響き分かつ夜 石畳の小道を行く懐桑は、鼻歌でも歌い出しそうなほど気分が良かった。酒で火照った顔を扇子で仰ぐと、座学に来ていた頃に隠れて三人で飲んでいるのを藍忘機に見つかって逃げ出したことを思い出してしまう。そういえば、あの時は懐桑と江澄がいなくなった後、魏無羨と藍忘機の二人は一晩一緒に過ごしていたのだった。今思えばなんて本人達に言うものでもないだろうが、それにしてもこんな風にまた雲深不知処で酒を飲むことになるとは思いもしなかった。
清談会が雲深不知処で行われるのに合わせて姑蘇へやってきていた懐桑は、明日からの会合に合わせたもてなしの宴に参加していた。宴と言ってもそこは藍氏の宴なので他の世家の宴とは幾分趣きが違うものではあるのだが、何にせよその宴の後、思わぬ人物にそっと物陰へと引っ張られた。見れば、今は藍忘機の元にいる魏無羨がニヤニヤしながら懐桑を見ていた。
「聶兄、藍氏の宴には物足りなさを感じてるだろ?」
「それは、まあ否定できないけど」
そうして懐桑の肩をポンと軽く叩いた魏無羨は、何だかずいぶん昔の、まだ十代だった頃の悪巧みをしている少年そのものみたいに見えた。
「懐桑、ちょっと付き合えよ」
どこから持ってきたのか酒壺を取り出した魏無羨が、懐桑の前で天子笑を振ってみせる。
「ええっ、雲深不知処って飲酒禁止でしょ!?」
「しーっ、だから大声出すなよ。たまには俺も酒を飲めるやつと飲みたいんだよ。まぁ、たぶん藍湛も後で来るけど」
あっけらかんとして答えた魏無羨に、懐桑は及び腰になる。
「それは俺が行って大丈夫なの?」
「だいじょうぶ、だいじょーぶ」
そう言うと、裏道らしき道へと誘うように向かってゆく。
魏無羨はまるで何事も無かったかのように懐桑に振る舞うけれど、藍忘機はどうだろうか。彼の兄はあれからずっと、ほとんど表に出て来ていない。今日の宴にも姿はなく、恐らく明日も仙督となった含光君が取り仕切るのだろうとみな口々に言っていた。
そんな形で半ば強引に誘われた密かな飲み会は、意外にも思い出話などに花が咲き、まるで十代の学ぶことも修練することにも身が入らないでいた頃に戻ったような錯覚を覚える瞬間さえあった。けれど、こんな「飲み会」に藍忘機が同席している時点で昔とは随分違っていて、懐桑自らと向かいに座る二人の身に起きたことを見てみぬふりをするのは難しかった。それでも知らぬ存ぜぬ顔をするのは慣れていたし、悪い時間では無いものだと、笑い合っている間に夜が更けていった。
部屋まで送って行こうかと魏無羨が言ったが、懐桑は何度も来たことのある雲深不知処で迷子になることはないからと断った。そうして足元を照らす為の灯りを借りて歩いて、上機嫌に歩いていたところだった。
梢がざわめく音に乗って、澄んだ琴の音が聞こえてきた。懐桑はその音に誘われるように道を外れ、部屋へと戻る道とは別の方向へと足を踏み出した。途切れ途切れに聞こえるが、その曲が何であるかはすぐに判別することができた。それは姑蘇藍氏秘伝の曲であったはずのもので、外部の者たちが大勢やって来ているこんな夜に何故外に聞こえるように弾いているのだろうかと不審に思うには充分なものだった。それにもう亥の刻はとうに過ぎている。
心を落ち着ける穏やかな音色を頼りに辿り着いた建物の縁側に見えた姿に、懐桑は思わず息を飲んだ。
藍曦臣の琴で奏でる「清心音」の音はどこまでも清く、美しい。閉関してからというもの、懐桑が藍曦臣の姿を見るのは初めてだった。部屋に仄かに灯る明かりが、懐桑の記憶よりも小柄になったような気がする藍曦臣の姿を闇夜に浮かび上がらせている。
姑蘇藍氏の秘伝である「清心音」を聞いたことのある門派以外の者は限られている。それを演奏できるものとなれば言わずもがなだ。心を沈めるはずの清らかな響きに、懐桑は思わず拳を握りしめていた。その時だった、さりげなく曲調の雰囲気が変わる。穏やかな曲調は変わらないままだが、その響きは異国のものだ。この曲にも、もちろん懐桑は聞き覚えがある。
今になって藍曦臣がどうしてこの曲を弾くのだろうか。懐桑が警戒している間にも曲は途切れることなく奏でられていたが、ふと藍曦臣が弦を爪弾く指先に霊力を込め殺気を感じさせたことに懐桑は身構えた。意外にも懐桑の身には何も起こることはなかったが、途端に藍曦臣が吐血して身体が前に傾ぐのが見え、思わず声を上げてしまった。
「曦臣哥!」
藍曦臣は、あの「邪曲」を奏者である自分への攻撃に使ったらしいと気付いて血の気が引いた。
手に持っていた灯りを投げ捨てるようにして藍曦臣の元へと駆け込んだ懐桑は、琴の弦を上から押さえつけながら藍曦臣の身体を支えようとする。
「曦臣哥、大丈夫ですか? ……ええと」
懐桑は片手で藍曦臣の肩を支えていたが、琴の弦を止めた腕は藍曦臣によって強く掴まれていた。まるで、罠に掛かった雉の気分だ。
「ありがとう。大丈夫だ、懐桑」
藍曦臣の懐桑を呼ぶ声に、彼を非難する響きは無い。けれど、掴まれた腕は痛いほどで、このまま立ち去らせるつもりは無いことは明白だった。あまりの力強さに、思わず掴まれた腕ばかりを見てしまう。
「曦臣哥……その、こんな夜更けに突然訪問してしまったのは謝ります。私は偶然ちょっと近くを通りがかっただけで」
「……懐桑」
もう一度名前を呼ばれた懐桑が恐る恐る顔を上げると、藍曦臣は口元の血を拭ってから柔らかに微笑んだ。
「懐桑、お前たちの笑い声がここまで聞こえていたよ。明日、藍啓仁先生に怒られるかもしれないな」
腕は相変わらず掴まれたままだったけれど、藍曦臣からは先程琴を弾いていた時に感じた殺気は感じられず、内傷もそう酷いものでは無さそうに見える。懐桑は張り詰めた雰囲気を和らげようとしているような気がする藍曦臣の言葉に乗ることにした。
「曦臣哥……その、お願いです。藍先生には黙っていてくれませんか? 途中から含光君だって同席していたし。それに、私は魏公子に誘われただけなんですよ。本当です! 信じてください。お願いします〜」
しどろもどろに説明を続けていると、藍曦臣が今度は吹きだすように笑った。
「ふはっ、嘘だよ懐桑。流石にここまで君たちの声は聞こえていない。忘機から懐桑が魏無羨と一緒に飲んでいるところにこれから向かうと聞いていたものだからきっと楽しい会が開かれているのだろうと思って。その分だと随分盛り上がったようだね。楽しむのは悪いことではないが、羽目を外してはいけないよ」
「……はい」
しおらしく頷きながら懐桑は確信していた。つまりこの人は懐桑が通りかかることを知っていてわざと「清心音」と「乱魄抄」を弾いていたのだ。懐桑がそう考えたことを理解したのかは分からないが、藍曦臣は懐桑の腕をやっと離してくれた。
「すまない、懐桑。こうでもしないと、今の私はお前と話すことは難しい」
藍曦臣が随分と申し訳なさそうに言うものの、それなら話さなければ良いのではと口を突いて出そうになるが、寸でのところで飲み込んだ。
「あの、お話なら明日、日が昇ってからにでもすれば良いことではないですか?」
「そうだな、藍宗主と聶宗主という立場ならこれからも話す機会はあるのかもしれないが」
藍曦臣の言わんとするところが分からず懐桑は首を傾げた。こんな夜更けにこんな乱暴な手で呼び出すなんてことを余程のことだろうと思うのだが。
どちらも無言のままでいると、藍曦臣が一度姿勢を正すようにスッと背筋を伸ばす。軽く呼吸を整えると、懐桑を真っ直ぐに見つめた。
「これから全てを失う前に、お前と一度話をしておきたかった」
藍曦臣の力強い目に見据えられて、懐桑は少々たじろいでいた。いつだって誠実な藍曦臣に見つめられてたじろがない方が難しい。
そもそも、この人が誠実で無かったことはこれまで一度としてないのだろう。一度もなかったからこそ、あの一本気な兄も交流を深めていたのを懐桑は幼い頃から見て知っていた。いつでも誠実で嘘を吐くこともなく、清らかで優しい。だからこそ金光瑶も全面的な信頼を置き、それ故に利用され、懐桑も藍曦臣も兄を失ったのだ。そして、だからこそ懐桑はその信頼を最後に利用した。
懐桑も藍曦臣も失うものはもう全て失われてしまっている。今更この人は何を失うというのか。
「……もう何も失われません」
「いいや」
懐桑が絞り出したような言葉に、藍曦臣は首を横に振った。
「懐桑、私はあなたは変わらず私の義弟だと思っている。いや、そう思いたいのだ」
頷くことも首を横に振って否定することもしない懐桑に向かって、自嘲するように笑った藍曦臣の表情を見て、少しばかり胸が痛んだ。きっと兄は藍曦臣のこんな表情を見たことが無いに違いない。
「そう思う一方で、お前はもうずっと前から私を義兄とは思っていなかったのかもしれないと、そう考えるに至った。やっとのことで」
琴に再び手を添えた藍曦臣は、おもむろに「清心音」を爪弾き始めた。穏やかで美しい音色を挟んで向き合うと、美しい音色にどこか悲しみが滲んでいるような気がしてくる。
「懐桑、お前は私が大哥に清心音を聞かせようとしなければ、と思っただろう」
かつてこの曲を兄の為に弾いたその日が無かったとしても、他の手段で兄は死に追いやられていたのかもしれない。けれど、それでも。もしも「清心音」を金光瑶に手解きしていなければと思わない瞬間が無かったと言えば嘘になる。
「……私は」
懐桑の様子に藍曦臣は演奏の手を止め、懐桑の前で袖を振るようにして言葉を遮った。
「いや、答えなくて良いんだ。お前はきっとこう言うだろう。「分からない」と。それとも、今なら他の答えをくれるかな」
「……」
「私は、いつだって気付くのが遅いのだ」
この人が言ういつだってとは、一体何に対してなのか。兄の死について? 金光瑶の悪行について? 懐桑のこれまでの計画について? それとも……
「懐桑、お前がどう考えているかは分からないし、どんな風に思っているかなど私が口を出すことでは無いのは分かっている。けれど、大哥がいなくなってしまってからもずっと、君は彼の残したとても大切な存在で、自分にとっても正真正銘の弟であることだけは変わることがないと信じていたんだ。その当人に恨まれるようなことをしていたと露とも思わずに。だから私は、いつだって遅いのだ」
「曦臣哥……」
確かにあなたはいつだって知らぬ存ぜぬと言い続けてきた私より何も知らなかった。見て見ぬふりではなく目に入っていなかった。それを望んだのは藍曦臣本人ではあったのだろう。けれど、そのことをもっと望んでいたのは周りにいた者たちであり、金光瑶であり、懐桑自身でもあった。そしてきっと、兄もそのうちの一人なのだ。そうでなければ、聶明玦があれだけ反目しあっていた金光瑶と三尊と呼び習わせられるようなことに首を縦に振ることなど無かったはずだ。だから、一人でずっと違う結末を求めている最中にあっても、あなたのことを恨んだことは無かった。
「曦臣哥……、私は恨んでなどいません」
こんな風に言っても、信じてもらえないかもしれないとは思う。観音廟で叫んでいた金光瑶のように、ただこの目の前の人を動揺させるだけなのかもしれない。
失ってしまったものがあまりにも大きかったから、懐桑自身は兄と共にこの義兄もずっととうの昔に失っているのだとばかり思っていた。それなのに、この人は相変わらず懐桑を弟だと思いたいなんて、そんなことを言ってくるとは考えたことは無かった。
「……遅くは無いです」
あの観音廟の夜に懐桑はもう全てを成し遂げたつもりでいたのに、藍曦臣は変わらず懐桑を弟だと思っていた。それは滑稽にも見える気がするけれど、そんな藍曦臣だからこそ大切な兄が長く共にいた人なのだ。全て失ったと思っていた懐桑を掴まえた手に、失われた兄を見るのはズルいだろうか。
「曦臣哥……遅くなんてありません。私は変わらずあなたの弟で、あなたは私の兄ですよ」
私達はこれからもそう簡単に変われない。あなたも、私もまだ生きているのも変わらない。生きてゆく限り消えない大きな傷跡を残したままあり続けるしかない。
もう二度と「兄」を失いたくは無いと望んで許されるのかどうかも、それが良いことがどうかも分からないけれど。
「ですから、もうあの曲は弾かないでください。お願いします」
懐桑は嘆願するように膝をついて頭を下げた。
途端に藍曦臣が縁側から飛び降りるように、懐桑の元へと駆け降りてくる。
「……分かった、分かったから。頼むからそんなことをしないでくれ」
両肩を掴まれて立ち上がると、何だか急に恥ずかしい気持ちが芽生えてしまってまともに藍曦臣の顔が見れなかった。
「懐桑、ありがとう」
両手を掴まれてしまって逃げ場がなくなってしまい、諦めて藍曦臣の顔を伺うようにそっと見てみると義兄は柔らかく微笑んでいた。
何をしたところで何もかもは元通りになどなることは無い。失ったものは返ってこない。それでも、まだ失わずにいられるものがあるのなら、それを握りしめることも時には必要なのかもしれない。
「曦臣哥、良かったらまた清河にも来てください」
「あぁ、行こう。長らく行っていないな」
答えた藍曦臣の笑い顔は憂いを帯びていて、きっと懐桑と同じように失ってしまった兄たちのことを思っているのだろう。
「曦臣哥? あの、夜も遅いですからそろそろお暇しようかと思うのですが」
懐桑の手を中々離してくれない藍曦臣に手を解いてくれとやんわりと伝えてみたが、握った手へと視線を落とした藍曦臣は驚愕したように握る手に力を込めた。
「懐桑……すまない、腕の手当てをさせてくれないか」
「腕、ですか?」
懐桑が聞き返しながら己の腕を見てみると、薄暗がりでも判別できるほどに藍曦臣に掴まれた手の形に赤く腫れているのが見えた。その状態に気付いてみると、鈍痛がじわりと脳に伝わってきて顔を顰めてしまった。
「言われてみれば、とても痛いですね」
藍湛が馬鹿力なんだ、なんて話を魏無羨から聞いたばかりの夜に、その兄の怪力ぶりを体験することになるとは思わなかった。力強く手に入れたいものへと手を伸ばせるその力を羨ましいとは思ったけれど、こんな形で体験したいとは思っていなかったはずなのだが。
「すまない……」
「いえ、このくらいそのままで大丈夫ですよ」
「いや、ダメだ。薬を塗った方が良い。さぁ、上がって」
手を取ったまま部屋へと上がるよう促す藍曦臣に、懐桑が断れるはずがなかった。
明日誰かに何か言われないと良いのだけれど。そう思いながらこっそり溜息を吐きながら、懐桑は藍曦臣の部屋へと初めて上がったのだった。