「モクマさん、私ちょっと死んできますので、合図したらお迎えお願いしますね」
「……ふぇ?」
モクマのあんぐり開いた口からボタボタと白濁液が落ちる。続けて黄色の歯ブラシが洗面所シンクへ落ちていった。
口の中に広がるミントの爽快感とは真逆の困惑がモクマの頭を占める。
目の前の相棒が告げた台詞をモクマの頭はまったく飲み込めていなかった。
(近所のお店へおつかい行ってくるみたいな口調で、ちょっと死んでくるって言った気がするんだけども)
「……えーっと、何の話だっけ?」
「あァ、モクマさァん、歯磨き粉と一緒に記憶も落としましたか、お可哀そうに。……今夜の作戦の話です」
口端から歯磨き粉を溢しているモクマの間抜け面を見下ろして眉をしかめたチェズレイが静かに答えた。
ようやっとモクマの頭の回路がつながる。
自分たちは今、西南の小国に根城を張る闇商人をターゲットに動いていた。彼らは女子供を拉致して好事家へ卸す人身売買に手を染めていた。ただ、拉致した人間をどこに監禁し、いつ買い手へ流しているかまでは掴めていない状況だった。内部から探りを入れる必要があると考えていた矢先、チェズレイが作戦を提案してきたのだ。
チェズレイが立案した作戦はこうだ。
商人が欲しがる女性に化けたチェズレイがあえて拉致され、攫った下っ端に催眠を施す。アジトについたら催眠状態の下っ端が仲間の前でチェズレイを「撃ち殺す」。もちろん、彼に実害はない空砲だ。チェズレイはそこで仮死状態に化け、同時にモクマへ合図を送る。大事な商品に手を出した部下を商人は見逃しはしまい。内輪もめをしている間にアジトの位置を把握したモクマが警察へ通報がてら内部を制圧し、チェズレイを抱えて脱出する。
敵の内部へ毒を仕込むことでターゲットを一網打尽にするのは良い作戦だとは思う。
モクマはティッシュペーパーで顔を拭きながら、「そういえば、チェズレイさんや」と切り出した。
「今まで聞いたことなかったんだが……」
「どうぞ」
「どういう手品で仮死状態になってるの」
チェズレイが死を完璧に偽装できることは、モクマも目の当たりにしているから疑いようもない。
初めて目にしたのはミカグラ島へ向かう飛行船でのことだった。テロリストに撃たれて「死んだ」魅惑的なCAを飛行船から救い出したとき、「彼女」の身体から心臓の鼓動は聞こえてこなかった。命の灯火はないのだと思っていた。ゆえに、その皮から嘲笑う声が聴こえたとき、幽霊を見たかの如く驚いたのだ。
だから、マイカの里ではフウガを欺くために、スイに化けて死を偽装してくれと頼んだ。クオリティは折り紙付き。だけども、モクマはそのタネを知らなかった。
チェズレイは多数の芸を持っている。たとえば、他人に化ける変装技術だったり、人の意識を操る催眠だったりだ。
「フフ……」
チェズレイは人差し指を添えた唇で綺麗な弧を描いた。
「手品師なればタネも仕掛けもありませんとうそぶくところですが、私は仮面の詐欺師であなたの相棒ですので、特別にお教えしましょう。こちらです」
チェズレイが軽く手首をひねると、何も無かったはずの手のひらに小さなカプセル錠剤が乗っていた。袖から素早く取り出す、それこそ手品のような鮮やかな手付きだ。
モクマはカプセルをしげしげ眺める。なにかの薬としか思えなかった。瞳を持ち上げて、チェズレイへ答えを求めた。
「一言で申し上げれば、毒です」
「……!」
毒物と聞いてモクマの心臓がざわめいた。身体を害する物質を取り込んで大丈夫なのか。
モクマは時々、目の前の相棒の方がかつての死にたがりな自分よりもよほど自罰的で、美学のためなら躊躇いなく死地へ飛び込んでいくので恐ろしく思う。目を離したすきに死なれてしまうのではと。
眼光が鋭くなったモクマへチェズレイが言葉を重ねる。
「主成分はテトロドトキシンですが、死なない程度に特別調合しております。これを奥歯にセッティングしておき、時が来たら噛み締める。割れたカプセルから滲み出た毒を呑み込んだのちは、薬理反応でバイタルサインが極限まで低下します。それはまるで死んだように……」
「……そいつは、苦しくないのかい」
「慣れてますので」
チェズレイは涼やかに答えた。目的の達成のためなら苦しさなど問題ではないと鼻で笑う。
白い手袋に覆われたチェズレイの人差し指がモクマの鼻頭を押す。これ以上の問答は必要ないと言わんばかりの綺麗な笑みが貼り付けてあった。
「それではお迎えお待ちしてますね、ニンジャさん」
「……」
果たして、作戦は決行された。
女性に変装したチェズレイが商人グループの前で隙を見せる。釣られた下っ端の男がチェズレイの腕をつかんで薬を嗅がせにかかる。意識を失うふりをして、チェズレイは男の耳へ催眠音階を注ぐ。
催眠を掛けられたと知らぬ男は、自分へもたれ掛かった「女性」の腰つきを下品な手で撫で回したあと、待機していたワゴン車へ女性を押し込んだ。
その一部始終を、モクマは近くのビルの上から見守っていた。
ワゴン車が動き始めると同時、モクマも駆け出す。
万が一の尾行をまくためか、車は細く入り組んだ道へ迂回したり、大通りで速度を上げたりしていた。そんな小細工、屋根伝いに走り追いかけるモクマには意味のないものだったが。
やがて車はひとけのない山の裾野に停まった。ここが人身売買商人のアジトのようだ。
男がチェズレイを引き連れて地下へ入っていく。あとは男が空砲を発砲し、商品である「女性」が死ぬという混乱を引き起こすのを待つ。そういう手筈だった。
「ぜンブ、ぶちコわス!」
催眠のトリガーを引かれた下っ端が突如発狂し、銃を取り出す。傷をつけてはならないはずの女性の胸へ銃口を押し付けた。異変を察知した周囲の黒服たちがとびかかるも間に合わない。
――パンッ!
空砲が鳴る。
「きゃあッ………!」
チェズレイが撃たれた演技を混ぜ、後ろへ倒れ込む。
空砲と同時に、モクマは飛び出した。
まずはチェズレイの近くに立つ男を蹴り飛ばし、展開に驚いている仲間へ放り投げる。
そして、床へ倒れようとしているチェズレイの背を片腕で抱え、すぐに口を自分のもので塞ぐ。
「……」
チェズレイの目が驚きに丸くなった。文句は全て塞いだ口の中へ飲み込んでやる。モクマは舌を伸ばしてチェズレイの歯列をなぞった。
「んん……ぁッ!」
(ビンゴ!)
目当てのものはすぐ見つかった。エナメル質とは異なるそれを舌で弾く。そこでようやく、モクマは口をはなした。
ペッと唾液と共に床に吐き出されたのは、チェズレイが口内に仕込んでいた毒のカプセルだった。
「ぷはぁ、……モクマさ――」
「てめえ、何者だっ!」
チェズレイの恨み節と黒服の怒号が重なる。
飛んできた銃弾を鎖鎌で弾き、モクマは代わりに分銅を投げた。鉄製の鎖分銅は男の手から銃を叩き落とした。
「ぐあっ!」
「何者って、えーと、この子のおうじさま?」
空気を和ませようと、モクマは拳を頬に寄せて声を高くしておどけてみせた。
「お邪魔者の間違いでしょう」
ため息と共にチェズレイが変装を解いた。儚い女性のマスクから美形の男性が現れる。
目の前に立つ男が目をみはり、叫んだ。
「ッ! てめえら、まさか、仮面の――」
「フッ……!」
その先を男は紡げなかった。チェズレイの振るった仕込み杖が頭を殴打したのだ。昏倒した男を前に狼狽える黒服たちをモクマが次々のしていく。
すぐに静けさが二人を包んだ。
チェズレイは剣を仕舞い、モクマへ向き直った。
「モクマサァン……到着が少々お早いのではありませんか」
「そうかい? 待てが出来なくてすまんね」
合図を待たずに飛び出した挙げ句、突然キスをしたので怒っているかもしれないとモクマは思ったが、チェズレイの表情は呆れ以外読み取れなかった。もしかしたら、モクマが作戦を乱すことを予見していたのかもしれない。
「フ……、そんなに私が毒を飲むのが許せなかった?」
頭をかくモクマの手が固まる。その反応が正解だと受け取ったチェズレイは、大きく息を吐いた。唾液で艶めく赤い唇からは艶やかな桃色吐息。頬にも紅華が咲いている。
「でもねェ、逆効果ですよ。あなたの注いだ甘美な毒のせいで、身体があなたを求めて疼くんです……」
モクマの深い口づけはチェズレイの欲情スイッチを押してしまったらしい。
「はは、そりゃあいかん。早く帰って解毒させちゃくれんか」
チェズレイの腕がモクマの首へ絡みつく。それが返事だった。