かたくなにおもう「なあ、藍湛」
書き物をしている藍忘機の横で頬杖をつき、藍忘機を見上げながら魏無羨は声をかけた。
「なんだ?」
低く落ち着いた声で藍忘機は答えるものの、書き物に集中している。
魏無羨は真剣に話を聞いていない相手にむっとした。
いつもよりも藍忘機が仕事から早く帰ってきたので、たまにはゆっくり話がしたいと思い、書き物が終わるのを待っていた。ーーが、藍忘機は終わらせる気配がない。
忙しいのはわかってる。居住している静室に仕事を持ち込むことが滅多になく珍しいことも。
だが、一緒の空間に居るのに何故か遠くに感じて寂しくなる。
そんなことを隣で考えてるなんて、この朴念仁は気づきもしないんだろうなあと、魏無羨は段々意地悪な気分になってきた。
そちらがそのつもりならば。
「なんで酔うとあんなに変わるわけ?」
藍忘機の腕に力が入ったのか、書いていた文字が乱れ、下の紙に穴が開いた。
「あ…………」
能面のように無表情の藍忘機の手がピタリと止まった。やがて紙から筆を持ち上げ、筆架に静かに置く。
どうせ聞いていないだろうとからかうつもりの言葉が思いの外、動揺させたようだと気づいた魏無羨は慌てた。
「あ、話しかけて悪かった、ごめん!」
大事な書面を台無しにしてしまった事と、あまり触れてほしくない内容だった事にすぐに謝った。これは、逃げた方が良さそうだ。
「いや、ほんとにごめんな~」
ハハハと取り繕うように笑うと机に手をつき、身体を支えてよいしょと立ち上がる魏無羨の腕をぐっと藍忘機は掴んだ。
「私は以前、君に尋ねた。酔った私は君に何を話した?」
「あー……いろいろ、話すね…………」
酔うととっても素直になるので、ついからかってしまう。その後ろめたさから藍忘機を直視できない。
それをじっとりと疑わしげに見る藍忘機は腕に力を込めた。
「魏嬰」
「本当に変な会話はしてないって。誓うよ!」
3本指を立てて、魏無羨は真面目に返した。
「会話ではないなら、君に何かしたのか?」
(……それを聞いちゃう?)
フラフラ歩き回ったり、民家に忍びこんで鶏を取り出したり、いたずら書きをしたり。
「……いや、何もしてないよ」
唇を噛み締めて作り笑い。
これは本当に困った時や誤魔化そうとしている時の魏無羨の顔だ。
ヒクッと藍忘機の眉が動く。
「私は何かをしているのだな」
「いや、まだ、大丈夫」
「まだ?」
(あー、俺のバカ)
どんどん疑いの為に細められていく藍忘機の視線が魏無羨には痛い。
狼狽えてはいるものの、決して口を割ろうとしない魏無羨から藍忘機は視線を外した。
「・・わかった」
「え?」
徐に立ち上がった藍忘機は、どこからともなく甕を持ってくる。天子笑と書かれた札が貼られた見覚えのある酒。
ポンッと小気味よく、栓が抜かれた音が響いた。
慌てて魏無羨は藍忘機の袖を引っ張る。
「ダメダメダメ!!早まるな、藍湛!!」
「何故?君は大丈夫だと言っていた」
魏無羨は唇をムムッと閉じ渋面を作る。
「そう・・だけど!」
「時に話してくれないほうが、気になるとは思わないか、魏嬰」
悲しそうな響きを含む声に、魏無羨の罪悪感がピークに達した。
「ごめん、からかいたくて酔った時の事を話しただけなんだ。本当に何もないから!」
……はっきりとしたウソだ。藍忘機は酔えば思いもしない行動に出る。
だが、一度たりとも魏無羨を傷つけたりしたことはなく、むしろ守ろうとしてくれた。
「だから、酒は飲まなくていい」
魏無羨は藍忘機から天子笑を受け取るとそっと栓をもとに戻し、座卓の上へと置いた。
「俺、外に出てくる」
何だか疲れたし、これ以上藍忘機の邪魔をしてはいけないと魏無羨は身を翻し部屋を出ようと入り口にむかった。その体が背後から抱き締められ、止まる。
ふわりと恋人の香が漂った。
「私は、本当に君に酷いことをしていないか?」
まだ酔った時の事を心配している藍忘機の言葉に、魏無羨は前に回された藍忘機の手をポンポンと慰めるように軽く叩く。
「酔っても藍湛は俺を守ってくれるよ」
だから心配するな、と告げれば更にきつく抱き締められる。
無表情、無口さが白皙の美貌と相まって冷たい印象を周りに与えてしまう藍忘機。
でも、誰よりも温かく優しい心を持つ人。
魏無羨は抱き締めている藍忘機の腕を外し、振り返ると今度は自分から藍忘機に抱きついた。
「大好きだよ、藍湛」
衣についた香の匂いを確かめるように魏無羨は藍忘機の胸に顔を埋め頬擦りした。
藍忘機はその細い腰に腕を回し引き寄せると、大きな瞳を隠す魏無羨の前髪をかき上げ額に唇を落とす。
眉間から目尻へ、次は頬と移動していく藍忘機の唇がくすぐったく、魏無羨は軽く藍忘機を睨んだ。
「藍湛、くすぐ……」
「黙って、魏嬰」
顎を持ち上げられ、視線が絡まる。お互いの瞳に愛しい人の顔と欲情が映りこんでいた。
「私も好きだ、魏嬰」
甘い囁きと熱の籠った吐息が、期待している唇に触れーーー
「こんにちはー!!魏先輩、いらっしゃいますかー?」
カチンと魏無羨と藍忘機は動きを止める。
唇が触れる寸前に外から呼ばれた呑気な声に、甘いムードが瞬時に霧散した。
「先輩ー?」
「……居るよー!ちょっと待て!」
魏無羨は外に向かって大声で言うと、藍忘機の背に回していた手を下ろし、苦笑を漏らす。
「続きはまた後だな」
そう言われ、渋々と藍忘機は腕の中から魏無羨を解放した。
だが、藍忘機は襟を急にぐいっと下から引っ張られ前屈みになったところに魏無羨の顔が迫る。
チュッと軽やかな音と共に藍忘機は唇を奪われた。
「ごちそうさま」
ぺろりと自分の唇を舐め、魏無羨はにやりと笑うと軽やかな足取りで静室の外へと出ていった。
「どうしたー?」
「あ、先輩、これなんですが……」
取り残された藍忘機の耳に、魏無羨と弟子たちのやり取りが聞こえてくる。
酒で記憶がないのは本当に恐ろしい。
心の奥底にある執着を魏無羨に酔った勢いでぶつけてはいないかと、藍忘機は不安になる。
藍啓仁が家規を藍忘機に厳しく教え込んだのも、その執着ゆえだ。
『隠したい』
兄に語った言葉は、今でも色褪せることなく、隙あらばそうしてしまえと囁きかけてくる。
愛しい人の為なら家規など恐れるものではない、自分だけのものにして何が悪い、と。
同時にあの笑顔を壊すこともできないと引き留める自分もいる。もう二度と悲しませたくない、心ごと守ってやりたい、と。
魏無羨の唇の感触が微かに残る、己の唇に手を当て藍忘機は瞑目する。
大丈夫と、魏無羨の言葉を思い出す。
「大丈夫」
そう声に出すと、切れ長の双眸を開けた。
座卓まで戻り、腰を下ろすと書き損じた紙を新しい紙に取り替えた。
筆架から筆を取り上げ墨をつけると、紙に迷いのない文字を書いていく。
早く終わらせて、魏無羨と話がしたい。
『続き』はその後でーーー
外ではまだ魏無羨と弟子の話が聞こえていた。