あとで考える 夢を視た。アッシュが死ぬ夢だ。
頭上には、夜の気配が色濃く残る朝ぼらけの空が拡がっている。ムラビトの頬をぬるい風が撫でた。老婆の手のように伸びた棕櫚の葉が、瞬く星々を掴もうとするかのように揺れている。太陽はまだ遠い。焦燥に立ち尽くすムラビトを誘うように、見慣れたすだち屋の扉が、ぎぃ、と蝶番を不快に軋ませる。まるで悲鳴のようだ、とムラビトは思った。誰の悲鳴なのか、それは分からない。
ムラビトの足取りは重く、覚束ない。心が前に進むことを拒絶しているのかも知れない。それでも一歩、一歩と足を繰り出し、ムラビトは扉に辿り着いた。風が舞い込み、一際大きく扉が開く。奥は見えない。何も見えない。住み慣れた筈の我が家の夢の映し身は、深く、冥い闇で充たされている。進みたくない。けれど行かなければならない。二律背反にムラビトは苛まれた。
「ムラビト」
闇の中から、声がする。耳慣れた、大好きな人の声だ。けれど、常なら張りのある力強い声は、今はか細く今にも消え入りそうな声となってムラビトの耳に届く。耐えられない。聞きたくない。耳を塞いでしまいたい。強く、固く、目を瞑って視界を閉ざす。
「ムラビト」
また、名前を呼ばれた。ムラビトがここにいることを知っている声だ。ムラビトを待っている。
ムラビトは暗闇で充たされた夢の中のすだち屋へと足を踏み入れた。
視界が拓ける。朝を待つ黎明の部屋は薄暗く、穏やかだ。開かれた小窓から、風が吹き込むとリネンのカーテンが柔らかく揺れる。店の中ではなく、そこは寝室だった。ムラビトの部屋ではない。マオの部屋には入ったことはない。けれど見覚えがある。父の部屋だ。父がまだ生きていた頃の部屋だ。
「ムラビト」
寝台を見遣る。ムラビトを呼ぶ声は、そこから発せられていた。
緩慢な足取りで、ムラビトは寝台へと近付く。途中、姿見に映り込んだムラビトは額から禍々しい角を生やした半魔の姿をしていた。夢の中でくらい人間でいさせてくれたら良いのに。鏡の中の異形が同意するように眉根を寄せて笑った。それから、寝台の傍らに辿り着くと、ムラビトは膝を折って床に足をついた。
「遅かったな、店長」
口角の上がった薄い唇から紡がれた声は、か細く掠れて、けれど穏やかだった。声だけではない。春の花のような、夏の日差しのような、秋の実りのような、冬の夜明けのような生命の輝きに満ち溢れていた黄金は薄ら白く枯れ、筋肉は衰え、その端正な面には残酷な時間が深く刻まれていた。人が正しく齢を重ねる事実を突き付けられる。ムラビトを捉える聖剣の刀身に埋め込まれた石よりも鮮やかに透き通る青い双眸だけが、出会った頃と変わらない光を宿していた。
蒼穹の写し鏡に潜む半魔の異形が、くしゃりと顔を歪める。こんな顔を見せたくない。目を逸らしてムラビトは俯いた。
「……弱っちいジジイになっちまった俺は、目にするのも嫌か」
「っ!ち、違います!そんなこと……」
弾かれるように顔を上げて、ムラビトはアッシュの手を掴んだ。血管が浮き上がり、肉のこそげ落ちた骨と皮だけの、か細く頼りない、今にも折れて砕けてしまいそうな枯れ果てた手だ。
ずっと、ムラビトと、マオと、そしてアッシュと、三人でいられると思っていた。三人のすだち屋でいられると思っていた。ムラビトがそれを望み、マオも容認し、アッシュが大切にしてくれたからこそ、三人で過ごす不変の未来を信じることが出来た。けれど、魔族であるマオは元より、魔王の血に侵されているムラビトと、勇者とはいえ人間でしかないアッシュとでは、時間の流れも違う。その事実を失念して、自分と同じ明日をアッシュが迎える未来を露ほども疑ってこなかった。
「アッシュさんが死んだら、僕も死にます」
「棺桶に片足突っ込んでるジジイに過激な告白すんじゃねぇ」
辟易としたていのアッシュが、ムラビトの告白を聞き流す。信じていない。
「アッシュさん……僕、まだ、アッシュさんといたいです」
もう一度、ムラビトは言葉を変えて念を押した。今度は困ったようにアッシュが笑う。ムラビトの願いを決して叶えてやれないことを知っている微笑みだ。
「……僕、ずっとアッシュさんが殺してくれるんだ、って思っていました」
「物騒だな。年寄りなんぞ、それ聞いただけでポックリ逝くわ」
窓から見える地平線を舐めるように、陽の光が滲む。星は瞬きを潜め、焦燥がムラビトの胸の内でどす黒く渦を巻く。国中の雲雀を射落としてしまいたい。明日なんてこなければいい。今はただ、アッシュの手の温もりを感じていたい。
「アッシュさんが殺してくれるから、魔王になっても大丈夫だって思えたんです。アッシュさんに僕を殺させるわけにはいかないから、頑張ろうって思えた」
引き留める強さで手を握る。その手に、微かに力が返る。それだけで、ムラビトの目の奥は熱くなる。
「僕、アッシュさん以外の人に殺されるのは嫌です」とうとう溢れ出した涙と共に、願望が零れ落ちた。「一緒に連れてって下さい」
連れてって。置いていかないで。絡めた手を額に押し当てて、祈るような心地でムラビトは言った。
「それは言っちゃ駄目だ、店長」
マオが独りになっちまう。熱に浮かされて吐露した本音に、冷や水を浴びせられたような気がした。残酷な現実を突き付けられて、ムラビトはただ涙を流すことしか出来ない。
「……なら、血を、魔王の血を受け容れて下さい。僕の血でも、マオさんの血でもいい」
「ムラビト」
困ったように眉根を寄せて、アッシュが笑う。聞き分けのない子供を嗜める声音で、ムラビトの名前を呼ぶ。
「俺は勇者だ。魔王にはならない」
気休めでもいい。頷いて欲しい。ムラビトは思った。何もかも捨てて、勇者としてでなくただのアッシュとして生きると言って欲しかった。ムラビトと一緒に生きると言って欲しかった。けれど同じくらい解っていた。アッシュは勇者だ。ムラビトの夢の中ですら、彼はどうしようもないほどに人々の希望を象徴する勇者だった。
断絶に嗚咽を堪えることが出来ない。静謐に絶望する。繋いだ手から生々しく遠ざかる体温を繋ぎ止めるように、固く、強く拳を握り固めた。言葉を尽くしても、彼をこれ以上繋ぎ止めておけないことを知ったからだ。
滲む視界に忌々しく揺れる太陽を睨み付けて、ムラビトは夢の終わりを待ち続ける。アッシュを奪い去ろうとする、この世の全てが憎かった。
石畳を這いずる鼠の声で目が覚めた。アルコールのにおいの充満した路地で目を覚ましたムラビトは、だからあんな夢を視たのか、と愉快な心地になって笑う。
仰向けに寝転び見上げた狭い空に、海月のようにぽっかりと浮かぶ月を見付けた。弓のように細い月だった。
何時だろう。どうしてこんなところに倒れているのだろう。今の自分はきっと魔族の姿をしている。様々な考えが浮かんでは泡のように消えていく。散漫とした意識は定まらない。ただ一つ判っていることは未だ朝の訪れが遠いという事実だけだった。その事実に感謝しながら、ムラビトは夢を思い出して少し泣いた。