その内ムラアシュっぽくはなる筈 鼓膜の裏側から、割れるような喝采と歓声とが響いてくる。耳を塞いでも、虫のように脳髄を這い回る騒音には効果がない。うるさい。無意識にソファから溢れた指先が、床に置かれた酒瓶を求めて彷徨う。捉えそこねた冷たい感触が、ごとりと鈍い音をたてたそこで、漸くアッシュは目蓋を押し上げた。
傾いた視界にささくれ立った木の床が映る。何か夢を視ていた気がしたが、上手く思い出せない。ただ、大方の予想はつく。緩慢な所作で上体を起こすと、今度こそアッシュは床に転がる酒瓶を手に取った。消し忘れたカンテラの灯りが、緑色の硝子とその中の液体越しに揺れている。一本飲み干してしまえば、また深い眠りが訪れるだろうか。考えながら酒瓶を抱え込み、アッシュは再度ソファへと倒れ込んだ。背もたれの向こうに見留めた窓の外では、変わらず雨が降り続いている。原因はこれか。目を閉じる。絶え間なく屋根を、大地を穿つ雨音は目蓋の裏側で大衆の喝采に転じた。ひとたび意識すると、もう駄目だった。
鼓動が速くなる。いけない。呼吸が荒くなる。アルコールだけではこの焦燥は打ち払えない。薬がいる。
転がり落ちるようにソファから下りると、床を張って乱雑に並んだ酒瓶と一緒に置かれた薬瓶へと小刻みに震える手を伸ばす。薬を一錠取り出すと口の中へと放り込んだ。流し込む為に近くの酒瓶を掴みかけたが、すんでのところで理性が警鐘を鳴らし、思い留まった。以前のアッシュであればそのまま酒を呷っていたかも知れない。口元を手の平で被いながら何とか水を見付けると、迫り上がる胃液ごと薬を飲み下して今度こそそのまま床に崩れ落ちた。
こめかみを床に押し当てたまま窓を見上げる。雷鳴が轟き、稲光が走ると夜の闇を背に雨が光の柱となって燦めく様が美しかった。そうして、喝采が大地を打ち付ける水の音に戻るのを、ただじっと待ち続けた。
どれだけ床に倒れていたのかは分からない。浅い眠りに落ちていたのかも知れない。のろのろと上体を起こしても平衡感覚を失わずに済む程度には回復したようだ。雷鳴はまだ轟いている。雨もまだ止む気配はない。そう長い時間は経っていないのかも知れない。急に、地盤が緩まないか心配になった。崩落に子供たちが巻き込まれた一件は、まだアッシュの記憶に新しい。
少しだけだ。少しだけ村の中の様子を見てこよう。こんな嵐の中、外に飛び出す自身の正気を疑いながら、アッシュは酒瓶を跨ぎ外套を手に取った。
水の礫が顔面に打ち付けてくる。雨除けの外套はすぐにその意味をなくし、重たく濡れて身体にまとわり付くただの枷になった。それでも、あの淀んだ空気の家の中で酒瓶を抱えて鬱の波が収まるのを待つより、ずっと気分は良かった。こんな雨の日だ。誰も出歩かない。誰の目もない。暴力的にけぶる雨は夜の闇と共に、全ての視線からアッシュを隠してくれる。身体は重く濡れて不自由だったが、心はいつになく軽やかで自由だった。
雑木林を抜け、人影を見ないことに安堵しながら村の中心部へと向かう。舗装されていない大地はぬかるんでいたが、旅をしていた頃はもっとひどい足場でも強行したものだし、そんな中で魔物相手に立ち回ったりもした。この程度の悪天候で、アッシュの足取りが重くなることはなかった。
普段は穏やかな流れで村を通る川も増水し、激しく飛沫を上げている。村の老人が穏やかに釣り糸を垂らす桟橋も、今は濁流に呑まれ見る影もない。雨が上がり水が引いたら、補修依頼がすだち屋に舞い込むかも知れないな、とアッシュは思った。それから、まだ崩落が記憶に新しい崖にも足を運んだ。バリケードテープは随分前に取り去られたが、今も立入禁止の札が立っている。切り立った崖の際に立ち、アッシュは足元を覗き込んだ。いつかのように、底は見えない。暗く、深い虚に、水の礫が重力に任せて吸い込まれていく。雷鳴も遠い。ただ雨の音だけが鼓膜を支配していた。或いは、いつかのアーサーを包み込む喝采だ。アッシュはその場に膝を突くと、食道を迫り上がる衝動に任せて嘔吐した。
どれだけそのままでいたかは知れない。雨水に穿たれて、吐瀉物が泥と混ざり合い流れていく様を無為に眺め遣る。目ぼしい固形物はなく、殆どが胃液だった。夕飯も食べずにアルコールを流し込んだからだ。すだち屋で食べた昼食が最後の食事ということになる。すだち屋――不意に、散漫だった意識がクリアになる。魔が差さなくて良かった。頭を抱えて蹲ると、汚泥が髪に、頬に跳ねたがそれどころではなかった。危なかった。薬を飲んだ直後だったからといって油断していた。他の場所でならまだしも、ここは駄目だ。ここは、棒切れ一本持った傷だらけの勇者を待ち続けた子供が、やっとの思いで勇者を見付けて掘り起こし、その煤ごとすくい上げた場所だ。だから、ここでは駄目だ。
長く、細い息を吐き出す。帰ろう。帰って身体を拭き、アルコールを流し込んでさっさと眠ろう。のろのろとアッシュは立ち上がった。でも、その前にすだち屋を覗こう。ふらふらとアッシュは歩を進めた。
相変わらず人気のない夜の村の中心を抜けて、緩やかな傾斜の上に石造りの店舗を見留める頃、空には再び稲光が走り始めていた。すだち屋の窓からは眩いばかりの温かい光が漏れている。まだ家人は起きているらしい。暫く眺めていると、二階の窓からもカーテン越しに光が溢れた。あそこはマオの部屋だ。階下の窓もまだ明るいままなので、ムラビトもまだ起きているのだろう。裏庭のすだちの木を剪定したのは最近のことだ。強風で折れそうな危険な枝はない筈だし、石造りの家はアッシュがねぐらにしている小屋より余程頑丈で安全な筈だ。彼らを守る魔物も傍にいる。何も心配はいらない。
もうこの場に留まる理由がないことにほんの少しの寂しさを覚えながらも胸を撫で下ろす。そうして踵を返したアッシュの視界は、その端に家人の影を捉えた。思わず足を止める。ムラビトだ。異形と化した半魔の成りで、窓辺からぼんやりと外を眺めている。こんな悪天候の中出歩く人間などいないという油断もあるのだろうが、不用心だな、とアッシュは思った。それから、十一年前の今より更に幼い子供だった頃の彼も、こんな風に雨の窓辺で外の様子を伺ったのだろうか、とも思った。
黒い空の端が光る。稲光が閃いて、大気を、雨粒を、大地を震わせる雷鳴が轟く。軽やかに重く、真実を告げた王の言葉が蘇る。あのとき、かつて置き去りにされた子供はそれでも王の言葉を否定した。全ての死者の遺灰を纏う勇者の存在を肯定した。けれど、彼が傷付けられた子供だったという事実は変わらない。もう二度と会えない父親を待ち続けた夜がなかったことにはならない。今も、そんな夜を思い出して窓辺に立っているのかも知れない。
気が付くと、アッシュはすだち屋の扉の前に立っていた。