宵っ張り勇者編 仄青く染まった空に疎らに浮かぶ雲は、逆光にその輪郭を滲ませていた。いつの間にか夜の名残を溶かしきって上った太陽が、麦の穂先の朝露にきらびやかな彩りを添える。舗装された砂利道と並行して連なった雑木林から聞こえる鳥の囀りが、朝の清浄な空気に響き渡った。隣を歩く子供であれば鳥の名前も知っているかも知れない。そう横目で様子を覗えば、すっかり蒸留酒のような平静の茶色を取り戻した双眸と視線がかち合う。奇妙な気まずさを感じて、アッシュは口の端に乗せかけた質問を飲み込んた。
「もう完全に日が昇っちゃいましたね」
小麦畑を背に受けて、アッシュを見上げる子供は言った。朝の光が乱反射して、一際眩しく見える。朝が似合うな、とアッシュは思った。岩の下から見上げたときも、かつての魔王城で勇姿を見せたときも、半魔の出で立ちは夜の気配を帯びているのに、それでも、この子供はアッシュにとって眩しい朝の子だった。数年ぶりの酒に頼らない深い眠りからの目覚めの朝、窓から差し込む朝日を背にして清らかに微笑む姿が目蓋の裏側に焼き付いて離れないからかも知れない。あの日、アッシュは世界にこんなにも美しい朝があることを初めて知った。
「俺は眠い」
「そうですよね。すみません」
今、ムラビトと二人きりで歩きながら考えることでもなかったので、沈みかけた思考を追い払うように首を振る。アッシュの思惑に気付きもしないムラビトは、申し訳なさそうに眉尻を下げて謝罪を返した。今日も素直で可愛い。
「……駄目だ。眠気で頭の中が完全にやられてやがる」
いや、可愛いって何だ。いくら童顔で小柄だとはいえ、仮にも十八歳の成人男性に抱く感想ではない。アッシュは自身の正気を疑った。
「そんなにっ?え。ここで寝ないでくださいね。僕、アッシュさん連れて村まで帰れませんよ?」
「そこは何が何でも連れ帰れよ、お姫様抱っことかで。惚れてんだろ俺に」
「惚れてはいますけど己の力を過信するとろくなことにならないので」
「店長リアリスト過ぎてつまんねぇ〜。百年の恋も冷める〜」
「冷めるも何も……アッシュさんの中では始まってもないじゃないですか」
少し寂しそうにムラビトが笑う。抱き締めたいな、とアッシュは思った。違う。掻き集めた傍から霧散する理性にアッシュは歯噛みした。
「それじゃあ眠気覚ましを一つ……僕が村長さんの蔵の掃除をしたの、覚えてますか?」
「ん?ああ、店長が熱中症になったあれな」
「熱中症にはなってませんけど……いろいろ整理してる中に本があったんです」
「エロ本?」
「エロ本はありません」
間一髪入れず、真顔でムラビトは否定した。つまらない。もう少し遊んでくれても良いのに。漫ろ歩く道すがらの手慰みに、農道にまではみ出て頭を垂れた麦の穂先を弄びながらアッシュは思った。
「歴史書とか、絵本とかばっかです。エッセイもあったかな?」
「ま、村長さんちの蔵じゃなあ」
ふくよかなマシュマロボディと、人好きのする柔和な村長の笑顔を思い浮かべる。期待する類いの本から彼の性癖が詳らかになることはアッシュの本意ではない。世の中には知らない方が良いことも沢山ある。アッシュはまだこの小さくて純朴だが、それでいて暖かいサイショ村の村長に幻想を抱いていたかった。
「あ。勇者様の本もありましたよ。勇者アーサーじゃない、もっと古い感じの」
「へー、レアじゃん。王都じゃもう勇者っつーとアーサー関連のもんしか取り扱ってねぇし、状態良けりゃ高値で売れるぜ」
「…………勇者様をお金になんてしませんよ。もう、アッシュさんってば、わかっててすーぐそういうこと言い出すんですから」
「即答しないとこが店長だよな」
初めてムラビトに髪に触れられたときの不穏な気配を思い出しながらアッシュは言った。
「でも、売りはしないけど手許には置いておきたいかも。他にも気になる本があったし、村長さんに譲って貰えないか訊いてみようかな」
視線の交わらないムラビトがぽつりと独り言ちる。小麦畑を吹き抜けた風に遊ぶ鳶色が、早朝の薄ら青い空によく映えた。
「浮気者」
愉快な心地になってアッシュは笑う。
「何言ってるんですか。アッシュさんも読むでしょ?もともと勇者様の本は持ってましたけど、微妙に内容が違うんですよね」
「ふーん。じゃあ俺が知ってるやつとも違うんかな」
話題に上げていると、自分の持っている勇者の本も十数年ぶりに読んでみたい気がしてきた。勇者アーサーとして持て囃されるようになってからというもの、開くことも捨てることも出来ないまま無為にしまい込んだ幼い夢の入口に触れられなくなって久しい。だが、今もあのアルコールのにおいの充満した家の何処かで、あの日の絵本は埃を被っている筈だ。帰ったら探してみよう、とアッシュは思った。
「僕の持ってる本も読みませんか。部屋にあるのでいつでもどうぞ」
「え。どうしよ。下心のある男の部屋にほいほい上がり込むとか……襲われそう」
「物理的に無理だと思うので安心して下さい」
「挑戦すらしないで諦めるのはどうかと思うぜ」
すぐに引き下がったムラビトに、アッシュはぼんやりとした苦言を呈す。アイテム協会の審査には果敢に挑戦しようという気概を見せ、王都にまで研修に行った熱意との間に落差を感じて少し寂しさを感じたからだ。
正直、アッシュの気持ちはかなりムラビトに傾いているのでアイテム協会の審査より余程ハードルは低いと自覚している。だが、そんなアッシュの諦観などまるで気付く様子もなく、相も変わらずこのレベル1の非戦闘員にとっての勇者の籠絡は最難関クエストとして設定されているようだ。
今はまだ一人空回るムラビトを眺めて楽しむ余裕もあるが、その内痺れを切らして墓穴を掘りそうだな、と欠伸を噛み殺しながらアッシュは思った。
「……そいや、他にも気になる本があるって何?大好きな勇者に並んじゃうくらい店長の興味引くようなもん、金以外想像つかねんだけど」
「金って……あ。あと僕、別に勇者なら誰でも大好きってわけじゃないので。確かに偉業を成し遂げた先駆者に敬意はありますけど」
指先に触れていた麦の穂先を軽く爪弾く。反動で弧を描く金色の軌跡から目を逸らし、アッシュは隣を歩くムラビトを見下ろした。
「ちょいちょい修正入んなぁ」
「ちょいちょい修正入れさせないで下さい。それでえーっと、本!本の話ですよね」
丸みを取り戻したムラビトの耳が朱い。もう少し楽しんでいたいな、とアッシュは思った。
「植物の本です」
「ん?」
意外な勇者の対抗馬にアッシュは首を傾げる。違う。ムラビトが植物に興味を示すこと自体は意外でも何でもない。殊道具の効果には人一倍勤勉な子供のことだ。実にムラビトらしいとも言える。だが、だからこそ同時に、専門家でもない村長の蔵から出て来た何年前とも知れない植物の本にムラビトの興味を引く何かがあるとは考え難かった。
「何か珍しい薬草でも載ってたとか」
「あー……そういう専門的な本でもないんですけど」
頬を小さく掻きながらムラビトは言った。鳶色の向こうに見慣れた村の入口が見えて来た。サイショ村まであと少しだ。
「花言葉が載ってたんです」
アッシュは固まった。嫌な予感がする。これ以上はいけない。
「……へぇ。あ。店長、サイショ村が見えて来たぜ」
眠たい頭で精いっぱい考えた末に、アッシュはサイショ村を指してムラビトの意識を本の話題から遠ざけようとした。
「時計草の花言葉、一つ忘れた、ってアッシュさん言ってたじゃないですか」
だが、失敗した。全く話題を逸らせない。
「載ってたんですよね、アッシュさんが忘れちゃった花言葉」
残照に沈む窓辺が蘇る。枯れた花が生気を取り戻すかのように、潰えた筈の言葉が息を吹き返す。
「“激しい恋の痛み”」
メイプルシロップのような糖度の高い琥珀色に射抜かれて、アッシュは言葉を失った。酔っ払いと宵っ張りと、思考の散漫具合は良い勝負だ。
「でも」
今までの張り詰めた空気が嘘のように解けて、ムラビトの口元がふにゃりと歪む。耐えられない、といった様子で笑い出したムラビトを呆気に取られたアッシュは見下ろすことしか出来ない。
「僕、時計草ってアッシュさんみたいだな、って思ったんですけど、この花言葉だけはイメージじゃないんですよね」
だってアッシュさんが恋の痛みだなんて。言い残してムラビトは崩れ落ちた。泣き上戸なだけでなく笑い上戸でもあったらしい。この酔っ払いめ。アッシュは清々しい朝の空気の中で笑い転げるムラビトを忌々しく見下ろしながら毒づいた。