Nightmare「え……?」
頭がぼうっとしている。
雪景色の中にいるのに、妙に自分の内側だけ熱くて、やたら寒気がする。
隣に立つウォノが、静かにこちらを向いた。
「俺が先に死ぬだろ?順当に行けば。そうなったらお前はどうしたい」
いつものように、あまり口を大きく開けずに話すウォノの声は優しげで、でも悟ったようにひんやりとしている。
ウォノが死んだら?
何故そんなことを言うのだろう。
「あなた、僕の死に様を見届けに来たくせに、先に死ぬ気なんですか」
ようやく見つけた温もりだ。
喪う日はまだ、ずっと先がいい。
自分の声が揺れて響くのに狼狽えて、ただウォノの目をまっすぐ見つめた。
不意に強い風が吹き、目を細める。
「じゃあ
――俺が
誰か に
殺 さ れ
たら?」
大好きな声が風に散り、雪で視界が乱されていく。
「ウォノ……っ」
「おい、ラク」
ベッドの上で、ウォノに覗き込まれている。
「っ……ウォノ」
目が怠くぼやけ、汗で頭が蒸れている。
鼓動が速い。
混乱しているのは自分だけで、ウォノは落ち着いている。
ウォノはそっとラクの胸に手を当てた。
「『悪い夢』か?大丈夫だ」
いつかと逆だ。
「……っ」
〇時まであと少し。
どうやら軽く飲みながらの夕飯の後、寝込んでしまったらしい。
「風邪だな。それだけ汗かいたなら、すぐ治るだろ」
上体を起こして軽く汗を拭き取られ、水を渡される。身体の下に敷かれていたタオルを交換し、肩に上着をかけてくれた。
手慣れている。
軍での経験か、家族や恋人のためか。
自身が看病された経験の名残か。
少しでも多くウォノを知りたいが、少なからず過去への嫉妬を伴う。
「ん……」
首と額に手を当て熱を計られ、着替えを渡された。
この眼差しと、躊躇せず触れてくるようになった指を、誰かに譲る気などない。
「熱もピークは越えたな。シャワー浴びるか、何か食うか」
「とりあえず……食べてみます」
「スープでいいか?冷たいデザート?」
「……スープと、ご飯がいい」
当り前のように介抱され、素直に従う。心地好さに、ふわふわした気分になる。
「ん、持ってくる」
「シャワー、浴びてきます」
――俺が誰かに殺されたら?
湯気の中で、また思い出す。
熱を出した身の危険から、恐れていることを夢に見てしまったのか。
この甘く温かな生活は、追跡者や新たな敵が現れない限りは続くだろう。
ただ、同類の臭いは嗅ぎ付けられてしまうものだ。
ハリムが誰も信用しなかったのは正しい。
全てを疑うのはヤクザと捜査官の基本だ。
今繋がっている人間も、弱味を握られ脅されたら、ラクたちに危害を加える可能性は充分ある。
だからこそ、疑うことと信じることを同時にできるウォノに惹かれ、自分もウォノを信じたのだ。
何も考えず平穏な日常に浸っていたくても、稼業は細々と続いている。消せない過去からの軌跡に時折、目を覚ませと揺さぶられる。
のろのろと着替え、濡れた髪を乾かす。
高熱が出るほどの風邪をひくのは何年振りだろう。
脱いだ服に具合が悪い時の体臭を感じ、自分がライカと同様、動物だと思い知る。
この家はラクが暮らしてきた中で、一番いい家だ。
湿った寝具を部屋の隅に干す。
予備を収納から出して入れ替えようとしたところで、ウォノに支えられた。
「休んでろ。俺がやる」
「……うん」
「湯冷めするなよ」
長いガウンを羽織り、ソファに移動した。
気密性の高い部屋で風の音はあまりしないが、外は少し吹雪いている。
ウォノがソファのサイドテーブルに食事と薬を置いた。
さっきは気付かなかったが、ラクが選んだカーディガンがよく似合っている。
「ありがと」
「寒くないか」
ウォノはドーナツとコーヒーを自分用に置いて、伏せていた本に栞を挟んで閉じた。
「大丈夫」
「うなされてたな。話す気があるなら聞く」
眼を見て、敵わないなと思う。
取り調べで初めて目を合わせた時のことを思い出す。
「あなたに『もし俺が誰かに殺されたらどうする?』と、問われる夢でした」
「あぁ……有り得なくはない」
ウォノはもう、同じことを何度も考えたというような顔で、コーヒーをすすった。
その割に「有り得る」と言い切らなかったのは、可能性の高さより、起こらないでほしいという希望があるからか。
ラクも常日頃から、この家や自分たちが襲われるかもしれないとは思っていたし、自分が殺される想定はしていた。だが、ウォノだけを誰かに殺される可能性は、あまり考えていなかった。
夢の中のウォノはそうなった時、ラクがブライアンたちにしたように報復するつもりかと訊いたのか、それとも――
「あなたがもし誰かに危害を加えられたら……僕、どうなってしまうんだろ」
ハリムを撃った時の光景がフラッシュバックする。
あの時はウォノを助けることしか頭になかった。
「俺はお前を撃ったし、俺もあの二人には撃たれたろ」
不器用な、困った笑顔。
「死ななかったから笑っていられますけどね」
「ドンウが死んだのも過失と事故だったからなんとか堪えたが……どうなるかな、俺も」
「俺もって……」
ラクが誰かに殺されたら?
「……ぁあ」
「?」
「お前を誰かに殺されるくらいなら、俺が――お前を深く知る前なら、悲しみが最小限で済むと――ここまで来た」
でも、ラクが自ら、最後のつもりでウォノに自分のことを話してしまったから。
急な再会だったから、自分が何故そうしたのかわからなかった。
ウォノには自分が本当は何者なのか、知っていて欲しかったのだろう。自分にもわかりはしないから、ウォノに教えて欲しかったのだろうか。
人生が虚構でできていると伝えたら、死ぬのを見届けるから生き直せと、強く抱き締められた。
「来なければ、どこかで生きていると信じたまま暮らせたのに」
「どうしたらいいか、俺もわからなかった。ただ、思いついたことにすがったんだ。お前に答えをもらえる気がしてたのか――殺されたかったのか」
「答えは、僕も知りたかった」
ふ、とウォノが寂しげに笑んだ。
「過剰摂取した時、お前が俺を引き戻したことがずっと引っ掛かってた。ハリムに殺されると思った時も、あいつを仕留めたのはお前だった」
少し潤んだ目で、ウォノは窓の外を眺める。
「僕にもよくわかりません。いつの間にか必死にあなたを助けようとしてた。身に付いた損得勘定のせいで無意識にそうしたと思うには、助けた後の安心感と釣り合わなくて」
「俺もいつもより冷静さを失ってた。だから、お前とは逆に、過剰に遠ざけようとした。恩を感じてしまわないようにって」
「あなたは強い悲しみの中にいただけです。僕自身を憎んでいたわけじゃない。オーバードーズのせいです。腕を切られた直後はドンヨンもよくああなってたから、僕は、対処を心得てた――でも、あなたが意識を取り戻してもの凄く安心したので――惹かれていると自覚しました。まずいと思った。実現しないと知りながら、あなたといい関係になれたらいいのにと夢想した」
夢は必ずしも、いい夢ばかりではない。
過去の幻影、逃避、可能性を探るための思考実験。
お互い何かの答えを求めていたが、本当はもう知っていた。
原因や材料はあっても、理由は無いのだ。
理由もなく強く惹かれ合っている。
その強さと事実を会って確かめたかった。
互いの存在と、二人で共に生きることが答えだと。
「……悪い夢か。夢が見られるうちは、生きてる。過ちを犯すのも、生きてるからだ」
その時々で、激情は違う感情に変わる。
「こうしているのは、他人から見れば過ちでしょうね」
「そうだな。でも俺たちにとっては過ちを犯すことが正解だ。自首したいなら、いつでもできる。お前は証拠を残してないが、イ先生しか知らないことを自白すればいいだけだ。喜んで付き添ってやるよ」
ブライアンの取り調べは順調ではないようだ。
彼はイ先生ではないのだから当然だが、なりきってしていたことだけは、工場と従業員を押さえたおかげで罪状が確定した。
命を奪わなかったのは、ラクのことを吐いたら、今度こそ死ぬとわからせるため。
イ先生の罪をかぶるなら生かしてやるという意味だ。
刑務所にはいくらでも、ラクたちが動かせる駒を送れる。
ラクたちは行方不明の重要参考人だが、捜索は保留になっているはずだ。
ウォノのように確証がないと中々、ここまでは来ない。
犬を探しに行ったウォノが無事だと伝わっているなら、他の優先事項からだろう。
「……手記でも書こうかな」
「誰かに成り代わられたくないなら、それもいいかもな」
「誰も僕にはなれないし、誰も本当の僕を知らない。創り上げた虚像を盗用されるより、あなたとの時間を奪われる方が今は嫌です」
スープが身体の緊張を解き、乱れた気持ちが落ち着いてくる。
「俺もお前を横取りされたくなかったのかもな」
「それは――多分、みんな知ってますよ」
以前なら、「イ先生を」の意だったが、「お前」と言ったウォノの自覚の変化に顔がニヤつく。
「この野郎」
舌打ちしつつ照れが見え、笑って答える。
「スープ、おいしいです」
ウォノとジュヨンがこちらの食材を研究し始めたことで、夕飯のバリエーションはどんどん増えている。
薬を飲んで、ウォノに寄り掛かる。
「俺はソファで寝た方がいいよな」
「一緒がいいです。伝染る風邪じゃないと思うし、シャワーも浴びたから」
「わかった。俺は風邪ひかないって言ったろ。伝染っても定職があるわけじゃないから、別に困らない。それに――」
「うん?」
「その風邪、この前した後、汗が冷えたせいだろ。多分」
髪に手が伸び、乾いているのを確認される。
「あ……確かに」
そう言われれば数日前、いつもより激しくしたせいで、そのまま寝てしまった。
身体はともかく、髪が汗で濡れたままだったのが良くなかった気がする。
「今後は俺も気を付ける」
いつだって煽るのはラクだ。謝ることではないだろう。
でも、ウォノの方でも抑えられず激しくしてしまった意識があり謝っているなら、煽らずとも結果は同じだったわけだ。
「ハグで許してあげます」
ウォノは悪くないとは言わずに、狡い自分のままそう甘えた。
「寛大だな。悪魔のくせに」
言い回しでラクの狡さを悟ったのか、ウォノが笑う。
ブランケットごと強く抱き締められ、満たされた気持ちになる。
「看病されるのは嬉しいです」
「甘やかされたきゃ、いつでもしてやるよ」
「いつも甘やかされてる」
「……いつも?俺はそんなにお前を甘やかしてるか?」
「え、無意識なんですか?」
面倒見がいい以上に気遣われていると思うが、自覚がないのか。
「して欲しいことをはっきり言われるから、できる範囲で応えてるだけだ。お前は基本的に、自分のことは自分でできるし、俺しかできないことも少ない」
「ほんと、ヒモ体質ですね。僕もそうですが、日常生活の範囲でしたくないことはさほど無い感じ。そういうところも好きですけど、お人好しだな。警官じゃなく、スパイか探偵になれば良かったのに」
呆れながら、ウォノに寄り掛かるように身を寄せた。
「実質、ヒモだからな。寒気がするならベッドで抱えて添い寝してやるよ」
声が甘い。
弱っているラクが、いつもより可愛く見えるのだろうか。
「残念ながらまだ熱いし……くっついて寝たら抑えが効かなくなるのでダメです」
「その元気があるなら抑えなくていいだろ」
「わざと煽ってる?僕に合わせる風に言うけど、ウォノの方が絶対、性欲は強いでしょ」
「お前と比べればな。アロマンティック寄りだからこそ俺は、性欲だけにフォーカスできてたんだろ。気持ちが伴ったら更に強まるのも道理だ」
「アロマンティック?人よりロマンティストだし、パンセクシャルかなって。だって、あなた人間が好きでしょう。誰に対しても愛情を持って接してる。そのせいで、愛情と性的関心を結び付けることが必須じゃないだけ。人間の悪いところを受け入れて諦めつつ、僅かでも善性を信じて賭けるから、善性を捨てた人間への怒りが人一倍強いんだ」
あの時、イ先生と違ってセンスがないとブライアンを貶したウォノの言葉は、ラクにも聞こえていた。
「悪事にこそ――そいつの善性が出る気がするんだ」
ラクの悪事に法則と線引きを感じたと言っていた。
ラクに会って得ようとした答えとは、そういう分析のことだろうか。
「僕は逆に基本的に人間嫌いで期待してないし、かなりの信頼関係が無いと愛も性も情も湧かないけど、無いわけじゃない。デミセクシャルで、ちょっとオートセクシャル寄りなのかな。どんなに細かく分類しても、僕そのものの説明にはならないけど」
自分以外信じなかった。
自分に近いと感じたから、ウォノを信じて、好きになった。
「信頼関係さえできればそうなるんなら、デミセクシャルの人間は元々パンセクシャルと同じ可能性を持ってるんじゃないか?狭いようで広いというか――お前の周りに信頼できて惚れてもいいような相手がいなかっただけだろ」
「分類がなんであれ、僕のセクシャリティは今顕現していることしかわかりません。自慰に後ろも使うからって、必ずしもゲイとは限らないと思ってたし。惚れてもいい相手?あなたこそ僕が一番惚れちゃいけない相手だ」
肩を撫でる指。寄り掛かる身体の弾力と体温は、ラクが纏った虚構を剥がす。
「お前は善い人間を避けるために悪行をして生きてきたんだ。許されないことを続けるには、悪事を許さず、それでもお前自身を許そうとする人間に出会うのが一番困るから」
許されてしまったら、とっくに手放されているだろう。
ウォノは全部を許せていないから、新たに罪を犯すのを防ぐために、ラクの側に留まっているはずだ。
「それもあるけど、それだけじゃないから困るんだ。理由や原因を全部取り除いても、出会ったら、あなたを愛してしまうと思うから」
遠回しに、愛していると言ってしまった。
愛されたいと願っていても、愛せているか自信などない。
それでも、この気持ちが愛でないと否定されるのは嫌だった。
「――一旦、取り除いたからこうなった」
ウォノが涙目で眉を歪め、口をへの字にする癖は、強い感情を抑えようとする時の顔。感情が動いている証拠だ。
自身では男臭い根性論か、刑事の習慣で感情を押し殺そうとしているつもりだろう。
大人の男に、こんな繊細な感情表現ができるなんて、出会うまで知らなかった。
「僕とこうなって、後悔してる?」
「知り合いに見られたら気まずいとは思うが、後悔はしてない」
諦めて自嘲するような表情がひどく色っぽいことに、この人は気付いているだろうか。
「苦しげなのはキュートアグレッション?僕もよくなります。あなたが可愛過ぎて処理できなくなる」
「可愛いと思ってはいる」
からかい半分で仕掛けたのに、ウォノはそう言い切ってラクを見た。
嘘をつくのが上手くても、本当は嘘をつくのが嫌いな彼の素顔に負ける。
「僕もそう思われたいから、無意識でそうなるみたいです。でも自分でそれを自覚するのはちょっと、慣れなくて気持ち悪いかな。だから恋愛下手なんだ」
「理由を考えるのはやめようと思っても、無理だな」
「いいんじゃないですか?お互いを好きな理由が際限なく出てくるだけですけど」
「嫌いになる理由も出てくるだろ」
そんなことはない。ラク以外にも面倒見が良くて妬けるとか、時折ラクを過剰に子ども扱いすることぐらいだ。
好きだから嫌なのであって、嫌いなところではない。
「一般的には嫌った方がいい理由?それがあるのにあなたが僕を好きなら、問題ありませんし、そもそも僕を好きなのが大問題なのにそれは無視してるんだから、無意味です」
「潔いな――お前は。でも俺をまだ疑ってる」
「僕のこと妖怪みたいに言いますけどね?去るつもりなんてないくせに迷って見せるあなたこそ、良くない薬みたいだ」
わざと口調を強め、ウォノの顔をつねるようにする。
「薬ってのは何かに効くから薬と呼ぶんだろ。せいぜい合法の、煙草か酒だ」
弾丸が付けた頬と耳の傷に、ゆっくり口付けられる。
それでは足りない。
無言で睨んで、ウォノの唇を啄む。
「煙草の味がしない。酒じゃなくて、砂糖……ドーナツとコーヒーの味」
「物足りないか?」
眼差しが優しくて、美しい人だなと思う。
ウォノは夕飯の後、寝支度を済ませたようだ。
それからラクの様子がわかるところで静かに本を読みながら、煙草も吸わずに看病する体勢でいたのだろう。
「ずるいです」
僕ばっかり夢中みたいだと拗ねても、そうなるほどの愛を注がれている。
「何が。ドーナツならまだあるぞ」
焦がしたキャラメルみたいな風味が、まだ香っている。
「ドーナツはいいから……できるだけ、見えるところにいて」
喪う怖さがある限り、ウォノへの気持ちを嫌でも自覚する。
喪うまでの間に起こることをできるだけ、感じて覚えていたい。
初めて、そう思える相手に出会ってしまったから。
「お前に構う以外、することがないんだ。ここにいる」
わがままで身勝手な愛でもいいと、指が髪を梳き、魔法をかけていく。
「探していた答えは、見つかりましたか」
「答えを見つけて手にしているのに、何故それが答えなのかまだわからない」
「わからないと嫌?」
「いや、『まだ』と言ったのは――今は全部を実感できないって意味だ。お前といればこれから少しずつわかるはずだと確信はしてる。あくまで俺の主観の話だ。俺がそう思える相手はいなかったし、一生、見つからないと思ってた。それなら誰とも深く関わらなければ良かったのに……悪いことをした」
ここに来てからずっと考え続けて、徐々に自分の気持ちを理解しているのか。
「どう違うの?今までの相手と」
「幸せにできず別れることになるなら、その時間を俺に費やして損して欲しくない感覚があったが――お前となら、別れや失う苦しみもお互い、生きてきた答えになる気がする」
スジョンを喪ってあれだけ苦しむ人間が、ロマンティストでないはずがない。
憑き物が落ちた後、その憑代がどうあるべきか、それぞれ無意識に考えたのだ。生き方に合った環境と歯止めがあれば良いと、ウォノは留まり、ラクもそれを受け入れた。
「悪魔に魂を売った気分?」
「昔話で、悪い妖怪なんかを坊さんやらが大人しくさせて共存するパターンだろ」
「またファンタジーの話?自分を祓いに来た人間と恋に落ちた妖怪もいるのかな」
姿を変えられた姫や王子の呪いを解く方のファンタジーなら有り得る。
「いるかもな。お前と俺は昔話というより『長靴をはいた猫』みたいな感じだが」
「ああ……確かに。小麦粉じゃない粉挽いちゃってますけど」
あまり調子に乗って冗談を言うと怒られるか、と思っても、熱っぽいせいか口が滑る。
「はは」
「あ、普通に笑ってくれるんだ。かわいい」
「……」
ウォノは何か言いたげな顔で困る。
ずっと油断してくれていていいのに。
「僕、あの話は割と好きです。あの三男は見栄えが良くて猫の言うことをよく聞く以外、キャラが薄いけど」
「そこそこ品があるんだろう。度胸もある。芝居っ気があって、身分を偽ることを厭わない。急にカバラ公爵を名乗れと言われて、その気になれるんだから」
「三男を自分と重ねてる?」
「さあ、誰が何役だろうな」
寝物語にしては色気が無い。子どもの寝かしつけみたいな会話だ。
そういえば、この前酔った時、読み聞かせをしろとねだった。
「ネズミに変身させられて猫に食われる魔法使いは大男ですよね。ブライアンかな。あの王様は騙されたというより、猫とカバラ公爵を信じた善人だ」
「その解釈なら俺が王様で、お前が猫。あの事件の話なら、俺とお前がダブルキャストで猫と公爵を交代でやった感じだ」
「演劇部っぽいこと言いますね。劇団の味に合わせてアレンジしないと。王国に吸収されずに、猫とカバラ公爵がそのまま共同体を立ち上げるパターンがいいな」
「平和な国が既にあるんなら、そこに乗っかった方が楽だろ。頭を使って最小限の苦労で得する話だ。あの猫が選ぶんなら、王の頭もいいんだろうよ。ラッキーな三男坊の話じゃない。人を見る目のある猫が、自分のパトロンを増強する話だ。まぁ俺達の現実は、『GPSを着けた犬』だったわけだが」
「アイゴー、ファンタジーとセンスどこ行ったんですか。猫役を犬のライカに譲ったら、僕とウォノは三男坊か姫ですよ」
「お前もアイゴーとか言うんだな」
「言いますよ」
「デカくてゴージャスなクイーンになら化けられる。王と姫の合わせ技で」
つけまつ毛で風が起こりそうなドラァグ姿を想像してしまう。
「なら僕は、クイーンと結婚したい魔法使いで、自作自演する三男坊」
「一気にやべぇ王国になったな。絶対平和じゃねぇだろ」
愉快そうに笑うウォノに、気だるさが和らぐのを感じる。
「ヤバくない王国なんてあるのかな」
ラクの返しに眉を上げたウォノに、襟足を撫でられる。
「ドンヨンとジュヨンは何の役だ?」
「粉挽き小屋を継いだ長男と、ロバをもらった――長女。僕、次男に繰り上げですね」
「粉を作って運ぶのはやめろって」
お互い、こんなに笑ったのは久し振りだ。
「僕と結婚したかった姫が魔法使いで、猫を操るパターンとか」
「今風だな。姫の意思が尊重されてて」
何故かそこで急に、暗い気持ちが顔を出す。
「――僕と関わらない方が、ウォノは幸せになれるのに」
静かにこちらを向いた顔が、ラクの表情をスキャンする。
「おい、急に弱るな。それを望むなら、ここには来ない」
髪を梳く指は変わらず優しい。
「ウォノ」
保冷剤を枕に挟まれ、また熱が上がってきたのだとわかる。
「今、幸せか?」
冷えた手が首と額に触れ、ラクの姿勢を整えた。
「……ええ」
「まだ当分死ぬつもりはないから、安心しろ」
「――ウォノ」
手をつかんで、強く握る。
最期もこんな風にできたらいいのにと夢想して、欲張りな自分を恥じる。
「ここにいる。よく休め」
額に口付けられ、言われるままゆっくり目を閉じた。