竜胆の願い 修練を始めてからは月に一度、母と会えるのを楽しみにしていた。母上にこんなことができるようになったと言ったらまた褒めてもらえるだろうかと期待しながら向かっていた。叔父上は厳しい方だったので辛いと感じたこともあったはずだけれど、記憶にあるのは母にたくさん話をすると褒められるのが嬉しかったことばかりだ。そんな毎日だったからだろうか、母と叔父しかいない世界が変わった時のことは鮮明に覚えている。
「あなたに弟か妹ができるの」
そう言いながら母がお腹をさすって微笑んだ。あの日から、私は兄になった。
「兄上」
呼ばれた声にふと我に返る。弟が部屋にやってきていたらしい。うっかり考えに耽っていて声をかけられたことに気付かなかったが、何度か呼んでくれたのだろうか。藍曦臣が立ち上がって弟を迎え入れようと扉を開けると、弟は手に籠を提げて立っていた。恐らく夕餉だろう。
「お前が持ってきてくれたのか。ありがとう。入ってくれ」
頷いた忘機が部屋の中まで来ると、二人で卓を挟んで向かい合わせに座った。弟は持ってきた器を取り出して並べてくれる。今日は普段よりも腕の数が多い。清談会が雲深不知処で開かれるから、今晩は宴だったはずだ。
「忘機、皆の様子はどうだった?」
「変わらずです。少々、まだ落ち着かない門派もありますが」
「そうか」
弟も明確にどこのとは言わないが金鱗台は落ち着くまでに時間が掛かるだろう。宗主があのような形でいなくなってしまったのだから。そこまで考えて反射的に蘇る手に握った剣の感覚に拳をきつく握ってしまい、曦臣は思わず目を伏せた。
「兄上……」
気遣う弟の声を頼りに深呼吸をして、目を開けながら指先から力を抜く。
「大丈夫だ。お前も今日は疲れただろう」
藍曦臣が聞くと、弟は首を横に振った。持ってきた夕餉を入れてきた籠の中から続けて白い包みを取り出した。
「兄上、これを」
卓の上に置かれた白い紙の包みからは、青紫色の花びらがのぞいていた。
「咲き始めていたので、兄上にと」
藍曦臣が包みを手にして開くと竜胆の花が一本、いくつもの小さな花を咲かせている。この竜胆の青紫色を見たのは久しぶりだ。
「もうそんな季節になっていたのだな」
秋になると咲く竜胆は母の記憶と強く結びついている。そして、私にとっては母だけでなく幼かった弟と三人の記憶でもある。
兄になると知った時、兄とはどんなものなのかよく分かっていなかった。だが、父とはほとんど会うこともなかったから、弟が産まれて家族が増え、あの母の居室を離れても一人ではないことが嬉しかったのかもしれない。
自分よりも年少の彼を守っていくべきは自分だという意識ももちろんあったけれど、何より弟が一緒にいるのは嬉しくて心強かった。
弟は母の前では困った顔をしていることも多かったが、滲み出す喜びを表現するのがあまり得意でなかっただけなのは知っていた。彼は幼い頃から言葉少なかったが、母を喪ってからは嬉しそうな弟を見る機会は少なくなってしまった。
今は魏公子が側にいることで、弟がそんな風に喜ぶ機会が増えているのだろう。兄としては喜ばしい限りだ。
「そういえば、今日は魏公子はどうしている?」
「酒盛りをしています」
あまりにも当たり前のように答えた弟に、思わず言葉に詰まりながらも聞き返してしまった。
「酒盛りを……?」
言うまでもなく、雲深不知処での飲酒は禁じられている。とはいえ、魏無羨が来てからというもの、彼が静室で天子笑を呷っているのは公然の秘密のようなものになっている。しかし、外部の者を引き入れてとなると話は変わって来る。
「魏嬰がたまには酒を飲める者と一緒に飲みたいと言うので」
「それは一体誰と?」
「聶宗主を連れて来ると言っていました」
「懐桑を……ふはっ、そうか」
藍曦臣が思わず笑ってしまうと、弟は困惑した表情を浮かべた。
「昔、お前と魏公子が酒を飲んだと罰を受けたことがあったろう。あの時、最初は江宗主と懐桑もいたのだろう?」
「……えぇ、確かそうだったと思います」
随分昔のことなのに、弟が家規を破るなんてことはずっと無かったから、印象に残っている事件のひとつだ。弟もまだ若かったが、藍曦臣自身も今以上に青二才だった。
隠れて酒を飲もうとするなど、若気の至りの最たるものだ。そんなことを画策しているとは、眩しい何かを見てしまったような気分だ。
「笑ってしまってすまない。まるで何も無かった頃のようだなと、思ってしまって」
「兄上……」
何も無かったのなら、こんな風に雲深不知処で酒を飲んでいる話を弟とすることなどあり得ない。そう理解しているのに、何だか急にあの頃が懐かしくなってしまった。
「忘機もこれからその酒盛りに加わるのか?」
「えぇ。私は飲みませんが」
仙督となった頼もしい弟が、心なしか弾んだ声の響きのせいだろうか、母の元へと通っていた頃の小さな彼に重なって見えた。
明日が清談会だと言うのに、随分と軽い足取りで向かう弟を微笑ましく送り出し、藍曦臣は再び部屋にひとりになった。その静けさに、目に入ったもらった竜胆をひとまず小さな水差しに挿すことにした。
視界に竜胆の花を入れながら、せっかく持ってきてくれたのだからと、藍曦臣は夕餉に手をつけるべく卓の前に座った。長らくひとりで考えごとをしているばかりのせいで食欲がないことが多かったのだが、今日は少し笑って楽しくなったのか食べられそうな気がした。
座って箸を手に持ち、汁物の芋を摘んで口に入れた。宴に出した献立だけあって手がこんでいる。後で忘機に持ってきてくれたことの礼を改めて言わなければ。先ほどまで弟が座っていた卓の向かいの空席に視線を向けた。この十六年を思えば、兄としても今の忘機を見て良かったと思う。
藍家双璧の弟の藍忘機は唯一無二の知己を手に入れた。それでは私は? 兄の藍曦臣は何を手にしたのだろう。
契りを結んだ義兄も義弟も、今はもうこの世からいなくなってしまった。しかもそのどちらもが、自分が手を伸ばしたから失ってしまったようなものらしい。そこまで考えてから食べ進める気にならず、藍曦臣は箸を置いた。
観音廟から戻ってからはこれまでのことをずっと思い返していた。大哥と初めて出会った頃、父が死んで宗主になった頃、温家に雲深不知処を焼かれ逃げていた時に阿瑶に匿ってもらった頃、「射日の征戦」後に三人で義兄弟の契りを交わした頃。そして、大哥の行方が分からなくなり、長いこと音沙汰の無かった中で起きた今回の件。何かひとつでも違えば今のこの結末には辿り着かなかっただろうかと考えてしまうけれど、別の何かを選んでも藍曦臣の両手に何も残る気はしなかった。
両手に視線を落とし、その手が空虚で何も無いことに吐き気がして思わず両手で顔を覆った。
宗主という道を捨て誰か一人を追い求める生き方をするべきだったのだろうか。そう何度も考えたけれど、そんなことを藍曦臣にすることはできなかっただろう。もう一度やり直しをして選べると言われても、誰か一人の手を取り続けることができるか自信が無かった。それは宗主として、兄として守るべきものがあると信じて生きてきたからなのかもしれないけれど、そんな風に理由をつけて欲しいものを手に入れようとしていたからでもある。では手に入れたかったものは何なのだろうか。もしかしたら、自分が欲しかったのは兄と弟という家族なのだろうか。
思い返してみれば、聶明玦と金光瑶の二人の仲は兄弟になれば万事解決するだろうという期待は土台無理な話ではあったのだろう。けれど、当時はきっとこれで上手くいくだろうとしか考えていなかった。
結果的に大哥のためを思った行動が彼と共に過ごせる時間を縮め、守りたかった阿瑶を守ることもできずに彼に利用され、挙句にこの手で彼に刃を向けた。そんな藍曦臣を、聶明玦の唯一の肉親である懐桑はきっと恨んでいるのだろう。だからこそ、藍曦臣の手で金光瑶を殺させようとしたのではないかとすら思う。
藍曦臣が知っている金光瑶は他の皆が言うような姿とは程遠くて、藍曦臣は酷く混乱した。そんな藍曦臣がまるで糸繰人形で操られるように辿り着いてしまった結末に至っても、操り手が聶懐桑であることなど考えもしなかった。まだそれを信じたくないほどに、整理がついていない。けれど聞こえないふりをして、見えていないふりをしようとしても、目の前から消えるわけではない。
ふと、懐桑はまだ藍曦臣のことを義兄と思っているのだろうかと疑問に思う。大哥がいなくなってしまって以降、彼がいつ金光瑶のことに気づいたのかは分からない。だが、彼は今に至るまで一度も態度を変えることは無かった。観音廟が大きく崩れた後ですら、藍曦臣の前では「一問三不知」で、すぐに助けを求める懐桑であり続けている。
もしやもうずっと前から藍曦臣は弟を一人失っていたのだろうか。大哥がいなくなっても、懐桑が義弟であると思っていたのは藍曦臣だけなのかもしれない。曦臣哥と呼ぶのは口先だけのことなのかもしれない。ただ、大哥と阿瑶とひとつ違うのは、懐桑とはまだ会おうと思えば会えることだ。
藍曦臣はそこまで考えて卓から離れ、琴を出した。指が爪弾くのは、何度も弾いた「清心音」だ。悪用されるなどということを考えもしなかった旋律。清く、美しく、心を落ち着ける旋律を奏でながら、この曲を弾かなければ変わったことがあったのかどうか、何度目か分からない堂々巡りに入ってしまいそうになる。
それにしても、魏の公子と懐桑との酒盛りはいつまでやっているのだろう。きっと忘機のことだから、亥の刻を超えて騒ぐということはさせないだろう。そもそも明日に響くようなことがあれば、いくら聶宗主が普段からそう積極的な発言はしないにしても、朝まで飲んでいたら怪しまれるに決まっている。
「懐桑に飲ませすぎないようにと言うべきだったな」
まるで面倒見の良い兄のように独りごちてしまってから、一度試してみても良いだろうかと思いつく。きっとこれからも彼とは聶宗主と藍宗主という立場で話す機会はあるだろう。それでも、兄と弟という関係で話す機会はもう無いかもしれない。あったとしてもそれは乾いた空虚な響きが長く続くだけなのかもしれない。だから、そうなる前に今晩話す機会を作ろうではないか。
そう決意して再び卓の上に視線を向けると、水差しに挿した竜胆が薄灯に照らされていた。竜胆は一本に沢山の蕾をつけて花を咲かせる。私はこんな風にいくつもの花を咲かせることはできないのかもしれない。こんな風に庭から手折ってきた花を愛でるように美しい思い出だけを抱えて生きていくのも悪くないのだろうとも思う。それでも、その思い出を分かちたいと思うのは欲張りだろうか。
何かひとつくらいこの手にあれば良いのにと願うくらいは許して欲しい。そう思いながら藍曦臣は立ち上がり、扉を大きく開け放った。家規で夜間の演奏は禁止されているのを承知で、藍曦臣はこの願いが叶うことを祈りながら再び琴で清心音の旋律を緩やかに弾き始めたのだった。