【ヴェラン】熱帯夜「ランちゃーん!」
バーンという大きな音がして扉が開いたかと思えば、そこには枕を持ったヴェインが立っていた。
正確には左の脇に枕を抱え、右手にピッチャーとグラスを載せたトレーを持っている。
ここは俺の部屋で、時刻は夜中。俺はベッドの中で本を読んでいた。当然、ヴェインもパジャマ姿だ。
真夏の夜は暑苦しく、短パンにシャツで寝ていたけれど、ヴェインは長ズボンのパジャマを着ている。子供の頃、薄着で寝ていると腹の調子を崩していたからだろう。
彼は扉の立てた音の大きさに自分で驚くと、人差し指を唇に当て、「しー、しー! 静かに!」なんてドアに向かって言うものだから、吹き出してしまった。
大丈夫だ、ここは一軒家で、隣家はずっと離れている。多少うるさくした所で、誰に咎められるわけでもない。
まあ、飼い猫のムートが居たら尻尾をブンとひと振りしたかもしれないが。
ムートはヴェインが来る前に、猫用扉を潜って部屋を出ていった。トイレか、水飲みか。ベッドが暑くなり、廊下の床で涼んでいるのかもしれない。
「どうしたんだ、ヴェイン」
賑やかなヴェインに慣れている俺が怒ることも、当然ない。
寧ろ、夜中に思い掛けず想い人の訪問があり、嬉しさを隠しきれなかった。
俺は身体を起こして、読んでいた本を閉じる。
ヴェインとは幼馴染みで、今は祖国を守る騎士団の団長と副団長として、共に過ごしていた。情報共有の観点から、同居するのが都合良く、ふたりで家を借りている。
「ランちゃん、今夜は熱帯夜だぜ!」
そう言うと、枕を抱えたまま近づいて来た。ピッチャーの中で氷が揺れて、涼し気な音を奏でる。
確かに今夜は暑い。じっとしていても肌に汗が滲んでくる。窓を開けていたけれど、カーテンが揺れることもなく、涼を運ぶ風はなかった。まさしく熱帯夜と呼ぶに相応しい。
「ああ。フェードラッへで熱帯夜は珍しいな」
我が祖国は温暖な地域で、一年を通して過ごしやすい。夏は多少暑い日もあるが、夜には過ごしやすくなり、今夜ほど暑い日は稀だ。
「だよなあ〜。暑くて眠れねえよ〜。ランちゃん、ここにレモン水置くから飲んで……、飲むか?」
ベッドサイドのテーブルへトレーを置くヴェインの姿を見つめていたら、気付かれた。
「うん、貰う」
ちょうど喉が乾いていて、キリがいいところまで読みすすめたら、キッチンへ行こうと思っていたんだ。ヴェインはいつもタイミングがいい。それにヴェインがわざわざ用意してきてくれたのだから、飲むに決まっている。
にこにこ笑顔を浮かべて、よく冷えたレモン水をグラスへ注ぐと、手渡してくれた。熱くなっていた指先がひやりとして気持ちいい。
「ありがとう、ヴェイン」
「おう! 八百屋のばあちゃんが『いいレモンだから持ってけー』ってくれたんだぜ!」
「ふふっ、相変わらず、お前は皆の孫だな」
城下に行くと、ヴェインは必ずご老人たちから何かを頂いてくる。騎士として遠慮すべきだが、ご老人たちの生きる励みだと言われてしまえば断れない。
俺と同じで、彼らもヴェインの笑顔が好きなのだろう。
グラスに口を付けると、爽やかな酸味が広がった。冷たいレモン水が美味しくて、一気に半分まで飲んでしまう。読書に集中していて、ここまでの喉の乾きだったとは気付いていなかった。危ない。
「今夜は寝苦しそうだ。睡眠中の熱中症に気をつけろよ」
言うと、レモン水を飲み干したヴェインは俺に向かって枕を掲げた。
「大丈夫、大丈夫! ランちゃんにくっついてれば涼しいから!」
ポンと枕を俺の枕の横に投げると、ベッドへダイブする。ベッドが揺れて、慌ててグラスを両手で支えた。
「こら、溢れるだろ」
「わははは、ごめん! でも今夜はすぐ乾きそうだな〜!」
楽しそうに笑うヴェインの額を指で突いて、グラスの中身を全部飲み干した。部屋に入ってきた時から、ヴェインは何だかご機嫌だ。何かいいことでもあったのだろうか。
レモン水と一緒に口の中へ流れ込んできた氷を噛み砕くと、ヴェインは「スゲえ音!」とまた笑う。
空になったグラスを受け取って、サイドテーブルのトレーの上へ置いてくれた。
「飲みたくなったら言って〜」
「ああ……というか、お前、今夜は俺を氷枕にするつもりか」
「ランちゃんにくっついてれば」と言っていたので、そのつもりだろう。
既に隣で枕の上へ金髪の頭を乗せている。
見下ろせば、その表情はご機嫌というより、嬉しそうだった。「暑くて眠れない」と言っていたとは思えない。
そもそも本来であれば、暑ければ人にくっついて眠ろうとは思わないだろう。だが、幸い俺が氷の魔法を使えるのだ。全身に冷気を纏うくらいの魔力なら、一晩維持するのは容易い。
本当に幸いなことに、幼馴染みの俺たちは密着するのにも抵抗はなかった。
ヴェインが俺にくっついて眠る選択をするのは当然だった。
涼しく眠れるのを約束されているのだから、嬉しくもなるのかな。
俺は嬉しいけど。
ヴェインにくっついて眠るのが好きだからだ。もう、子供の頃から。
ヴェインに触れていると、心から安堵し、幸せな気持ちになる。よく眠れるし、夢見もいい。好きな人にくっついて眠るのは、喜びに満たされる。
でも流石にそんなことは口に出来ない。
「お前とくっついて眠るのは幸せだから、一緒に寝てくれ」なんて。
子供の頃なら、「くっついて眠ったら、夢の中でも遊べるかも!」なんて言えたけれど。
もう立派な大人だから、「狭いベッドでくっついて眠るのはどうなんだ……」と口にする。
「えー、冬は俺が湯たんぽにされてるから、おあいこだろ〜!」
「確かに……」
ヴェインの言葉に口を噤んだ。
冬の夜に「寒過ぎる! お前の子供体温を分けてくれ!」と何度かベッドへ潜り込んでいた俺は反論出来なくなる。ヴェインは、「えっ、大丈夫か?」とすんなり俺を受け入れてくれていたしな!
まあ、反論も抵抗もする必要もない。
ヴェインが俺を抱き枕にするのなら、それは好都合と言うものだ。
「まったく、仕方ないな」
なんて口にしながら、ベッドへ横たわると、ヴェインは身体を横に向けて、俺の腰に腕を回した。
そのまま引き寄せられて、胸や足が触れ合う。ヴェインの腕が背中を優しく撫でてきて、まるで抱きしめられているみたいだった。
ヴェインの呼吸が額に触れる。
……近いな。
どうしよう。
脈が速くなってしまう。
だって、俺がヴェインに「湯たんぽになってくれ!」と、くっつきに行った時は、こんなに密着しなかった。あまりくっつき過ぎたら、俺の想いが伝わってしまうと思って……。
「ヴェイン……」
「……ランちゃん、早く魔法使わないと、暑いぜ?」
「う、うん、そうだな」
そうだ。ヴェインは暑いから、早く全身を冷やしたくて、密着するのだろう。
早く魔力を解放して、冷気を出さないと。早く、ヴェインを冷やしてやらないと――。
でも、上手く集中出来ない。容易い魔法のはずなのに。
「……ランちゃん、どんどん熱くなってる」
「ま、待ってろ、今……」
集中して、冷気を纏わないと――と焦るほど、上手く冷気が出せなくなる。焦りが募ると背中にじんわりと汗が滲み、伝い落ちた。
「ランちゃん?」
「す、すまん。暑いだろ……」
触れているヴェインの足が汗ばんできたのが分かる。
折角、来てくれたのに、このままでは、ヴェインは自室に戻ってしまうだろう。
きっとその方が涼しい。
俺だってヴェインにくっついて、ドキドキしながらも穏やかに眠れると思ったのに。
けれど、ヴェインは部屋を去る気配を見せなかった。触れている肌に汗が滲んでも。
「へへ、暑くても平気だぜ?」
「でも、涼みに来たのに」
涼めると喜んでいただろう?
「……と、いう理由で、ランちゃんにくっつきに来ただけ」
「えっ」
驚いて顔をあげると、ヴェインは目を細めて俺を見つめていた。
先程見た嬉しそうな表情を浮かべている。
「なあ、ランちゃんが、俺を湯たんぽにするのも、……そうだよな?」
――なんだ。知っていたのか。
そうだよ、俺はヴェインを好きだから、なんとか理由をつけて、傍に。
触れる距離に居たかったんだ。
お前はそれをずっと許してくれていたのか。それとも待ち望んでいたのか?
お互いの想いを確認した瞬間、魔力が溢れて、一瞬で部屋が冷えわたる。
ヴェインは笑って「ランちゃん、これは寒すぎるぜ〜!」と言い、体温を分け与えるように俺を抱きしめた。