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    8_sukejiro

    @8_sukejiro

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    8_sukejiro

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    私的に泉鏡花の星あかりは、幽霊視点で描かれた作品だと考えています。最後、医学生を見た幽霊の意識は寝ている医学生自身へと視点変更します。それは取り憑いからじゃないかなと。

    青空文庫さんに「星あかり」「幼い頃の記憶」がございますので、そちらを読んでいただけると分かりやすいと思います。又、「かもめの本棚」さんの解釈が私の中でしっくり来たので参考にさせていただきました。是非、両方読んでみてください。

    ##夢小説
    ##文アル夢

    星アカリヲ浄化セヨ星アカリ
    一章
    ――――


    " もとより何故という理はないので、墓石の倒れたのを引摺寄せて、二ツばかり重ねて台にした。
     その上に乗って、雨戸の引合せの上の方を、ガタガタ動かして見たが、開きそうにもない。雨戸の中は、相州西鎌倉乱橋の妙長寺という、法華宗の寺の、本堂に隣った八畳の、横に長い置床の附いた座敷で、向って左手に、葛籠、革鞄などを置いた際に、山科という医学生が、四六の借蚊帳を釣って寝て居るのである。"


    ――――


    カラカラと音を立てたキャリーケースは、ある建物の前で止まった。
    蒲田哲也は、そのビルを上から下まで舐めるように見渡し、満足そうに頷いた。

    「うん、上等だな」

    口元に弧を描き、目を輝かせた。

    研修を終えた新卒一年目。
    大学の寮生活は経験があるが、自分の家を持ち全てを一人で行うという一人暮らしは初めての経験だ。
    学生時代は一軒家が理想だとか、1LDKがいいとかの将来を想像していたが、現実となってみれば社会人一年目ならばこれぐらいが丁度良いのだろうと思った。

    お世辞にも綺麗とは言えない正面玄関を潜り、日が差しこまぬ仄暗い階段を二回ぐるぐるとまわる。
    エレベーターを置く隙間もなさそうな狭いアパートでは、四階までを階段で登らなければならないわけだが、幸いにも蒲田の新居は二階であった。

    初めて自分だけの家を手に入れた。
    その喜びで、外観の汚れなど狭さなどなんとも思わないほどに、蒲田は興奮していた。

    古びた扉に鍵を差し込み、蒲田はその新居に足を踏み入れた。

    ――

    就職をするなら都会だと蒲田は学生時代から決めていた。
    生まれ育った町が嫌いというわけではないが、都会とは到底言えない住宅密集地の故郷には面白味というものがない。

    高校時代、蒲田は思い切って進学先を街中である中区に決めた。広島バスに乗り、広島駅へと。そこから乗り継いで高校へ。
    片道二時間以上もかかる通学は面倒ではあったが、それなりに楽しかった思い出がある。
    楽しかった、というのは友達と青春が出来たからというのも勿論あるのだが、一番の理由は華やかな街中で遊んで帰る事が出来たからというのが大きい。

    高校で初めてできた男友達数人と中区の街中に寄り道して帰った時、蒲田はその胸をときめかせ食い入るように全ての店を見て回った。
    大きなゲームセンター。賑やかで安いレストラン、美味しいデザートやお洒落なカフェ等。到底高校生では通えない高級焼肉店やイタリアンレストラン。地元では何十分もかかるコンビニは、徒歩数分で幾つものコンビニに立ち寄ることも出来た。
    無いものは無いと言えるような、なんでもある商店街に蒲田は惹きつけられた。
    勿論、東京等に比べれば広島の街など都会と呼べないような所ではあるが、地元からあまり出たことがなかった蒲田にとっては中区の賑わいは彼を惹きつけるには十分なものであったのだ。

    新居として選んだ土地は昭和町の川土手の近くだ。街の中心部からは若干離れてはいるが街に劣らず賑わい、数分で行ける距離にコンビニもある。
    アパートの二階にある新居からは、春には土手沿いの桜も見えると紹介された事も決めた理由の一つだ。
    市内電車の音は少々煩いが、ショッピングセンターも近くにあり、なんら不便のない場所である。

    借家ではあるが家を待つというのはそんなに安いものではない。
    近所の駐車場代も含めるとそれなりに高い値段であったが、三回目の給料日が来るまでは両親がお金を払うと言ってくれた。
    その言葉に申し訳なさを感じていたが、長男の「お前が内定もらったことが嬉しいんだよ。頑張って働いて恩返ししてやれば良いさ」という言葉に涙を滲ませ頷いたものだ。
    少しでも親の負担を減らせるようにと、家具付きを探したところに前の持ち主の家具がそのまま置いてある家を見つけた。
    少し気味悪さは感じたが、内見してみれば新居と呼べるほどに綺麗なものだった。
    当たり前の話だが床や壁も張り替えられているし、家具も綺麗に掃除されている。
    木造の本棚は少し古びており建て付けが少し悪いが、普通に使う分には問題なさそうであった。

    ――

    内定をもらった職場での初勤務は怒涛の一日であり、せっかく街中に職場があるというのにも関わらず蒲田は真っ直ぐ帰路につき、何も食べずに眠りについた。
    幸いにも研修期間もあった為、仕事の流れはおおよそ理解できていたが、研修時代とは比べ物にならない程に忙しい一日であった。
    二日目、三日目もそんな日々が続き、ようやく落ち着いたのは何ヶ月も経った後である。
    夜ご飯も作る暇はなくコンビニ弁当、または昼食だけで済ませるという日々が続いていたがやっと蒲田は自炊ができるほどの落ち着きを取り戻した。

    自炊といっても、蒲田の夕飯はいつも野菜炒めである。野菜庫から適当に出した野菜と、冷凍肉を味付けチューブで適当に炒めたもの。
    それを平らげ、皿を洗い、実家よりもうんと狭い風呂に入り眠る。
    学生時代よりは忙しい毎日であるが、日々の仕事にはやりがいも感じてきており、それなりに充実した日々であった。

    ベッドに横になり、スマホのアラームをセットして画面を閉じる。
    疲れた身体は睡眠を欲し、うとうとと睡魔に襲われる。
    最近は夢を見ないな、などと思いながら蒲田の意識は完全に眠りに落ちた。





    それから頬に冷たさを感じ、蒲田は眠りから覚めた。
    ぽつ、ぽつ、と雫が頬に落ちる感覚に、実家の雨漏りを思い出し飛び起きた。
    勢いよく体を起こした蒲田の目の前に飛び込んだのは、よくある軒先の草むらであった。
    一面緑の視界は、何処からどう見てもそれは生の葉である。葉と葉の間に絡みつく蜘蛛の巣が気持ち悪く、蟻が列をなして根本をうねうねと歩いていた。
    自分が転げていたところへと視線を落とせば、そこは土の上。
    頬からぽとりと何かが落ちる感触に、手をそこへ持っていけばザラザラとした土が頬に付いていた。

    混乱する頭でぐるりと周りを見渡した。
    塀に囲まれた場所である。田舎のように古びた印象である。黒い霧が空を漂っている。文字のような形の虫が飛んでいる。
    昔ながらの木造の日本家屋があるところを見れば、誰かの家だろうか。
    家の中からは人の気配がする。明かりも付いている。

    蒲田の呼吸は少しずつ焦燥を孕み速くなっていく。
    太鼓を叩いているかのような心音、たらりと流れる冷や汗に不快感を感じ、顔を顰める。

    「ここは…何処だ…」

    蒲田の呟きは、静寂な夜の空へと消えていった。

    ――

    起きた場所から推測して此処は誰かの家の庭先であろう。と最初、蒲田はそう思っていた。
    しかし、歩き回ってみて初めて此処が寺院の庭先だという事に気が付いた。
    名はおそらく、妙長寺。
    今時珍しく、"寺長妙"と逆に書かれている看板は古き良き日本を表現しているのだろうか。

    その場所には立派な木造の日本家屋があった為に気が付かなかったが、数歩移動してみれば墓石が立ち並ぶ墓地だという事に気がついた。
    これには平常心を保とうとしていた心も簡単に崩れ去り、情けなく悲鳴を上げてしまった。

    虫の鳴き声と蚊の不快なあの音がはっきりと聞こえる程ここは静かであった為、蒲田の情け無い悲鳴も大きく聞こえ、自身の声にまた驚き、羞恥で居た堪れない気持ちになった。

    屋敷に灯りがついているところをみれば、誰かがこの中にいるのは明確であるが、呼びかけても戸を叩いても誰も返事を返さない。それどころか、人の動く気配すら感じられない。

    どうしたものかと唸っていれば、ふと見れば雨戸の引き合わせの上の方に通気口を見つける。
    蒲田の身長よりも高いところにあるそれは、このままでは届かないので罪悪感を感じながらも横倒しに倒れている墓石を二つほど屋敷の前に引きずり寄せた。
    二つを重ねて置いて台にして、その上に乗り、通気口を開けて助けを呼んでみようと試みるが、ガタガタと音を鳴らせるばかりで一向に開く気配がない。

    「すみませーん!!」

    「誰か、返事をしていただけませんかーー!!」

    叫べど叫べど中からの返事は帰って来なかった。

    落胆のため息を吐いた。
    台から降りようと片足に力を入れた時、怒りを含むよく通る声が耳を震わせた。

    「何をしているのですか!!!」

    その大声に驚き、声の方を見れば四人の男が墓地に立っていた。
    此方を不思議そうに見る三人と顔を顰めている一人。

    「墓石の上に立つなんて罰当たりだね?どういう状況下にいるのか、詳しく聞きたいな」

    そう言われて、蒲田は弁解のために手を首を振った。

    「ち、違うんです!!これには事情があって!!」

    「しかも裸足ではないですか。そのまま家に入っては床も汚れてしまいます」

    「鏡花、あの人にも何か事情があるんだよ。まずは話を聞いてあげるのが先だよ」

    「貴方に言われなくても、わかっています」

    「あ、あの…、わっ!」

    話し合う男達に弁解する為に近づこうとした時、蒲田は墓石から足を滑らせた。
    蒲田の目には目を見開いて駆けつけようとする四人の顔が映っていた。
    これが罰が当たったという事かと思うと同時に、地面に頭から落ちる衝撃を覚悟したその瞬間、蒲田の目の前は明かりに染まっていた。

    チュン、チュン、と雀の鳴き声と、市電のカタンコトンという音が耳にはいる。

    「夢…か…」

    蒲田は差し込む朝日に顔を顰めて、スマホを手に取れば時刻は七時十四分。
    遅刻ギリギリの時間に飛び起き、急いで家を出た。
    夢の中で打ちつけた頭と背中が痛む気がした。



    その日の仕事は、とても忙しかった。
    何が、と聞かれれば具体的には言えないが、全体的に仕事の量が多かったように思う。
    時折、頭と背中に痛みが走る時があり、それにより集中力がいつもより欠けていたのも忙しいと思った原因の一つかもしれない。

    あんな夢を見たばかりに、今日は災難だった。

    そう布団の上で呟いたのは、つい先程の事だっただろう。
    なのに、何故今自分は墓地にいるのか?と疑問に思わずにはいられない。

    蒲田はまた、寺院の墓地に一人ぽつんと立っていた。


    ――――
    二章
    ――――


    "――汗になりながら、人家のある処をすり抜けて、ようよう石地蔵の立つ処。
     ほッと息をすると、びょうびょうと、頻に犬の吠えるのが聞えた。
     一つでない、二つでもない。三頭も四頭も一斉に吠え立てるのは、丁ど前途の浜際に、また人家が七八軒、浴場、荒物屋など一廓になって居るそのあたり。彼処を通抜けねばならないと思うと、今度は寒気がした。我ながら、自分を怪むほどであるから、恐ろしく犬を憚ったものである。進まれもせず、引返せば再び石臼だの、松の葉だの、屋根にも廂にも睨まれる、あの、この上もない厭な思をしなければならぬの歟と、それもならず。静と立ってると、天窓がふらふら、おしつけられるような、しめつけられるような、犇々と重いものでおされるような、切ない、堪らない気がして、もはや!横に倒れようかと思った。
     処へ、荷車が一台、前方から押寄せるが如くに動いて、来たのは頬被をした百姓である。"


    ――――


    あれからどれだけ経っただろうか。
    蒲田は未だに夢の中にいる。

    昨日は落ちた拍子に夢から醒めた。ならば今回もと思い、全く同じ方法で積み重ねた墓石の上から落ちてみたが身体を痛めるだけに終わった。

    呼べど叫べど、あかりの灯った寺院からは誰の返事も返ってこず、此処にいても仕方がないと散策を始めた。

    この墓地は藪が近くにあり、蚊の音がうるさく煩わしい。
    あの場でじっとしていれば、今頃は蚊の大群に襲われていたに違いない。

    もっと木立の少ない場所へ向かおうと歩き出したは良いが、どの方向にいっても虫の音は絶えることがなく、纏わりつくかのように周りを飛び回る虫達にうんざりしてしまう。

    蒲田は一つため息を吐いた。
    田舎町というのは虫が多いから好きになれない。
    夏は特に多いのだ。
    足元を飛び回るバッタや蚊、水溜りに群がるボウフラ、あの屋敷のあかりに集る蛾など。一番嫌なのはゴキブリやムカデである。
    あげていくとキリがないほどに虫が居る。
    自然の摂理である。仕方がない。そう言ってしまえば終いだが、それでも煩わしいものはどうしようもない。

    ふと見上げた先に寺の本堂が見え、そこへ向かうために行く当てもなく彷徨っていた足をそちらへ動かす。

    灯りがないところを見れば、留守か寝ているのか。
    屋敷同様に戸を叩き、呼んでみるが返ってくるものは何もなかった。
    肩を落としながら本堂の扉を抜けて少ししたところには、小さな祠があった。
    行きでは気が付かなかったが、祠の前には小さな花壇があり、色とりどりの花が咲き美しく思えた。
    一番最初に目に付いたのは誰もが知る向日葵だ。
    高く咲いた向日葵は他の花を覆い被さるように咲いている。
    その他の花は菊や百合がある。
    花びらを何重にもつけるこれはなんだろうか?と花びらを触りながら眺めていれば、月夜が些か暗くなったように感じ上を見上げる。

    先程まで出ていた星も月も、今はどんよりとした雲に覆われ隠れてしまっている。
    それと同時に、自分の心までもが雲に覆われてしまった気がして、気が滅入ってくる。

    何度目かわからぬため息を蒲田は吐いた。

    ――――――――

    いっその事寺院から出てみるか、と蒲田は寺院の外まで移動した。
    寺院の門の近くには井戸があり、その近くを黄色の沢蟹が群がっていて気味が悪く駆け抜けた。
    その勢いのまま、青田を抜けて、松の木を抜けたところでカラカラと何やら音がするので足を止める。
    少し上がった息を整えながら周りを見回せど、周りには誰もいない。
    声を上げてみるかと考えもしたが、このご時世に下駄を履き、明かりもつけずに歩いて居るなど碌なものではないだろうと考えて道を進む。


    見れば見るほど此処はあの都会とは程遠い景色をしている。
    道を進めば不思議なことに、藁屋の屋敷があるのにも関わらず人の気配が一切しないのだ。
    ただ、ひとつカラカラと下駄の音だけが自分の来た道に鳴り響くばかりである。

    幽霊やホラー等といったものに対しての恐れにより、心音が早くなる。
    波音が微かに聞こえるため、この先には海があるのだろうと考える。
    急いだところで、この先は海辺。だが、蒲田の足は少しずつ速度を上げる。波が聞こえる海辺を目指して、足を一生懸命動かした。
    民家には入る気になれなかった。
    人気はいないが、屋根も土間に置いてある臼も、居酒屋も杉の葉も、全てが蒲田を睨みつけているような感覚に襲われたからだ。
    それは、たしかに人の気配ではない何かである。

    走ったからか、冷や汗なのか、どちらか分からない汗が全身を濡らす。
    民家を走り抜けた先にはお地蔵様があった。

    上がった息を整えていれば、激しく鳴く犬の声が闇夜にこだまする。
    それも一つや二つではない。
    何匹もの犬が暗闇の向こうで、此方を睨みつけ一斉に鳴いている。

    「なんであっちなんだよ…っ」

    蒲田は顔を顰め、一人愚痴る。
    犬が鳴いているのは蒲田が向かおうとしている進行方向である。
    後ろからは下駄の音。その上、来た道を引き返すにはまたあの不気味な視線に当てられなくてはならないのだ。

    前も後ろも進めないこの道で、また新たな音が聞こえて来る。
    現代では殆ど聴くことのない音。
    蒲田がこの音を聞いたのはアニメや映画の中だけだった。

    来た道から聞こえてくるのは荷車を運ぶ音だ。聞きようには、歯ぎしりのような音にも聴こえる。
    ギシギシと木が軋む音が近くなるにつれ、暗闇から火の玉が浮かび上がるように一人の男性が荷車に乗って現れる。

    あぁ、ついに見てしまった。と蒲田は思った。
    全身が冷水をかけられたような感覚に襲われ、堪らず足を後ろへと動かす。
    恐れからか、目が痙攣したようにパチパチと瞬きを繰り返す。
    遠くにいる荷車の音が耳を通り抜ける。
    ゆっくりとだが、確実に徐々に近づいて来ている。

    ぱちぱち
    何回目かの瞬きをした瞬間だった。

    ――…。

    耳元で、声がした。
    恐ろしいほどにはっきりと。

    「ひっ!」

    情けない声をあげて咄嗟に振り返れば、荷車は蒲田をいつの間にか越して、ギシギシと道を進んでいる。ここでようやく分かった事は、ギシギシと音を立てていたのは荷車ではなく、何者かの声という事だ。
    荷車に吊るされた灯籠により、蒲田の影だけゆらゆらと地面に伸びる。
    そう、蒲田の影だけである。
    どこを探しても、荷車の影はどこにも存在しない。
    下手な加工を施したコラ画像のように、その荷車はこの世界から浮いた存在に見えた。
    ふと、その影が二つに分かれた気がした。まるで双子がいるかのように蒲田の影は二人となる。不気味現象に体が震えはじめる。
    その上、複数の足音が自分の後ろから迫ってきているのを聞き取る。

    「ぁ、ぁああ!!」

    恐怖に呑み込まれた蒲田は、進行方向の海辺がある方へと足を滑らせながらも駆け出した。

    「――……!」

    後ろで誰かが蒲田を呼び止める声がした。
    待ってくれ、と言ったのか。待ちなさい、と、言ったのか。
    恐れに呑み込まれた蒲田にはその声すらも恐ろしく感じ、その声は蒲田の足を加速させるには十分であった。
    だが、足をもつれさせた蒲田は無様にも身体を打ち付けて地面へと転がる。

    転げた目線の先には、日本家屋の軒下に犬が寝転がっているのが見えた。
    斑柄の犬がお尻を向けた形で寝ている。
    ピクリとも動かないその犬に恐れをなして身体を起こし、這うように後ずさる。

    途端に「アノ!!」と後ろから肩を掴まれて、情けない声を上げるが、よく見ればそれは人間であった。

    あ…ぁ…。と口をぱくぱくさせて言葉を出そうとするも、動転して上手く声が出せない。
    それを見かねた眼帯の男は、「おっと、ゴメンナサイ。大丈夫デスよ、ゆっくり息を。スッテー、吐イテー」と蒲田の背中をさすった。

    男の手から体温を感じ、この人は人間なのだと再確認した事でやっと息をすることが出来た。
    はっ…はっ…とする息を、深呼吸を数回繰り返して、心を落ち着かせる。
    男の方をよく見てみれば他にも三人おり、その顔ぶれには見覚えがあった。

    先日夢で見た四人組と同じなのだ。

    もみあげの長い男が蒲田の身体を案ずる。

    「大丈夫ですか?酷く怯えていたようでしたが」

    その言葉に蒲田はひどく苛立ちを覚えた。
    大丈夫かだって?そんなわけないだろう!と。
    蒲田は数回首を横に振った。
    乾燥しきっていた喉を唾を飲み込み潤して言葉を放つ。

    「大丈夫じゃ、ないですよ…。貴方達はなんで平気なんですか?貴方達も此処にいるって事は、寝て起きたら此処にいたんですよね?何が起きてるのか、誰か知りませんか?!」

    分からない事が多すぎるこの夢の中で、少しでも答えが欲しくて矢継ぎ早に質問をしてしまう。

    蒲田がそう質問すると四人は顔を見合わせて怪訝な表情をする。
    蒲田の背中をさすっていた男は「…アノ…」と声をかける。

    「ワタシたちは、仕事で此処を調査に来マシタ。だから、ワタシたちはアナタのように突然呼ばれたわけじゃないデス」

    「は?調査だって?!夢の中を?!」

    「ゆめ、の…なか?いや、ここは本の中で…」

    「秋声、そんな事を言っても混乱させるだけですよ」

    きょとんとおうむ返しをする男に、蒲田は自分の馬鹿さ加減を恨んだ。
    この人達を人間だと思い、希望が見えたと縋ろうとした馬鹿な自分を。
    これは夢の中だと分かっていながら、彼らを人間だと勘違いしていたのだ。
    彼らは夢の中の登場人物。
    調査だとか、本の中だとか、夢ならではのおかしな展開に相違ない。

    自嘲する様に笑みを浮かべれば、「へぇ」と新たに声が聞こえて顔を上げる。

    「今どんな気持ちなのか、是非教えてくれないかな。とても気になるんだ」

    楽しそうな笑みを浮かべる男に、蒲田は眉を顰める。夢の中だと分かっていなかったら、ふざけるな!と怒鳴っていたかもしれない。

    「こら!島崎!!」

    「秋声の言いたい事は分かっているよ。けど、こんな稀にない貴重な体験を放っておくのも勿体ないと思うんだ」

    「だからって、君はっ」

    蒲田を挟んで口論を始めた秋声と呼ばれた男と、島崎と呼ばれた男。
    眼帯の男に連れられ、この二人からゆっくりと抜け出して、呆れて頭を抱えているもみあげの長い男に近づいた。
    「あの…」と声をかければ、彼は「申し訳ありませんでした。あの二人が…」とまず蒲田に謝罪をして、自らを"泉 鏡花"だと名乗った。
    そして、蒲田の背中をさすっていた男を"小泉 八雲"だと紹介した。

    「いや…まぁ、夢の中ですし…」

    そう返せば泉は、ふむ…と何やら言いたげな表情をした後、口を開く。

    「寝て起きたらこの場所にいたと仰ってましたね?」

    「あ、はい」

    「以前お会いした時も同じでしたか?」

    「はい」

    彼の質問にはいと答えると、彼はまたふむ…と考え出す。

    「先程逃げて居たのは、どうしてですか?悲鳴をあげて居たようですが」

    「あぁ…あれは、荷車のお化けを見たのと、数人の足音を聴いて怖くなって」

    悲鳴を聞かれていたことに羞恥を感じながらも、そう答える。

    「足音は、恐らく僕達のものでしょうね。貴方を見つけて駆け寄っていたので。ですが、荷車ですか…」

    「見てないんですか?俺のあとを追ってきたのなら、見たんじゃないですか?」

    そう言う蒲田の言葉に、二人は首を横に振った。

    「いいえ。ワタシ達は何も見てないデス。もしかすると、時間差があったのかもしれないデスね」

    蒲田は首を傾げて、「時間差?」と呟いた。

    「可能性はありますね。たしかに僕達は敵の消滅をこの目で確認し、浄化を完了しましたから」

    そう言う泉だが、どこか気になる事があるようで顔は険しいままである。
    蒲田は敵や浄化やらと出てくる単語が何の事か分からずに首を傾げる。
    夢の中だ。訳の分からない事の一つや二つあるものだろうと思いつつ、一番大事なことを質問する。

    「それ、どういう事ですか?つまり、もう安全って事ですか?」

    その問いに、眼帯の男は頷いた。

    「ハイ、その通りデス。もうこの夢に襲われるコトはないと思いマスよ」

    夢の中の言葉であるが、蒲田はその言葉にひどく胸を撫で下ろした。
    よかった。もうあんな恐ろしい思いをする事はないのだと。

    「ですが、万が一という事もあり得ます」

    泉はそう言うと、懐から名刺ケースを取り出すと一枚の名刺を蒲田に渡す。
    大学の社会人マナー教育で習った作法で、両手で名刺を受け取り名刺に目を通す。

    "帝国図書館 ホウザン支部"

    そう書かれた社名の下には、特務司書の山岳という人の名前と、電話番号が書き記されて居た。

    「これは…?」と蒲田は、泉に問い掛ける。

    「もしも、また今回と同じことが起きた場合は此処に連絡してください。僕達、帝国図書館の文豪と特務司書が駆けつけますので。きっと、あなたのお役に立てると思いますよ」

    いよいよ訳の分からなくなってきた蒲田は、首を傾げながら「…はぁ」と頷いた。

    「落ち着いたら、僕にこの時の事を詳しく教えてよ。島崎藤村。僕の名前を伝えてくれれば繋がるから」

    いつの間にか口論を終えた二人が蒲田の後ろに立っていた。
    島崎と名乗る男は名刺を蒲田から取ると、ペンを取り出して裏面に何やら書いていく。
    「はい、どうぞ」と渡された名刺を見れば、そこには四人の名前が書いてあった。

    島崎藤村。泉鏡花。
    小泉八雲。徳田秋声。

    何やら聞いたことのある響きだと思っていたが、この響き、漢字は、文豪の名前ではないだろうか。
    蒲田はそう思って、顔を上げて四人の顔を見つめる。

    「…ふざけてます?」

    そう問い掛ければ、藤村は面白そうに笑みを浮かべ「だよね」と呟いた。
    やはり揶揄われているのかと感じた時、ぐらりと、一瞬視界が揺れる感覚を覚える。

    「そろそろ出ましょう。あまり言霊の世界に長居をするものではありません」

    泉はそう言うと、何もない空間に向かって司書と呼ぶ人に語りかける。「ええ。いまから、彼を出します。……ええ」と話終わると蒲田に向き直り、目を閉じるように言う。
    蒲田は訝しみながらも、目を閉じる。
    そして、肩を軽く指先で押された感覚と共に、アラーム音が耳元で鳴り響いた。


    「うわぁ!!」


    そう声を上げて飛び起きれば、そこは自室であった。
    今度の夢は長かったな、と思いながら時計を見遣れば出勤時刻はとうに過ぎていた。
    手に握る名刺を見て驚愕するが、それどころではないと急いで身支度を済ませ、家を出る。

    不思議な夢だったが、もう見る事はないだろう。
    そう思いつつ蒲田は仕事にとりかかる。


    この時の蒲田は知る由もなかった。
    悪夢は終わっていないということを。


    ――――
    三章
    ――――


    " 時に大浪が、一あて推寄せたのに足を打たれて、気も上ずって蹌踉けかかった。手が、砂地に引上げてある難破船の、纔かにその形を留めて居る、三十石積と見覚えのある、その舷にかかって、五寸釘をヒヤヒヤと掴んで、また身震をした。下駄はさっきから砂地を駆ける内に、いつの間にか脱いでしまって、跣足である。
     何故かは知らぬが、この船にでも乗って助かろうと、片手を舷に添えて、あわただしく擦上ろうとする、足が砂を離れて空にかかり、胸が前屈みになって、がっくり俯向いた目に、船底に銀のような水が溜って居るのを見た。
     思わずあッといって失望した時、轟々轟という波の音。山を覆したように大畝が来たとばかりで、——跣足で一文字に引返したが、吐息もならず——寺の門を入ると、其処まで隙間もなく追縋った、灰汁を覆したような海は、自分の背から放れて去った。"


    ――――


    無我夢中で走りついた浜辺は、夜であるためか黒く見えた。
    押しては引いてを繰り返し、波を泡立たせる。
    この海でさえも自分を恐れ慄かせようとしているのではないかと疑ってしまう。
    まるで遊ばれているようだとぞっとすると共に、腹立たしさも感じ、蒲田は砂浜を強く蹴り上げた。


    何故、自分はまたこの悪夢を見ているのかと嘆かずにはいられない。
    あの日、悪夢の中で出会った小泉八雲を名乗る人物は、確かに、この悪夢をもう見ることはないと言っていたのだ。

    「…嘘つきめ…」

    蒲田の口から弱々しくも、怒りに満ちた声がこぼれ落ちた。
    いや、そもそも夢の中での言葉を信用しきっていたのが間違いなのだろうと思うが、それで怒りや恐怖が治るわけもない。

    はぁ…。と大袈裟なぐらいのため息が漏れる。

    夢の中だというのに現実と変わらず、身体中が痛い。疲労が溜まり、息が苦しい。

    休める場所を探して、波に引き上げられている難破船を見つけて蒲田は手をついた。
    何故だか、わからないがこの船に乗れば助かるのではないかと馬鹿げた考えが頭をよぎる。
    何でも良いから助かりたかったのかもしれない。

    難破船に体重をかけて片足を上げる。
    前屈みになった身体で、疲労によりがっくりと項垂れた。その途端に覚えのない記憶が蘇った。
    まるで古ぼけたフィルムのように映像が脳内に流れる。船の上で座る己に駆け寄る幼子。現代では見たことのないその格好は恐らく明治時代か大正時代かのものだろうか。幼い男児は己に話しかけるが、己は返事をすることはなかった。ただ、生気のない表情で周りを見渡し、彼を見つめ、床へと視線を移した――……。

    はっと正気を取り戻した時、俯いて見た先の船底に自然と目がいった。動悸が止まらない。

    「…あっ」

    船底には不気味な色をした銀のような液体が溜まっていた。
    それが何かは分からない。
    海の水だろうか。目の錯覚であるのか。
    ひとつだけ分かるのは、警笛を鳴らすかのように自身の中に鳴り響く鼓動は、危機感である。途端に船底からギシギシと音が鳴り、女の声がした。
    "逃げなさい"と。

    思わず船から離れ後ずさりした瞬間、ゴウゴウという地響きにも似た波の音に、咄嗟に身体を向ける。
    まるで山を呑み込むかのように、高く大きな黒い水の壁が蒲田に影をつくった。

    畝りあげる波に目を見開いて、蒲田は全速力で駆け出した。
    先程の体の疲れさえも忘れるほどに、犬の声も下駄の音も忘れるほどに、がむしゃらに手足を動かしてきた道を戻った。
    黒い波は民家を飲み込み速度を緩めるが、それでも蒲田を呑み込もうと迫り来る。

    はぁっ、はぁっ!

    息を吸って喉が痛い。肺が痛い。
    裸足で足の裏が痛い。
    夢であるはずなのに身体は悲鳴をあげている。

    躓き、転がり込む形で寺の門に入ると、そこまで迫っていた黒い波は速度を止めて引き返す。
    それに唖然とし、瞬きを一度した時、蒲田の目の前は見慣れた自室であった。
    薄汚れた地面に接していた身体は、ベッドの上にある。

    蒲田は荒い息を繰り返して、呼吸を取り込んだ。
    駆け上る胃の不快感に、痛む足を引きずってトイレへと駆け込んだ。

    ――――
    昨晩見た夢は、初めてのものではない。
    これまでも、何度も悪夢に襲われたのだ。

    あの四人と出会った夢からの数日間は良かったのだ。
    特に夢も見ず、久しぶりにぐっすり寝ることが出来た。
    会社だって遅刻しなかった。


    「最近ね調子悪そうにしてたでしょ?でも、調子戻ったみたいでよかったよ」

    そう言ってくれたのは研修時でもお世話になった先輩だった。

    「私達の仕事は責任が大きいから、体調管理はしっかりね」

    蒲田を責めているものではないだろうが、そう聞こえてしまうその言葉に、蒲田は少し不快感を覚えた。
    自分ではどうする事も出来ないのだと説明したかったが、言ったところで信じてもらえるわけもない。
    それに、もう見ないのであれば気にする必要もないのだ。
    蒲田はそう割り切って、先輩に笑顔で返した。


    そんな普通の日常が続いたあるの日のことである。
    蒲田はまた、次第にあの悪夢を見るようになっていったのだ。

    初めはうつらうつらとする意識の中であの寺院をみただけだった。
    朝起きてもその景色を思い出し、身体を震わせたが気のせいだと頭を振って誤魔化した。
    恐怖が頭にこびりついているだけだ。もうあの夢は見る事はない。
    そう忘れようと努力する蒲田に、無情にもその悪夢は次第に鮮明になっていった。

    そして、そんな夢が続いたある晩のこと。
    蒲田はまたその悪夢の中でぽつんと佇んでいたのだ。
    二ヶ月と少しぶりの夢の中であった。

    その悪夢はまるで恐れをなす蒲田を嘲笑うかのように、以前にも増してその恐怖を強くしていった。


    昨晩のように命の危険がある夢もよく見るようになった。
    次こそは夢に殺されるかもしれないという恐怖に、自身の体を抱え込む。
    夢で死んだからといって死ぬとは限らない。
    だが、あの夢で感じた痛みは本当であった。もしそうなってしまった場合、死の痛みを必ず蒲田は感じる事となるだろう。

    「あのまま津波に呑まれてしまったら…」

    そうなっていたら…どうなっていただろうか、と考えるだけで身体がカタカタと震えてしまう。
    痛いのは嫌だが、ただの夢だ。そう思う気持ちも確かにある。
    だが、蒲田の頭の隅にはこれが"ただの夢ではない"のではないかとも思えてしまうのだ。


    その理由の一つとして、全身に出来た打撲痕だ。
    夢の中で打ちつけた箇所と同じ箇所に痣が残っているのだ。
    そして、もう一つは以前見た夢の内容にある。


    その夢でも蒲田は寺院の屋敷の前にいた。

    なんとかこの夢から出る術はないかと、焦る気持ちで屋敷に助けを求めた。

    それが間違いだったのだ。

    やはり呼びかけに応じない屋敷の主に会おうと、扉を無理にでも開けようとした。
    木製の扉が軋み悲鳴を上げるかのように音が鳴る。
    隙間が見え、あと少しでこじ開けることが出来るだろうといったところで、黒い液体が家の隙間という隙間から漏れ出していることに気が付いた。
    両手にべっとりと付着した液体は、まるでインクのような鼻をつく臭いがしていた。

    その液体は次第に扉の前に溜まりたまると、ぶくぶくと泡を立てて、重力に逆らうように宙に浮かんでいった。
    そして、次第に形を整えたその液体の姿は化け物へと変化していった。

    全身を震わす蒲田は、一歩一歩と後退り、首を横に振った。
    今にでも噛み付かんとするその巨体な化け物は、咆哮をあげると蒲田へと黒い液体を飛ばす。

    悲鳴をあげた蒲田は、屋敷へと続く階段を踏み外し後ろへと倒れた。
    瞬間に、蒲田の視界は、またしても現実へと戻っていたのだ。
    身体は宙に浮いた状態で、足を踏みはずした体勢のまま蒲田は背中からベッドに落下した。
    縁に背中を強打した蒲田は、その勢いのまま床に激しく転げ落ちた。

    夢にしてはおかし過ぎる現象であった。
    そして、何より、蒲田の両手は黒く染まり、着ていた寝巻きさえもあの黒い色で汚れていたのだ。

    蒲田はそれから眠る事に対して恐怖を抱くようになっていった。

    こういった現象から蒲田は、薄らとこれは現実で起きているのではないかと考えるようになっていった。
    馬鹿げた考えだ。そう思い自嘲するが、やはりその考えを拭うことは出来なかった。

    ――――

    日差しが差し込む室内で蒲田は蹲る。
    午前十時五十四分。
    普通であれば、もう仕事を開始している時間だ。
    だが蒲田は会社に行くことさえも出来なくなっていた。

    ふと目に止まる携帯の通知。

    "ちゃんと病院行った?紹介した精神科の先生は優しい人だから安心して行ってみてね。"

    先輩からのメッセージである。
    そう、蒲田が仕事に行けなくなったのは職場から精神を患っていると思われたからだ。

    打撲と睡眠不足により体調を崩すようになった蒲田に先輩は声をかけた。
    「話してみたら楽になるかもよ」と先輩はそう言った。
    本当に彼女なりの優しさだったのかもしれない。楽にしたいと思っての行動だったのかもしれない。
    だが、蒲田の話を聞いた彼女は訝しむように首を傾げた。その瞬間、蒲田は嫌な予感に襲われた。彼女は明らかに信じていない目をしていた。
    その後、上司から呼び出された蒲田は"幻覚を伴う精神異常を患っているのではないか"と疑いをかけられ、治療に専念することを言い渡された。
    患者の死を見送ることのあるこの医師という仕事では、新人が精神を病んでしまうこともあるそうだ。
    だが、蒲田はそうではないと反論をした。全てを話した。夜、家に帰らなければ大丈夫だと言っても聞き入れてはもらえなかった。

    クビにならなかったのは救いである。
    だが、どうしても、先輩に裏切られたという気持ちが拭えずにいた。裏切り者!と何度も何度も家の中で悪態を吐いた。

    通知音と共に再度表示された先輩のメッセージ。
    蒲田は震える指で通知を消した。

    「誰も信じてくれない…」

    蒲田の呟きが日差しが差し込む部屋の中に消えていった。

    自分の夢を誰に話したところで無意味である。
    それは蒲田が良く知っている。
    紹介された精神科の先生も、昔からの友達も親も、誰も信じてなどくれなかった。疲れているのだ、夢を見ていたのだ、そんなに仕事が辛いのなら辞めれば良い、と。
    必死に掴んだ人生を投げ出せと言われた時は、頭を殴られたような衝撃が走ったものだ。親にそう言われたのだから、もう頼る気もなくなった。

    誰も蒲田の言葉を信じなかった。
    無理なのだ、あの光景を見た者でない限り…。

    そう思った時、蒲田の脳裏にあの日の光景が思い出される。
    泉鏡花という夢の住人が渡した名刺だ。
    あの朝起きた時、蒲田は確かにあの名刺を握っていたはずだ。

    バクバクと心臓が鳴り響く。
    恐怖ではない。焦りでもない。
    希望である。

    蒲田は痛む体に鞭を打ち立ち上がる。
    仕事の書類を納めた棚の下側、引き出しにあの名刺を仕舞った筈だ。
    取り付けの悪い引き出しをガタガタを音を鳴らしながら開ければ、小物と共にその名刺はそこにあった。

    それを掴み上げる。
    "帝国図書館 ホウザン支部
     特務司書 山岳△△
     tel. 080- ### - ### "

    裏面には、四人の文豪の名前が書かれていた。

    ――――――

    ぷるるるると受話器の向こうから音が聴こえる。
    蒲田の頭は真っ白になっていた。
    電話をかけたは良いが、どうしたら良いのか分からずにいる。

    なんと説明すればいい?
    何を言えばいい?
    こんな話をしたところで、また精神を患っていると思われるだけではないのか?冷たい声で遇らわれるのではないか?信じてくれなかった者達と同じように、また絶望を味わうことになるのではないか?
    そんな考えがぐるぐると頭の中に渦巻く。

    「はい。帝国図書館ホウザン支部の米笹です」

    明るい女性の声が聴こえ、蒲田は大袈裟なぐらいに肩を震わせた。

    あ、あの…。としどろもどろする蒲田に、受付の女性であろう米笹は「はい」と落ち着いて対応を返す。

    「以前、その…夢の中で……、へ、変な話だと思うかもしれないんですが…、夢の中で、泉鏡花と出会った者ですが…」

    「夢の中…ですか?」

    米笹が首を傾げている姿が想像できる。
    それもそうだろうと考えたとき、徳田秋声という文豪が "本の中" と表現していたことを思いだす。

    「本の中で…」

    そう言葉に出した時、米笹は「ああ!」と声を明るくさせた。
    誰にも理解されないはずの事を言っている自覚があった蒲田は目を見開いた。

    「かしこまりました、少々お待ちください。担当の者へとおつなぎ致します」

    米笹がそう言った後、レトロなメロディが流れ始める。
    話が通ったのだと自覚すると共に、目頭が熱くなるのを感じた。

    そして暫くすると「失礼しました。担当の山岳です」と若い女性の声がした。

    ――――

    山岳は当たり前のように夢の内容を聞き始めた。
    普通の人ならば、おかしい話だと跳ね除けるような内容にも関わらず相槌をうち、時には質疑を行い状況の整理をしていった。

    「では、その現象は夜十時から十一時の間に起きているんですね?」

    「はい、おそらく。僕が寝る時間がそのくらいなので…」

    蒲田は山岳の質問にそう答えた。
    そして、嫌な記憶を思い出しながらも「それに…」と言葉を続ける。

    「何度か寝ずに起きていたことがあるんです。その時も、そのぐらいの時間にはあの場所にいて…。どうやって向かったのかもよく分かってないんですけど、こう…瞬きをした瞬間というか…」

    山岳は「そうですか…」と相槌を打つと、少しの間を置いて「蒲田さん、泉鏡花の本はお持ちでしょうか?」と脈略のない話を問いかける。
    蒲田は一瞬困惑し、え?と声をこぼした。

    「実家や職場などでなく、蒲田さんが住われているそのお部屋に。泉鏡花でなくても構いません。文豪の話が載っている本をお持ちですか?もしくは、星あかりという作品が載った物などは?」

    「え…、い、いいえ。本といえば仕事の参考書や、文献ぐらいで、泉鏡花どころか文豪の本すら持ってませんよ」

    「前に住われてた方のがあるとかは?」

    「いや、それはないと思います。確かに、前の人が使っていた家具などは置いてありますけど、僕が引っ越して来た時には本などは見当たらなかったですよ」

    「天井裏などは確認されましたか?」

    「天井裏?いいえ、確認した事はないですね」

    「わかりました」と返した山岳の後ろ側から、ざわざわと声が聞こえ始める。
    仕事が忙しくなって来たのだろうかと考えた時、山岳は「少しお待ちください」と電話から離れる。
    保留にされていない電話口からは山岳ともう一人、どこか聞き覚えのある声が微かに聞こえる。
    数分間待たされた蒲田は、その声を思い出そうと頭を巡らせる。
    つい最近だったはずだ。この声を聞いたのは。だが、それがいつ何処でだったのかを思い出せない。その顔も名前も。

    「失礼しました」と戻ってきた山岳に蒲田は慌てて返事を返す。
    そんな蒲田を気にせずに、山岳は"蒲田と話がしたいという人物に変わっても良いだろうか"と問いかけた。

    「僕に?」

    「ええ、どうしても謝りたいと」

    「謝る…ですか…?何かの勘違いをされているんじゃ…。そちらに知り合いは居ないはずですが…」

    「いいえ。是非、謝罪をきいてあげてください。本人は懺悔の気持ちで一杯のようですから」

    謝りたいというのはどういう事だろうか?と疑問に思いつつもも、蒲田はそれを了承した。

    わかりました。と答えた蒲田は、次来る人物の言葉に耳を澄ませる。
    何を謝るというのだろうか。
    国が運営する図書館だという事もあり、帝国図書館という名前だけは聞いたことがある。だが、蒲田の記憶にあるのは幼少期に祖母と絵本を借りた記憶ぐらいだ。
    帝国図書館というものを殆ど使った事もなければ、知り合いに関係者もいない。勿論、クライアント関係などということもあり得ない。

    そもそも、謝るというのならあの夢である。人を振り回してるあの夢こそ、頭を下げて謝って欲しいものだ。

    山岳との会話で忘れかけていたあの恐怖心と怒りがじわじわと蘇りだしたところで、透き通るような男の声が受話器から聞こえてきた。

    「ありがとうございます。お時間を作っていただいて…」

    その声、喋り方に蒲田はある人物を思い出した。

    「お久しぶりですね、…蒲田さん。といっても、貴方のお名前を知ったのはつい先程ですが…」

    「泉さん…?」

    「はい。泉…泉 鏡花です」

    声の主は、夢の中で出会い、名刺を渡してくれた泉鏡花であった。

    「何で、泉さんが…」と言ったところで蒲田は、はっと先程山岳が言っていた言葉を思い出した。

    "泉鏡花の本はお持ちでしょうか?"

    「本…、泉 鏡花の本…?」

    その呟きに、泉は「はい」と返事を返す。

    「今から全てをお話しいたします。貴方が潜書した星あかり、私達文豪の事も」

    ―――――

    泉が話したものは、なんとも信じ難い内容であった。
    蒲田が見たあの夢は、泉鏡花が生み出した小説"星あかり"の内容だったのだ。
    驚くことに、透き通る声で読み聞かせてくれた星あかりの内容は、蒲田が体験した事と殆ど一緒であった。

    そして、その小説が暴走したきっかけは侵食者なる者のせいだという。文豪が作り出した文学からマイナスエネルギーというものが生み出され、それらが意志を持ち形を得たのが侵食者であり、文字を破壊し文学を消してしまう存在。
    俄には信じられない話であったが、泉が話した侵食者の見た目と行動、蒲田が体験した事、そしてあの日見た墨汁を垂らすバケモノの特徴はあまりにも似ていた。

    「貴方には謝らなくてはなりません…」

    明らかに気を落としている泉に蒲田は気にしないでくださいと伝えるが、それでも泉は謝罪の言葉を口にした。

    「悪いのは侵食者とかいう奴等でしょう。泉さんのせいじゃないです。浄化…というものがどんな事をするのか僕には分かりませんが、浄化出来なかったのはそれだけ侵食が強かったて事でしょう?」

    「…いいえ。あの時、私は見落としていたんです。もう一つの可能性を頭の隅で感じていながらも、低い確率だと切り捨てて…」

    「…というと?」

    「貴方と出会った時、私達はこの帝国図書館内にある星あかりの浄化をしていました。先程も説明したように一般的に侵食とは、対象の本全てが侵食されるのです。星あかりが掲載されている複数の本が同時に侵食されたことから、今回もいつものように"この本"を浄化すれば解決すると思っていました」

    泉は小さくため息を吐いて「ですが、そうではなかった」と声をおとす。

    「稀に現れるんです。ある一つの本だけが侵食されるというケースが」

    「それが、僕の家にある本だと?」

    「ええ。あの時、蒲田さんは仰いましたね。荷車を見て音を聞いたと」

    「はい。たしか…小泉さんは時間差だろうって」

    「ええ。その時はその可能性が高いと私も思っていました。あの時、私達は浄化を終えた直後だったのでそう考えるのが妥当だと思いました。ですが、あの時に気が付いていれば…もう少し調査を進めていれば、こんなに蒲田さんを苦しませる事もなかったでしょう。おかしいと感じていたのに…星あかりの荷車には音が存在しないんです。侵食者の可能性があったというのに…っ」

    懺悔のように言葉を続ける泉に、蒲田は何と言っていいのか分からなかった。
    辛い経験をしたのは事実であるし、そうやって言われると彼らが悪くないとも言えないと思えたからだ。

    だけど…と、蒲田は口を閉ざしたまま、名刺の裏を眺めた。四人の文豪の名前が書かれている。
    万年筆で書かれた線は細く、現代ではあまり見られない達筆ともいえるような畝る字体。
    思えば、希望を感じた時はいつも彼らがいたように思う。最初に出会った時もそうである、声をかけられて、心細かった蒲田は安堵した。次に出会った時も、もう大丈夫だと言われ心の底から安堵した。
    そして、現在も。

    「確かに…あの時、救ってくれてたら…僕はこんなに苦しまずに済んだかもしれません。でも、僕が今、こうして助けを求めれているのは、泉さんのおかげなんです。この名刺をくれたおかげです」

    ですから…。と蒲田は弱々しく声を震わせる。

    「もしも、懺悔をしたいというのであるのなら…僕を、救ってください。本の中で僕に希望を持たせてくれた時のように、僕を起き上がらせてくれた時のように…!お願いします…!」

    身体を丸め、額を床につける。
    懇願するようなその体制で、くぐもった声で蒲田は助かることを願った。
    蒲田にとって、この名刺を差し出してくれた泉鏡花という存在は、希望の光なのだ。

    泉の息を呑む声を耳にする。
    強い決意を固めたような、力強い声で泉は宣言した。必ず、救ってみせると。


    ――――
    四章
    ――――


    " 引き息で飛着いた、本堂の戸を、力まかせにがたひしと開ける、屋根の上で、ガラガラという響、瓦が残らず飛上って、舞立って、乱合って、打破れた音がしたので、はッと思うと、目が眩んで、耳が聞えなくなった。が、うッかりした、疲れ果てた、倒れそうな自分の体は、……夢中で、色の褪せた、天井の低い、皺だらけな蚊帳の片隅を掴んで、暗くなった灯の影に、透かして蚊帳の裡を覗いた。"


    ――――


    「今からホウザン町をたつので、其方に着くのは午後七時を過ぎると思います。ですので、蒲田さんには屋根裏、棚の後ろなどの確認してない場所を探してください。本を見つければ、私達は侵食者に勝つ事ができます」

    電話の最後に山岳にそう言われ、蒲田はその言葉に従い家中をくまなく探した。
    痛む体に鞭を打ち、自身を苦しめる侵食者とやらに打ち勝つために。

    しかし、上も下もどこを探しても本は出てこなかった。

    七時半を少し過ぎた頃、インターホンが鳴った事に気がついて蒲田は玄関へ向かった。
    無理に動かした身体は疲労を蓄積していき、息が上がる。

    ぜぇはぁと息をしながら扉を開ければ、そこには可愛らしい顔立ちの二十代前半の女性が一人。髪を二つに結い、崩した三つ編みのようにしている。新緑を思い出させる綺麗な緑色の瞳は、桃色の髪と合わさって可愛らしさを引き立てていた。
    その後ろには、外人顔で眼帯をつけた白髪の男性が一人。そのハンサムな外人顔の男性は見覚えがあり、夢で出会った小泉八雲だと分かった。

    深緑のスーツに、パステルカラーのカバンを肩にかけた彼女は、蒲田と目が合うと小さく頭を下げた。

    「はじめまして、蒲田さん。帝国図書館、特務司書の山岳です」

    可愛らしい女性だと見惚れる蒲田に、薄く笑みをのせた山岳は手を差し出した。それに少し遅れて反応した蒲田は、慌てて彼女の手を取る。

    「こ、こちらこそ、お願いします」

    この人が電話で話した特務司書なのかと実感すると共に、気恥ずかしくも思い微かに頬を染めた。
    彼女の後ろに立つ小泉とも挨拶を交わした時、蒲田は彼女達が二人でしか来ていない事に気が付いた。

    「あれ…?泉さんは…?」

    そう山岳に聞けば、山岳はこくりと頷き「大丈夫です、彼も来ていますから」と答えた。
    その返答に疑問に持ちながらも、「上がっても?」と問う彼女を家に招き入れた。

    家に入ると彼女はまず、蒲田に謝罪を述べた。その内容は侵食者による影響で蒲田を苦しめてしまったと言う事。そして次に、蒲田が協力の意を見せたことへの感謝の言葉。
    電話口で山岳は蒲田に協力して欲しいと言った。この侵食は蒲田とこの部屋に執着をしている為、蒲田の協力が必要なのだと。蒲田はそれを受け入れたことで、部屋に招いたのだ。

    話が終わると、山岳はおもむろに鞄から三つの本を取り出して、床に並べる。
    泉鏡花の"鏡花全集"
    徳田秋声の"あらくれ"
    島崎藤村の"破戒"
    どれも、文豪の本である。

    「蒲田さん、本は見つかりましたか?」

    山岳の質問に蒲田は首を横に振る。

    「いえ…どこにもなくて…」

    「そうですか…。ですが、この家のどこかに必ずあるはずです」

    山岳は部屋を見回しながら言葉を続ける。

    「もう一人の特務司書と上の階や隣の部屋、近隣住民に電話で聞き込みをして見ましたが、誰も蒲田さんと同じ現象にあった人はいないんです。そして、大家さんにも電話して聞いてみましたが、やはり蒲田さんが引っ越される二件前も同じ事を言って出て行った方がいると言われていました」

    「じゃあ、この現象を見てるのはここに住む僕だけ…ですか?」

    「ええ」

    「二件前ってことは、僕の前に住んでいた人は被害に遭ってなかったんですか?」

    「そのようです。以前住まれてた方はバンドマンで、就職を機に引っ越されたそうです。蒲田さんが体験したような事で相談を受けていなかったと。やつれた様子もなく、最後まで元気だったと聞いています」

    「二件前と僕に、なんの関係が…」

    トントンと壁をノックしながら小泉八雲は「二件前の殿方は、ドクターだったそうデスヨ」と答える。

    「正確には研修医ですが」

    それに蒲田は驚いた。

    「研修医?あ…」

    蒲田はそう呟いた後、泉が聞かせてくれた本の内容を思い出す。

    "山科という医学生が、四六の借蚊帳を釣って"

    「医療に関係している…ぼ、僕も同じ医療系…医師です。じ、じゃあ、医療に携わる人だけがこの本に取り込まれているってことですか?!」

    「ええ、おそらくは」

    トントンと小泉八雲により硬い音をたててた音は、コンコンと音を変えた。空洞があるような響くような音。
    それに気がついた二人は小泉を見る。

    小泉が叩いた場所は、本棚の一番下。土台となる物入れも何もない場所。
    50センチ平方の木の板で覆われた場所である。

    小泉は山岳と目を合わすと一つ頷く。
    そして、蒲田へと視線を移すと「ココを開けても?こじ開けるようになるかもしれマセンが…」と問いかける。
    管理人には許可をもらっているとのことだったので、それなら断る理由はないと蒲田はそれを了承し、小さめの工具箱からバールを取り出して彼に渡した。
    小泉はそれを隙間に差し込むと、激しい音をたてながら木を剥がして行く。
    完全に取り除かれたそこからは、埃だらけの一冊の古びた本が姿を現した。

    虫に食われたのか、カビか汚れか、真っ黒に染まり読む事が難しくなったその本をみて特務司書と小泉八雲は「当たりですね」と呟いた。

    「当たり…?」

    首を傾げてそう問えば、山岳はその本の表紙を見せる。

    "泉鏡花"と微かに見える作者名。題名は黒くなって見えなかった。

    「これが、蒲田さんを悩ませる侵食された本…有碍書です」

    ――――

    真っ黒に染まりかけている本の中身をみて、小泉は眉を顰める。

    「随分と侵食されてマス」

    「ですが、間に合いました。侵食され尽くす前に見つけられて良かったですね」

    山岳の言葉に小泉はハイと頷いた。

    山岳は、鞄から宝石のように輝く石を取り出した。

    「蒲田さんの証言通りでなら、侵食まであと1時間もありません。準備を始めましょう」

    そう言われ、蒲田が時計をみてみれば、二十一時を過ぎていた。
    今までの事を思い出して、蒲田は震える手をぎゅっと握る。上昇する心拍数と共に、握り拳が冷や汗に滲むのを感じて嫌悪感を覚える。
    また来るのか…あの悪夢が。と陰鬱と思わずにはいられなかった。

    うつむき目線を下げた時、蒲田の視界には山岳が蹲り何かをしているのが目に入った。
    先程取り出した石を本の上に置いていっている。

    「それは…?」

    首を傾げ問いかけた蒲田に、山岳は「召装石です」と答え立ち上がった。

    「此処は図書館の外ですからね。彼らにはこの部屋から潜書を行ってもらうんです。まぁ、簡単に説明すると、この石はこの世界に呼び出すためのものですよ。あ、文豪である八雲さんも持ってますよ」

    ほら。と指をさした方へ視線を向けると、小泉さんは鞄を持ち上げて「ハイ!これデスネ!」と楽しそうに笑った。
    鞄には先程の石が嵌め込まれていた。

    「この鞄と石があれば、ワタシ達文豪は図書館の外に出られるんデスよ。とても素晴らしいものデスね」

    「小泉さん達は、普段は出れないんですか?」

    「ハイ。ザンネンながら。アルケミストの力に頼らなくてはワタシ達は姿を保てマセンから」

    よく分からず、へぇ…と曖昧に返事をし、その鞄をよく見せてもらえば、中には本が入っていた。
    著者は小泉八雲。
    自身の本を持ち歩いているんですね…と呟くと、小泉はウウン…と苦笑した。

    しかし、蒲田にはあまり理解できていなかった。
    小泉の話も然り、呼び出すとはどういう事だろうか?

    そう聞こうと口を開いた時、山岳は持っていた有碍書なるものをぱらぱらと開いた。そこにあった本の中身、真っ黒の何か…崩れた文体が、激しく蠢いていた。まるで生き物のように蠢くそれに、蒲田はひっ!と悲鳴をあげる。

    「おっと。ワタシたちが来たことに、侵食者はタイソウ、御立腹のごようすデスね」

    小泉の言葉遣いを変に思いながら、「ご、御立腹?怒ってるんですか?なんで?」と質問すれば、小泉は「私達は侵食者の天敵デスので」とにこりと笑う。

    その時、ピピッと山岳のスマートウォッチが鳴った。
    時刻は、午後十時。

    「来ますよ、蒲田さん。私たちアルケミストの考えが正しければ…この部屋が、侵食にのまれる…」

    山岳がそう言った次の瞬間、ゴウゴウと地鳴りが響き渡り、本からは墨汁が垂れ落ちる。
    床についたその墨汁はみるみるうちに床を覆い尽くし、壁を伝い天井へとのぼる。
    その墨汁の一つ一つは、文字であった。なんと書いているか文体が壊れたそれは読めないが確かにそれは
    " の 寺 っ 居 漫 歩 う を よ て
     科 妙 と 轟 々 こ 違 灰 ツ 戸 "
    というように文字で形成されている。

    一瞬にして部屋が墨汁により真っ黒に染まった。
    瞠目した蒲田がパチリと瞬きを一回した時、世界は夜へと変わる。波音が聞こえる。潮の香りが鼻を通る。
    まるで瞬間移動したかのように、その場所は夜の浜辺となった。

    はぁ…っ。と緊張が解けた吐息が蒲田の耳に聞こえた。まさか本当に入れるなんて…と呟く山岳の声も耳にする。

    しかし、蒲田の緊張はまだ解けていなかった。それどころか、彼の緊張は増していた。
    太鼓が鳴り響くように胸をうち、顎を伝い冷や汗が砂浜に落ちる。

    そう、此処は、蒲田が大きな津波に襲われた場所…命の危機を感じ、死に物狂いで走り逃げた場所である。

    ――

    「こ、ここから…」

    「え?」

    「此処からっ!にげ、逃げないと!!!」

    蒲田は山岳の手を取り浜辺から逃げようと足をすすめる。だが、山岳は取り乱した蒲田を落ち着かせようと手を離そうと試みた。
    押し問答のようになった二人は、山岳がバランスを崩した事で終わりをむかえる。
    バランスを崩し、転げそうになった山岳を小泉が受け止めた。

    「蒲田サン」

    小泉の低い声色に肩を震わせた蒲田は、荒い息のまま言葉を放つ。
    自分が体験した恐ろしいおもいを彼らに味合わせたくなかった。自分は無力であるから、もしも津波が襲って来た時に彼らを護る事ができないのが恐ろしかった。人の命を守る自分が人を死なせたりなどしたら、それこそ一生立ち直れる気がしない。

    「此処にいると津波が来るんですよ!小泉さん、山岳さん!早く逃げないと、波に飲まれて死、っ!」

    死んでしまう!と叫ぶように続けられるはずだった言葉は、八雲が手を握った事で止まった。
    大声を出した事で息が上がった蒲田は、真っ白になった頭のまま、どうすれば良いのか、どうすれば助けれるのかとぐらぐら脳内をかき回す。

    常軌を逸した蒲田の表情に、彼がパニック状態に陥っていると山岳はわかった。山岳は立ち上がり、八雲と同じように優しく彼の肩に触れた。
    それは、助手である八雲が、怖がりの山岳を励ます時に良くやってくれる行動だった。

    「大丈夫…大丈夫ですよ、蒲田さん。私達が付いています」

    囁きかけるように、八雲を真似るように山岳は言った。

    「蒲田さん、よく聞いてください」

    山岳は蒲田の肩を掴んで、目を合わせる。
    少しずつ落ち着きを取り戻した蒲田は、…でも…と反論するが、山岳の力強い目線、頷きによりその口をつぐむ。

    「蒲田さんが体験した津波、あれは星あかりの小説に登場するワンシーンです。難破船に乗り込み休もうとした主人公が、水が入っている事に落胆し、それに追い討ちをかけるように津波が襲う。それが星あかりの話です。身に覚えはありませんか?蒲田さんが以前体験した津波は、その行動をとった後だったんじゃないですか?」

    その問いに蒲田は記憶を巡らせ「あ…」と呟いた。

    確かにそうだった。蓄積された疲労感に耐えられず、少し休むため難破船に腰掛けようとした。その時にみた銀色の液体。あれを観た後だった。全身に悪寒がはしり、危機感を覚え、無我夢中で走った。

    蒲田はぎこちなく何度も頷いた。

    「そ、そう…です」

    「つまり、ストーリーに沿った行動を取らなければ物語は進まないんです。私達が此処にいるだけで津波が襲ってくる、なんてことは起きませんよ」

    そうなのか…と蒲田は唖然とした。そして、そうだと思ってしまえば、次第に脳内がはっきりとしてくる。危険はないのだ、いま此処には。

    蒲田の口から安堵の息がこぼれ落ち、それに続いて「では、これから何処へ?」と二人へ問いかけた。
    しかし、帰ってきた声は二人からではなく、蒲田の後ろからだった。


    「"……一目見ると、それは自分であったので、天窓から氷を浴びたように筋がしまった"」


    それは、星あかりの文章。
    その透き通る声に蒲田は振り返る。星あかりを説明するのは、作者本人である泉鏡花だった。
    彼は長い髪を靡かせながら、藁屋の屋敷方面から此方へと歩き続ける。

    「"ひたと冷い汗になって、眼をみひらき、殺されるのであろうと思いながら、すかして蚊帳の外を見たが、墓原をさまよって、乱橋から由井ヶ浜をうろついて死にそうになって帰って来た自分の姿は、立って、蚊帳に縋っては居なかった" ……これが、結末です。星あかりの結末は本堂が舞台ですので、向かうならば本堂でしょうね。そこに行けば、話は終わり、問題も解決されるはずです」

    「泉さん…」と呟いた蒲田に、泉は微笑みを浮かべる。

    「先程電話ではお話ししましたが、こうしてお会いするのは久しぶりですね」

    彼の後ろから、以前出会った二人も顔を覗かせた。
    島崎藤村、徳田秋声である。

    「また会ったね。取材を…と言いたいところだけれど、それどころでもなさそうだね」

    「全く君は…当たり前だよ。今は侵食者を倒して、この本を浄化することが最優先事項なんだから」

    島崎は「また先延ばしか…」と軽くため息を吐いた。だが、すぐにへの字に曲がった口角は微笑へと変わる。
    蒲田の目を見つめて「久しぶりだね」と挨拶をして、徳田もそれに続いて挨拶を交わした。


    「やっぱり、敵は僕たちを本堂へ行かせたくないみたいだよ」

    徳田はそう言うと、藁屋の屋敷方面を指をさした。

    その道はよく覚えている。津波から逃げる際に走り抜けたからだ。
    藁屋の屋敷が並ぶその道は、本堂へと続く道なのだ。

    「あっちに進もうとしたら侵食者が現れたんだ。もちろん、出てきた敵は全て倒したよ」

    「前回と同じなら、本堂に近づくに連れて敵も強さを増していくだろうね」

    山岳は頷いた。

    「蒲田さんの証言からすると、侵食者は…泉さん達が浄化し終えた後から行動を激化させたと言います。それは恐らく、侵食者は別の侵食者によって抑えられていたと考えられる…というのが私達アルケミストの考えです」

    「姿を隠してたってわけだね。どうりで何も分からなかったはずだよ」

    「はい。私達が此処に来たことで、この侵食者はまた自由を失うことに焦燥し、怒り抱いているはず。ですから、前回の戦い以上に敵は強さを増してるはずです」

    山岳の言葉に小泉は数回頷き「油断大敵デスネ!」と元気に言い放つ。

    「ええ、もちろん。分かってますとも」

    泉は一度、蒲田に視線をやる。二人の視線が絡み、泉は微笑して一度頷いた。約束を果たすというように。

    そして、その瞳は鋭さを持ち通路の先、本堂へと向いた。視線の先にはいつの間にか現れた侵食者達の姿がそこにあった。

    「さて。多少手荒くとも、片付けましょう」


    ――――
    五章
    ――――


    "医学生は肌脱で、うつむけに寝て、踏返した夜具の上へ、両足を投懸けて眠って居る。
     ト枕を並べ、仰向になり、胸の上に片手を力なく、片手を投出し、足をのばして、口を結んだ顔は、灯の片影になって、一人すやすやと寝て居るのを、……一目見ると、それは自分であったので、天窓から氷を浴びたように筋がしまった。
     ひたと冷い汗になって、眼をみひらき、殺されるのであろうと思いながら、すかして蚊帳の外を見たが、墓原をさまよって、乱橋から由井ヶ浜をうろついて死にそうになって帰って来た自分の姿は、立って、蚊帳に縋っては居なかった。"


    ――――


    蒲田は荒物屋とその軒下にいる斑柄の犬の後ろ姿を見た後、また視線を前方にうつした。
    本堂につながる道のある一点。そこは、先程侵食者なるものが現れ、倒された場所だった。
    文豪の彼らは、自らの本を武器へと変形させ、あの侵食者という敵と戦った。
    どういう原理なのかは分からないが、光を放ち一瞬にして姿を変えた事に蒲田は驚きを隠せなかった。本が武器になるなんて思っても見なかったのだ。この本の中の世界というのは、不思議なことばかりである。



    徳田の言う通り、本堂に続く道を進むたびに敵は現れた。
    インク入れの妖怪のようなのから、人の形を模したものまで様々な姿をした敵が出現する。

    だが、どれも以前に蒲田が見た化け物とは違っていた。まず、大きさからして違うのだ。此処に現れる敵は、人より小さいか、少し大きいかだ。
    蒲田が見た敵は、蒲田よりも遥かに大きく、そして見たことのない程に禍々しい気を漂わせていた。

    「やっぱり、あいつがボスなのかな…」

    考えていたことが無意識に口を伝い落ちた。
    「あいつ…?」と、蒲田の言葉を拾い上げたのは泉鏡花であった。

    泉はサーベルのような剣を本へと形を戻して、蒲田に問いかけた。

    「あいつとは、誰のことでしょうか?」

    「えっ、あぁ…。前に、本堂で化け物に襲われたって話したの覚えてますか?あれの事です。無理矢理開けようとしたから、怒ったのか…襲われちゃって」

    そう返すと泉は、ううん…と顎に手をやり、「怒った…とは少し違うでしょうね」と呟いた。

    「ええ。敵は蒲田さんが本堂に入るのを阻止したかったんでしょう。蒲田さんが本堂に入れば、話が終わってしまうから」

    「どうして、僕が本堂に入ると話が終わるんですか?」

    司書に蒲田がそう問えば、蒲田の横に立った島崎は「分からないの?」と言って、言葉を続ける。

    「君はこの本の流れに沿って行動してきた。墓石を二つ重ねて台を作り、薄気味悪いススキの道を震えながら歩いて海へと向かった。そこで津波に襲われ本堂へと走り逃げた。ここまで、君は物語通りに行動をしているんだ。つまり、今の君はこの"星あかり"の主人公というわけさ」

    蒲田は「えっ?!」と目を大きく開ける。

    「ぼ、僕が主人公?!」

    「そうだよ。それ以外に何があるっていうのさ」

    たしか、この現象を終わらせるには物語を完結させないといけないと泉は言っていなかったか?つまり、それは…。

    「…僕が本堂に入らないと…侵食は…」

    「そう、終わらないよ。君が、この物語を完結させない限りね」

    たしかに、あの電話口で"この現象を解決させる為には、蒲田さんの協力が必要"だと山岳入っていた。協力をしてほしいと頼まれ、解決するならと了承したが…まさか協力というのがこんな危険なことだとは思っても見なかった。
    あの化け物とまた対峙しなければならない。その上、あの化け物の先にある部屋に入り、物語を終わらせなければ、この現象は解決しないという。
    蒲田は深くため息をついた。不安で唇が微かに震える。

    「蒲田さん」

    蒲田はソプラノ声に呼ばれて、慌てて振り返った。
    山岳は眉を下げていた。

    「すみません…。私達だけで解決出来れば良かったんですけど…。恐らくこの本は、蒲田さんの部屋と蒲田さん自身にかなり執着していると思います。解決するには、蒲田さんに手伝っていただくのが一番良いと思ったんです」

    そういうともう一度「詳しく説明せず騙すような形になってしまい、すみません」と頭を下げて謝った。
    蒲田は苦笑して「い、いえ…」と苦し紛れに返すが、内心は憂鬱な気分である。

    「でも、どうして電話で教えてくれなかったんですか?」

    「それは……」

    「それはワタシが、そうした方が良いと言いマシタ」

    「小泉さんが?」

    「ハイ。誰しも怖いと思えば足がすくみ、一歩を踏み出せなくなるものデス。デモ、土壇場で怖いと思えば突き進むしか道はないでショウ?」

    なるほど、と思わず蒲田は納得した。自身がこれまで経験した怖い思いを振り返って、もしも"あの化け物と対峙してほしい"と頼まれれば、自分は断っていたかもしれないと思ったからだ。
    あの巨体から墨汁を垂れ流し、鼻をつくインクの臭い、耳をつん裂くような咆哮。あれを今思い出しただけで震えるほどである。
    それに、小泉の言うようにここまで来て仕舞えば、あとは突き進むしかないのだ。
    それ以外に帰る道もないのだから。

    でも…と蒲田は視線を下げた。
    星の隠れた薄暗い闇の道は、目を凝らさなければ足元に闇が渦巻いているかのようである。それはまるで、今の蒲田の不安を映し出しているようでもあった。

    「…僕に、出来るでしょうか…」

    ここまで来れば突き進むしかない。それは分かっている。分かっているが、どうにも自分がその敵と真っ向から向き合う事ができるとは思えなかった。
    蒲田は以前、この道で犬の鳴き声に恐れ、荷車、足音に怯え腰を抜かした人間だ。
    いざという時、自身の足がすくんでしまうのではないかと不安で仕方ないのだ。

    「問題ありませんよ」

    「泉…さん」

    「敵は全て私達がお相手しますので。なに、貴方はただ本堂の部屋に入ることだけを考えればいいのです。主人公である貴方が部屋に入ること、それが話を結末へと導く鍵となるのですから」

    徳田は「うん、そうだよ」一度頷いた。

    「不本意だけど、鏡花の言う通りさ。侵食者を倒すために僕達は来たんだ。侵食者は僕達文豪と、アルケミストが。話の結末は蒲田さん、君が」

    「……はい…」

    蒲田は力無くそう返した。



    侵食者は現れるが、この世界は何もしてなこない。
    あの日々が嘘のように、下駄の音も家々からの視線も無かった。

    そして、ついに蒲田達は本堂の前へとやってきた。
    初めて見た時と全く同じ景色である。窓に灯りはともり、人の気配はするが声はしない。虫は煩わしく、足元の蟻、草木に張られた蜘蛛の巣は気持ちが悪い。
    違うところあげるならば、夜空の星あかりは消え、蒲田の周りには文豪とアルケミストがいると言うことだ。

    生唾を飲み込み、蒲田はその引戸へと手をかけた。


    ――

    蒲田哲也は、本堂の戸へと手をかけた。
    その瞬間、嫌な気配が全身を駆け抜ける。
    戸からは禍々しい気と共に真っ黒の墨汁が扉から溢れ出した。

    声にならない悲鳴をあげる蒲田を逃すまいと捕まえるように、その墨汁は蒲田へと覆いかぶさる。
    星あかりも、屋敷の灯りも遮った墨汁は、まるで壁のように蒲田へと立ち塞がった。

    みるみるうちにその液体は形を変えて、獰猛な巨体の野犬へと姿を変わる。

    咆哮。耳をつんざくような鳴き声と共に、むせかえるようなインクの臭いが蒲田を襲う。
    飛び散る墨汁から自身を守るように蒲田は顔の前に腕を持っていった。目を瞑っていなければインクが目に入りそうだと思うほどである。

    しかし、その咆哮は悲鳴にも似た鳴き声に変わり、ピタリと止まる。

    「山中に迷い込んだ青年を襲うのが趣味ですか?……汚らわしい」

    怒りを含んだ泉鏡花の声に、蒲田はハッと目を開いた。
    目の前の野犬の首には刃の付いた鞭が巻きついていた。これは、たしか小泉八雲の武器である。

    蒲田がそちらへ目を向ければ、小泉は口角をニッと上げ「お控えなすって!!」と勢いよく後ろへ引いた。
    その瞬間、巨体であるにも関わらずその野犬は文豪達の方へと転がり落ちた。

    「……みなさん」

    蒲田は目を見開いて彼らを見つめた。
    泉は視線を上げ、蒲田を見つめると一つ頷いた。

    「救うと約束したでしょう」

    蒲田はぐっと唇を噛んだ。それは、蒲田と泉が電話でした約束だった。

    「はやく!君は部屋の中へ!」

    徳田のその声に蒲田は力強く頷き、本堂へと手をかける。
    そうはさせないと野犬は蒲田へと振り向くが、その一歩を踏み出す前に数本の矢が野犬の目前を射抜いた。島崎と徳田である。

    「行かせるわけないでしょ」

    島崎藤村はもう一度弓を引き、野犬へと照準を合わせた。

    「星あかりの取材は、もう終わったんだよ。次は侵食に巻き込まれた一般人…蒲田哲也、彼の取材が待ってる」

    「忙しいんだ、邪魔しないでくれるかな」と、引かれた弓が野犬の身体を射抜き、野犬は甲高い鳴き声をあげた。それに追い討ちをかけるように、泉の剣が振るわれた。

    ――

    蒲田は飛びつくように戸へと手をかけた。
    まるでお前は立ち入ってはならないというかのように、戸は開くのを拒む。だが、蒲田は歯を食いしばり、残りの体力を全て使い切る勢いで、体に力を入れた。

    固く閉ざされた戸を悪態を吐きながらも力任せに開け放った。
    めしめしと家屋の軋む音と、屋根の上で何かが壊れる音がして、瓦のぶつかり合う音が耳をつん裂く。
    砂埃が舞い立ち肩や髪を汚すのも気に留めず、蒲田はその室内に駆け込んだ。

    ぜぇはぁ…と息があがる。
    目が眩み、辛うじて動く身体で摺り足で進む。
    気がつけば、蒲田の耳は聞こえなくなっていた。
    摺り足をしている足裏の感触はあれど、耳にはなにも音が聞こえない。文豪の声もパタリと聴こえなくなっていた。

    目がかすむ。
    疲労が蓄積され、食事も睡眠もまともに取れていなかった蒲田の身体は疲れ果てていた。
    うっかりして、身体が前によろめく。
    倒れそうになった自分を支える為に、咄嗟に伸ばした手は蚊帳をつかんだ。

    その時、蒲田は目を見開いた。泉が教えてくれた星あかりの内容と全く同じであったからだ。

    「……疲れ果て倒れそうな自分の体は…、……夢中で、色の褪せた、天井の低い、皺だらけな蚊帳の片隅を掴んだ…」

    話を思い出しつつ、蒲田は呟いた。

    ここまでは話の通りに進んでいる。自分でそうやったわけではないが、この世界が、侵食が、身体が自然とそう動いている。
    まるで物語の強制力に操られているかのように。

    次はどうだっただろうか。何が起きたんだっただろうか…。
    蒲田は目を閉じて、泉の語りを思い出す。
    歪む視界を閉じれば、聴こえなくなった耳のおかげで、世界にあるのは無であった。
    その真っ黒で静寂な世界に一つ、透き通るようなあの声が流れる。
    蒲田はそれと合わせるように、口を動かした。

    「……暗くなった灯の影に、…透かして蚊帳の裡を覗いた」

    そうだ。覗いたんだ、この蚊帳を。

    話の通りに蚊帳の片隅を掴んだ。すると、皺だらけの蚊帳は布が引っ張られ中の様子が見えやすくなった。
    そして、そっと蚊帳のうちを覗いた……。


    何やら既視感を覚える景色であった。
    寺の本堂やこの蚊帳やらは古めかしいものであるのにも関わらず、蚊帳の中は不自然にも現代寄りな印象である。
    寝巻き姿で俯きに寝ている…いや、倒れていると現した方がいいのだろうか。布団も敷かずに床の上に転がるように眠っているようだ。
    薄手の布を腰回りにかけていたが、仰向けに寝返ることで掛け布団の役割は意味をなさなくなった。
    力無く片手を胸へ、もう片手を投げ出して、曲げられていた足は涼しさを求めるように伸ばされた。
    微かに、こちらに向けられた口を結んだ寝顔は、すやすやと気持ち良さそうに寝て……――。

    蒲田は目を見開いた。ドッと体が冷たくなり、冷や汗が流れた。

    一目見ると、それは自分であったからだ。

    転がる長細い黒い物は、蒲田の使うスマホである。画面を下にして置いてあり、そこから見えるスマホケースも蒲田と全く同じものである。
    微かに見ることの出来る部屋の内装も、それは自身のものであると今はっきりと分かった。毎日暮らす慣れ親しんだ場所だ。間違えるはずがなかった。

    玄関近くにある小さなキッチンスペース、そこと男が倒れている居間の部分の境目。そこに自分は、蚊帳に縋っているのだと理解した。

    冷や汗が溢れ出し、背筋が凍る。寒いわけでもないというのに、身体はカタカタと小刻みに震える。
    滲み出た汗が、つぅ――と額を横切り耳元へとながれた。

    瞬きを一回。

    「……え」

    瞬間に、蒲田の視界には、小さなキッチンスペースと玄関が見えた。
    暴れ出すのではないかというほどの心臓の音が、身体を伝う。耳元に流れた冷や汗が床に落ちた。カタン、コトンと外から音が聴こえ、小鳥のさえずりが早朝の朝を奏でた。

    どろどろに汚れ、死にそうになりながらも立って蚊帳に縋っていた自分の姿は、そこに存在しなかった。


    ――――
    終章
    ――――

    終章
    " もののけはいを、夜毎の心持で考えると、まだ三時には間があったので、最う最うあたまがおもいから、そのまま黙って、母上の御名を念じた。
     ——人は恁ういうことから気が違うのであろう。"


    ――――


    道路と歩道の境目、縁石側に植えられた木々からは少しの蝉の鳴き声がする。
    夏が終わりかけて秋に向かおうとしているこの頃は、日差しは暑いが風は涼しいという過ごしやすい日々が続いている。つい最近まで、梅雨だの猛暑だのと悩まされていたというのに。

    数年前のあの日もこのぐらいの気温だったなと笑った時、ふと、今日がその日であると思い出した。
    これは良い、と蒲田は笑みを浮かべる。
    あの人に記念日だと教えてあげよう。きっとあの人は言うのだ、何をつまらないことをと。


    ホウザンという名のこの街は、広島よりも都会寄りだと蒲田は思った。お洒落なカフェ、流行りのお店などが数多くあり華やかな印象が強いからだ。かと言って東京や大阪のような大都会というわけでもない。だが、都会好きの蒲田はこの街を結構気に入っており、この街に移り住むことに何一つ躊躇いがなかった。
    時々、広島に住んでいた頃が懐かしく思えることがある。狭く小さな古びたビルの部屋は、今では開業を得て、新築の大きな家を手に入れることもできた。あの頃には夢でしかなかったことが、今は現実となっているのだ。

    都会である為に虫は少ないが、この時期でも日差しがさせばアスファルトは熱を放ち暑さを増して暑さを感じる。緩やかな勾配を下っていけば、小洒落たオープンカフェが見えてくる。蒲田の目的地はそこの隣である。
    そこは花壇に囲まれた広場を奥へ進むとあるのだ。

    "帝国図書館ホウザン支部"

    レトロな字体でそう書かれた看板を一瞥し、数段しかない階段をのぼり、自動ドアをぬけて中へと入る。
    寒すぎない冷気が頬を撫でて、気持ちよく感じた。

    「あ!蒲田さん!」

    蒲田を呼ぶ声に視線をやれば、そこには受付の米笹がいた。快活な性格に似合うポニーテール姿の彼女は、手を上げた。
    蒲田もそれに手を上げて返して「お久しぶりです、米笹さん」と返した。

    「お待ちしておりました!泉さんは奥の部屋でお待ちですので」

    「あぁ…廊下の先の?第三でよかったですか?」

    「はい。第三会議室にいらっしゃられると思います」

    蒲田はありがとうございます。と頭を下げて数歩踏み出したところで、あ!!と声を上げて止まる。
    首を傾げる米笹に、手に持っていた菓子箱を渡した。

    「これ、広島のお土産で、もみじ饅頭っていうやつです。皆さんで食べてください」

    「あ!!これが噂のもみじ饅頭ですか?!」

    「噂って、そんな大したもんじゃないですけど…。前に持ってきた八朔大福は、泉さんが食べれなかったと怒っていたので」

    「それでもみじ饅頭ですか。ふふ、たしかに、加熱してありますもんね」

    口元を隠して笑う米笹に釣られて、苦笑していた蒲田も笑い声をこぼした。



    図書館内の受付の前を通り過ぎて、ガラス扉を開ける。長い廊下を歩けば、左右の部屋には職員食堂、倉庫、休憩室、会議室と両サイドに並んでいる。
    第一、第二会議室を通り過ぎて、第三会議室の前までくると、廊下の突き当たりになるそこからは裏図書館が見えた。

    蒲田や米笹のような一般人は出入り出来ない場所。文豪とアルケミスト…特務司書のみが出入りを許可されている、裏の帝国図書館である。
    泉がこの第三会議室を選んだのも、住まいのある裏図書館から近いからというのがあるだろう。
    もちろん、二人で話すにはもってこいなこじんまりした室内という理由もあるかもしれない。

    蒲田は取手を掴み、扉を開ける。
    途端に鼻を通る消毒液の臭いにも、もう慣れたものである。

    「あなたが来る前に、僕がお掃除しておきましたよ。ここはいつ来ても埃っぽいんです、表の司書達はちゃんと掃除しているのでしょうか」

    目があって挨拶もなしにそんな言葉。これも毎度のことである。「まぁまぁ、そんなこと言わないで」と、それを宥めるのも毎度のことであった。

    「それにしても、さすがは泉さんですね。おかげで僕は今日も清潔な空間でお話が出来ます」

    「あなたも僕と同じく綺麗好きだと思ってましたが……たまには、あなたも早く来て掃除をされたらどうですか?」

    「僕が綺麗好きなのは職業柄ですよ。それに、時間ピッタリに来るのは泉さんにお任せしてるからって知ってるでしょ?」

    そう悪戯っぽく返すと、泉はじろりと睨み、すぐに諦めたようにため息を吐いた。

    「まぁ良いです。お久しぶりですね、元気にしていましたか?」

    「お久しぶりです。ええ、泉さんも元気そうですね?」

    「ええ、もちろん。そういえば、久しぶりに故郷に帰られたそうですが、どうでしたか?」

    泉はそう聞きながら席に座る。

    「ううん、以前兄さんと大喧嘩してから一度も帰ってなかったので……、久しぶりの帰省で少し緊張したんですけど…でも、楽しく過ごせましたよ」

    そこで菓子箱のことを思い出し、「あ、これ」と紙袋から出して泉に渡す。

    「これは?」

    「広島名物、もみじ饅頭です。さぁ、開けてみてください」

    そう言われ「此処でですか?ですが、私は…」ともごもご言うものなので、蒲田はお構いなくと言って自身で包装を剥ぎ取った。彼はきっと、開けたところで今は食べれないから失礼にあたると思ったのだろうが、蒲田はそんなことは気にしなかった。
    「あぁっ、ちょっと!」と怒る声を無視して、「はい、どうぞ!」と渡す。

    訝しげに眉を顰め、蒲田の手からもみじ饅頭を受け取る。それは恐らく、以前持ってきたお土産が加熱できないものだったからだ。
    山岳特務司書から聞いた話だが、泉は大変楽しみに待っていたそうだ。果物は触ると食べれないという泉のために八朔大福を買ってきたのだが、まさか加熱しなければ食べれないとは知らずに渡した為に酷く怒られたものである。
    あの時は口にしなかったが、恐らく簡単に彼の気持ちを代弁するならば「楽しみにしていたのに!」だろう。そう思えば、なんとも可愛いものである。

    泉鏡花という人物の資料を漁れば、それは事前に避けれたものかもしれない。だが、蒲田はそれが嫌だった。
    誰しも知られたくない過去はあり、自身もやんちゃをしていた少年期の事は自分以外から知られるのは嫌である。
    以前にも仲良くなりはじめた蒲田と泉をおもってか、館長に"人間図書館 作家の自伝"というもの渡されたが、蒲田はそれを少し読んで、止めた。いい気がしなかったからだ。

    それに、資料などなくてもいいのだ。
    泉鏡花と蒲田哲也は友人である。友であるなら、本人の口から聞けばいいことなのだから。それに、最近では泉から自身の本を渡される事も多い。蒲田はこれが楽しくて仕方ないのである。


    「泉さん、これなら絶対食べれますよ。なんたって、これ焼いても揚げても美味しいんですよ。もう既に加熱調理はされてますけど、更に加熱したら更に美味しいんです!」

    ふふん、と誇らしげに鼻を鳴らす蒲田に泉は呆れたように苦笑する。

    「なるほど。僕のためにお気遣いしていただきありがとうございます。では後ほど焼いてから頂くとしましょう」

    嬉しそうに笑う泉を見て、蒲田も、ええ!ぜひ!と笑顔で返した。



    泉が菓子箱を机の端に置くのを見ながら、蒲田はやっと席に着いた。
    荷物を足元に置いていると視線を感じて、顔を上げる。

    「どうしました?」

    蒲田のその問いに、泉は少し眉を下げて唸る。
    本当にどうしたんだ?と首を傾げていれば、「上げなくてはならないのは…僕の方であるのに…」と泉が小さな声で返した。

    「え?僕に?」

    「ええ、あなたの書いた論文が評価されたと館長から聞きました。ですので、渡すのは僕の方だったんですよ。お祝いを差し上げたかったのです」

    確かに、蒲田は医学の方面で出した論文を評価された。だが、それはつい先日のこと。館長に伝えたのは今朝だったろうか。
    それに、そんなことで泉が気に止むことはないというのに。

    思ったことをそう伝えれば、泉はむすっと目線を逸らした。

    「ううん。じゃあ、祝ってください」

    蒲田が苦笑し、そう言うと泉は目線を蒲田へと戻し、「ええ、そうですね…」と頷いた。
    先程とはうってかわって、微笑を浮かべて「おめでとうございます、蒲田さん」と祝いの言葉をかけた。

    「それに、アルケミストと共同で侵食を受けた人達の治療機関を作っていただけたこと、とても感謝しています」

    蒲田は頭を下げて「ありがとうございます」と返す。

    「これも館長とアルケミスト、そして論文の添削を行ってくれた泉さんのおかげですよ」

    続けて蒲田は「特に館長には感謝しています」と言葉を続ける。

    「館長が協力してくださらなければ、国が侵食治療を主にした医療機関を考えるなんてこともなかったでしょうし。上層部と話している姿は、殴り合いの喧嘩にでもなるんじゃないかってぐらいヒートアップしててヒヤヒヤしましたけどね…」

    「国が動くのは義務ですよ。帝国図書館、並びにアルケミストは国が設立したものであり、侵食を収める為に動きはじめたのは国なのですから。人間の潜書報告は以前からありましたから、遅すぎるぐらいだと思います。ですが、あなたの論文が評価されたことで、一般の医療機関でも侵食者によってもたらされる人体の影響を考える医師も増えることでしょう」

    泉鏡花は「それになにより、評価されたのはあなたの努力が実った結果ですよ」と微笑んだ。
    直球に褒められたことに少し照れてしまうが、過去が頭によぎり顔を曇らせる。

    「…ですね…。……アルケミストさん達と共に頑張ってきたのは事実ですが、いや…まさか…"侵食と人体に与える影響"なんていう論文が評価されるとは思いませんでした。僕が侵食した時なんか、誰も信じてくれなかったというのに」

    「まぁ、そのおかげで…ここまで来れたんですが…」と呟くと、「ええ。そうですね」と泉が返す。

    思い出したかのように泉は「そういえば、あの双子はどうですか?中原さんが心配されてましたが……」とたずねる。

    「あぁ。"双子の星"の有碍書にのまれたトシコちゃんですね。軽い栄養失調がありましたが、侵食の影響はありません。ナミコちゃんと毎日楽しそうに笑ってますし、すぐ元気になりますよ」

    そう返すと泉はほっと胸を撫で下ろした。

    蒲田は「潜書といえば…」と呟き、「泉さん、今日が星あかりを浄化した日なんですよ。覚えてますか?」と悪戯っぽく笑うと、泉は「何をまた、つまらないことを……」と呆れたように呟いた。
    それを見て蒲田は、"ほら、やっぱり。"と思った。



    夏が終わりかけた数年前のこの日。
    蒲田は星あかりという有碍書にのまれ、泉鏡花、徳田秋声、島崎藤村、小泉八雲、四人の文豪と山岳というアルケミストに出会った。
    本堂の侵食者を文豪が倒し、主人公として成り代わった蒲田が本堂の中に入り、物語を完結させた事で星あかりの侵食は完全に浄化された。

    当時、蒲田は物語通りに話を進め、本堂の蚊帳のうちを覗き込んだ。そこには、見慣れた自室と、床に寝ている蒲田自身が居たのだった。

    あれは今でも忘れられない光景であった。

    ドッペルゲンガーや幽体離脱、自分を側から見るというものは数多く存在するが、今思えばそれらのどれとも違うような感覚であった。
    説明するのは難しいが、まず感じたのは既視感である。追体験のような不思議な感覚であった。更にそれは自分であると頭は思っているが、身体はそれを否定していた。そして同時に、それは自分である為にその中に入らなければならないという強迫観念があった。
    蒲田がはっとした時には、もう自身の視点は、寝ていた自分自身に変わっていた。

    あの日、蒲田が気が付いたときには、横には山岳が倒れていた。共に来た小泉八雲の姿はそこにはなく、あるのは彼が持っていた鞄とその中に収められている本だけであった。

    山岳が倒れている事で、これが夢ではないとすぐに分かった。なにより、自身の身体は墨汁にまみれており、それがあの化け物と対峙したなによりの証拠であった。

    それから、目を覚ました山岳はホウザン町に帰り、蒲田も普通の生活へと戻っていった。
    仕事にも復帰し、先輩にも一応感謝の意を伝えた。信じてもらえないと分かっていながらも、ことの全てを先輩に伝えた。やはり先輩は信じなかった。
    だが、驚いたことに上司は"侵食"、"有碍書"という単語をだした途端に「……そうか」と信じてくれたようだった。

    他に変わった事といえば、星あかりの著者である泉鏡花との交流が続き、友達関係になったことだろう。連絡先を交換したいと泉の方から申し入れられた時には大層驚いたが、とても嬉しく思ったのを覚えている。
    泉鏡花と続き島崎藤村や徳田秋声とも交流をするようになり、その交流を得て蒲田は、侵食に関わった人々のケアと治療を目的とする医療を作ることを目標とした。それが先程の会話である。目標を達成した蒲田を泉は祝ったのだ。


    泉は呆れるようにため息をついて、蒲田を見遣った。

    「あなた、去年もそれを言っていましたよ」

    「え、本当ですか?」

    「ええ、……一昨年もね」

    「覚えてないなぁ……」と頭をさすりながら俯く蒲田を、泉は訝しげに見つめた。

    「実はね、今日がその日だって思い出したのも、ちょっと変な夢をみたからなんですよ」

    顔を上げた蒲田は、「夢…?」と返す泉に一度頷き、話を続ける。

    「ええ。侵食にあったことが忘れられないのか、……似たような夢を最近見るんです。自分であるのに、自分でないようなそんな夢なんですが」

    「それで?」

    「なぜか僕は、船の上にいましてね。ここは何処だろうかと周りを見渡し、何故ここにいるのだろうかと床をみつめたりして。時刻は恐らく昼ごろだったと思います。海なのか湖なのか分からないですが、周りは水で、空は青く、綺麗な景色でした。乗客は皆、僕の事を見えていないようで僕を除け者にするかのように無視をするんです。だけど、そこへ一人の男の子が駆け寄って来るんです」

    「その子は、あなたの知り合いなのですか?」

    蒲田はううんと首を捻り、「どうでしょうか、現代の格好をしていないのではっきりとは言えません。誰かに似ている気もするんですが、……恐らく初対面じゃないかなと」と答える。

    「現代の服を着ていない……?」

    「はい。明治か大正ぐらいの古臭い子供服をきていましたね」

    他の乗客も?と泉が問えば、蒲田は頷いた。

    「それで、その時の僕は人間が怖いもんですから、目を逸らしてじっと息を殺すようにしていると、男の子は泣きながら母親のもとへと帰っていって、あー悪い事をしたなぁて思いました」

    苦笑する蒲田を緊張を孕んだ表情で泉は見た。

    「船を降りてふらふらと歩けば、次第に日は暮れて夜へと代わりました。夜だと言っても、最近は夜勤やらなんやらで夜であっても人が沢山いるじゃないですか」

    「……ええ」

    泉は蒲田の言葉に違和感を覚えている。夢の話というのだから、場面の移り変わりが激しいのは分かる。だが、彼から漂う異様な空気はなんだろうか。先程までは普通であったのに。"僕"と発してはいるが、まるで誰か別の人間が語っているようにも感じるのだ。

    「やはり臆病な僕は人間が怖いものですから、そんな人達の目線が恐ろしくて恐ろしくて、僕は俯きながら歩いていまして。時計をみると朝日が登るまであと少しというところで、僕はハッとして屋内へと逃げるんです。戸は固く閉ざされているんですが、まるで強盗にでも入るかのように荒々しくこじ開けるんです。余程怖かったんでしょう。朝日が怖いなんておかしな事ですよね、夢の中だからおかしくて当たり前なんでしょうけども」

    蒲田は再度苦笑をこぼすとまた言葉を紡いだ。

    「僕は夜明けから逃げるように屋内に入ると人間が一人寝ているんです。その枕元には本が置いてありましてね。大層驚きましたよ、そこに私が描かれているのですから。私は興味が湧いて、意地悪な心と愉快さとがせめぎ合い、その物語の真似をしたくなりました。幸いなことに、環境も役者も揃っていましたから」

    「……蒲田さんの夢にしては、あなたらしくない。まるで……、誰かの記憶を聞いているようです」

    目線を逸らし語っていた蒲田は、弓形な目を泉へと向ける。「そうですか?いいえ、そんなことはありません」と、ゆっくりと発した。

    「――っ!」

    「だって、私の記憶は彼等の記憶ですもの。私が彼等と同化した時、私の記憶は彼等の物となったのですよ。ええ、貴方の描いた物語通りに」

    「……かまた、さん…」

    はたと泉を向いた蒲田は「…え?なにか」と、いつもの顔で首を傾げた。先程まで不気味なほどに弓形に曲げられた目はそこにはなく、泉はハッと目を見開いた。

    「ええと……どこまで話したかな」

    そう呟く蒲田に泉は「夜明けから逃げるように屋内に入ったと」と言えば、蒲田はあぁ!と顔を明るくさせた。

    「部屋に入った所まででしたね。それでですね、部屋に入ると僕が寝ているのを見たもんですから驚きましたよ。なんだか、あの時は僕であって、僕でないような不思議な感覚でした。僕はそれを僕だと思ったんです。まるで、星あかりの追体験ですよね」

    笑う蒲田に、泉は眉を顰めた。首を横に振り、否定の意を示す。蒲田は気づいていないのだ。取り憑かれていることに。
    それは、星あかりの追体験などではないのだ。それは……蒲田に取り憑いた妖異の追体験である。

    「ただの夢の話なんですけどね、でも、起きたあとになんだか無性に怖くなって、母の名前を呼び続けてしまいました。僕はもう三十路を過ぎているというのに、子供みたいで笑っちゃいますよね。でもね、その時思ったんです」

    泉は首を傾げ「何を?」と問うと、蒲田は目を弓形にし、黒く澱んだ彼ではない瞳を泉に向ける。

    「――人は、こういうことから気が違うのであろう、と」

    途端に悪寒が全身を駆け巡り、背筋が凍り、泉は口角を上げた。緊張により身体が強張った。咄嗟に悟られぬようにと上げた口角は引き攣る。

    「なにを……」

    するつもりですか。と続くはずだった言葉は、蒲田の「そういえば」という平常時の言葉により取り消された。
    先程の恐ろしい面影が嘘のように、いつもの顔で泉を見た蒲田は鞄から一冊の本を取り出した。

    それは、以前住んでいた蒲田の家にあった有碍書だった物。蒲田を侵食に巻き込んだ"人間図書館 作家の自伝"。表紙に映るのは泉鏡花の顔と、名前であった。

    「これ、館長から渡されて返すのを忘れていまして。泉さんから渡しておいてもらっても良いですか?」

    申し訳なさそうに体を低くして手を合わせる蒲田に、泉は了承した。
    泉の緊張した面持ちの表情に気がつかなったのか、蒲田は話を続けた。

    「これ、少し読んだんです。なんだか、泉さんの人生を覗いているようで申し訳なく思いました」

    「…別に気にしませんよ。紅葉先生の素晴らしさもこれには書いてありますから、あなたも読んでみては如何ですか?」

    「いや……実は、最初に書かれているものが怖くて開くのが……ちょっと……」

    泉は「最初……?」と呟き、渡された本を開く。

    最初に書かれているものは、"幼い頃の記憶"という泉の自伝であった。
    それに目を通した時、泉は瞠目した。
    驚いた。まさかと思うと同時に、パズルのピースが揃うようであった。
    あの妖異の言葉の意味が、この本にはあった。
    では、あの妖異は…あの妖異は……。


    ふと泉が棚の磨り硝子へと目を向ければ、此方を向いているはずの蒲田の顔は磨り硝子越しに泉と目があった。まるで、鏡の中に別人がいるように。

    硝子に映る蒲田に重なるように、綺麗な顔立ちをした女が一人、此方を向いていた。綺麗な友禅縮緬の着物を着た十四、五歳ほどの女性。色白く面長な鼻の高い顔。眉は三日月型に細く整って、二重瞼の目は涼しげにかつ寂しげであった。

    あの人は…と口が震える。
    美しいその冷気を纏う姿に身震いをする。


    " 美人ではあったが、その女は淋しい顔立ちであった。何処か沈んでいるように見えた。人々が賑やかに笑ったり、話したりして居るのに、その女のみ一人除け者のようになって、隅の方に坐って、外の人の話に耳を傾けるでもなく、何を思って居るのか、水の上を見たり、空を見たりして居た。
     私は、その様を見ると、何とも言えず気の毒なような気がした。"

    " 私は、母の膝を下りると、その女の前に行ってたった。女が何とか云ってくれるだろうと待って居た。
     けれども、女は何とも言わなかった。却ってその傍に居た婆さんが、私の頭を撫でたり、抱いたりしてくれた。私は、ひどくむずがって泣き出した。そして、直ぐに母の膝に帰った。"



    着物を着た若い女は、いつしか幼い泉がみたあの女であった。



    " その女を本当に私が見たものとすれば、私は十年後か、二十年後か、それは分からないけれども、兎に角その女に最う一度、何所かで会うような気がして居る。確かに会えると確信している。"



    『――やっと、会えた……』

    泉の口から囁かれた小さな言葉は、蒲田の耳には入らず、蒲田は「え?」と首を傾げた。

    蒲田へと視線を戻せば、彼の背後には、あの女は立っていなかった。
    泉は首を横に振った。
    晴れやかな気持ちであった。魅了されていると自覚と共に、それを受け入れる己がいた。
    友を名乗るには失格であろう言葉を、泉は迷う事なく選択する。

    「いいえ、なんでもありませんよ」

    上げられた顔には、先程までの緊張が嘘かのように、とても幸福に満ちた美しい笑みを浮かべていた。

    「ありがとうございます、蒲田さん。あなたのおかげです」

    「えっ……と、本…ですか?それなら、もっと早く返せばよかったですね」

    訳がわからず苦笑する蒲田に、泉は微笑した。

    「貴女は本当に面白い人ですね」
    ――
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    8_sukejiro

    DONE私的に泉鏡花の星あかりは、幽霊視点で描かれた作品だと考えています。最後、医学生を見た幽霊の意識は寝ている医学生自身へと視点変更します。それは取り憑いからじゃないかなと。

    青空文庫さんに「星あかり」「幼い頃の記憶」がございますので、そちらを読んでいただけると分かりやすいと思います。又、「かもめの本棚」さんの解釈が私の中でしっくり来たので参考にさせていただきました。是非、両方読んでみてください。
    星アカリヲ浄化セヨ星アカリ
    一章
    ――――


    " もとより何故という理はないので、墓石の倒れたのを引摺寄せて、二ツばかり重ねて台にした。
     その上に乗って、雨戸の引合せの上の方を、ガタガタ動かして見たが、開きそうにもない。雨戸の中は、相州西鎌倉乱橋の妙長寺という、法華宗の寺の、本堂に隣った八畳の、横に長い置床の附いた座敷で、向って左手に、葛籠、革鞄などを置いた際に、山科という医学生が、四六の借蚊帳を釣って寝て居るのである。"


    ――――


    カラカラと音を立てたキャリーケースは、ある建物の前で止まった。
    蒲田哲也は、そのビルを上から下まで舐めるように見渡し、満足そうに頷いた。

    「うん、上等だな」

    口元に弧を描き、目を輝かせた。
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