タイトルそろそろ決めないとな 鳥の囀りが聞こえる。名前は分からない。店先の落ち葉と小枝、僅かばかりの砂利を掃いて一箇所にまとめ、アッシュは顔を上げた。よく晴れた東の空は既に夜の気配がする。日没がすぐそこまで迫っていた。
竹箒の柄に顎を乗せ、アッシュは窓からそっと店の中の様子を伺う。客の姿はなく、カウンターの向こうでマオが大きな欠伸をしていた。吊り目がちの大きな瞳に涙の膜が張るが、微妙にアッシュの好みの表情からは外れている。残念だ。マオにつられて出そうになった欠伸を噛み殺しながら、アッシュは店の裏手にちりとりを取りに向かう。残照を背に拡がる雑木林が、その輪郭を黄金色に滲ませていた。人々が恐れる魔物の時間の先触れだ。
「アッシュさん」
ちりとりを手にしたところで名前を呼ばれる。店の小窓から宵の口の風に髪を揺らすムラビトの顔が覗いているのを見留めた。
「お客さんも来ないし、掃き掃除が済んだら中で一服どうぞ」
「何?酒?」
気ぃ利くじゃん。軽口を叩きながら小窓に近付くと、これ見よがしに大きな溜め息をついてムラビトは肩を落とす。
「いいから、風も出てきたしゴミが散らばっちゃう前に片付けて下さい」
「へいへい」
言うべきことだけを言ってムラビトの頭が小窓の向こうに引っ込みかけた。そこに、また、鳥の澄んだ鳴き声が茜色の空高く響いた。囀りに、窓を閉じようとしていたムラビトの手が止まる。
「小夜鳴き鳥だ」
聞いたことのある名前だ。
「ああ、死人が出た家の窓辺で鳴くとかそういう鳥だっけか。別名、墓場鳥」
「何ですかその物騒な風評被害は。こんな綺麗な鳴き声なのに」
「いや、マジでそういう謂れがあるんだって」
「知りませんよ。僕が知ってるのは、」
ムラビトの声が途切れる。先の言葉を続けることに迷いがあったからだ。その迷いに気付くのが遅かった。
「夜に恋を歌う鳥、ってことだけです」
言うだけ言って、逃げるようにムラビトは窓を閉める。その耳が心なしか朱く染まっていたことには気付きたくなかった。一人取り残されたアッシュは、失敗した、と頭を抱えて思った。
嵐の日から三日が経とうとしていた。結局、あの夜は何もなかった。ソファを寄せて確保した二人分の寝床に並んで寝ても特に問題なく朝日は上ったし、翌朝のムラビトはいつものムラビトに見えた。それから三日だ。だから、あの夜に垣間見たムラビトの挙動は、嵐で参っていた情緒を魔王の血が後押しした結果の暴走ということでアッシュの中では片付けられようとしていた。
「……その矢先に、そういうこと言っちゃうのかよ店長」
思わず溢れた声が、愕然と響いて夕暮れの空気に溶けて消える。誰の耳にも届くことのなかった呟きに、小さな鳥が囀りで相づちを打った。
店の中に戻ると、カウンターに座るマオは眉根を寄せてアッシュを見上げてきた。嫌悪感を露骨に露わにした表情に癒やされる。ムラビトとのやり取りで少し途方に暮れていたアッシュに、愛らしいマオの上目遣いは何よりの良薬だ。
「何かろくでもないこと考えてるだろお前」
生ゴミでも見るような視線を微笑ましく思いながら受け流す。そんなアッシュの態度が気に入らないのか、マオは一つ舌打ちをして手にしたグラスに刺さるストローを口に含んだ。彼女も休憩中のようだ。客の姿のない店内を見渡して得心がいったアッシュは、そのまま奥のキッチンへと向かう。流しに立つムラビトはいつもの平静さを取り戻しているように見えた。
「どうぞ」
窓際に椅子を引き寄せて座ったアッシュに、ムラビトがグラスを差し出す。先程、マオがカウンターで飲んでいたものと同じ、薄っすらと色付いた白濁色をしていた。からん、とグラスの中で氷が涼し気な音を立てる。
「ミルクティーです。ベルガモットじゃなくて酢橘の精油で香り付けした紅茶葉を使ってみました。同じ柑橘だし、悪くはないと思うんですけど」
この前の夜に飲んだミルクティーのことを思い出しているのか、ばつが悪そうに視線を泳がせながらムラビトは言った。
「確かに、薬効だのを気にしないならこっちの方が万人受けすんじゃね。俺はこの前のも嫌いじゃないけど」
少なくとも身体に良さそうな味はしない。嗜好品としてなら及第点だ。
「もっと美味しいものを出したかったのに、欲張り過ぎた僕が悪いんです。反省してます」
悲観するほど悪い味ではなかったし、もっと酷い味のものを口にしたこともあるアッシュにはムラビトの拘りが今一つ理解出来ない。ただ、自省して項垂れるムラビトが愛らしかったのでそれ以上のフォローは入れないことにした。
「壺草――ゴツコラを入れたのが拙かったんだとは思うんです。苦いし」
「へぇ。壺草ってゴツコラのことだったのか。あんな味すんのな」
爽やかな風味のミルクティーを啜りながら、アッシュは薬草の名前を反芻する。そこで、不意に思い当たった。
「鬱に効くんだよな、あれ確か。あと不眠」
他の薬効も医師の口から聞かされていた筈だが、ピンポイントでアッシュの記憶に残っているのはこの二点だ。
ムラビトが小さく顎を引く。グラスに自分の分のミルクティーを注いで、窓辺に座るアッシュの隣に並び立った。
「西洋弟切草にしておけば良かったんです。けど、アッシュさんの飲んでる薬の成分が分からなかったので」
なので壺草を入れてみました。そして失敗しました。伏し目がちにムラビトは呟く。
「……俺の為?」
「自分の為です。アッシュさんに何かしたい、っていう自己満足の為」
何かを誤魔化すように、ムラビトは窓の外へと視線を逸らした。西日に透けた栗色の髪が、銅色に燦めいている。心なしか顔に赤みが差して見えるのはきっと、夕暮れの空気のせいだけではない。外では変わらず小鳥が囀っている。
床に溢れたミルクティーを拭く、ムラビトの円くなった背中を思い出した。どんな気持ちで俯いていたのか、考えると今更ながらに胸が痛む。同じくらい、目の前の子供がアッシュの為に心を砕いてくれていたという事実がただただ嬉しかった。
「もっと大事に飲めば良かった……ごめんな」
手を伸ばしてムラビトの手を握る。いつか鬱の波に襲われて、掴み止めたときのことを何となく思い出した。
「……僕も、今度はもっと上手く作ります」
ムラビトもアッシュを見下ろして言った。柔らかく握り返される。その感触が嫌ではなかった。嫌ではなかったが、嫌ではないのは拙いのではないだろうか、とアッシュは思った。
アッシュの不穏な気配を感じ取ったのか、ムラビトが怪訝そうに眉根をひそめる。かわいい。だが、これはいけない。この雰囲気はいけない。その上、相変わらずムラビトとアッシュの手指は絡み合ったままだ。
「そいや、ゴツコラ以外にも何か入ってたのかあれ」
取り敢えず、手を放すべきだ。そう判断したアッシュはそれとなく会話を続けながらムラビトの手を握る力を緩めた。緩めたが、ムラビトはアッシュの手を放さなかった。困った。
「カミツレと時計草です」
それどころか膳板に持っていたグラスを起き、あろうことかムラビトは両手でアッシュの手を握り締める。冷えたグラスを持っていた手は、しっとりと濡れていて冷たい。そんな不安定なところに置いたらまた落とすぞ、とアッシュは目の前の現実から逃避する心地で思った。
「カミツレも夜、眠る前に飲むと効果的なようなので。時計草の葉は天然のトランキライザー、って言われています」
「カミツレは何となく聞いたことあったけど、時計草は知らなかったわ。ってか、あれ葉っぱ飲めたんだな」
適当に会話を繋ぐかたわら、さり気なく、腕を引く。ムラビトの手は外れない。逃げられない。振り解く勢いで力を込めたならレベル1のモブ如きでは全力を以ってしてもアッシュを引き留めることは叶わないが、そこは穏便に済ませたかった。
「葉っぱより実の方が有名かも知れませんね。パッションフルーツっていう、ちょっと甘酸っぱい感じの」
「ああ。あのカエルの卵みたいなやつ」
「……アッシュさん、みんなが思ってても敢えて言わない部分に言及するの、どうかと思います」
ムラビトが胡乱な目でアッシュを見遣る。その手はアッシュの手を握り締めたままだったが、二人の間に流れる空気はいつの間にか随分と軽く乾いたものになっていた。だからアッシュも、もう不自然にムラビトの手から逃れなくても良いような気になった。厳密には諦めた。面倒くさくなったからだ。
「美味けりゃ何でもいいんじゃね」
何処か投げやりな心地でアッシュは言った。ミルクティーを啜る。控えめな酢橘の香りが鼻腔をついた。
「時計草の実が美味しいのは確かですけど。名前からしていかにも情熱的な南国、って感じの味で」
「……情熱」
ムラビトの思い違いに気が付いたアッシュは少し悩んだ。道具の直接的な効能に関わりがない知識は疎いのかも知れない。アッシュ自身、シャリテという聖職者の知己を得ていなければムラビトの思い違いに気付くこともなかった。
「店長、もし外でそれ言って店長が恥ずかしい思いしちゃったら可哀想だから念のため言っとくけど……時計草のパッションは情熱じゃなくて受難の方な」
「えっ。そうなんですか?」
矢張り知らなかったらしい。恥ずかしかったのか、ムラビトが小さく身じろいだ。同時に、アッシュを捉えている手の力が緩む。今なら容易に抜け出せるな、とアッシュは思った。思っただけで、実行に移す気にはならなかった。
「えーっと……受難、って?」
「ん?んー……まぁ、大昔の聖人だか英雄だかが、いろんな奴の罪を背負ってフィジカルもメンタルもぼろぼろになっちまった、ってエピソードだな。俺もシャリテの聞きかじりだから、そんな詳しくはねぇよ」
「結構とぼけた感じの花とか咲くのに……逸話、ハードですね」
「そのとぼけた見た目が由来らしいぞ」
一度見たら忘れようのない個性的な青い花を思い浮かべながらアッシュは言った。萼だの、雌しべ雄しべだの、花にさしたる興味のないアッシュにはそれぞれが受難を象っているという逸話より、時計草という安易な名前の方がよほど馴染み易くて良いように思えた。
ムラビトに倣ってアッシュも手を伸ばし持っていたグラスを膳板に置く。二つ並んだグラスの中の溶けかけた氷が、今日の終わりの陽を受けてさんざめく万華鏡のように光り輝いた。
「花言葉も逸話に準えて宗教的な意味合いが強いっつってたかな」
花言葉。口にして、あまりの滑稽な響きに、自嘲めいた笑みが溢れた。アーサーならともかく。胸中で悪態をつく。それでも、あまりにも真っ直ぐなヘイゼル色のどんぐり眼を向けられて、アッシュは諦念混じりに先の言葉を続けることにした。
「“信仰”」
手慰みに、ムラビトの親指をなぞる。
「“聖なる愛”」
続けて人差し指に触れた。つま先から、微かに柑橘の香りが漂う。
「“宗教的熱情”」
利き手の中指に可愛らしいペンだこを見付けて、アッシュは笑みを深める。柔らかく触れると、アッシュさん、と困惑の色が強い声が振ってきた。いつまでも手を放さなかったお前が悪い。自業自得だ。アッシュは思った。
「裏返った花は、“宗教的迷信”」
平凡でありふれた利き手の薬指は、左手の薬指とは随分と違う様相をしている。このまま咥え込んで歯を突き立ててみたい悪戯心が芽生えたが、やめた。代わりに唇を寄せる。ムラビトの動揺が指先から伝わった。二度目の非難の声が上がる。意趣返しが成功したようで何よりだ。アッシュはほくそ笑む。
最後に、顔を上げて小指に触れた。円く切り揃えられた小さな爪の乗る、一番細い指だ。
「それから“激しい、」
口の端に乗せかけて、留まる。不自然に途切れた声を訝しんだらしいムラビトが、何処か心配そうにアッシュを見下ろしていた。その頬は残照に彩られている。いつかの嵐の夜にも、こうしてムラビトを見上げたことを思い出す。三日前の嵐の夜ではない。アーサーを守る為に命を手放そうとしていた、ただのアッシュを掘り起こしてくれた夜のことだ。その夜のことを考えると、時折、胸が痛む。溢れたミルクティーを拭く円い背中を思い出して罪悪感に疼く痛みとは異種の、狂おしく激しい痛みだ。
「……何だったかな。忘れた」
胸の痛みの正体を唐突に知った。だから、最後の花言葉の先を続けるわけにはいかなかった。
手を放す。呆気ないほど簡単に、ムラビトの指先はアッシュの手から離れていった。
「何だか、アッシュさんみたいですね」
「……アーサーじゃなくて?」
アッシュの葛藤に追い打ちをかけるような、耳を塞ぎたくなる言葉が降ってくる。平静を装いながら、辛うじて声を絞り出した。
「勇者アーサーという偶像を背負って頑張ってきたアッシュさんみたいだなー、って思って」
裏をまるで感じさせない笑顔をアッシュに向けて、ムラビトが言った。途端に毒気を抜かれて、何もかもが馬鹿馬鹿しくなる。否定する気も起こらない。
「店長が言うなら、そうなのかもな」
諦念混じりのアッシュの言葉は、小夜鳴き鳥の鳴き声と共に宵闇に溶けて消えた。