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    酔っ払い店長編

    #ムラアシュ

    Night in gale 2 夢を視た。アッシュが死ぬ夢だ。
     頭上には、夜の気配が色濃く残る朝ぼらけの空が拡がっている。ムラビトの頬をぬるい風が撫でた。老婆の手のように伸びた棕櫚の葉が、瞬く星々を掴もうとするかのように揺れている。太陽はまだ遠い。焦燥に立ち尽くすムラビトを誘うように、見慣れたすだち屋の扉が、ぎぃ、と蝶番を不快に軋ませる。まるで悲鳴のようだ、とムラビトは思った。誰の悲鳴なのか、それは分からない。
     ムラビトの足取りは重く、覚束ない。心が前に進むことを拒絶しているのかも知れない。それでも一歩、一歩と足を繰り出し、ムラビトは扉に辿り着いた。風が舞い込み、一際大きく扉が開く。奥は見えない。何も見えない。住み慣れた筈の我が家の夢の映し身は、深く、冥い闇で充たされている。進みたくない。けれど行かなければならない。二律背反にムラビトは苛まれた。

    「ムラビト」

     闇の中から、声がする。耳慣れた、大好きな人の声だ。けれど、常なら張りのある力強い声は、今はか細く今にも消え入りそうな声となってムラビトの耳に届く。耐えられない。聞きたくない。耳を塞いでしまいたい。強く、固く、目を瞑って視界を閉ざす。

    「ムラビト」

     また、名前を呼ばれた。ムラビトがここにいることを知っている声だ。ムラビトを待っている。
     ムラビトは暗闇で充たされた夢の中のすだち屋へと足を踏み入れた。
     視界が拓ける。朝を待つ黎明の部屋は薄暗く、穏やかだ。開かれた小窓から、風が吹き込むとリネンのカーテンが柔らかく揺れる。店の中ではなく、そこは寝室だった。ムラビトの部屋ではない。マオの部屋には入ったことはない。けれど見覚えがある。父の部屋だ。父がまだ生きていた頃の部屋だ。

    「ムラビト」

     寝台を見遣る。ムラビトを呼ぶ声は、そこから発せられていた。
     緩慢な足取りで、ムラビトは寝台へと近付く。途中、姿見に映り込んだムラビトは額から禍々しい角を生やした半魔の姿をしていた。夢の中でくらい人間でいさせてくれたら良いのに。鏡の中の異形が同意するように眉根を寄せて笑った。それから、寝台の傍らに辿り着くと、ムラビトは膝を折って床に足をついた。

    「遅かったな、店長」

     口角の上がった薄い唇から紡がれた声は、か細く掠れて、けれど穏やかだった。声だけではない。春の花のような、夏の日差しのような、秋の実りのような、冬の夜明けのような生命の輝きに満ち溢れていた黄金は薄ら白く枯れ、筋肉は衰え、その端正な面には残酷な時間が深く刻まれていた。人が正しく齢を重ねる事実を突き付けられる。ムラビトを捉える聖剣の刀身に埋め込まれた石よりも鮮やかに透き通る青い双眸だけが、出会った頃と変わらない光を宿していた。
     蒼穹の写し鏡に潜む半魔の異形が、くしゃりと顔を歪める。こんな顔を見せたくない。目を逸らしてムラビトは俯いた。

    「……弱っちいジジイになっちまった俺は、目にするのも嫌か」
    「っ!ち、違います!そんなこと……」

     弾かれるように顔を上げて、ムラビトはアッシュの手を掴んだ。血管が浮き上がり、肉のこそげ落ちた骨と皮だけの、か細く頼りない、今にも折れて砕けてしまいそうな枯れ果てた手だ。
     ずっと、ムラビトと、マオと、そしてアッシュと、三人でいられると思っていた。三人のすだち屋でいられると思っていた。ムラビトがそれを望み、マオも容認し、アッシュが大切にしてくれたからこそ、三人で過ごす不変の未来を信じることが出来た。けれど、魔族であるマオは元より、魔王の血に侵されているムラビトと、勇者とはいえ人間でしかないアッシュとでは、時間の流れも違う。その事実を失念して、自分と同じ明日をアッシュが迎える未来を露ほども疑ってこなかった。

    「アッシュさんが死んだら、僕も死にます」
    「棺桶に片足突っ込んでるジジイに過激な告白すんじゃねぇ」

     辟易としたていのアッシュが、ムラビトの告白を聞き流す。信じていない。

    「アッシュさん……僕、まだ、アッシュさんといたいです」

     もう一度、ムラビトは言葉を変えて念を押した。今度は困ったようにアッシュが笑う。ムラビトの願いを決して叶えてやれないことを知っている微笑みだ。

    「……僕、ずっとアッシュさんが殺してくれるんだ、って思っていました」
    「物騒だな。年寄りなんぞ、それ聞いただけでポックリ逝くわ」

     窓から見える地平線を舐めるように、陽の光が滲む。星は瞬きを潜め、焦燥がムラビトの胸の内でどす黒く渦を巻く。国中の雲雀を射落としてしまいたい。明日なんてこなければいい。今はただ、アッシュの手の温もりを感じていたい。

    「アッシュさんが殺してくれるから、魔王になっても大丈夫だって思えたんです。アッシュさんに僕を殺させるわけにはいかないから、頑張ろうって思えた」

     引き留める強さで手を握る。その手に、微かに力が返る。それだけで、ムラビトの目の奥は熱くなる。
     「僕、アッシュさん以外の人に殺されるのは嫌です」とうとう溢れ出した涙と共に、願望が零れ落ちた。「一緒に連れてって下さい」
     連れてって。置いていかないで。絡めた手を額に押し当てて、祈るような心地でムラビトは言った。

    「それは言っちゃ駄目だ、店長」

     マオが独りになっちまう。熱に浮かされて吐露した本音に、冷や水を浴びせられたような気がした。残酷な現実を突き付けられて、ムラビトはただ涙を流すことしか出来ない。

    「……なら、血を、魔王の血を受け容れて下さい。僕の血でも、マオさんの血でもいい」
    「ムラビト」

     困ったように眉根を寄せて、アッシュが笑う。聞き分けのない子供を嗜める声音で、ムラビトの名前を呼ぶ。

    「俺は勇者だ。魔王にはならない」

     気休めでもいい。頷いて欲しい。ムラビトは思った。何もかも捨てて、勇者としてでなくただのアッシュとして生きると言って欲しかった。ムラビトと一緒に生きると言って欲しかった。けれど同じくらい解っていた。アッシュは勇者だ。ムラビトの夢の中ですら、彼はどうしようもないほどに人々の希望を象徴する勇者だった。
     断絶に嗚咽を堪えることが出来ない。静謐に絶望する。繋いだ手から生々しく遠ざかる体温を繋ぎ止めるように、固く、強く拳を握り固めた。言葉を尽くしても、彼をこれ以上繋ぎ止めておけないことを知ったからだ。
     滲む視界に忌々しく揺れる太陽を睨み付けて、ムラビトは夢の終わりを待ち続ける。アッシュを奪い去ろうとする、この世の全てが憎かった。

     石畳を這いずる鼠の声で目が覚めた。アルコールのにおいの充満した路地で目を覚ましたムラビトは、だからあんな夢を視たのか、と愉快な心地になって笑う。
     仰向けに寝転び見上げた狭い空に、海月のようにぽっかりと浮かぶ月を見付けた。弓のように細い月だった。
     何時だろう。どうしてこんなところに倒れているのだろう。今の自分はきっと魔族の姿をしている。様々な考えが浮かんでは泡のように消えていく。散漫とした意識は定まらない。ただ一つ判っていることは未だ朝の訪れが遠いという事実だけだった。その事実に感謝しながら、ムラビトは夢を思い出して少し泣いた。





     薄明の空に、紫色に焼けた雲がたなびいていた。主張し始めた星々の光を妨げることのないよう、細く痩せた月が控えめに閃く。一日の終わろうとする家並みを彩る小夜鳴き鳥の囀りに、面はゆい記憶を呼び起こされたアッシュはすだち屋へと続く道の途中で思わず足を止めた。いつも手伝ってくれるムラビトへの手土産にと渡されたカートの畑の野菜が重たく感じる。こめかみを抑えて、アッシュは深い溜め息を吐いた。
     サイショ村の家々の窓に一つ、また一つと明かりが灯り、野菜を炒めるにおい、魚を焼くにおい、様々なスパイスの香りが漂ってくる。そのにおいにつられたのか、家路を急ぐ子供たちの甲高い声が響き渡った。扉の向こうに消える全ての小さな背中を見届けて歩みを再開する。子供たちを見ていたら、アッシュも早くすだち屋に帰りたくなったからだ。
     緩やかな傾斜に差し掛かり、屋根の向こうに健やかに揺れる酢橘の木を見留める。
     アッシュの雇用主であるムラビトは今日は店をマオに任せ、ソノーニの町で開かれる近隣の道具屋や武具屋の会合に出席していた。急な話だったので以前から約束していたカートの畑の手伝いはアッシュが一人で行うことになった。遅くなる前に帰ると言っていた雇い主は、この時間であればもう帰宅している筈だ。自分一人に畑仕事を押し付けた小言を言ってやろう。足取り軽く傾斜を上がると、すだち屋の丁度入り口に人が立っていることに気が付いた。夕べの色の豊かな髪が弧を描く。アッシュがその人物を見知った顔だと認識するのと、蜂蜜色の双眸が落胆に染まるのとは、ほぼほぼ同時だった。

    「……マオ?」

     少女の容をしたかつての魔物の王は静かに視線を足元へと落とす。

    「どうした。夫の帰りを外で待つ貞淑な妻の自覚でも芽生えたか?」

     誰が誰の妻で夫だ、この変態。いつもの罵声を期待しての軽口に反応は返らない。毛虫を見るような侮蔑のこもった眼差しも返らない。つまらないな、とアッシュは思った。
     マオの横に控えていることの多い、流暢に人の言葉を操る魔物に手土産の野菜を手渡しながらアッシュは問う。

    「何かあったの、これ」
    「ムラビト様のお帰りが遅いことを、殿下は非常に心配しておられるのです」

     事情を聞き、得心がいった。夜の気配はすぐそこにまで迫ってきている。

    「何だ、ムラビトのやつとうとうマオの鬼嫁っぷりに愛想尽かして外に女でも作ったか逃げたか……寂しかったら俺が慰めてやるよ」
    「やめろクソ勇者。今は貴様とじゃれる気分ではない」
    「……あっそ」

     間男に名乗りを上げたが取り合っては貰えなかった。沈んだ顔のマオにもう少し絡んでも良かったが気が乗らなかった。アッシュ自身、彼女の不安に少なからず共感する部分があったからかも知れない。過保護なことだ。肩を竦めて目配せすれば、やれやれといった様子でもぐらに似た魔物も緩く首を横に振ってアッシュに応えた。

    「この時間帯ですからな。そろそろ魔族のお姿になられていることでしょう」

     マオも浅く顎を引いて頷く。

    「……あの姿では辻馬車も利用出来まい。誤魔化せるのはせいぜい瞳の色くらいだ。他の部位を隠すにしても人と接触するリスクの方が大きい」
    「と、なると帰ってくる気があるなら徒歩か」

     サイショ村とソノーニの町は徒歩での往来が不可能な距離ではない。何事もなければ日付が変わる前には帰って来られる。

    「既に街道には魔物を迎えにやっている」
    「新魔王だし、道中魔物に襲われる心配がないのは不幸中の幸いか」

     そもそも魔族の血を取り込んでいなければ発生しない問題だったという事実から目を逸らしながらアッシュは言った。

    「厄介なのは寧ろ同じ人間の方だ。あの姿で一人でいるところを冒険者にでも見付かってみろ。秒で経験値だ」
    「いくら新魔王でもレベル1なんて大した経験値になんねぇし歯牙にもかけないんじゃねーの」
    「馬鹿が。経験値としては味噌っかすでも角や爪はレアアイテムとして抜かれたり剥がれたりするやも知れん」
    「なるほどなー。確かに店長の角とかだったら俺も欲しい」

     眠れない夜に枕許に置けば、酒に頼らなくても寝付けるかも知れない。超回復で何処まで再生出来るのだろう。アッシュはそれなりに真剣に思考を巡らせかけた。だが、芋づる式に魔王城跡でジャバラに腹を穿かれ、回復の追い付かない瀕死のムラビトの姿が蘇り、思い留まる。あの光景は頂けない。駄目だ。

    「……と、冗談はさておき魔物に街道張らせてるってんなら、町の方に行ってみるか」

     薄ら寒い思考の残滓を振り払い提案する。

    「そうだな。町の中にまで捜索の目は届いてない。魔物では行動に限界がある」
    「っつっても入れ違いになるかも知れないのか。どうする?俺が残ってもいいけど」

     ムラビトの身を案じる気持ちはアッシュも同じだ。けれど、それ以上に不安な気持ちと、ムラビトをすぐにでも探しに飛び出しに行きたい衝動とを圧し殺し続けたマオをこれ以上縛り付けることは酷だろうと考えた。だが、アッシュの思惑に反してマオは提案に即答しない。
     「……いや。残るなら我だろう」少しの逡巡を見せたあと、吐き捨てるようにマオが言った。「住み馴れない人間の町を捜索するなら、同じ人間である貴様の方がいざというとき機転も利く」
     親の仇でも見るような目でマオが睨み上げてくる。実際、アッシュは親どころか彼女の一族を皆殺しにしているので殺意の籠もったその眼差しは正当なものだ。アッシュの望むところでもある。けれど何かが違う。絶妙にそそらない。いや、普段の自分なら絶対にからかっていた。違うのはマオではなく自分の心のありようだ。思い当たり、アッシュはうんざりした。本当に、どれだけ過保護なんだ。目眩がする。

    「じゃ、決まりな」

     誤魔化すように、努めて軽い調子でアッシュは言った。

    「今なら辻馬車もまだ走らせてくれることでしょう。お急ぎ下さい。街道は引き続き我々の方で捜索致します」

     太陽の名残で赤く滲んだ地平線を見遣る。恐らく、既にムラビトは人の姿をしていない。焦燥と不安が募る。悟られる前に、とアッシュは踵を返した。

    「待て、クソ勇者」

     マオに呼び止められ立ち止まる。何か言われるのかと一瞬身構えたが、彼女はアッシュと魔物をその場に残してすだち屋の扉をくぐって行った。すぐに戻って来たその小さな手には、更に小さな瓶が握られていた。天脚草の汁だ。

    「必ず見付けてこい。それまで、すだち屋の扉はくぐれんと思え」
    「もとよりそのつもり」

     手渡された小瓶を空にすると、アッシュは走り出した。





     ソノーニ町に着いたアッシュは、最初に会合の場となった町で一番大きな道具屋へと向かうことにした。片田舎とはいえサイショ村とは比べるべくもない規模の集落は、夜の深さなどまるで意に介した様子もなく賑わっている。往来する人々の多さに、アッシュは静かに焦りを募らせた。
     少し前に出張販売でソノーニ町に来たときのことを思い出す。あのときはムラビトとマオとアッシュの三人でこの町に足を運んだ。魔王を倒す旅の途中、サイショ村の次に立ち寄った町でもある。まさか宿敵だった魔王と共に訪れることになるとは人生何が起きるか分からない。そう感慨深く町並みを見渡した記憶が呼び起こされる。まぁ、雇用主探しに一人で来ることになるとも思ってなかったけど。慣れた足取りで酒場に向かう集団を避けて歩きながらアッシュは思った。こんなときでなければ一杯引っ掛けて帰るのに、とも思った。
     目的地に着くと丁度店主らしき男が店仕舞いをしている最中だった。それなりの規模の町らしく、道具屋もすだち屋に比べるとそれなりの規模で品揃えもそれなりだ。それなりの身なりの店主に声を掛けると、アッシュは手短に要件を伝える。

    「会合なら大分前に終ったよ。まだ帰ってなかったのか。あの様子だったものな」

     それなりの身なりの店主は、店の扉に引っ掛けた看板を裏返しながらアッシュの問いに答えた。それからそれなりの身なりの店主は、会合とは名ばかりでアルコールを数名の年寄りによって途中から宴会のような有り様で、一番年少だったムラビトが次々に注がれる酒に困っていた様子だったと付け加えた。それか。アッシュはこめかみを抑えて項垂れた。

    「足取りも覚束なかったし少し休んでいくよう声をかけたんだけど、遅くなると従業員が心配するから、って行ってしまったんだよ」

     無理にでも引き留めれば良かった。それなりの身なりの店主は眉尻を下げて申し訳無さそうに言った。
     情報を提供してくれたそれなりの身なりの店主に軽く礼を言って別れる。捜索はまた振り出しに戻ってしまった。街道に出て魔物と情報交換の一つでも出来れば良かったが言葉が分からない。人語を解するマオの側仕えを同行させれば良かった。アッシュは舌打ちした。
     念の為に寄った宿屋の当ても外れ、その後も開いてる店に片っ端から立ち寄ってはムラビトの行方を訊ねたが成果は何一つ得られない。そうして、凡そ考え付く限りの目星をしらみ潰しに回ったアッシュが大通りに戻る頃には、殆どの店舗が閉まっていた。人の往来も途絶え、閑散としている。何処からか犬だか狼だかの遠吠えが聞こえてきた。半魔の姿で滞在するリスクを考えると、もうソノーニ町には居ない可能性もある。街道を捜索しながら一度サイショ村に戻った方が良いのかも知れない。考えを巡らせながらアッシュは周囲を見渡した。そこで、路地裏に続く暗がりを見留める。細くて暗い、道とも言えないような道だ。馴染み深い、奇妙な既視感に口の端を歪める。生気を失いやつれた物乞いと薬漬けの性病持ちの巣窟だ。
     アッシュは路地裏へと足を向けた。
     昼間でも薄暗い小路は闇そのもののように見通しは悪かったがアッシュは夜目は利く。問題ない。足元に無造作に置かれた誰のものとも知れないカンテラが唯一の光源だ。不明瞭な灯りに集る無数の羽虫を横目に、路地の奥へと更に歩を進める。酒気を帯びた饐えたにおいに、カビ臭さの入り混じった淀んだ空気が一層色濃く漂い、アッシュを包み込んだ。王都の煌びやかな生活は勿論、安酒の染み込んだソファやすだち屋での団欒からは得られない懐かしさと安心感に反吐が出る。同時に、こんなところにムラビトが居なければ良いのに、とも思った。早くムラビトを連れ帰りたい筈なのにおかしな話だ。闇の中で、自身の抱える矛盾にアッシュは口の端を歪めた。
     吐瀉物を避け、転がった酒瓶を跨ぎ、腐りかけの残飯を踏み付ける。何度も繰り返して路地裏の奥へ奥へと進ん行く。そうして全てが泥のように重く沈んだ場にしては活気付いた蠢きに行き当たり、そこで漸くアッシュは足を止めた。袋小路に、数人の浮浪者が固まっている。身を寄せ合い、暖を取るには忙しない動きに目を凝らしたそこに、夜目にも鮮やかな赤色を見付けたときには走り出していた。屈み込んだ浮浪者の襟首を掴み、そのまま後方へ放り投げる。突然の襲撃に何が起きたか解らないもう一人の男はアッシュが軽く足を振ると吹き飛んで壁にぶつかり、そのまま動かなくなった。残された浮浪者たちは漸く事態を飲み込んだのか、意識のない仲間を連れてその場から蜘蛛の子を散らすように逃げて行く。そうして、袋小路にはアッシュとムラビトだけが残された。

    「ムラビト」

     名前を呼ぶ。反応はない。屈んで顔を覗き込む。蒼白だ。半魔であることを差し引いても顔色が悪い。魔王城で瀕死になったムラビトの姿が呼び醒まされ、アッシュの背筋を冷たい汗が流れる。
     丸みを帯びるムラビトの頬に手を添えた。温かい。そっと安堵の息を吐く。薄汚れた石畳に投げ出された四肢が忍びなくなり、小柄な身体を抱き起こした。乾いて少し割れた唇から漂う呼気に、アッシュは今日何度目とも知れない舌打ちをする。
     ムラビトは普段から酒を飲まない。だから自分の限界を見極められず勧められるがままに飲んだ挙げ句、前後不覚になるほど泥酔した。自明の理だ。酒に纏わる失敗に関してアッシュが苦言を呈することは難しいが、今度から多少の晩酌には付き合って貰おう。アッシュは固く心に誓った。

    「ムラビト」

     名前を呼びながら汗で額に張り付いた薄い色の前髪を指先で払う。そこに、涙の乾いた跡を見付けた。悪酔いに苦しんだか、或いは嫌な夢でも視たのかも知れない。
     何となしに、ムラビトの目尻に唇を落とす。すぐに離れて、誰も見ていないからといって悪ノリが過ぎたかな、とアッシュは思った。それでも、腕の中のムラビトは目を覚ます気配がない。鼻でも詰まっているのか呼吸の為に薄く開かれた口元を眺めやりながら、嵐の夜にこの子供にこの口で噛み付かれたのだということを唐突に思い出した。悪ノリついでに口付けてみる。思い付きだ。やはり起きない。王子様ではないが勇者様のキスだぞ、と愉快な気持ちになってアッシュは小さく笑った。

    「ムラビト」

     もう一度、名前を呼んでみた。腕の中のムラビトが身じろぐ。起きるかも知れない。アッシュは見守った。やがてうっそりと重たい様子で目蓋が持ち上がり、ヘイゼルの瞳と異形の黄金色が覗く。思いの外狼狽えていたらしい人相の悪い男が、焦点の未だ定まらない双眸に写り込んだ。

    「遅かったな、店長」

     いつも起こしに来るのはお前の方なのに。狼狽を悟られないよう、アッシュは笑う。ぼんやりとした様子のムラビトは一度、二度と瞬いたあと、その大きな黒目がちの瞳からぼろりと大粒の涙をこぼした。一度溢れ出した涙はそう簡単には止まらない。ぼろぼろと涙を流す酔っ払いを、アッシュは半ば呆然とした心地で見下ろす。

    「え。どした店長。飲み過ぎて気分悪い?何かやな夢、見ちゃったか」

     目立った外傷はない。だが、傷付いても今のムラビトであればすぐに塞がる。アッシュが駆け付ける前に先の物乞いたちに暴行を受けていた可能性は捨てきれない。逃したのは失敗だった。
     歯噛みしながら、せめてもの気休めに回復魔法でもかけてみようとムラビトに手をかざす。その手を握られた。小さく丸みを帯びた、けれどそれなりに骨格のしっかりした、働き者の手だ。幾度となく自分に向けて伸ばされたこの手が、アッシュは好きだった。

    「ごめんなさい」

     角の生えた額に引き寄せたアッシュの手を押し当てて、ムラビトは言った。未だ溢れて留まるところを知らない涙がアッシュの腕を伝って滴り落ちる。
     「ごめんなさい」困惑するアッシュを置き去りにして、誰に向けたものとも知れない謝罪は繰り返された。「ごめんなさい、遅くなって」
     意味が分からない。そもそも、今のムラビトは寝起きの酔っ払いだ。忘れていた。意思の疎通を図るにはもう少し時間が要るのかも知れない。
     アッシュはムラビトの涙と謝罪の意味を考えることをやめた。代わりに、好きに話すことにした。相手は酔っ払いだ。どうせ忘れる、とアッシュは思った。

    「お前は間に合ったよ。大事なときに、いつも駆け付けてくれた」

     アッシュ自身がアッシュを諦めても、ムラビトは決して諦めなかった。それがどんなに心強く嬉しかったか、腕の中で見開いた目にアッシュを写し込む子供はきっと知らない。微塵も知らない。

    「ありがとな、店長」

     堰を切ったようにムラビトがアッシュに抱き着いてきた。胸元が涙で濡れる。その背中を撫でて、アッシュもムラビトを抱きすくめた。
     わけの分からない悪夢も、涙も謝罪も、今伝えたアッシュの感謝の言葉も全て、忘れてしまえ。そう強く念じた。





     なだらかな傾斜を降りていく。落下防止の柵の向こうは切り立った崖で、底が見えないほど深い。命を守るには心許ない劣化した柵を見るともなしに眺めやりながら、これでは足元の覚束ないうちの酔っ払いが転落死してしまう、とアッシュは思った。それから、肩越しに背後を見遣る。遅れてのろのろと歩いて来るムラビトの姿に、アッシュはソノーニ町を発ってからもう何度目になるか分からない溜め息を吐いた。
     町で一泊しよう。アッシュはソノーニ町で提案した。ムラビト一人では不測の事態に対応しきれないかも知れないが、アッシュが居れば半魔の身なりも上手いこと誤魔化してやれる。何より、こんな真夜中に慣れない酒で疲弊したムラビトを連れ帰るのは憚られた。だが、ムラビトは首を横に振った。マオも、魔物たちも心配している。早く帰って安心させてやりたい。そう主張して譲らなかった。変なところで頑固なこの子供が、一度こうと決めたら頑として譲らないことはアッシュ自身一番よく解っている。仕方なく折れて抱き上げようとしたらそれも断られたので、取り敢えず肩を貸して路地裏を出た。王都でムラビト達が借りたという小型通信水晶をアーサー名義で買い取れないか相談してみよう、とアッシュは思った。
     真夜中の町は昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。賑わっている居酒屋もあったが、それも疎らだ。だが、お陰で人目につくこともなく町の中を歩けた。フードを目深に被ったムラビトはただの酔っ払いにしか見えない。事実、酔っ払いに違いないしな。軽口を叩いたアッシュをムラビトが恨みがましい目で見上げてきた。
     町を出たところでアッシュはまた一つムラビトに提案した。騎乗に向く魔物に頼んで、ムラビトだけ一足先にサイショ村に帰るのはどうだろう、という提案だ。ムラビトのマオたちを心配させたままだという懸念事項が早くに解消される。何より、ムラビトも早く落ち着ける場所で休める。それでもムラビトは少し逡巡する様子を見せたあと、矢張り首を横に振った。魔物は新魔王であるムラビトのことはその背に乗せてくれるだろうが、アッシュはその限りではない。

    「アッシュさんを置いて一人で帰るなんて、嫌です」

     まだ酔いから覚めきっていないのか、またムラビトはめそめそと泣き始めた。泣き上戸なのかも知れない。一人でも歩けます、と貸していたアッシュの肩も返却してふらふらと歩き出す始末だ。可愛らしいが、困る。結局、魔物にはムラビトの安否だけ言伝を頼み、二人で歩いて帰ることになった。
     案の定、酔っ払いの足取りは重く、サイショ村までの道程は果てしなく遠い。途中何度も肩を貸そうと声をかけたが、ムラビトは頑として首を縦には振らなかった。

    「店長、このペースじゃ夜が明けちまうって」
    「……すみません、もうちょっと、急ぎます」
    「いや、そうじゃなくて……まぁいいや」

     このまま帰り着ければ上々、途中でムラビトが意識を失ってもそれはそれで大人しくなった荷物を抱えて帰れば良いだけの話だ。アッシュは諦めて酔っ払いの好きにさせることにした。
     遠く、崖下に何処か懐かしさを覚える村落を見留め、アッシュは目を細める。村の家々に灯る明かりはなく、昼間の長閑さは見る影もない。大人しい月のお陰で賑わう星々の下、サイショ村は夜の静けさに沈んでいた。崖を下り、足下の起伏がなだらかになっても暫くは畑が続く。まだまだすだち屋には辿り着けそうになかった。
     剥き出しの岩肌ばかりを目にする道程から、次第に足元に緑が増えてくる。傾斜は徐々に平坦になり、やがて馬車が通れるほどの広さの街道に行き当たった。月と星を背に行儀良く並んだ糸杉が尖塔のようにそびえ立っている。奇妙な既視感にアッシュは足を止めた。何処かでよく似た何かを見たことがあるような気がした。
     記憶の底を浚う。真っ先に候補に上がったのは王都で勇者アーサーが見てきた幾つもの絵画だ。だが、もっと親しみがある。アーサーの記憶ではない。だったらアッシュが今よりもっと幼い時分に手にした絵本の挿し絵はどうだろう。否、違う。もっと最近だ。記憶に新しい。サイショ村に来てからだ。そこまで思考を巡らせて、ならばムラビトも同じものを見ているかも知れないことに思い当たる。そびえ立つ糸杉と、煌々と輝く金色の――

    「……店長?」

     そうだ。ムラビトだ。ムラビトの右の額からすらりと伸びた、あの触り心地の良い異形の角だ。夕方、マオとも話題にしたので印象に残っていたらしい。
     喉に刺さった魚の小骨が取れたかのような晴れやかな心地で、アッシュは肩越しにムラビトを見遣る。

    「なぁ店長。あの杉、店長の――」

     角みたいだな。言おうとして、口を噤んだ。振り返ったそこに、しゃがみ込みうずくまった酔っ払いの姿があったからだ。
     渋面を作り、アッシュは踵を返した。





     何度も浮かぶ疑問がある。戦場に薬を届ける馬車を降りしきる雨の中走らせた朝、父はムラビトを起こさなかった。そして帰って来なかった。何故、あの日に限って父はムラビトを起こしてくれなかったのだろう。いつもなら起こしてくれた。どんなに朝が早くても、どんなに遠くに行くときも、いつも一緒だった。小さな身体のムラビトが疲れ果てても、その逞しい背中に背負ってくれた。だのに、父が死んだあの日、父はムラビトを置いて行った。
     何度も、何度も、浮かぶ疑問に死者が答えを返すことはない。これから向かう場所が戦場であるからだとか、迅速に物資を届ける為に危険な道を征かなくてはならないからだとか、遺された側はそんな曖昧な憶測で推し量るしかない。答えは永遠に得られない。ただ一つ判っていることは、ムラビトを背負ってくれた大きな背中と温もりが永遠に失われたという事実だけだ。

     目蓋の裏側を撫でられるような感覚がムラビトの覚醒を促した。ゆっくりと目を押し開く。重たい。涙で乾いた睫毛が涙袋に貼り付いているからだ。傾いた視界に、収穫を待つ一面の小麦畑の地平線が映り込む。その向こうの空は微かに蒼く、黎明の瑠璃色に染まっていた。鳥の声も、虫の声も絶えたあぜ道に、夜の風に静謐に麦の穂先が揺れて踊り、波を打つ。時を置かず朝日に掻き消されてしまうだろう星の光一つ一つをおしむように、ムラビトは目を細めた。

    「目ぇ覚めた、店長?」

     近くで穏やかな声がした。麦の穂がムラビトの頬をくすぐる。近い。声も近いが、麦の穂先も近い。戸惑うムラビトを置き去りにして、身体を預けた地面が小刻みに揺れる。否、地面ではない。温かい。懐かしい感触に、ムラビトは漸く自分が置かれた状況を理解した。

    「……覚めたので、下ろして下さい」

     ムラビトはアッシュに背負われていた。頬を撫でた麦の穂先は、アッシュの元気に跳ねた毛先だった。

    「やだよ。店長に付き合ってたら昼になっちまう。俺、夜通し歩き回ってんだぜ?」

     さっさと帰って半休取って寝る。澄んだ夜明け前の空気に、アッシュのぼやきが気怠く溶ける。下ろす気はないようだ。諦めて、ムラビトはアッシュの肩口にこめかみを押し当てた。

    「角、痛くないですか?」
    「へーき。もうちょいフード深く被っとけば?村見えてきたし、念の為」

     言われた通りフードを被り直す。狭まった視界が徐々に白み始める東の空を捉えた。地平線まで覆い尽くす小麦畑の輪郭が、朝の先触れを受けて微かに滲む。
     朝が来る。来てしまう。夢の続きだ。
     漠然とした不安がムラビトを押し潰す。耐えきれず、昇る朝日から目を反らしてアッシュの項に鼻先を埋めた。

    「くすぐってぇ」

     アッシュの笑う声がする。合わせて、ムラビトの頬を彼の金色の髪が柔らかく撫でた。

    「……ごめんなさい、アッシュさん」
    「それ、さっきも聞いた」

     いつだろう。覚えていない。アッシュに見付けて貰ったときの記憶がムラビトにはない。その折に何か口走ったのかも知れない。他にも彼に何か恥ずかしいことを話したかも知れない。途端に恥ずかしくなったムラビトは、更に強くアッシュにしがみついた。

    「迷惑かけてしまったみたいで、その……変なこととか、言ってないと良いんですけど」
    「んー?そうだなぁ。これがマオだったら暫くネタにしてイジれるけど、店長じゃなあ」

     何を言ったのだろう。思い出せない。気が付いたらアッシュの腕の中でぼろぼろと泣いていた。それだけでも情けなくて恥ずかしかった。想像しか出来ない醜態に、ムラビトはますますアッシュの首を締め上げた。

    「レベル1の筋力でも入るとこに入りゃそれなりに苦しいんだぞ店長」
    「うわーっ!すみません」

     慌てて腕を解く。バランスを崩して後ろに倒れそうになったムラビトをアッシュは難なく背負い直した。

    「いいよ、謝んなくて。俺もお前に、もっと恥ずかしくて情けないとこいっぱい見せてるしさ」

     だからおあいこ。穏やかにアッシュは言った。彼のつむじを見下ろしながら、顔が見たいな、とムラビトは思った。
     風を受けて麦畑が波打つ。朝の日の光を受けて、麦の穂のひと粒ひと粒が宝石のように燦めいた。潮騒にも似た響きが鼓膜を震わせる。

    「……昔、父ちゃんに負ぶさって、この道を歩いたことがあります」

     父とアッシュの背中は違う。肉の付き方も、肩幅も、受ける印象も返る感触も温もりもにおいも違う。背中だけではない。ムラビト自身も、大人になった。あの頃とは何もかもがまるで違う。それなのに、何故かムラビトは父のことを思い出した。

    「手を伸ばせばそこにあった父ちゃんの背中が、こんなにも突然、届かなくなるなんて思いもしませんでした」

     言い知れない郷愁に衝き動かされる。視界が滲んでぼやけた。太陽の眩しさだけが理由ではないことをムラビトは理解していた。

    「子供だったんです。どうしようもなく」

     失くしかけた、今度こそ失くしたくない背中にしがみつく。アッシュは小さく身動ぐだけで、今度は何も言わなかった。
     穏やかな沈黙が横たわる。そうしている間にも徐々に夜の闇は押し上げられて、東雲色に空は移ろう。

    「……そういう思い出、俺にはねぇからなぁ」

     不意に、黙り込んでいたアッシュが呟いた。その一言にムラビトは息を飲み、身体を強張らせる。
     そうだ。肉親の記憶のないアッシュに対してあまりにも無神経だった。歯噛みする。すぐに謝ろうと口を開きかけたムラビトを、アッシュの言葉が遮った。

    「もともと持ってないもんは失くしようがない」

     抑揚を欠いた、平坦な声音でアッシュは言った。

    「だから、持ってたもんを失くして、傷付いて、哀しんで苦しんでる奴の痛みってのを、俺は想像することしか出来ない。国王にしても、お前にしても。俺には悪友共もいるけど、そういうのとはまたちょっと違うもんなんだろ。肉親の情ってのはさ」

     抱き込んだ金色が、徐々に彩度を取り戻していく。暁光を宿して輝く髪は、一面の小麦畑よりも美しく、山積みになった金貨よりも価値があるもののようにムラビトには思えた。

    「悼むことも悼まれることとも縁遠い俺には、得られない痛みだ。それを、乗り越えて踏ん張ってきた店長は……カッコいい、と思う」

     明朗だったアッシュの声が途中、何かに気が付いたかのように、尻すぼみになる。最後は消え入りそうにか細く、ムラビトの未だ優れた聴力でも拾い取ることが出来なかった。

    「でも、別にいつもそんな頑張って踏ん張ってる必要ないし、ガキでもいいじゃねぇか、って話!」

     何かを誤魔化すようにアッシュは話を打ち切ってしまった。ぼやける視界は美しい黄金色を不明瞭に捉える。目に焼き付けることを諦めたムラビトは、黙って顔を伏せて息を吸い込んだ。ムラビトの角が当たっても、アッシュは非難の声を上げなかった。
     アッシュのにおいがする。アッシュの息遣いが聞こえる。アッシュの心音を感じる。
     この人が好きだ、とムラビトは思った。

    「見事なもんだな」

     さんざめく麦畑へと首を傾けて、アッシュは言った。朝焼けに燃える空の下、黄金色の海が厳かに波を打っている。

    「……そうですね。来週くらいに僕たちも収穫の手伝いに駆り出されるかも知れません」
    「そっか。来週には見れなくなるのか……勿体ねーな」

     麦の穂を揺らす風が、気まぐれにアッシュの髪を撫でて、ムラビトの視界は輝く淡黄一色で埋め尽くされた。魔族の視野には眩し過ぎる。まるで光の中にいるようだった。

    「僕にはアッシュさんがいるから充分です」
    「酔っ払いが何か言ってら」

     アッシュが笑う。背中越しに振動が伝わる。
     離れたくない。手放したくない。欲しい。もっと、この男が欲しい。ただ知るだけでは事足りない。ただ頼られただけでは物足りない。もっと深いところまで暴きたい。何もかも余す所なく、ただ一人ムラビトにだけ曝け出して欲しい。
     どうしてこの強く仄暗いムラビトの希求を、彼は博愛の一言で片付けることが出来るのだろう。ただの憧れでは済まない、灼け尽き焦がれるこの情動を、どうしてそんな綺麗な名前で呼べただろう。
     ムラビトは既に思い知った。手紙一つ残されたあの日に、嫌というほど思い知った。だから、この男も思い知ればいい。
     みぞおちから込み上げるような狂暴な衝動に突き動かされて、ムラビトは口を開いた。

    「……僕、ずっと自分は無欲で平凡な人間だと思っていました。父ちゃんのすだち屋を守れるだけで充分なんだ、って」

     思い知ればいい。

    「でも、マオさんに僕の強欲さは魔王らしい、って言われて気付いたんです」

     この強く仄暗い希求を、思い知ればいい。

    「貴方を手に入れる為なら、僕は何処までも魔王になれる。王様からだって、奪い返してみせる」

     この灼け尽き焦がれる情動を、思い知ればいい。

    「そんな僕の貴方を独占したい強欲を、どうして博愛の一言で片付られるんですか」

     思い切って、そして認めたらいい。ムラビトは強く念じながら、抱きすくめたアッシュの髪を掻き分け首筋に口付けた。肩が跳ねる。アッシュの歩みが止まった。ざまぁみろ、とムラビトは思った。

    「……酔っ払い」
    「酔ってません。もう自分の足で歩けます。下ろして下さい」

     逡巡する気配を漂わせたあと、結局アッシュはムラビトを背負う腕を解いた。痺れる足が畑道に付く。よろけそうになったところにアッシュの手が伸びてきた。腕を捉えられて、踏みとどまる。

    「ほら見ろ。まーだ酔ってんじゃねぇか」

     眉根を寄せて男は言った。暁光を背に受けてムラビトを見下ろす男の髪一本一本が、光の筋のように燦めいて揺れている。その様子を、ただ美しいとムラビトは思った。

    「僕、アッシュさんが好きです」

     腕を捉える手が逃げる前に、空いていた手を重ねる。端正な顔を苦虫を噛み潰したように歪めて、アッシュは舌打ちした。

    「……前にも聞いた」
    「ずっと好きです。十二年前からずっと」

     心臓が早鐘を打つ。朝焼けに、ムラビトの額から伸びた角が溶けていった。

    「アッシュさん、僕の初恋はきっと貴方だ」

     黎明の空と同じ深い青色が見開かれて、微かに揺れた。黙り込んだ彼はムラビトから視線を反らす。そうして、深い溜め息を吐きながらその場にしゃがみ込んだ。麦の穂のように髪が跳ねる。

    「……知らねぇの店長。初恋って実んねぇっつーんだぞ」

     しゃがみ込んで俯いたままアッシュは言った。ムラビトからは旋毛しか見えない。

    「そうなんですか?それは困ります」
    「っつーかさぁ、今お前に何言われても酔っ払いの戯言なんだよ」
    「酔ってないです」

     思い掛けず低い声が出る。一世一代の告白を、博愛主義の次は酔っ払いの戯言で片付けようとするこの男が業腹だった。

    「ばーか。酔ってんだよ馬鹿。酔ってるっつー逃げ道を残しといてやってんだよ、分かれよ馬鹿」
    「それ、僕の逃げ道じゃなくてアッシュさんの逃げ道じゃないですか」

     今度はムラビトが溜め息を吐く番だった。

    「分かりました。だったら、お酒を飲んでないときに改めて言います」

     諦めの悪い男に言い放つ。ややあって、アッシュは無言で頭を抱えた。彼がムラビトを酔っ払い呼ばわりするなら、その逃げ道を塞いでしまえば良い。抱えた頭を唸りながら掻きむしるアッシュを見下ろして、勝った、とムラビトは思った。
     一頻り唸ったり呻いたりしたアッシュは、それからそろそろと顔を上げた。披露の色が強い。だが、ムラビトも引くわけにはいかなかった。恨みがましく睨め上げてくる視線を、真正面から受け止める。だから、アッシュの表情から険が取れて、諦念めいた笑みが浮かんだときには毒気を抜かれた。

    「待ってる」

     絶句して、耐えきれずムラビトは天を仰ぐ。返す言葉が何一つ見付からない。仕方がなく、ムラビトは万感の想いを込めてしゃがみ込む男に抱きついた。
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    mp_rursus

    REHABILIクソマズミルクティー編
    Night in gale 滴り流れ落ちる水に歪む窓の外の光景を眺めやりながら、己の判断にそっと安堵の息を吐いた。店を早くに締めたのは正解だった。この様子だと、雨は夜通し激しく降り続くだろう。夜の優れた聴覚が雷の声を拾い、ムラビトはそのまま一秒、二秒、三秒、と窓の外に視線を向けたままカウントを始める。六秒目を舌の端に乗せるより僅かに速く、外が昼間の明るさを取り戻した。雷はまだ遠い。
     雨のにおいがする。嗅覚に長けた魔物がムラビトにそう告げたのは、店の裏に積み上げられた道具の在庫をアッシュと確認している最中だった。まず、空を見上げた。天頂を少し過ぎた太陽が燦々と輝き目が眩む。それから、西の空を見やった。青空の下、緑の山々が常と変わらず連なっている。目を凝らすと山頂に雲がかかっているように見えなくもないが、それだけだ。最後に、ムラビトは並び立つアッシュを見上げた。同じように西の空を眺めていたらしいアッシュは、ムラビトの視線に気が付くと小首を傾げ、小さく肩を竦めて笑った。それでも魔物からのサインが気になったムラビトは、早めに店を閉めることにした。店の二階に居住スペースを構えるムラビトやマオと違い、店員であるアッシュは村外れの家に帰さなければいけない。午後の疎らな客足が途絶えた頃を見計らって本格的に店仕舞いを始める。売り上げの集計はマオに任せて、ムラビトはアッシュと一緒に外に干したままの洗濯を取り込みに行った。その頃には、西の空は重暗く厚い雲に覆われていた。アッシュを見送り小一時間程が経った頃、とうとう空が泣き出した。
    19822

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    menhir_k

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     雨のにおいがする。嗅覚に長けた魔物がムラビトにそう告げたのは、店の裏に積み上げられた道具の在庫をアッシュと確認している最中だった。まず、空を見上げた。天頂を少し過ぎた太陽が燦々と輝き目が眩む。それから、西の空を見やった。青空の下、緑の山々が常と変わらず連なっている。目を凝らすと山頂に雲がかかっているように見えなくもないが、それだけだ。最後に、ムラビトは並び立つアッシュを見上げた。同じように西の空を眺めていたらしいアッシュは、ムラビトの視線に気が付くと小首を傾げ、小さく肩を竦めて笑った。それでも魔物からのサインが気になったムラビトは、早めに店を閉めることにした。店の二階に居住スペースを構えるムラビトやマオと違い、店員であるアッシュは村外れの家に帰さなければいけない。午後の疎らな客足が途絶えた頃を見計らって本格的に店仕舞いを始める。売り上げの集計はマオに任せて、ムラビトはアッシュと一緒に外に干したままの洗濯を取り込みに行った。その頃には、西の空は重暗く厚い雲に覆われていた。アッシュを見送り小一時間程が経った頃、とうとう空が泣き出した。
    4367

    menhir_k

    TRAINING酔っ払い店長との帰り道
    もうシンプルに「道」とかでどうだ?(ゲシュ崩) なだらかな傾斜を降りていく。落下防止の柵の向こうは切り立った崖で、底が見えないほど深い。命を守るには心許ない劣化した柵を見るともなしに眺めやりながら、これでは足元の覚束ないうちの酔っ払いが転落死してしまう、とアッシュは思った。それから、肩越しに背後を見遣る。遅れてのろのろと歩いて来るムラビトの姿に、アッシュはソノーニ町を発ってからもう何度目になるか分からない溜め息を吐いた。
     町で一泊しよう。アッシュはソノーニ町で提案した。ムラビト一人では不測の事態に対応しきれないかも知れないが、アッシュが居れば半魔の身なりも上手いこと誤魔化してやれる。何より、こんな真夜中に慣れない酒で疲弊したムラビトを連れ帰るのは憚られた。だが、ムラビトは首を横に振った。マオも、魔物たちも心配している。早く帰って安心させてやりたい。そう主張して譲らなかった。変なところで頑固なこの子供が、一度こうと決めたら頑として譲らないことはアッシュ自身一番よく解っている。仕方なく折れて抱き上げようとしたらそれも断られたので、取り敢えず肩を貸して路地裏を出た。王都でムラビト達が借りたという小型通信水晶をアーサー名義で買い取れないか相談してみよう、とアッシュは思った。
    1995

    menhir_k

    MEMO
    宵っ張り勇者編 仄青く染まった空に疎らに浮かぶ雲は、逆光にその輪郭を滲ませていた。いつの間にか夜の名残を溶かしきって上った太陽が、麦の穂先の朝露にきらびやかな彩りを添える。舗装された砂利道と並行して連なった雑木林から聞こえる鳥の囀りが、朝の清浄な空気に響き渡った。隣を歩く子供であれば鳥の名前も知っているかも知れない。そう横目で様子を覗えば、すっかり蒸留酒のような平静の茶色を取り戻した双眸と視線がかち合う。奇妙な気まずさを感じて、アッシュは口の端に乗せかけた質問を飲み込んた。

    「もう完全に日が昇っちゃいましたね」

     小麦畑を背に受けて、アッシュを見上げる子供は言った。朝の光が乱反射して、一際眩しく見える。朝が似合うな、とアッシュは思った。岩の下から見上げたときも、かつての魔王城で勇姿を見せたときも、半魔の出で立ちは夜の気配を帯びているのに、それでも、この子供はアッシュにとって眩しい朝の子だった。数年ぶりの酒に頼らない深い眠りからの目覚めの朝、窓から差し込む朝日を背にして清らかに微笑む姿が目蓋の裏側に焼き付いて離れないからかも知れない。あの日、アッシュは世界にこんなにも美しい朝があることを初めて知った。
    3584

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