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    0919に出す予定(だった)ブラネロ本の進捗で……
    ・オリキャラ、約束の独自解釈
    ・全部終わった後という捏造
    ・なんかもう付き合ってるっぽい
    みたいなところにご注意ください

    マーベリックの恋人たち(仮)「これはネロに」
     賢者さんがこちらの世界に持ち込めたものは少ない。
     帰路に着いていたところを急に連れてこられたというのだから、仕方のないことではあったが。
    「確か、知人の結婚式の時に使ったんですよ……あ、ちゃんと洗いましたから」
    「……まだ何も言ってないよ」
    「口下手なネロの代わりに」
     賢者さんが唯一この世界に持ってこられたのは手にしていた鞄一つだけだった。その底に眠っていたのだという割には皴一つない、きれいに四隅がぴったりと折りたたまれた白のハンカチーフを急に俺へと差し出したのだった。窓の外の昼下がりの柔らかい光をつやりと反射する生地は、おそらく絹で織られているんだろう。
     俺の性分を良く知るだろう賢者さんが突然そんなものを渡してきたことに、当然、困惑してしまった。そのまま受け取ってしまうのも、やんわりと断ることも、どちらも正解ではないような気がした。俺はただ、現実逃避のように、不躾にもそのハンカチーフの価値を見定めることに躍起になってしまう――。
    「ふふ、困りますよね。すみません」
     返事をすることもなくハンカチーフを見つめるだけの俺を見て、賢者さんはやんわりと笑った。俺はそこでようやくはっ、として、ぼやけて何処かにいきかけた意識をどうにか引っ張ってくると、頭一つ下にある賢者さんの顔を見た。賢者さんはもう、伏し目がちになっていたけど。
    「もう、わかります。ネロはこういうことをされると困るんですよね」
    「わかっていてやるのか?」
    「ええ。最後みたいですから」
     少しばかり吞んでしまった息の音が聞こえてしまっただろうか。
     賢者さんの細いまつげの向こうの瞳の表層に外光があたり、いつも以上に反射してきらめいていた。それは、賢者さんが涙を蓄えていることを表している。
    「元居た世界では、ハンカチーフを贈る行為は別れを意味するって話もあったんです」
     俺たち、今生の別れってこと? なんて、聞けなかった。
     賢者さんが不意に窓の外を見やった。俺もつられて視線を向けた。
     真昼の空にはもう、あの凶悪な月の姿はない。目を凝らせばはるか遠くに影が見えるような気がするだけだ。かつて当たり前にあったものが消え失せるというのは、妙な気持ち悪さをこの世界の住人達に植え付けたが、聞けば、賢者さんにとってこの空はどこか懐かしく、そして、安堵の感触を連れてきたのだという。
    『自分の世界では、月は夜だけのものでした』
     いつか聞き流した、そんな言葉。
     取り留めのない事だと軽く聞き流したはずの言葉が、ノスタルジアの感情を薄く瞳に浮かべる今の賢者さんの姿と重なり合い、ずしりと圧し掛かってくる。やはりこのひとは別世界の住人なのだ、という事を今更ながらに知らしめる。
    「また会える、と無邪気に言えるほど夢想家ではありません。かといって、もう会えませんね、と言い切れるほど現実主義者のつもりもありません」
     賢者さんはそう言い放った後、ようやく顔を上げて俺の瞳を真正面に捉えた。視線と視線をぶつけるのはどうにも苦手で思わず逸らしてしまうような情けない俺でも、今はそのふたつの瞳を見つめなくてはならないとわかっている。そしてそれ以上に、賢者さんの視線は強く、俺はまるで引きずり込まれる様にその瞳孔を見つめていた。
    「きっと、名残りを置いていかれるのは嫌いだろう、とわかってはいるんです。こんなものを渡さなくても、共に過ごした時間の事をネロは決して忘れたりしないこともわかっています」
    「じゃあ、なんで?」
     賢者さんは口元に笑みを浮かべた――ひどく寂しそうに。けれどもその感情を自身で否定することなく、どこかその痛みを甘受するかのような顔付きでもあった。
    「貸します、それ」
     え、とひどく間抜けな声が漏れた。
     賢者さんの言葉は俺が全く想定していなかったものだったからだ。そして、真意が読めなくて俺は二の次が紡げなかった。
     きっと間抜けな表情を浮かべてしまったんだろう。賢者さんは俺の顔を見て、たまらずというように笑った。皮肉にも、笑顔を形作ってしまった事がきっかけになって、賢者さんのまなじりからぼろり、と大粒の涙がひとつ零れ落ちる。
    「ネロは持っていてくれるだけでいいんです。いつか返してもらえる……そう信じるのは、駄目ですかね?」
     俺たちと違って、賢者さんは約束を口にすることが出来る。たとえ破ったって失うものはなにもない。だから、不誠実に再会の約束を取り付けたってかまわない筈だった。だが、賢者さんが言葉にした確証もなにもない曖昧で不確実な願いは、魔法使いの俺にとってはむしろ、なんとも実直なものに感じられてしまった。
     俺は肯定も否定もしなかった。賢者さんの言葉を借りるなら、夢想家でも、現実主義者でもないから。だがきっと伝わったろう、また会いたいと願っていることは。俺がゆっくりと賢者さんのハンカチーフを受け取ったからだ。その様子を見た賢者さんは、目を細めるようにして笑みを深めた。
     ハンカチーフが自分の指先から離れていくのを見つめた賢者さんは、僅かに安堵の息のようなものをついた。仲を深めたとはいえ、いつだって境界線を跨ぐことは怖い。越えてくるほうも、越えられるほうも。
     少しだけ、静寂が俺たちを包んだ。沈黙と呼ぶには短くて、一拍というには長い。
     そんな曖昧な空白のベールを奪い去っていったのは、窓の外、枝から飛び立っていった一羽の小鳥の羽音だった。俺たちは同時に窓の外へ視線をやったけれど、羽ばたきの残像すらも見ることは叶わなくて、ただ揺れる木々だけがそこにはあった。
    「――魔法舎でただひとり、ネロにだけ預けようと思ったんです。自分の私物を」
     賢者さんは窓の外、なにもないはずの景色をぼう、っと見やりながら、呟くように口にした。俺は思わず賢者さんの方へ向き直る。未だ外を見つめる賢者さんの瞳の表面は先程涙を零したことでより一層きらめいて、チタニウム・ホワイトを思わせる遮蔽率の高い白の光がハイライトのようになっていくつも散らばっている。だから、賢者さんが一体どこを見て、何を見て、どうして急にそんなことを告げたのかを、少しも理解できなかった。
    「な、なんでさ……俺なんかに」
    「友人として、どうしても、わかってもらいたくて」
     賢者さんの瞳だけがこちらに向いた。それによってハイライトの白はたちまちに消えて、ひどく澄み渡る水晶体がよく見えるようになった。まなじりからはもう涙は溢れない。伝い落ちた涙の跡が、窓からの斜光に照らされて光っている。
    「ネロに幸せになってほしいんです。そのためには、ネロが自分を許して……認めてあげなくちゃ」
     賢者さんは再び身体ごと俺の方へと向き直って、また笑った。
    「だから最後に、うんと特別扱いをさせてもらいました」
     最後に見せたそのくしゃっとした表情は、どこか子どもみたいにあどけなくて、随分とへたくそな笑顔だった。


    エカテリーナの結婚



    「エカテリーナの奴が結婚するってよ」
     俺はその名前と、結婚という――魔法使いにとっては末恐ろしい単語が並ぶことに対し、ほとんどうんざりした心地になってしまって、片方の眉をぴくり、と上げながら無言でウィスキーのグラスを呷った。どうやらブラッドも同じ気持ちのようで、手にした便箋を指で弾いてみせる。
    「死が二人を?」
    「別つまで――ハッ、戯言だろが、もう」
    「魔法使いはいい加減だけどよう、理すらこんな体たらくじゃやってられねえな」
    「言えてるぜ、ネロ」
     エカテリーナとは俺とブラッドの昔なじみの魔女の名である。
     付き合いのはじめはだいぶ朧げだが、確かブラッドが酒屋かなんかで捕まえたんだ。俺たちと魔女の出会いはおおよそがそうした流れなところがあった。
     エカテリーナは西生れの魔女だ。そして、その性質は何百年経っても変わりはしない。酔狂というほかない彼女が持つ悪癖は、きっと死ぬまで治ることはないのだろう。
    「で、今回のご相手は?」
    「小鹿のようにすらりと細い手足と、小鳥のようにつぶらな瞳がとってもチャーミングな彼と幸せになります。御年は、三十くらいとのことなので、きっと五十年は暇しないわ……だってよ」
    「そうかよ、そりゃ、ご苦労なこって……」
     ブラッドは気色悪く女の声のようなものを作ってみせてから、エカテリーナからの手紙を読み上げた。想像通り、内容は代り映えのしない、かつても聞いたことのあるような文面であった。聞いてはみたところでやはりどうにも馬鹿馬鹿しくて、からり、とウィスキーのグラスを手慰みに回した。そして、この世界に敷かれた魔法使いにだけ用意されているルールの穴を付きながら人生を謳歌する、エカテリーナのくるんと巻かれた赤毛の先を脳裏に浮かべながら再びウィスキーを呷る。落ちていく琥珀の雫の、つん、と鼻から抜けていく香りはいつもよりきつめに感じられた。エカテリーナのことは、肴にするにはどうにも劇薬が過ぎる。
     エカテリーナに近しい者をあえて挙げるとすれば、オリヴィア・レティシアだろうか。だが、恋多き魔女の彼女だって結婚まではしない。オリヴィアは恋のままならない衝動に身を委ねることが好きで、それに付随する煩わしいことにまで付き合う気はないのだ。そして、おおよその魔法使いは皆、そういう質であるだろう。なにせ約束の出来ない心を持たされているのだ。何事もほどほどにしておかなければ、こちらが馬鹿を見る羽目になる。そういう斜に構えたような態度がきっと人間には不誠実に見えるのだろうが。
     だが、真剣だからといって、誠実であるとは限らない。
     エカテリーナ・スカルキはそうした事実を体現する女なのだ。
     ――死が二人を別つまで。
     エカテリーナは本当に、真剣に、心から、その誓いを守る。
    「これで何人目だっけ?」
    「もう数えちゃいねえよ。二十は越えてるんじゃねえか?」
     エカテリーナは人間としか結婚しない。そして、自分の寿命についてくることのできない伴侶が死に至るまで愛し続ける。何十年の時を片時も離れずに寄り添い続け、決して不貞はせず、理想の妻でいた。そんな彼女の愛の期限は、約束の終わりは、死によって二人が別たれるまで。そう、片割れが死んだ以降の彼女は自由なのだ。そうした解釈の元、彼女は結婚を繰り返し続けている。
     エカテリーナの悪癖とはつまり、魔法使いがもっとも忌み嫌うであろう約束の制約に振り回されることを好むことにあった。
    『あたし、美しいから。左手の白銀が光っていても声をかけられますの。今のあなたみたいに……』
     ああ、そうだ。ブラッドは初めてエカテリーナに会った時、右側から声を掛けた。だから、テーブルの下に置かれた左手の薬指に気付けなかったのだ。
    『あなた、魔法使いね。あたしも魔女。だから、駄目。わかるでしょ……?』
     エカテリーナはゆっくりと左手をテーブルの上に置いた。薬指なんか見なくてもそれだけで彼女の言わんとしている事を、俺もブラッドも既に理解していた。
     自ら約束を破って魔力を失おうとする物好きはそういない。
    だから、この女は口説けない。口説いたところで意味がない。
    そういうことだった。
    『――でもね、あたし、あなたみたいな色男をこうやって振ってしまう瞬間が、いちばん、好きなのよ』
     白けた様子のブラッドがこの場を適当に切り上げようと二の次を紡ごうとしたその時、エカテリーナは汗のかいたグラスをわざわざ左手に持ち替えてから、ブラッドの眼を覗き込むようにして、くい、と傾ける。硝子づくりのそれの向こうに見える銀の輪は、プラチナではなく少し歪みの残るシルバーリングだった――後で知ったことだが、当時の夫は職人だったという。彼女がわざわざ嘯いた理由はいくらでも推察できるが、本当のところはどうなのか、わかるわけもないし、わかりたくもない。
     立ち上がろうと重心を僅かに浮かせていたブラッドがエカテリーナの言葉を受けて、もう一度腰を落ち着けた。その様子を見たエカテリーナはうっとりとどこか夢見がちのように目を細めたが、それと相反するように眉尻は下へ落ちた。
    『歯痒くって、たまらなくなるの』
    ゆったりと笑みを形作った唇はいやに蠱惑的だった。舐める程度の酒を滑らせたことにより、彼女の赤のルージュは水を帯びて酒場の薄暗い光に艶やかに煌めいた。その一連の情景をやけに鮮明に覚えている。ブラッドがやられた、と降参のポーズをしてみせて、エカテリーナに一杯奢ってやったのが、そう、始まりだ。
    「お前も来るだろ」
     ブラッドはエカテリーナからの招待状の出席の欄にくるり、と円を描くように指を走らせながら問うた。ちちち、と走る小さい火柱が便箋を焦がして焼き文字を写す。
    「行かねえよ」
    「じゃ、付き合え。たまにゃいいだろ」
    「おいっ、やめろって!」
     ブラッドは俺の静止も聞かず、欄の下に『ネロも共に』と要らない一文を付け加えてしまった。
    「いいだろ、どうせ暇だろうが」
     ブラッドは招待状を不躾にも放るように机に投げて、グラスを手に取ってぐるりと部屋一面を見渡してから、そう言った。俺はぐっと押し黙るしかない。事実、俺は持て余しているのだから……これからについて。
     ブラッドが見渡した俺の部屋はがらんどうだ。魔法で勝手に弄って造った使い勝手の良いキッチンももう消してしまった。ここにあるのは二人分の椅子と小さな机。あと、眠るために残したベッド。これは出来ることから手をつけようとした結果、何も決まっていないのに部屋の片づけだけが済んでしまったというなんとも哀れな結果の果てなのだ。
     目を閉じて耳を澄ます。だが、かつて当たり前にあった人の気配や、ざわめき、ぬくもりはどこにもなく、しん、と静まり返っていた。
     残っているのは、誰だったか。
     賢者さんと、俺たち賢者の魔法使いの奮闘により、大いなる厄災の危機は去った。
     それに伴い、魔法舎での共同生活も終わりを告げることになった。賢者の魔法使いという役割そのものがこの世界の理から消え去ってしまったのだ。むずがゆくて、気色の悪い感触を俺に伝えていたあの忌々しい紋章も、綺麗さっぱり俺たちの皮膚からなくなった。
     賢者さんももう、元の世界へと帰ってしまった。無事に着いたかどうかを確認する術は俺たちにはない。それだけが、おおよそが大団円で終わったこの騒動の、唯一おさまりが悪い部分かもしれない。俺たちも石になってしまうくらいの遥か先の未来、きっと作家が俺たちの戦いを冒険譚にでもするのだろう。そのときに美しく脚色されるであろう、フィクションとは程遠い、哀しくなるくらいほんとうの話だった。
    各国の先生たちは、自分の生徒たち全員の出発を見届けるまで残る事になった。
    その内、オズとシャイロックは早々に魔法舎を後にした。中央と西はやはり思い切りが良いというか、からりとしているというか。まあ、彼らが出ていく直前の夜はひどい騒ぎだったけれど。歌って、踊って、食べて、呑んで……。無礼講のパーティはとにかく大騒ぎで、どれだけ作ってもすぐに空いた皿が突っつき返されるから、俺は絶え間なく鍋を振る羽目になった。調理師としてはうれしいことだ。
    そういったわけで、魔法舎からは少しずつ人影がなくなっている。
    残留しているのは俺とブラッド、ファウストとフィガロとレノックス。スノウとホワイト。そして、ミスラとルチルとミチルだ。
    だが、それも南に定住するか北に定住するかで争っているフローレス兄弟とミスラの決着がつけばすぐに皆が魔法舎を後にできるだろう。チレッタの約束と、フローレス兄弟の豊かな暮らしと、ミスラの心労の問題とがちょうど良く収まるポイントなど存在するのだろうか? 俺には知る由もないが……。
    ファウストはフィガロやレノックスの誘いに乗って、暫くは南で過ごすらしい。俺の先が決まり次第準備をするつもりだと言っていたから、申し訳なくてしょうがない。
    そう、この先どうするか決めあぐねているようなのは俺くらいなのだ。
    ――あと、目の前にいるブラッドとか。
    (でも、俺が知らないだけで、もうどうするかなんて決めているのかもしれない)
    ウォッカをちびり、と舐めながら、こっそりブラッドの顔を覗き込んだ。するとブラッドも瞳をこちらに向けるから、途端にばちり、と視線がぶつかり合って、俺はまるで生娘みたいに思い切り顔を背けた。そんなことをしてしまった自分自身のことが恥ずかしくなって顔に血が昇っていく。なんだ、いまさら。相手はあのブラッドだぞ。
    「なんだよ、ネロ。随分と、可愛げのある……」
    「うるせえ……」
     視界の端のブラッドが薄ら笑みを浮かべて、ゆっくりと立ち上がった。それがわかっても、俺の身体は指先までもがまるで石になってしまったかのように動かない。
     やがて、ブラッドが俺のすぐそばまで近寄ってきても、俺は見上げることすら出来なかった。そんな俺がおかしいのか、頭上からブラッドの静かな笑い声が聞こえてくる。からかうようなそんな素振りにも俺が頑なに反応しないので、短気で我慢の知らないブラッドは、ごつごつとした節の目立つ指先を俺の顎に添えた。触れる皮膚は冷たい。たぶん、俺の顔がひどくのぼせ上っているのだろう。
    「ネロ」
     添えられた指がくっ、と俺の顔を持ち上げる。有無を言わせない雰囲気があったが、その手に込められた力は暴力的な側面を持ち合わせていなくて、俺が本当に拒めばなにもしてこないであろうことがわかった。
     わかった、けど。
    「……言葉がいるか?」
     嗚呼、ああ――!
     なんたって、こんな。
    「いらねえよ……」
     ブラッドに導かれるままに頭を上げてしまえば、ひどく満足気な表情を浮かべるブラッドがいる。間近にそんなブラッドを見せつけられては、俺も正気ではいられない。叫び出したいくらいだった。多分、間抜けな顔をしていたんだろう。ブラッドが含み笑いを浮かべたりするもんだから、今度こそ俺は叫んでしまいそうになったけれど、僅かに開いた唇にブラッドが舌を滑り込ませてきてしまう。
     俺のくぐもった声が室内に響いた。そんなことがいまさら恥ずかしい。この男に何度も組み敷かれてきたのというのに。
     近頃のブラッドはおかしい。すっかり変わってしまった。裏切りの真実を知って、自分が牢にぶち込まれる羽目になったのは紛れもない俺のせいだって知って、傷付いて……。でも、俺を殺さなかった。俺の気持ちを理解したような風だった。
    「なあ。今晩、いいか?」
    「勝手にしろよ……」
     唇が離れていくと、ブラッドが囁くように俺に問うた。かつてのブラッドは俺を誘うなんてことはしなかった。俺もそんなの、求めちゃいなかった。酒を呷って、なんとなくそんな空気になったような気がしたら、ベッドに転がって始まる。そんな雑な夜ばかりがあった。あとは、擦って、入れて、吐き出して、終わり。そこに理由なんかを求めたら、本当に駄目になる気がしていた。この男を欲しがれば、対価として自分の全てを持っていかれる。そういう類の魔法使いだ。魔性とすら言えるかもしれない。事実、その予感は正しかったのだから。
     なのに。
    「嫌ならちゃんと言え。わかんねえんだって」
     ブラッドはやけに真剣な眼になって、俺を見つめながら問う。もう、堪らない気持ちになった。気恥ずかしさとか、浮かれてしまう気持ちとか、いろんなものが混ぜこぜになって、身体の中でぐるぐる巡って、どうにかしてくれって叫んでいる。
     ないがしろにされるのが嫌で仕方なかったくせに、こうして大事にされれば正直になれないひねくれものなのだ。あんただってもう、嫌になったろ? そう言い放ってやろうと思って視線の先に意識を向ければ、意志の強いガーネットの瞳と、少しだけ下がった眉が目に入る。俺の言葉を、期待と不安の気持ちで待ち構えているのがありありとわかる、そんな表情だった――何者も恐れないはずの、あのブラッドリー・ベインが!
    なんだよそれ、ずるいだろ。
    「――いいよ!」
     やけくそになって、叫んだ。
     そこでブラッドが心底嬉しそうな顔なんか浮かべてみせるもんだから、俺はもういっぱいいっぱいになった。このむず痒い空気にもう耐えられない。どうにかしてくれ、ともはや祈るくらいの気持ちでゆっくり瞼を下ろしたら、ブラッドが喉の奥で笑ったのがわかり、再びゆっくりと唇が重なった。
    (これから……)
     キスをしながら、ぼんやりと思う。
     いつまでも魔法舎にはいられない。ブラッドだって、北に帰るなりするだろう。流石に盗賊業を再び始めることは叶わないだろうが、こいつは平穏の中で生きられるような質ではないのだ。
     じゃあ、俺は?
     もともと、楽隠居したつもりでいた様な身だ。心残りだってブラッドのことくらいだった。それですらどうするつもりもなかった。
     だのに、許されて、こうしてこの男と穏やかに過ごすことが出来ている。
     じゃあ、これ以上なんてないし、求められない。今が最高潮といって差し支えない。
    なら、これから先に望むことなんて、一体なにがあるだろう?
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    PROGRESS0919に出す予定(だった)ブラネロ本の進捗で……
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     帰路に着いていたところを急に連れてこられたというのだから、仕方のないことではあったが。
    「確か、知人の結婚式の時に使ったんですよ……あ、ちゃんと洗いましたから」
    「……まだ何も言ってないよ」
    「口下手なネロの代わりに」
     賢者さんが唯一この世界に持ってこられたのは手にしていた鞄一つだけだった。その底に眠っていたのだという割には皴一つない、きれいに四隅がぴったりと折りたたまれた白のハンカチーフを急に俺へと差し出したのだった。窓の外の昼下がりの柔らかい光をつやりと反射する生地は、おそらく絹で織られているんだろう。
     俺の性分を良く知るだろう賢者さんが突然そんなものを渡してきたことに、当然、困惑してしまった。そのまま受け取ってしまうのも、やんわりと断ることも、どちらも正解ではないような気がした。俺はただ、現実逃避のように、不躾にもそのハンカチーフの価値を見定めることに躍起になってしまう――。
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