君待ち/江澄「蓮花の咲きだす音の聞きたさに走る君の背まぼろしなりて」
ゆさゆさと肩を揺らされて、寝台でよく眠っていた江澄は何事かと寝返りを打とうとする。
「おい、江澄起きろ。行くぞ」
「なんだ?」
目を擦りながらゆっくりと目を開けるが、まだ夜は明けていないようで部屋は暗いままだ。
「こんな夜中になんだ」
「夜中じゃないよ、寅の刻(午前四時)だよ」
「なんでそんな時間にお前が起きてるんだ」
江澄が苛立たしげに声を上げると、魏嬰は人差し指を顔の前に立てながら、もう片方の手のひらで江澄の口を塞ぐ。
「しーっ! 大きい声を出したら師姉達が起きちゃうだろ」
たしかにこんな時辰に騒ぎ立てようものなら、父上や母上の耳に入ったら何を言われるか分からない。
仕方ないと、ゆっくり起き上がった江澄は魏嬰に目的を問うことにした。
「それで、いつもなら今頃ぐっすり寝てるお前が、一体どうした?」
「江澄も聞いただろ、蓮の花が咲く時の話」
「あぁ、昨日のどこぞの道士が話してたやつか」
「そうそう」
父を訪ねてきた旧来からの知り合いというその道士は、蓮花塢の蓮の美しい季節に来たことをやたらと喜んでいて、色々と話していた中でこんなことを言っていた。
“蓮の花が咲く瞬間というのはポンと音がすると言われておりましてな、その音を聞いたものは、悟りを開けると言われているのです”
その話を聞いた時、魏嬰は江澄を見て言ったのだ。“蓮は毎日見てるのに、そんな音は聞いたこと無いよな?”と。
「それで、今から確かめに行くのか?」
「もちろん。気になるだろ」
「一人で行けば良いじゃないか」
そもそも、蓮の花が咲き乱れるこの蓮花塢に居るのに、そんな話は一度として聞いたことがない。
江澄が不満げに魏嬰を見上げるが、魏嬰はそんなことはお構いなしに江澄に右手を差し出してきた。
「一人で行ってもし聞こえたとしても証人がいないと単なる妄言になっちゃうだろ。それに、二人で聞いて、さらなる高みに登れるんなら雲夢双傑は最強だろ?」
暗くて分からないが、小声ながら弾んだその声に魏嬰の満面の笑みが見なくても伝わってくる。
「分かった……行こう」
伸ばされた魏嬰の手を取って立ち上がる。居室を抜け出して二人はそっと水辺へと向かう。建物を出てからは魏嬰が勢いよく走り出したので、江澄も負けじとその後ろ姿を追う。魏嬰の足は速いが、江澄だって負けてはいないのだ。
船着場の辺りへ辿り着いて足を止め、ふと空を見上げれば、夏の空の星座が随分と西へと巡っている。東から薄く明るくなったからか、水面には星の輝きはもう映っていなかった。まだ明けぬ空の下で、今まさに開こうとしている蓮のつぼみが穏やかな風に吹かれて揺れていた。
江澄がハッとなって目を覚ますと、まだ部屋の中は暗く夜は明けていなかった。宗主たるもの寝坊をする訳にはいかないが、だからと言ってこんな夜中に目を覚ます必要は無い。周囲に誰もいないことを確認し、両手で目を覆いながら深く息を吸う。
(夢か……)
目が覚める前に見たのは、今はもういないあの魏無羨の後ろ姿だった。まだ夜が明ける前の薄暗がりで追いかけた師兄の背中を、時折こうして夢に見る。
“蓮の花の咲く音を聞けば悟りが開ける”などというのは単なる迷信だ。何故ならあの時、寅の刻から卯の刻を過ぎ、辰の時辰まで二人でじっと蓮の花が咲くのを見続けていたのに、終ぞ蓮の花がパンと開く音は聞けなかったからだ。見守った蓮の花は静かに少しずつ大きく膨らみ、見慣れた形へと花開いていった。
その日の日中は二人ともとても眠くて、集中力がないと怒られてしまった。はじめこそ誤魔化していたが、魏無羨が眠気で倒れたので仕方なく理由を答えたら、勝手に部屋を抜け出したこともそうだが、音を聞いたくらいで高みに登れるなどと、そんな世迷い事に翻弄されるとは鍛錬が足らないと二人にだけ特別な鍛錬が追加される酷い目に遭った。だからそれ以来、蓮の花が咲く瞬間を見に行こうなどとは、どちらからも誘うことはなかった。
この時間なら、まだ蓮の蕾は閉じている時辰だろう。江澄は目を瞑ったが寝付けそうになかったので、あの日のように寝台を抜け出し蓮花塢の建物を抜けた。静まり返った蓮花塢の空の上には、夏の星座が随分と西へ巡っている。もう少ししたら薄明るくなり、夜明けがやってくるのだろう。
蓮花塢の水辺へと辿り着き、今日これから咲きそうな蓮の蕾の前に立つ。今ここにいるのは江澄一人だ。もしあの時、蓮の花が咲く音を聞けていれば、あいつはここに共に居たのだろうか。そんな荒唐無稽なことを考えてしまってから江澄は頭を振った。花の咲く音は幻だ。それを追い求めていたあの男のことをそんな風に追い求めていることこそ馬鹿らしい。
その時、後ろからカサリと何かが動く音がして、江澄は念のため持ってきていた三毒を抜いた。
「誰だ!」
まさかと思ってしまった己に、江澄は奥歯を噛み締めた。
「ぼ、ぼくだよ叔父上!」
江澄が向けた剣の先にいたのは、金凌だった。ふと頭によぎった人物ではなかったことに安堵していいのか、一瞬でもそんなことを考えた己が馬鹿らしいと自嘲した方がいいのか江澄はすぐに答えが出せず、言葉を紡ぐのに時間がかかってしまった。
「あ、あぁ……金凌か。こんな時間に何してるんだ」
「何って、叔父上が出て行くのが見えたから気になってついてきただけだよ! 叔父上こそこんな時間に何してるんだよ?」
まさかこんな時間に金凌にあとをつけられているとは思わず驚いたが、溜息と共に三毒を鞘に納めた。
「何もしてはいないが……」
何もせずにこんな時間にこんな場所にいるのはおかしいのは明白だ。
江澄は何と答えるか悩んだが、わざとらしくコホンと咳ばらいをして、そのまま伝えることにした。
「私は蓮の花を見に来ただけだ」
「わざわざ蓮の花を? 毎日見てるのに?」
金凌が疑問を呈すのはもっともだ。この時期は蓮の花は見ようと思えばいつでも見れる。
「蓮の花が咲き始めるのはこの時間からだけだ。だから、たまには見ておこうと思ってな」
「ふーん? 確かに、蓮の花が咲くところは見たことなかった気がするけど。こんなに朝早くに咲くのかぁ」
江澄の行動に納得はしていないようだが、金凌も少しは興味が湧いたようだ。
「せっかく起きたのだから、蓮花塢にいる間に見ていきなさい」
「わかりました。叔父上も一緒に見るんでしょ?」
金凌に見上げられてしまうと、江澄は自分は戻るとは言えなくなってしまった。
「……あぁ、せっかくだからな」
そうして二人で岸辺に並んで腰を落とす。かつての雲夢双傑がそうしたように、蓮の蕾を二人で見つめた。二人で他愛もないことを話している間に少しだけ東の空が白み、心なしか蕾も膨らみ始めていた。
「蓮の花は早朝に咲き始めるんだが、夜になると閉じるだろう。一度咲いたら翌日も同じように開いて、夜にまた閉じるんだ。それでも四日目くらいになると、ぱらぱらと花弁がくずれるように落ちていくんだよ」
「へぇ~」
金凌が意外にも興味深そうに話を聞くので気を良くしそうになったが、この話はあいつから聞いた話の受け売りだったことを思い出す。思わずそこまでで口を閉じてしまった。
それからしばらくは二人でじっと蓮の花の開くのを見つめていた。段々と東の空が明るくなり鳥の鳴き声が聞こえ、世界が目を覚まし始めているのを感じるようになった。そんな世界の目覚めの音と色に気を取られている間に、蓮の花弁はどんどん大きく開いていった。花の咲く音は、やはり江澄の耳には入ってこなかった。
「金凌」
「何?」
「お前は、蓮の花が開く音が聞こえたか?」
「音? 音なんてしてなかったんじゃない? 何か意味があるの?」
「意味なんてないさ」
聞こえないと分かっているのに期待してしまうのは幻想だ。もういないはずなのに、あいつはまだどこかにいるんだと信じている自分がいるのも変わらない幻想なんだろう。あんな風に消えたりなんてするはずがないのだと……そう思ってしまうのは、俺には聞こえない蓮の花の咲く音を、聞いていたんじゃないかと、そんな風にすら考えてしまうから。
「金凌、いいか。今日の鍛錬は夜中に寝所を抜け出した罰の分、多めに走らせるからな」
「えー! じゃあ叔父上も走るの!?」
「そうだ。同罪だからな」
江澄も一緒にということなら、余計に金凌も逃げられそうもない。
「やだな~~!」
「これに懲りたら、夜中に勝手に部屋を抜け出すんじゃないぞ」
江澄が言うと、金凌はむすっとした顔をしながらも、買い言葉に売り言葉とばかり江澄を指さした。
「叔父上だって、勝手に抜け出したらダメなんだからね!」
「……わかった」
残された蓮花塢と金凌のためにも、江澄は幻想を抱いている訳には行かない。それでも、きっと探し続けてしまうのだろう。あいつにはまだ言い足りないことが山ほどあるのだ。
そう思いながら再び視線を向けた蓮の花弁は日の光を受けながら美しく咲き誇っていた。