無理に数歩進んだところで、クラージィはついに身体を支えきれなくなり、路上へ倒れた。
意識を手放す直前、こちらに走ってくるロナルドとヒナイチ、ノースディンの姿が見えた。