Eureka ぱたぱたぱた、と軽やかな足音に続いて、ばん、とキッチンの扉が開いた。
「ラーハルト! 帰ったぞ」
弾んだ声。やたらと機嫌がよさそうだ。
ラーハルトは薬草を選り分けながら振り返る。
「なんだ、早かったな……むぎゅ」
ただいまのハグが力強い。
「ど、どうした。落ち着け。今日の習い事がうまく行ったのか」
「習い事じゃないぞ。これも修行だ」
と、ヒュンケルは嬉しそうに額を擦りつけてくる。
「国王と二人で不吉な儀式を執り行うのが?」
ぽんぽんとその背を叩いてやりながら、ラーハルトが冷たく聞き返す。
「先生に教わっているのは化学実験だ。不吉な儀式じゃない。それに今日の修行は『お掃除』で、師匠は花屋の店番だ」
「あのガキか」
「彼はすごいんだ。なんでもできる」
わざわざ学び直さなくても、身の回りのことくらい俺がやってやるのに。
と、ラーハルトは思う。
だがヒュンケルにとっては、生きるための技術の一つ一つが新鮮なのだ。誰か、「普通」の人びとと繋がることも。
だから、調子をあわせてやるのだ。一抹の寂しさは押し殺して。
「ほう、そいつはすごいな。人間の癖に。……おい、それはなんだ」
ヒュンケルは恋人の身体を離すと、うきうきと荷物を取り出した。
「噂には聞いていたのだが。実物を借りてきた」
と、けったいな形状の器具を取り出した。
魔槍の穂先ほどのまるっこい物体に、萎えた革袋が釣り下がっている。
「……なんだそれは」
「まあ、見ていてくれ」
ヒュンケルはすとんと腰を落とし、ラーハルトも引っ張ってしゃがませる。
そして、謎の物体の腹らへんをこつんと押した。
ぶぉん。
「何? 今、風が――」
ヒュンケルが物体を床に滑らせると、小気味よい音を立てながらパンくずが吸い込まれていく。板張りの隙間に入り込んだ小さな埃も一網打尽だ。
「これは」
「な? すごいだろう」
ヒュンケルが得意げに、窓枠を器具で撫でる。昨日ひっくり返した植木鉢の小石が、あっという間に消え去った。
ラーハルトは顎を撫でながら唸る。
「確かに」
「だろ?」
「箒で払うより迅速で、仕上がりもいい。一体なんだ?」
ヒュンケルは重々しく、
「ダイさん」
と言った。
「だいそん?」
とラーハルト。
「ダイサン。ごみを吸い込む魔法の機械だ。我々の小さな勇者にちなんで名づけられたらしい」
「無礼な」
「半年前から街で流行りだして、もうほとんどの家にある。掃除の手間が改善されて、世界中の人間を救っている」
「知らなかった」
さすがに認めざるを得ない。確かに、これは人間の発明だ。偉大と言っても良いかもしれない。
「どういう仕組みなんだ、この……掃除する機械は」
「内部にからくりがあって、風でごみを吸い込むんだ。後ろの袋にたまるから、まとめて捨てればいい。それに……あ」
きゅるるるる、と情けない音を立てて、ダイサンが静止した。
「……」
「……止まったぞ」
「うむ。動力を補給しないと」
「動力は?」
ヒュンケルは澄んだ目でラーハルトを見つめる。
「真空呪文」
ラーハルトは、またこういう展開か、と眉間を押さえる。
「この、器具の背中の紋様のところに魔法を詰め込む」
と、マジックポイントゼロの男がなんとなく手を翳して見せる。
「魔法は得意でないと何度言わせるんだ」
「できないのか……?」
たちまちしょんぼりするヒュンケルに、ラーハルトはいらいらと戸棚に向かった。
古びた手帳を取り出し、ぱらりとめくる。
「かえんじゅもん、契約済み。せんねつじゅもん、未契約、と……真空呪文は」
ヒュンケルが興味津々で覗き込む。
ラーハルトせいちょうきろくてちょう、と表紙に書かれている。
「ラーハルトは本当に愛されていたのだな。子供の頃の契約なんて、覚えていられないから。バランが残してくれていて良かった」
「うるさい。……ああ……真空呪文は記載がない」
「未契約か。早めに契約しよう」
「貴様。他人事だと思って。俺だって大変なんだぞ」
ヒュンケルは、そうか、そうだな、と神妙に考え込む。
「もしダメだったら、俺がどうにかする。動力が切れるたびに、先生に頼んで」
「分かった」
話がややこしくなる前に慌てて頷く。
「明日試してみるから。だが期待するなよ。まったく……貴様のせいで、すっかり放棄したはずの魔法を学び直す羽目になっている」
「お互い、良い修行になるな」
「修行したいのはお前で、俺は関係ないだろうが」
「一緒の方がいい」
朗らかに微笑むヒュンケルの頬は、げっそりこけていた一時期を乗り越え、ようやく人らしい厚みに戻った。淡い薔薇色に染まって輝いている。
思い切り抓ってやりたい衝動をこらえて、ラーハルトは古い手帳をぱんと閉じた。
「仕方ない。挑むとしよう」
「お掃除には代えられん。見ろ、この新品同様の窓辺を」
「分かった分かった」
泣く子も黙る不死騎団長が毎朝オムレツを焦がし、天下の陸戦騎が初歩的な魔法に四苦八苦する姿を、並べて思い浮かべてみる。
なんとも不器用で平和で幸福な絵柄に、ラーハルトはちょっと笑った。