含光君と悪戯がバレた顔 清談会に二人揃って出るようになって久しい頃、各仙門の動きには興味があるが関わるつもりなどない魏無羨は、耳しか動かさないために目と口と暇を持て余していた。夷陵老祖の話が出ても知らん顔が出来るのは、藍家に馴染んで面の顔が硬くなった…わけではなく、不当なことがあれば道侶や宗主が処理すると弁えているのと、特段待遇に甘んじているわけではなく「時に為さぬことで成す」という意味に気づきつつあるからでもあった。
元より夷陵老祖の魏無羨ではなく、藍忘機の道侶として参加しているから、不用意に人を煽らないという言いつけを愛する道侶のために守っている。じっと座って口をつぐんでいる。それ以外のことは好きなことなんでもしていいといわんばかりの大層な甘さが見えるが、雲夢江氏当時の切れ味の強すぎる魏無羨を知るものにとっては、それだけでも信じられない偉業ともいえる。状況は違うものの、自分の元ではこんな風に師兄を自由にさせることができなかったと自覚する江澄は、いつにも増して瘡蓋を剥がしたかのようなしかめ面をしている。
口数は少ないが背を正し君子といわんばかりの姿勢で参加する藍忘機と違い、魏無羨は体相を崩して大体絵を描いている。最初は真面目に議事を書き留めているふりをしているが、夢中になって筆を運ぶと前のめりになって崩れていくのだ。しばらくしてだらしない格好に気づいて鼻をこすりながら姿勢を正す姿は、形こそ違えど座学時代と何一つ変わらない。
そんな姿に馴染みのある三大仙門宗主たちはわかっている。しかし口を開けば巧みに真理をついて封殺し、下手すれば騒乱を引き起こす可能性が高い魏無羨が大人しくしてる方が、各家で都合がいいから指摘しない。たまに何かに気づいた魏無羨が道侶に囁き、頷いた藍忘機が手を挙げるときだけ各宗主にはーーそれは藍宗主でさえも例外なく、多少の緊張が走るのだった。
良くも悪くも人目を惹く男だった。
夷陵老祖や斂芳尊の件であまりにも偏見による事実誤認が多すぎたため、確認に非常に手間を要するようになった清談会は、うんざりするほど長くなった。
幾たび目かのあくびを噛み殺した魏無羨はあまりに暇すぎて、喋ってる宗主の絵を描いて隣の道侶の目を和ませようとしたら、あまりお気に召した色は見せず何故か不機嫌そうだった。絵自体が悪いわけではなさそうなのは、兎の絵で検証済みだ。
被写体を良く書きすぎたからかと特徴を捉えた簡素な絵にして書いてもだめ、不細工に書いてもだめ。いまだ読み取れない冷淡な横顔を眺めながら、魏無羨は何が悪いのかしばらく考えた末、どうやら書くために長く見つめることが駄目なのだと気づいた。確かに夷陵老祖にじっくり眺められて嬉しい世家はいないだろうと魏無羨は思った。
それにしても他家と会話するこの場所で他者に関心を持つことを厭う矛盾した藍忘機にぞくぞくしながら、戯画のように動物に宗主の顔を書いたらそれは何故か許されたように見える。何かを読み上げる眠そうな蝦蟇として書いた宗主が、絵と似た動きをして魏無羨は得意げな気持ちになった。藍忘機の指がぴくりと動いたから、面白く感じているのだろう。含光君はたまに指の方が正直な時がある。
しばらくしたらそれも飽き、一人遊びをし始める。魏無羨は一人で遊ぶのも得意だった。井の絵を描いて、その隙間にまるとばつを交互に埋めて、三連続になったら勝ちという紙上で出来る遊戯だ。何をしているのかと隙間に見てるうちに作法を把握した藍忘機は、一人でやるにはいささかつまらない脳内遊戯だと思った瞬間、先手を埋めた魏嬰がチラリと藍湛を見上げた。魏嬰の目はわかりやすい。
ーーやろうよ、お前の番だ。
藍湛は真面目な顔で談義に参加しているふりをしながら、さらりと手元の紙に同じ井を書くと、真ん中にばつを書いた。魏嬰が気づいて目をぱちぱちとさせて、自分の紙に自分の手を書いてにんまりと笑った。
いたずらが成功した顔を見慣れている江澄の口の端がさらにひきつった。魏無羨の気ままな遊びに付き合う藍忘機を見るのが何よりも不快な彼は、しばらくぶりに休憩を申し立て、満場一致で受け入れられた。
人の波が動いてようやく魏無羨は顔を上げた。
「ようやく休憩か、こんな長いなんて聞いてないぞ含光君。このままだと亥の刻もすぎて姑蘇藍氏はみんなこの場で寝るしかなくなるが、その場合俺たちはどうやって寝たらいいんだ?」
「…いつも通りに」
「なに、藍兄ちゃん、いつも通りって? 今日は藍先生がいないからって大胆だな」
揶揄いながら藍忘機の袖を掴んでそっと立ち上がる。硬くなった体をほぐすと、己の腰を藍忘機がそっと支えていることに魏無羨は気づいた。さらに破廉恥な物言いを続けようとすると、藍曦臣が疲れを滲ませない微笑みを浮かべて近づいていた。
「どんなに長引いても戌の刻には退場するよ。疲れたかな、魏公子、あなたが参加するといつもより進みはいい方だ」
「これでもですか? 呆れて物も言えない、次の仙督には効率化の進言をする必要がある」
「次の仙督は江宗主という噂もあるけれど」
「へえ、じゃあ俺たちからは無理だな」
くすくすと笑う魏無羨に、二人はもう下がっていいと藍曦臣は言った。ますます目を見張る魏無羨は、藍忘機を見るが彼は首を振った。まだ報告はしていないということは、魏無羨の様子から察したに違いなかった。さすが藍曦臣は有能だった。
「お酒が進んでいないようだったから」
「なるほど」
酒も飲めないほど体調が良くないことからバレるとは。魏無羨は、確かに少しだけ内臓を痛めていて酒は控えていた。つまり江澄や金凌にもお見通しなのだろう。二人が清談会に出るのは、魏無羨は姑蘇藍氏の元でおとなしくしているというある種の表明だから、用はほぼ済んでいた。
「お前たちを休ませるための中座を申し出てくださった、忘機、江宗主にあったらお礼を」
不満そうに藍忘機が黙っていることに魏無羨と藍曦臣は揃って笑ってしまった。
江澄は単にいちゃつく二人を見たくなかったからであり、魏無羨を気遣っていたわけではない。たとえ兄が言う意図があったとして、藍忘機が礼を言ったところで絶対に素直に受け取らないというのに、何故言わなければならないと思っているのが筒抜けだった。
「お前も頑なだな、すみませんがお伝えいただけますか」
「ええ、もちろん」
藍曦臣はふと藍忘機の文机に描かれた綺麗な手稿とは違う、奇妙な文字を見つけて、首をかしげた。
「井の中に〆? 忘機、ところでこれはなんの文字かな?」
少しだけ恥ずかしそうに藍忘機はささやいた。
「…新しく思いついた符の文字です」
ぶっと吹き出したそれでも実は顔色の悪かった道侶を抱えて、藍忘機は美しい所作で速やかに退席した。