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    クソマズミルクティー編

    #ムラアシュ

    Night in gale 滴り流れ落ちる水に歪む窓の外の光景を眺めやりながら、己の判断にそっと安堵の息を吐いた。店を早くに締めたのは正解だった。この様子だと、雨は夜通し激しく降り続くだろう。夜の優れた聴覚が雷の声を拾い、ムラビトはそのまま一秒、二秒、三秒、と窓の外に視線を向けたままカウントを始める。六秒目を舌の端に乗せるより僅かに速く、外が昼間の明るさを取り戻した。雷はまだ遠い。
     雨のにおいがする。嗅覚に長けた魔物がムラビトにそう告げたのは、店の裏に積み上げられた道具の在庫をアッシュと確認している最中だった。まず、空を見上げた。天頂を少し過ぎた太陽が燦々と輝き目が眩む。それから、西の空を見やった。青空の下、緑の山々が常と変わらず連なっている。目を凝らすと山頂に雲がかかっているように見えなくもないが、それだけだ。最後に、ムラビトは並び立つアッシュを見上げた。同じように西の空を眺めていたらしいアッシュは、ムラビトの視線に気が付くと小首を傾げ、小さく肩を竦めて笑った。それでも魔物からのサインが気になったムラビトは、早めに店を閉めることにした。店の二階に居住スペースを構えるムラビトやマオと違い、店員であるアッシュは村外れの家に帰さなければいけない。午後の疎らな客足が途絶えた頃を見計らって本格的に店仕舞いを始める。売り上げの集計はマオに任せて、ムラビトはアッシュと一緒に外に干したままの洗濯を取り込みに行った。その頃には、西の空は重暗く厚い雲に覆われていた。アッシュを見送り小一時間程が経った頃、とうとう空が泣き出した。
     ひっきりなしに鼓膜を叩く雨音の合間を縫って、蝶番の軋む音が届く。振り返ると、琥珀色の視線にかち合った。湿度をはらむ薄紅色の髪をタオルで拭きながら、少女の姿をした魔族の王が部屋の中に入ってくる。

    「まだ起きてるのか」

     ムラビトの手元を覗き込みながらマオは言った。

    「はい。新作の改良をもう少し。発酵させることで効果は確かに高まってるんですけど、においが気になるお客様も多いみたいで。なのでちょっとオーバーナイトを試してみようかと」
    「……何だかパン屋みたいだな」
    「あ。わかります?パン屋でバイトしてたときに何かに使えそうだな、って思ったんですよね」
    「ムラビトお前、やっぱ他にもっと天職があるんじゃないのか」

     マオの胡乱な視線を受け流しながら、ムラビトは秤の上の器に砂糖を乗せていく。そこに、少女の華奢な指が伸びた。砂糖片を一片つまみ上げると、そのまま口の中へと納める。

    「もう。歯、磨き直してから寝て下さいね」

     不足分を追加してから、ムラビトは砂糖袋に封をした。その過程で、窓の外を見る。心なしか、雨足が更に強くなっているように思えた。

    「心配か」

     指先に付いた砂糖の粉を舐めながらマオが言った。少し迷ってからムラビトが小さく顎を引くと、彼女は呆れたように溜め息を溢す。

    「この前、崖が崩れたときも雨の日でしたし。あれ以来、村の危なそうなところは一通りみんなで点検はしたけど」
    「間違っても様子を見に行こう、などと思うなよレベル1」

     釘を刺されて言葉に詰まった。視線を逸らしながら、行きませんよとムラビトは返す。
     子供たちが崖崩れに巻き込まれ、岩の下敷きになったあの日も雨が降っていた。雨は強かったが、激しく降り注ぐほどのものではなかった。それでも、弱った地盤に浸透し、崩落させるには充分だった。
     あの日――目蓋の裏に焼き付いた情景を反芻する。雷を伴う雨雲を斬り裂く鋭い一閃が蘇る。湿度でふやけて強度を欠いた草臥れた木の棒とも、枝ともつかない得物を握る、傷だらけの手を脳裏に描く。

    「まぁいい。我はもう寝る。お前もほどほどにしてさっさと上がれ」

     思考の淵に沈んでいたムラビトを、マオの一声が引き戻した。猫の子のような気まぐれな所作で、翻った薄紅色が扉へと向かう。だが、そのまま部屋を出ていくのかと見送ったムラビトの予想に反して、彼女はドアノブに手をかけたまま動かない。

    「ムラビト」

     視線は交わらない。マオは変わらず、ムラビトに背中を向けている。

    「あの変態のことなら気にするな。一人でも、どうにでもなる」

     先ほどまで思い描いていた情景を見透かされたようで、ムラビトは何となく気恥ずかしさを覚えた。彼女は背中を向けたままだったが、誤魔化すように頭をかく。

    「そう、ですね。でも、こんなに酷い雨になるなら、泊まっていって貰えば良かったかな、って」

     魔物のみんなには申し訳ないけど。付け加えると、そこでやっとマオはムラビトの方を向いた。だが、続く言葉はなく、何故かそのまま視線を床に落としてしまった。マオさん。呼び掛けると、観念したように彼女は口を開いた。

    「あれの家の近くには……土砂崩れの危険があるような山はない。それに、もう一度言うがあの変態は曲がりなりにも勇者だ。万が一があってもこの程度の天災、難なく切り抜けるだろうよ」

     土砂崩れ。そう言葉を発したとき、マオの声が微かに震えた。魔族の聴覚でなければ拾えなかったかも知れない。

    「そうですね、ありがとうございます」

     マオの思い遣りに感謝すると、頬を赤らめた彼女は今度こそそっぽを向いてしまった。

    「そんなに気掛かりなら、朝一番で迎えに行ってやれ」

     そう言い残して、マオは部屋をあとにした。
     部屋の中に、再び雨音だけが響く静寂が戻る。残されたムラビトは試作品の入った瓶の蓋を締め、倉庫の冷暗所にしまう。明日、アッシュの家に向かう前に一度様子を見よう。考えながら引き戸を閉じた。
     鉢植えのマンドラゴラ兄弟に就寝の挨拶をしてキッチンを出ると、その足で店舗へと向かう。寝る前に最後の戸締まりを確認するのは、父と暮らしていた頃からの習慣だ。金庫の施錠を確かめ、窓へと近付く。外は相変わらずの豪雨だ。家の中にいてさえ、空気が震えているように感じる。稲光が閃くと、夜の闇に沈んだ家々の輪郭が浮き上がって見えた。
     土砂崩れ。口の中で、ムラビトは先の少女の言葉をなぞり、転がした。土砂に飲まれ、命を失った大好きな人を思った。きっと、魔族の王は雨の日に家族を亡くしたムラビトを慮ってくれたのだろう。同時に、あの日に想いを馳せるムラビトが、更にアッシュの身を案じて不安を募らせるのではないかと心を砕いてくれたのかも知れない。優しい女性だ。確かに、激しい雨の日は父を思い出すことが多かった。返事は手紙ではなく声で聞きたいと溢したムラビトの我が儘を、ただ一人、彼女だけが聞いていた。
     手紙一つ残して、「帰ってこない」は嫌だった。あのときは、符号の一致に背筋が寒くなった。だが、今はどうだろう。自身に問う。この雨は恐ろしいものだろうか。問い掛ける。窓の外では雨風を受けて斜めに唸る、すだちの梢が揺れている。答えは出ない。諦めて、ムラビトはカーテンを閉めると窓から離れた。最後に店の出入口の鍵を確認する為、踵を返す。施錠はきちんとされていた。問題ない。居住スペースへと向かう道すがら、ムラビトは店舗の灯りのスイッチへと手を伸ばした。明るかった店内が、夜の暗闇を取り戻す。そのとき、戸板を叩く雨音とは異質な、何かを叩くような音が近くから聞こえたような気がした。何だろう。とうとう雷が近くに落ちたのだろうか。振り返る。灯りがなくとも、ムラビトの優れた視野は部屋の細部を見通すことが出来た。その明瞭な視界が、蠢くドアノブを捉える。そこで、先ほど聞こえた何かを叩くような物音が、外から扉を叩くノックだったのだと思い当たった。同時に、この大嵐の中、扉一枚を隔てた向こう側に誰かが立っているという事実にムラビトは頭を殴られたかのような衝撃を受けた。

    「店長ー。いねぇのー?もう寝ちまったかぁ?」

     俺、俺、アッシュ、アッシュ。扉の向こうから、雨音の中にあっても明朗にムラビトを呼ぶ声がする。急ぎ、扉へと駆け寄るとムラビトは施錠を外し勢い良く扉を開け放った。案の定、風と共に吹き込んだ容赦のない雨水がワックスをかけたばかりの床に飛散し、ムラビトの足元までをも濡らした。だが、今はそんな些事に感けている場合ではない。

    「何やってるんですかアッシュさんっ!」
    「お。何だ、起きてんじゃん」
    「い、いいからほら!早く入って下さい!」

     叩き付けるような豪雨の中、申し訳程度に外套を引っ掛けただけのいつもの出で立ちの従業員の手を掴み、店の中へと引き入れる。濡れるぞ店長。ムラビトに手を引かれるがままの男は後ろ手に扉を閉め、淀みなく鍵をかける。

    「あーあ、びっちゃびちゃにしちゃってまぁ。誰が掃除するんだよ、これ」
    「本当に何しに来たんですか、こんなときに!馬鹿なんですか?」
    「店長だってマオと一緒に襲撃に来ただろ、人の寝入りばなによ」
    「その節は大変申し訳ないことをしたと深く反省していますが、僕は時間帯ではなくこの悪天候の話をしています」
    「いいよ。許すよ。いや、寝ようと思ったら酒が切れててさぁ。すだち屋になら置いてあるだろうな、って」
    「馬鹿なんですね」

     アルコールはアッシュにとっての睡眠導入剤だ。その上、この暴力的な雨音は彼の入眠を一層妨げるものになっただろう。強く酒を求める気持ちに歯止めがきかなくなるのも仕方がないことなのかも知れない。

    「だからって、お酒の為に命かけないで下さい……アッシュさんにとってはこれくらいの雨、問題にもならないって解ってますけど。心配なものは心配なんです」
    「……悪かった」

     アッシュにしては珍しく、素直な謝罪の言葉が降ってきた。だが、ムラビトは驚かなかった。王城で、この国を治める王から長引いた大戦とその終結を聞かされていたからだ。彼を傷付ける為に引き合いに出された父の死が脳裏に過ぎっただろうことは、想像に難くない。言葉選びを間違えた。ただアッシュの身を案じていると伝えたかっただけなのに、失敗した。

    「タオル、取ってきます。お湯の準備もしてきます」

     努めて明るく、ムラビトは言った。

    「帰っちゃ駄目ですよ。今日は泊まってって下さい」
    「いいの?魔物が怯えるんだろ」
    「緊急避難です。みんな解ってくれます」
    「酒出る?」
    「……適宜」

     ムラビトの譲歩に、アッシュは薄く笑ってみせた。勇者ではなく、ムラビトのよく知るただのアッシュの笑みだった。

    「戻って来るまでそこ、動かないで下さいね。動くと被害が拡がるんで」

     外套脱ぐアッシュの足元の水溜まりを指してムラビトは言った。急いで居住スペースへと駆け上がるムラビトの背中に、はーいと間延びした声が返った。





     鼓膜の裏側から、割れるような喝采と歓声とが響いてくる。耳を塞いでも、虫のように脳髄を這い回る騒音には効果がない。うるさい。無意識にソファから溢れた指先が、床に置かれた酒瓶を求めて彷徨う。捉えそこねた冷たい感触が、ごとりと鈍い音をたてたそこで、漸くアッシュは目蓋を押し上げた。
     傾いた視界にささくれ立った木の床が映る。何か夢を視ていた気がしたが、上手く思い出せない。ただ、大方の予想はつく。緩慢な所作で上体を起こすと、今度こそアッシュは床に転がる酒瓶を手に取った。消し忘れたカンテラの灯りが、緑色の硝子とその中の液体越しに揺れている。一本飲み干してしまえば、また深い眠りが訪れるだろうか。考えながら酒瓶を抱え込み、アッシュは再度ソファへと倒れ込んだ。背もたれの向こうに見留めた窓の外では、変わらず雨が降り続いている。原因はこれか。目を閉じる。絶え間なく屋根を、大地を穿つ雨音は目蓋の裏側で大衆の喝采に転じた。ひとたび意識すると、もう駄目だった。
     鼓動が速くなる。いけない。呼吸が荒くなる。アルコールだけではこの焦燥は打ち払えない。薬がいる。
     転がり落ちるようにソファから下りると、床を張って乱雑に並んだ酒瓶と一緒に置かれた薬瓶へと小刻みに震える手を伸ばす。薬を一錠取り出すと口の中へと放り込んだ。流し込む為に近くの酒瓶を掴みかけたが、すんでのところで理性が警鐘を鳴らし、思い留まった。以前のアッシュであればそのまま酒を呷っていたかも知れない。口元を手の平で被いながら何とか水を見付けると、迫り上がる胃液ごと薬を飲み下して今度こそそのまま床に崩れ落ちた。
     こめかみを床に押し当てたまま窓を見上げる。雷鳴が轟き、稲光が走ると夜の闇を背に雨が光の柱となって燦めく様が美しかった。そうして、喝采が大地を打ち付ける水の音に戻るのを、ただじっと待ち続けた。
     どれだけ床に倒れていたのかは分からない。浅い眠りに落ちていたのかも知れない。のろのろと上体を起こしても平衡感覚を失わずに済む程度には回復したようだ。雷鳴はまだ轟いている。雨もまだ止む気配はない。そう長い時間は経っていないのかも知れない。急に、地盤が緩まないか心配になった。崩落に子供たちが巻き込まれた一件は、まだアッシュの記憶に新しい。
     少しだけだ。少しだけ村の中の様子を見てこよう。こんな嵐の中、外に飛び出す自身の正気を疑いながら、アッシュは酒瓶を跨ぎ外套を手に取った。

     水の礫が顔面に打ち付けてくる。雨除けの外套はすぐにその意味をなくし、重たく濡れて身体にまとわり付くただの枷になった。それでも、あの淀んだ空気の家の中で酒瓶を抱えて鬱の波が収まるのを待つより、ずっと気分は良かった。こんな雨の日だ。誰も出歩かない。誰の目もない。暴力的にけぶる雨は夜の闇と共に、全ての視線からアッシュを隠してくれる。身体は重く濡れて不自由だったが、心はいつになく軽やかで自由だった。
     雑木林を抜け、人影を見ないことに安堵しながら村の中心部へと向かう。舗装されていない大地はぬかるんでいたが、旅をしていた頃はもっとひどい足場でも強行したものだし、そんな中で魔物相手に立ち回ったりもした。この程度の悪天候で、アッシュの足取りが重くなることはなかった。
     普段は穏やかな流れで村を通る川も増水し、激しく飛沫を上げている。村の老人が穏やかに釣り糸を垂らす桟橋も、今は濁流に呑まれ見る影もない。雨が上がり水が引いたら、補修依頼がすだち屋に舞い込むかも知れないな、とアッシュは思った。それから、まだ崩落が記憶に新しい崖にも足を運んだ。バリケードテープは随分前に取り去られたが、今も立入禁止の札が立っている。切り立った崖の際に立ち、アッシュは足元を覗き込んだ。いつかのように、底は見えない。暗く、深い虚に、水の礫が重力に任せて吸い込まれていく。雷鳴も遠い。ただ雨の音だけが鼓膜を支配していた。或いは、いつかのアーサーを包み込む喝采だ。アッシュはその場に膝を突くと、食道を迫り上がる衝動に任せて嘔吐した。
     どれだけそのままでいたかは知れない。雨水に穿たれて、吐瀉物が泥と混ざり合い流れていく様を無為に眺め遣る。目ぼしい固形物はなく、殆どが胃液だった。夕飯も食べずにアルコールを流し込んだからだ。すだち屋で食べた昼食が最後の食事ということになる。すだち屋――不意に、散漫だった意識がクリアになる。魔が差さなくて良かった。頭を抱えて蹲ると、汚泥が髪に、頬に跳ねたがそれどころではなかった。危なかった。薬を飲んだ直後だったからといって油断していた。他の場所でならまだしも、ここは駄目だ。ここは、棒切れ一本持った傷だらけの勇者を待ち続けた子供が、やっとの思いで勇者を見付けて掘り起こし、その煤ごとすくい上げた場所だ。だから、ここでは駄目だ。
     長く、細い息を吐き出す。帰ろう。帰って身体を拭き、アルコールを流し込んでさっさと眠ろう。のろのろとアッシュは立ち上がった。でも、その前にすだち屋を覗こう。ふらふらとアッシュは歩を進めた。
     相変わらず人気のない夜の村の中心を抜けて、緩やかな傾斜の上に石造りの店舗を見留める頃、空には再び稲光が走り始めていた。すだち屋の窓からは眩いばかりの温かい光が漏れている。まだ家人は起きているらしい。暫く眺めていると、二階の窓からもカーテン越しに光が溢れた。あそこはマオの部屋だ。階下の窓もまだ明るいままなので、ムラビトもまだ起きているのだろう。裏庭のすだちの木を剪定したのは最近のことだ。強風で折れそうな危険な枝はない筈だし、石造りの家はアッシュがねぐらにしている小屋より余程頑丈で安全な筈だ。彼らを守る魔物も傍にいる。何も心配はいらない。
     もうこの場に留まる理由がないことにほんの少しの寂しさを覚えながらも胸を撫で下ろす。そうして踵を返したアッシュの視界は、その端に家人の影を捉えた。思わず足を止める。ムラビトだ。異形と化した半魔の成りで、窓辺からぼんやりと外を眺めている。こんな悪天候の中出歩く人間などいないという油断もあるのだろうが、不用心だな、とアッシュは思った。それから、十一年前の今より更に幼い子供だった頃の彼も、こんな風に雨の窓辺で外の様子を伺ったのだろうか、とも思った。
     黒い空の端が光る。稲光が閃いて、大気を、雨粒を、大地を震わせる雷鳴が轟く。軽やかに重く、真実を告げた王の言葉が蘇る。あのとき、かつて置き去りにされた子供はそれでも王の言葉を否定した。全ての死者の遺灰を纏う勇者の存在を肯定した。けれど、彼が傷付けられた子供だったという事実は変わらない。もう二度と会えない父親を待ち続けた夜がなかったことにはならない。今も、そんな夜を思い出して窓辺に立っているのかも知れない。
     気が付くと、アッシュはすだち屋の扉の前に立っていた。





     アッシュに湯船を提供すると、ムラビトはその足で再びキッチンに戻った。
     片手鍋に牛乳を注いで火にかける。温まる間、薬草の入った瓶を取り出す為に戸棚に向かった。真っ先に乾燥させた白い小花の瓶を手に取る。カミツレだ。それから、独特の花が咲く時計草の葉の入った瓶もテーブルに置く。西洋弟切にも手を伸ばし掛けたが、やめた。王都で処方された薬を持ち帰っている筈だ。併用するべきではない。代わりに、壺草を入れることにした。独特の苦味があるので味を損なうかも知れないが、仕上げに少量を入れる程度なら主張し過ぎることもない筈だ。吟味している間に温まった牛乳に、乾燥させた花や葉を入れる。片手鍋を時折回し揺らしていると、真っ白だったミルクがほんのりと色付いていく。仕上げに壺草を入れ、茶漉しを通してティーポットにミルクティーを注いだ。トレイの上に乗せ、冷めないようにポットカバーを被せる。それから、最後に二人分のマグカップとハニーディスペンサーを乗せた。ディスペンサーの中身の蜂蜜はすだちの花の蜂蜜だ。
     トレイを持って階段を上がると、魔物たちが父が使っていた書斎から出て来たところだった。アッシュが使う寝具の運び入れを頼んでいたからだ。

    「ありがとう、みんな」

     感謝の意を伝えて頭を撫でると、嬉しそうに魔物は複眼を細めた。だが、すぐにその表情を曇らせる。

    「勇者が泊まるのはちょっとこわいもん」

     魔王様のお願いだから我慢するけど。俯く魔物の頭を、もう一度ムラビトは撫でた。

    「ごめんね。僕もアッシュさんと同じ部屋で寝るから、みんなはいつも通りにしてて」
    「何だ、結局来たのかあの変態」

     声のした方へ視線を遣ると、先に就寝した筈のマオが自室の扉から顔を覗かせている。人が出入りする気配で目を覚ましたのかも知れない。悪いことをしたな、とムラビトは思った。

    「すみませんマオさん。でも、この雨の中を帰すわけにもいかなくて……あ。マオさんもアッシュさんと」
    「要らん。この流れで顔を突き合わせてみろ。奴からどんなおぞましい言葉が飛び出すか……想像に難くない」

     吐き捨てるように告げると、マオは部屋に戻って行った。施錠の音が廊下に響き渡る。魔物たちも、魔王様おやすみなさい、と言いながらムラビトの部屋の扉を続々とくぐっていくところだった。
     「アウェーですなぁ」最後まで残っていたクチモグラが、トレイで手の塞がっているムラビトの為に書斎の扉を開けてくれた。「それではおやすみなさいませ、ムラビト様」

     書斎は暗かった。父が使っていたのは十年以上も前のことなので、主のにおいのようなものはすっかりなくなってしまっている。それでも、足を踏み入れればいつだってそこに懐かしさはあった。そんなかつて父の使っていた書斎に、誰かがいるというのは不思議な気分だった。

    「サイズ、大丈夫でしたか」

     外からの僅かな明かりのようなものを頼りに辿り着いた机にトレイを置いて、ムラビトは壁側を向いて立つ背中に声をかける。雨水と泥を含んで汚れた衣服の代わりに渡しておいた父の服に着替えたアッシュが振り返った。明るいところでは実りの秋の小麦畑のようにさんざめく黄金色の髪が、稲光を映し込んで仄白く煌めいて揺れる。

    「おう。脚の丈がちょっと足りてないけどな」
    「裸でうろうろされなければ問題ないです」
    「そこかー」

     マッチを擦り、ムラビトはランプに火を灯した。部屋の中が明るく照らし出される。魔物たちが運び入れてくれた二人分の寝具はソファの上に積まれていた。一人はソファで良いだろうが、もう一人が眠る場所を確保するには机を部屋の端に寄せる必要があるな、とムラビトは思った。

    「灯りくらい点けたら良かったのに」
    「夜目は利く方だし、ちょいちょい明るかったから」
    「面倒だっただけですよね」

     アッシュは否定も肯定もしない。いつまでも壁の傍に立っていて、そこから動く気配もない。小さく息を吐き出してから、ムラビトはアッシュに近付いた。

    「あ」

     そこでやっと気が付く。隣に並び立つアッシュの口角が、にぃ、と吊り上がった。

    「似てる」

     壁際のキャビネットの上に、幼い頃のムラビトと映る父の写真がが置かれている。すだちの木の前で撮ったものだ。すぐにアッシュが一人書斎にいる間、この写真をずっと見ていたのだと思い当たりムラビトは気恥ずかしさで閉口した。そんなムラビトの動揺に気付いているのかいないのか、節の目立つ傷跡だらけの大きな手を伸ばして、アッシュがそっと写真立てを持ち上げた。

    「いい写真だな」

     アッシュの親指がそっと、幼い頃のムラビトを撫でるように滑った。途端に、脳裏を過ぎる王城で彼に頭を撫でられた記憶が、ムラビトをますます落ち着かない気持ちにさせた。

    「店長、ちっせぇ頃から店長だよな」
    「確かに童顔ですけど……そこはあんまり父ちゃんに似なかったんですよね」
    「店長、十八だったっけか。うーん……」

     アッシュは口を閉ざし、写真に視線を落とす。

    「アッシュさん、そこで黙り込まないで下さい」
    「……いや、やっぱこうして写真見ててもあんま思い出せないもんだな、ってさ」

     雨音に掻き消されそうな声が静謐に響いた。顔を上げると、ムラビトは並び立つアッシュの横顔を見詰める。

    「ここに来たことも、店長の親父さんに準備道具一式譲って貰ったことも覚えてる。けど、あのときの顔も声も、おぼろげにしか覚えちゃない」

     薄情なもんだ。そう呟いて、アッシュは自嘲めいた笑みを浮かべた。写真ばかり見詰めていないでこっちを向いてくれたら良いのに、とムラビトは思った。

    「……そんなこと、ないです」

     アッシュの空いている方の手を取り、ムラビトは言った。やっと、彼はムラビトの方を見てくれた。

    「こんな夜に、こうして、僕の隣で、他でもないアッシュさんが父ちゃんのことを思い出しながら話をしてくれている。それだけで充分です」

     瞳にランプの灯りが映り込んで揺れている。アッシュの碧い眼は暗がりの中では、深く濃い藍色に染まって見えた。その双眸が、ムラビトの何かを探るように、見透かそうとするかのように、思案深げに細められる。彼の意図は判らない。望む応えの見当もつかない。だからただ、ムラビトは繋いだ手を一層強く握り込んだ。

    「お茶、持ってきたんです。冷めない内に飲みましょう」

     促すように手を引くと、アッシュは写真立てを元の位置に戻して大人しくムラビトについて来た。寝具に占領されていないソファに座る彼を見遣り、それからポットのミルクティーをマグカップに注ぐ。湯気に乗って薬草の香りが立ち上った。

    「蜂蜜もあるのでお好みでどうぞ」

     マグカップをアッシュに手渡し、ムラビトはそのまま床に座る。

    「何で床?」

     マグカップに口を押し当てながらアッシュが口を開いた。

    「もう一つのソファはあの通りですし、アッシュさんを床に座らせるわけにはいきませんし」
    「そうじゃなくて。俺の隣空いてるじゃん。座れば?」
    「いいんですか?」
    「いいも何もお前、この家の家主で俺の雇い主だろーが」

     確かにその通りだ。ムラビトは立ち上がり、アッシュの隣に浅く腰掛ける。ソファは三人掛けで、大柄なアッシュが隣に座っていても全く圧迫感はない。

    「何かこれ、口に苦味が残るな。何?三つ葉……は入れねぇよなあ」

     ディスペンサーに手を伸ばすアッシュに問われる。ムラビトもミルクティーを口に含んだ。

    「……壺草ですね。苦味が出過ぎちゃいました。商品化は無理かぁ」
    「従業員で臨床すんなよ、訴えんぞ……まぁ、不味くはないが、身体に良さそうな味が人を選ぶだろーな。チンキとかにした方がイケんじゃね?」
    「それ、単にアッシュさんがアルコールで摂取したいだけですよね」

     だが、アッシュの言葉も一理ある。チンキであれば水溶性の成分だけでなく、脂溶性の成分の抽出も期待が出来るからだ。そもそも、ミルクティーにしようとしたこと自体無理があったかも知れない。ムラビトが眉間に皺を寄せながらマグカップの中身を啜っていると、アッシュがディスペンサーを差し出してくれた。

    「……アッシュさん」

     ミルクティーに蜂蜜が溶けていく。苦味が少し和らいで飲みやすくなった。

    「もしかして、僕のこと心配して来てくれたんですか?」

     奇妙な感覚に背中を押されて、気が付けば問うていた。雷が鳴る。闇夜を裂く閃きが、アッシュの輪郭を淡く、舐めるように浮き彫き上がらせた。漠然と、その頬に触れてみたいな、とムラビトは思った。
     途端に、気恥ずかしさを覚えて、アッシュから視線を外し白濁としたマグカップの中身へと落とす。

    「すみません。確信というか、願望ですけど」
    「そうだよ」

     弾かれるように顔を上げると、アッシュと目が合った。けれど彼の双眸は普段の精彩さを欠いて、何処か望洋としているようにも見えた。

    「まぁ、半分は」
    「半分」

     もう半分は何だろう。純粋に疑問に思って小首を傾げるムラビトの髪に、アッシュの指先が絡んだ。突然のことで、動作と共に思考が停止する。もしかすると、呼吸も止まっていたかも知れない。

    「残りは、何だろうな」

     ムラビトの髪を弄びながらアッシュは言った。アッシュ自身も残りの半分の感情に、名前を付けられずにいるようだった。

    「僕は……こんな夜はやっぱり、父ちゃんのことを、思い出します」

     髪に触れていた手の動きが止まる。はらはらと髪を溢しながら離れていく指先を、ムラビトは逃さなかった。

    「でも、残りの半分は、アッシュさんのことを思い出してました。木の棒一本で岩を断ち切って、分厚い雨雲を切り裂いた、もう一度来てくれたアッシュさんの姿を」
    「……そんなことで、上塗り出来ねぇだろ」

     手の平の中の指先が強張る。硝子戸に激しく打ち付ける雨音に混ざり、鼓膜に焼き付いて離れない王の慟哭が蘇る。きっと、今のアッシュも同じ声が聞こえている。

    「それでも、アッシュさんのお陰で僕はもう、帰らない父親を思い出して泣くだけの可哀想な子供にならずに済むんです」

     上塗りは出来ない。その通りだ。遺族であるムラビトが、どんなに言葉を重ねてもきっとアッシュの悔恨はなくならない。それでも伝えなくてはならない。伝え続けなければならない。その為にも、決して彼を手放すわけにはいかなかった。

    「店長ってさ、大概俺のこと好きだよな」

     簡単に振り解ける筈の、ムラビトに握られた手をぼんやりと眺めながらアッシュは言った。

    「そ、う……ですね。はい……大好きです」
    「また来るかどうかもわかんねぇ野郎を十年以上も待ってたって時点で、推して量るべきだったんだろうが」
    「あの、僕が待ってたのは勇者様じゃなくて、勇者になったアッシュさんなので」

     この期に及んで偶像を待っていたと思われては困る。念の為に訂正の意を込めて付け加えれば、分かってるって、とアッシュはマグカップをわざわざ置いて、それからムラビトの頭を撫でた。

    「分かってはいたけどよ。でも、こんだけ熱烈だと勘違いしそうになるわ」
    「勘違いじゃないです。合ってます」

     浅く、息を吐き出すようにアッシュが笑った。ムラビトの言葉を、まるで信じていないかのような酷薄さすら感じさせる笑みだった。
     「店長はさぁ」言いながら、ムラビトの頭にに触れていた男の手が離れていく。「いい奴で、色んな奴が好きで、好かれて」謳うように先の言葉を続けて、アームレストに上体を預けたアッシュは天井を仰いだ。

    「でも、それが店長の普通。特別なことじゃない」

     つられて、彼の手を握ったままでいたムラビトもバランスを大きく崩す。マグカップだけは何とか死守して、安堵の息を吐いた。だが、傾いた身体は半ばアッシュに乗り上げる形になっている。近い。これはまずい。

    「俺、結構醜態晒してっし、店長博愛主義だからなぁ」

     博愛。聞き捨てならない単語を耳が拾う。違う。この執着は、そんな綺麗な感情ではない。だのに、目の前の男はこの期に及んで、あの騒動とその発端となったムラビトの動機を、博愛の一言で片付けようとしていた。
     大きく息を吸う。ほのかに酒気を帯びたアッシュのにおいがした。

    「言い方を変えます。そのまま勘違いしてて下さい。勘違いして、自惚れて下さい」

     アッシュの身体に乗り上げる。邪魔なマグカップを机の上に置こうとして失敗した。落ちる。解っていても手を伸ばす余裕はなかった。縋り付くように、アッシュの肩口に手を掛けた後だったからだ。彼は、何か不思議なものにでも対峙しているかのような目でムラビトを見上げていた。見上げて、何か言葉を発しようと口を開きかけたそこに、ムラビトは噛み付く。だから、彼の発しようとした先の意図は知れない。アッシュの言葉だけではない。マグカップが床に落ちる音も、暴力のように窓ガラスを叩く雨も、閃光を伴う雷鳴も、全ての音を呑み込んでムラビトはアッシュに口付けた。
     息苦しくなって離れる。初めてのことなので呼吸のタイミングが掴めない。そもそも、何故こんなふうに彼の口を塞ぐことになったのか、唇を解放されても尚、言葉を失ったまま目を見開いて固まる男を見下ろしていても何も思い出せない。ただ分かっているのは、“足りない”という身の内から湧き熾る衝動だけだった。
     もう一度。突き動かされるように、薄く乾いた唇目掛けてムラビトは上体を屈めた。だが、寸でのところで阻まれる。顔を覆うように、大きな手のひらがムラビトの口元を塞いでいた。邪魔だな、とムラビトは思った。

    「……だめですか?」

     少し身体を引いて、アッシュの唇の代わりに手のひらに口付ける。剣を握り過ぎて潰れたまめに、深く刻まれた傷痕の薄くなったはだえに、その一つ一つに唇を落とす。耐え兼ねたらしいアッシュが、とうとう手のひらをムラビトから除けて叫んだ。叫ぼうとした。

    「だ、だめとかだめじゃないとか以前に、俺さっきゲロ吐い」

     みなまで言い終わる前に、叫び声ごと男の荒れた唇を飲み込む。固く結ばれたままの口を舌先でなぞるが、開かれる気配はない。

    「アッシュさん」

     アッシュの下唇を口に含んだまま、ムラビトは非難の意を込めて名前を呼んだ。

    「そんなかわいい顔しても駄目です。離れなさい」

     眉根を強く寄せてアッシュが言った。彼の言葉の意味を理解するより先に、開いた口の中に舌先を滑り込ませる。なるほど。確かに甘ったるいミルクの風味に混ざって、心なしか饐えた味が味蕾を刺激した。吐いたという彼の申告は、ムラビトを拒絶する為の出任せではなかった。そうして、心行くまで口の中を堪能し、一通り舐めたり吸ったりしてから、漸くムラビトはアッシュから身体を離した。見下ろす男の顔に、先のような驚きの色はない。ただ、何処か胡乱な半眼でムラビトを見上げている。

    「……店長、酒でも入ってんの?」
    「そんな。アッシュさんじゃあるまいし」

     こめかみに口付けようとして失敗した。襟首を回り込んだアッシュの手に掴まれて阻まれたからだ。

    「はいはい店長ステイステーイ!これ以上はほんともう洒落になんないから!なっ?」
    「……だって」

     肩口に添えた手を握り締める。まるで男に似合わない父の服がよれて皺になる。

    「だってアッシュさんが、わからず屋だから」

     悔しい。悔しくて声が震えた。

    「それは、まぁ……俺にも非があったかも知れないけどさぁ。でも、親父さんの服着て、親父さんの書斎で、押し倒されてちゅーされる俺の居た堪れなさも考えろって店長」
    「それは」

     言い淀む。

    「倒錯的ですね」
    「だろぉ?」

     途端に恥ずかしくなった。握り締めていたアッシュの肩口と手を開放してムラビトは上体を起こした。
     気が付けば暴力のような風の勢いは鳴りを潜めていて、雨も今はただ静かに降っている。雷の音も遠い。いつの間にか過ぎ去ろうとしている嵐に、置き去りにされたかのような心細さを覚える。

    「まぁ、夜だしなぁ……感情が昂ぶると抑えが効かなくなってとち狂っちゃったのは魔王の血のせいもあるのかもな」

     可哀想に。ムラビトの額から伸びた角に触れながらアッシュは言った。

    「取り敢えず、相手が俺で良かったよな」

     アッシュが明朗に笑う。腑に落ちない。ムラビトは歯噛みした。

    「アッシュさんじゃなかったら、してません。アッシュさんで良かったんじゃなくて、アッシュさんが良かったんです」
    「いいや。俺で良かったんだよ」

     そう言ってアッシュは立ち上がると、床に落ちたマグカップを拾い上げる。マグカップには少しひびが入っていた。

    「……わからず屋」

     呟いて、ムラビトも立ち上がる。机の上に拡げた茶器をトレイに戻しながら階下に雑巾を取りに行く旨を伝えると、アッシュが両手の塞がったムラビトの為に扉を開けてくれた。
     茶器を洗い、雑巾と洗剤を混ぜたバケツを持って書斎に戻ると、部屋のほぼ中央に置かれていた机は端に寄せられていた。溢したミルクティーが拭きやすい。

    「湿気った床に布団敷きたくねぇよなぁ。どうする店長?自分の部屋戻って寝る?」
    「僕が同じ部屋で寝ると意識しますか?」

     雑巾を絞りながらムラビトは言った。無性に腹がたった。ムラビトの問いにアッシュは答えない。代わりに無言で二つのソファを寄せて、これなら二人いけっかな、と首を傾げた。





     鳥の囀りが聞こえる。名前は分からない。店先の落ち葉と小枝、僅かばかりの砂利を掃いて一箇所にまとめ、アッシュは顔を上げた。よく晴れた東の空は既に夜の気配がする。日没がすぐそこまで迫っていた。
     竹箒の柄に顎を乗せ、アッシュは窓からそっと店の中の様子を伺う。客の姿はなく、カウンターの向こうでマオが大きな欠伸をしていた。吊り目がちの大きな瞳に涙の膜が張るが、微妙にアッシュの好みの表情からは外れている。残念だ。マオにつられて出そうになった欠伸を噛み殺しながら、アッシュは店の裏手にちりとりを取りに向かう。残照を背に拡がる雑木林が、その輪郭を黄金色に滲ませていた。人々が恐れる魔物の時間の先触れだ。

    「アッシュさん」

     ちりとりを手にしたところで名前を呼ばれる。店の小窓から宵の口の風に髪を揺らすムラビトの顔が覗いているのを見留めた。

    「お客さんも来ないし、掃き掃除が済んだら中で一服どうぞ」
    「何?酒?」

     気ぃ利くじゃん。軽口を叩きながら小窓に近付くと、これ見よがしに大きな溜め息をついてムラビトは肩を落とす。

    「いいから、風も出てきたしゴミが散らばっちゃう前に片付けて下さい」
    「へいへい」

     言うべきことだけを言ってムラビトの頭が小窓の向こうに引っ込みかけた。そこに、また、鳥の澄んだ鳴き声が茜色の空高く響いた。囀りに、窓を閉じようとしていたムラビトの手が止まる。

    「小夜鳴き鳥だ」

     聞いたことのある名前だ。

    「ああ、死人が出た家の窓辺で鳴くとかそういう鳥だっけか。別名、墓場鳥」
    「何ですかその物騒な風評被害は。こんな綺麗な鳴き声なのに」
    「いや、マジでそういう謂れがあるんだって」
    「知りませんよ。僕が知ってるのは、」

     ムラビトの声が途切れる。先の言葉を続けることに迷いがあったからだ。その迷いに気付くのが遅かった。

    「夜に恋を歌う鳥、ってことだけです」

     言うだけ言って、逃げるようにムラビトは窓を閉める。その耳が心なしか朱く染まっていたことには気付きたくなかった。一人取り残されたアッシュは、失敗した、と頭を抱えて思った。
     嵐の日から三日が経とうとしていた。結局、あの夜は何もなかった。ソファを寄せて確保した二人分の寝床に並んで寝ても特に問題なく朝日は上ったし、翌朝のムラビトはいつものムラビトに見えた。それから三日だ。だから、あの夜に垣間見たムラビトの挙動は、嵐で参っていた情緒を魔王の血が後押しした結果の暴走ということでアッシュの中では片付けられようとしていた。

    「……その矢先に、そういうこと言っちゃうのかよ店長」

     思わず溢れた声が、愕然と響いて夕暮れの空気に溶けて消える。誰の耳にも届くことのなかった呟きに、小さな鳥が囀りで相づちを打った。
     店の中に戻ると、カウンターに座るマオは眉根を寄せてアッシュを見上げてきた。嫌悪感を露骨に露わにした表情に癒やされる。ムラビトとのやり取りで少し途方に暮れていたアッシュに、愛らしいマオの上目遣いは何よりの良薬だ。

    「何かろくでもないこと考えてるだろお前」

     生ゴミでも見るような視線を微笑ましく思いながら受け流す。そんなアッシュの態度が気に入らないのか、マオは一つ舌打ちをして手にしたグラスに刺さるストローを口に含んだ。彼女も休憩中のようだ。客の姿のない店内を見渡して得心がいったアッシュは、そのまま奥のキッチンへと向かう。流しに立つムラビトはいつもの平静さを取り戻しているように見えた。

    「どうぞ」

     窓際に椅子を引き寄せて座ったアッシュに、ムラビトがグラスを差し出す。先程、マオがカウンターで飲んでいたものと同じ、薄っすらと色付いた白濁色をしていた。からん、とグラスの中で氷が涼し気な音を立てる。

    「ミルクティーです。ベルガモットじゃなくて酢橘の精油で香り付けした紅茶葉を使ってみました。同じ柑橘だし、悪くはないと思うんですけど」

     この前の夜に飲んだミルクティーのことを思い出しているのか、ばつが悪そうに視線を泳がせながらムラビトは言った。

    「確かに、薬効だのを気にしないならこっちの方が万人受けすんじゃね。俺はこの前のも嫌いじゃないけど」

     少なくとも身体に良さそうな味はしない。嗜好品としてなら及第点だ。

    「もっと美味しいものを出したかったのに、欲張り過ぎた僕が悪いんです。反省してます」

     悲観するほど悪い味ではなかったし、もっと酷い味のものを口にしたこともあるアッシュにはムラビトの拘りが今一つ理解出来ない。ただ、自省して項垂れるムラビトが愛らしかったのでそれ以上のフォローは入れないことにした。

    「壺草――ゴツコラを入れたのが拙かったんだとは思うんです。苦いし」
    「へぇ。壺草ってゴツコラのことだったのか。あんな味すんのな」

     爽やかな風味のミルクティーを啜りながら、アッシュは薬草の名前を反芻する。そこで、不意に思い当たった。

    「鬱に効くんだよな、あれ確か。あと不眠」

     他の薬効も医師の口から聞かされていた筈だが、ピンポイントでアッシュの記憶に残っているのはこの二点だ。
     ムラビトが小さく顎を引く。グラスに自分の分のミルクティーを注いで、窓辺に座るアッシュの隣に並び立った。

    「西洋弟切草にしておけば良かったんです。けど、アッシュさんの飲んでる薬の成分が分からなかったので」

     なので壺草を入れてみました。そして失敗しました。伏し目がちにムラビトは呟く。

    「……俺の為?」
    「自分の為です。アッシュさんに何かしたい、っていう自己満足の為」

     何かを誤魔化すように、ムラビトは窓の外へと視線を逸らした。西日に透けた栗色の髪が、銅色に燦めいている。心なしか顔に赤みが差して見えるのはきっと、夕暮れの空気のせいだけではない。外では変わらず小鳥が囀っている。
     床に溢れたミルクティーを拭く、ムラビトの円くなった背中を思い出した。どんな気持ちで俯いていたのか、考えると今更ながらに胸が痛む。同じくらい、目の前の子供がアッシュの為に心を砕いてくれていたという事実がただただ嬉しかった。

    「もっと大事に飲めば良かった……ごめんな」

     手を伸ばしてムラビトの手を握る。いつか鬱の波に襲われて、掴み止めたときのことを何となく思い出した。

    「……僕も、今度はもっと上手く作ります」

     ムラビトもアッシュを見下ろして言った。柔らかく握り返される。その感触が嫌ではなかった。嫌ではなかったが、嫌ではないのは拙いのではないだろうか、とアッシュは思った。
     アッシュの不穏な気配を感じ取ったのか、ムラビトが怪訝そうに眉根をひそめる。かわいい。だが、これはいけない。この雰囲気はいけない。その上、相変わらずムラビトとアッシュの手指は絡み合ったままだ。

    「そいや、ゴツコラ以外にも何か入ってたのかあれ」

     取り敢えず、手を放すべきだ。そう判断したアッシュはそれとなく会話を続けながらムラビトの手を握る力を緩めた。緩めたが、ムラビトはアッシュの手を放さなかった。困った。

    「カミツレと時計草です」

     それどころか膳板に持っていたグラスを起き、あろうことかムラビトは両手でアッシュの手を握り締める。冷えたグラスを持っていた手は、しっとりと濡れていて冷たい。そんな不安定なところに置いたらまた落とすぞ、とアッシュは目の前の現実から逃避する心地で思った。

    「カミツレも夜、眠る前に飲むと効果的なようなので。時計草の葉は天然のトランキライザー、って言われています」
    「カミツレは何となく聞いたことあったけど、時計草は知らなかったわ。ってか、あれ葉っぱ飲めたんだな」

     適当に会話を繋ぐかたわら、さり気なく、腕を引く。ムラビトの手は外れない。逃げられない。振り解く勢いで力を込めたならレベル1のモブ如きでは全力を以ってしてもアッシュを引き留めることは叶わないが、そこは穏便に済ませたかった。

    「葉っぱより実の方が有名かも知れませんね。パッションフルーツっていう、ちょっと甘酸っぱい感じの」
    「ああ。あのカエルの卵みたいなやつ」
    「……アッシュさん、みんなが思ってても敢えて言わない部分に言及するの、どうかと思います」

     ムラビトが胡乱な目でアッシュを見遣る。その手はアッシュの手を握り締めたままだったが、二人の間に流れる空気はいつの間にか随分と軽く乾いたものになっていた。だからアッシュも、もう不自然にムラビトの手から逃れなくても良いような気になった。厳密には諦めた。面倒くさくなったからだ。

    「美味けりゃ何でもいいんじゃね」

     何処か投げやりな心地でアッシュは言った。ミルクティーを啜る。控えめな酢橘の香りが鼻腔をついた。

    「時計草の実が美味しいのは確かですけど。名前からしていかにも情熱的な南国、って感じの味で」
    「……情熱」

     ムラビトの思い違いに気が付いたアッシュは少し悩んだ。道具の直接的な効能に関わりがない知識は疎いのかも知れない。アッシュ自身、シャリテという聖職者の知己を得ていなければムラビトの思い違いに気付くこともなかった。

    「店長、もし外でそれ言って店長が恥ずかしい思いしちゃったら可哀想だから念のため言っとくけど……時計草のパッションは情熱じゃなくて受難の方な」
    「えっ。そうなんですか?」

     矢張り知らなかったらしい。恥ずかしかったのか、ムラビトが小さく身じろいだ。同時に、アッシュを捉えている手の力が緩む。今なら容易に抜け出せるな、とアッシュは思った。思っただけで、実行に移す気にはならなかった。

    「えーっと……受難、って?」
    「ん?んー……まぁ、大昔の聖人だか英雄だかが、いろんな奴の罪を背負ってフィジカルもメンタルもぼろぼろになっちまった、ってエピソードだな。俺もシャリテの聞きかじりだから、そんな詳しくはねぇよ」
    「結構とぼけた感じの花とか咲くのに……逸話、ハードですね」
    「そのとぼけた見た目が由来らしいぞ」

     一度見たら忘れようのない個性的な青い花を思い浮かべながらアッシュは言った。萼だの、雌しべ雄しべだの、花にさしたる興味のないアッシュにはそれぞれが受難を象っているという逸話より、時計草という安易な名前の方がよほど馴染み易くて良いように思えた。
     ムラビトに倣ってアッシュも手を伸ばし持っていたグラスを膳板に置く。二つ並んだグラスの中の溶けかけた氷が、今日の終わりの陽を受けてさんざめく万華鏡のように光り輝いた。

    「花言葉も逸話に準えて宗教的な意味合いが強いっつってたかな」

     花言葉。口にして、あまりの滑稽な響きに、自嘲めいた笑みが溢れた。アーサーならともかく。胸中で悪態をつく。それでも、あまりにも真っ直ぐなヘイゼル色のどんぐり眼を向けられて、アッシュは諦念混じりに先の言葉を続けることにした。

    「“信仰”」

     手慰みに、ムラビトの親指をなぞる。

    「“聖なる愛”」

     続けて人差し指に触れた。つま先から、微かに柑橘の香りが漂う。

    「“宗教的熱情”」

     利き手の中指に可愛らしいペンだこを見付けて、アッシュは笑みを深める。柔らかく触れると、アッシュさん、と困惑の色が強い声が振ってきた。いつまでも手を放さなかったお前が悪い。自業自得だ。アッシュは思った。

    「裏返った花は、“宗教的迷信”」

     平凡でありふれた利き手の薬指は、左手の薬指とは随分と違う様相をしている。このまま咥え込んで歯を突き立ててみたい悪戯心が芽生えたが、やめた。代わりに唇を寄せる。ムラビトの動揺が指先から伝わった。二度目の非難の声が上がる。意趣返しが成功したようで何よりだ。アッシュはほくそ笑む。
     最後に、顔を上げて小指に触れた。円く切り揃えられた小さな爪の乗る、一番細い指だ。

    「それから“激しい、」

     口の端に乗せかけて、留まる。不自然に途切れた声を訝しんだらしいムラビトが、何処か心配そうにアッシュを見下ろしていた。その頬は残照に彩られている。いつかの嵐の夜にも、こうしてムラビトを見上げたことを思い出す。三日前の嵐の夜ではない。アーサーを守る為に命を手放そうとしていた、ただのアッシュを掘り起こしてくれた夜のことだ。その夜のことを考えると、時折、胸が痛む。溢れたミルクティーを拭く円い背中を思い出して罪悪感に疼く痛みとは異種の、狂おしく激しい痛みだ。

    「……何だったかな。忘れた」

     胸の痛みの正体を唐突に知った。だから、最後の花言葉の先を続けるわけにはいかなかった。
     手を放す。呆気ないほど簡単に、ムラビトの指先はアッシュの手から離れていった。

    「何だか、アッシュさんみたいですね」
    「……アーサーじゃなくて?」

     アッシュの葛藤に追い打ちをかけるような、耳を塞ぎたくなる言葉が降ってくる。平静を装いながら、辛うじて声を絞り出した。

    「勇者アーサーという偶像を背負って頑張ってきたアッシュさんみたいだなー、って思って」

     裏をまるで感じさせない笑顔をアッシュに向けて、ムラビトが言った。途端に毒気を抜かれて、何もかもが馬鹿馬鹿しくなる。否定する気も起こらない。

    「店長が言うなら、そうなのかもな」

     諦念混じりのアッシュの言葉は、小夜鳴き鳥の鳴き声と共に宵闇に溶けて消えた。
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    mp_rursus

    REHABILIクソマズミルクティー編
    Night in gale 滴り流れ落ちる水に歪む窓の外の光景を眺めやりながら、己の判断にそっと安堵の息を吐いた。店を早くに締めたのは正解だった。この様子だと、雨は夜通し激しく降り続くだろう。夜の優れた聴覚が雷の声を拾い、ムラビトはそのまま一秒、二秒、三秒、と窓の外に視線を向けたままカウントを始める。六秒目を舌の端に乗せるより僅かに速く、外が昼間の明るさを取り戻した。雷はまだ遠い。
     雨のにおいがする。嗅覚に長けた魔物がムラビトにそう告げたのは、店の裏に積み上げられた道具の在庫をアッシュと確認している最中だった。まず、空を見上げた。天頂を少し過ぎた太陽が燦々と輝き目が眩む。それから、西の空を見やった。青空の下、緑の山々が常と変わらず連なっている。目を凝らすと山頂に雲がかかっているように見えなくもないが、それだけだ。最後に、ムラビトは並び立つアッシュを見上げた。同じように西の空を眺めていたらしいアッシュは、ムラビトの視線に気が付くと小首を傾げ、小さく肩を竦めて笑った。それでも魔物からのサインが気になったムラビトは、早めに店を閉めることにした。店の二階に居住スペースを構えるムラビトやマオと違い、店員であるアッシュは村外れの家に帰さなければいけない。午後の疎らな客足が途絶えた頃を見計らって本格的に店仕舞いを始める。売り上げの集計はマオに任せて、ムラビトはアッシュと一緒に外に干したままの洗濯を取り込みに行った。その頃には、西の空は重暗く厚い雲に覆われていた。アッシュを見送り小一時間程が経った頃、とうとう空が泣き出した。
    19822

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    menhir_k

    MEMO
    宵っ張り勇者編 仄青く染まった空に疎らに浮かぶ雲は、逆光にその輪郭を滲ませていた。いつの間にか夜の名残を溶かしきって上った太陽が、麦の穂先の朝露にきらびやかな彩りを添える。舗装された砂利道と並行して連なった雑木林から聞こえる鳥の囀りが、朝の清浄な空気に響き渡った。隣を歩く子供であれば鳥の名前も知っているかも知れない。そう横目で様子を覗えば、すっかり蒸留酒のような平静の茶色を取り戻した双眸と視線がかち合う。奇妙な気まずさを感じて、アッシュは口の端に乗せかけた質問を飲み込んた。

    「もう完全に日が昇っちゃいましたね」

     小麦畑を背に受けて、アッシュを見上げる子供は言った。朝の光が乱反射して、一際眩しく見える。朝が似合うな、とアッシュは思った。岩の下から見上げたときも、かつての魔王城で勇姿を見せたときも、半魔の出で立ちは夜の気配を帯びているのに、それでも、この子供はアッシュにとって眩しい朝の子だった。数年ぶりの酒に頼らない深い眠りからの目覚めの朝、窓から差し込む朝日を背にして清らかに微笑む姿が目蓋の裏側に焼き付いて離れないからかも知れない。あの日、アッシュは世界にこんなにも美しい朝があることを初めて知った。
    3584

    menhir_k

    TRAINING酔っ払い店長との帰り道
    もうシンプルに「道」とかでどうだ?(ゲシュ崩) なだらかな傾斜を降りていく。落下防止の柵の向こうは切り立った崖で、底が見えないほど深い。命を守るには心許ない劣化した柵を見るともなしに眺めやりながら、これでは足元の覚束ないうちの酔っ払いが転落死してしまう、とアッシュは思った。それから、肩越しに背後を見遣る。遅れてのろのろと歩いて来るムラビトの姿に、アッシュはソノーニ町を発ってからもう何度目になるか分からない溜め息を吐いた。
     町で一泊しよう。アッシュはソノーニ町で提案した。ムラビト一人では不測の事態に対応しきれないかも知れないが、アッシュが居れば半魔の身なりも上手いこと誤魔化してやれる。何より、こんな真夜中に慣れない酒で疲弊したムラビトを連れ帰るのは憚られた。だが、ムラビトは首を横に振った。マオも、魔物たちも心配している。早く帰って安心させてやりたい。そう主張して譲らなかった。変なところで頑固なこの子供が、一度こうと決めたら頑として譲らないことはアッシュ自身一番よく解っている。仕方なく折れて抱き上げようとしたらそれも断られたので、取り敢えず肩を貸して路地裏を出た。王都でムラビト達が借りたという小型通信水晶をアーサー名義で買い取れないか相談してみよう、とアッシュは思った。
    1995

    menhir_k

    TRAININGムラアシュ(希望的観測)
    タイトル適当にあとで考えるわ 滴り流れ落ちる水に歪む窓の外の光景を眺めやりながら、己の判断にそっと安堵の息を吐いた。店を早くに締めたのは正解だった。この様子だと、雨は夜通し激しく降り続くだろう。夜の優れた聴覚が雷の声を拾い、ムラビトはそのまま一秒、二秒、三秒、と窓の外に視線を向けたままカウントを始める。六秒目を舌の端に乗せるより僅かに速く、外が昼間の明るさを取り戻した。雷はまだ遠い。
     雨のにおいがする。嗅覚に長けた魔物がムラビトにそう告げたのは、店の裏に積み上げられた道具の在庫をアッシュと確認している最中だった。まず、空を見上げた。天頂を少し過ぎた太陽が燦々と輝き目が眩む。それから、西の空を見やった。青空の下、緑の山々が常と変わらず連なっている。目を凝らすと山頂に雲がかかっているように見えなくもないが、それだけだ。最後に、ムラビトは並び立つアッシュを見上げた。同じように西の空を眺めていたらしいアッシュは、ムラビトの視線に気が付くと小首を傾げ、小さく肩を竦めて笑った。それでも魔物からのサインが気になったムラビトは、早めに店を閉めることにした。店の二階に居住スペースを構えるムラビトやマオと違い、店員であるアッシュは村外れの家に帰さなければいけない。午後の疎らな客足が途絶えた頃を見計らって本格的に店仕舞いを始める。売り上げの集計はマオに任せて、ムラビトはアッシュと一緒に外に干したままの洗濯を取り込みに行った。その頃には、西の空は重暗く厚い雲に覆われていた。アッシュを見送り小一時間程が経った頃、とうとう空が泣き出した。
    4367

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