タイトル…(悩) ソノーニ町に着いたアッシュは、最初に会合の場となった町で一番大きな道具屋へと向かうことにした。片田舎とはいえサイショ村とは比べるべくもない規模の集落は、夜の深さなどまるで意に介した様子もなく賑わっている。往来する人々の多さに、アッシュは静かに焦りを募らせた。
少し前に出張販売でソノーニ町に来たときのことを思い出す。あのときはムラビトとマオとアッシュの三人でこの町に足を運んだ。魔王を倒す旅の途中、サイショ村の次に立ち寄った町でもある。まさか宿敵だった魔王と共に訪れることになるとは人生何が起きるか分からない。そう感慨深く町並みを見渡した記憶が呼び起こされる。まぁ、雇用主探しに一人で来ることになるとも思ってなかったけど。慣れた足取りで酒場に向かう集団を避けて歩きながらアッシュは思った。こんなときでなければ一杯引っ掛けて帰るのに、とも思った。
目的地に着くと丁度店主らしき男が店仕舞いをしている最中だった。それなりの規模の町らしく、道具屋もすだち屋に比べるとそれなりの規模で品揃えもそれなりだ。それなりの身なりの店主に声を掛けると、アッシュは手短に要件を伝える。
「会合なら大分前に終ったよ。まだ帰ってなかったのか。あの様子だったものな」
それなりの身なりの店主は、店の扉に引っ掛けた看板を裏返しながらアッシュの問いに答えた。それからそれなりの身なりの店主は、会合とは名ばかりでアルコールを数名の年寄りによって途中から宴会のような有り様で、一番年少だったムラビトが次々に注がれる酒に困っていた様子だったと付け加えた。それか。アッシュはこめかみを抑えて項垂れた。
「足取りも覚束なかったし少し休んでいくよう声をかけたんだけど、遅くなると従業員が心配するから、って行ってしまったんだよ」
無理にでも引き留めれば良かった。それなりの身なりの店主は眉尻を下げて申し訳無さそうに言った。
情報を提供してくれたそれなりの身なりの店主に軽く礼を言って別れる。捜索はまた振り出しに戻ってしまった。街道に出て魔物と情報交換の一つでも出来れば良かったが言葉が分からない。人語を解するマオの側仕えを同行させれば良かった。アッシュは舌打ちした。
念の為に寄った宿屋の当ても外れ、その後も開いてる店に片っ端から立ち寄ってはムラビトの行方を訊ねたが成果は何一つ得られない。そうして、凡そ考え付く限りの目星をしらみ潰しに回ったアッシュが大通りに戻る頃には、殆どの店舗が閉まっていた。人の往来も途絶え、閑散としている。何処からか犬だか狼だかの遠吠えが聞こえてきた。半魔の姿で滞在するリスクを考えると、もうソノーニ町には居ない可能性もある。街道を捜索しながら一度サイショ村に戻った方が良いのかも知れない。考えを巡らせながらアッシュは周囲を見渡した。そこで、路地裏に続く暗がりを見留める。細くて暗い、道とも言えないような道だ。馴染み深い、奇妙な既視感に口の端を歪める。生気を失いやつれた物乞いと薬漬けの性病持ちの巣窟だ。
アッシュは路地裏へと足を向けた。
昼間でも薄暗い小路は闇そのもののように見通しは悪かったがアッシュは夜目は利く。問題ない。足元に無造作に置かれた誰のものとも知れないカンテラが唯一の光源だ。不明瞭な灯りに集る無数の羽虫を横目に、路地の奥へと更に歩を進める。酒気を帯びた饐えたにおいに、カビ臭さの入り混じった淀んだ空気が一層色濃く漂い、アッシュを包み込んだ。王都の煌びやかな生活は勿論、安酒の染み込んだソファやすだち屋での団欒からは得られない懐かしさと安心感に反吐が出る。同時に、こんなところにムラビトが居なければ良いのに、とも思った。早くムラビトを連れ帰りたい筈なのにおかしな話だ。闇の中で、自身の抱える矛盾にアッシュは口の端を歪めた。
吐瀉物を避け、転がった酒瓶を跨ぎ、腐りかけの残飯を踏み付ける。何度も繰り返して路地裏の奥へ奥へと進ん行く。そうして全てが泥のように重く沈んだ場にしては活気付いた蠢きに行き当たり、そこで漸くアッシュは足を止めた。袋小路に、数人の浮浪者が固まっている。身を寄せ合い、暖を取るには忙しない動きに目を凝らしたそこに、夜目にも鮮やかな赤色を見付けたときには走り出していた。屈み込んだ浮浪者の襟首を掴み、そのまま後方へ放り投げる。突然の襲撃に何が起きたか解らないもう一人の男はアッシュが軽く足を振ると吹き飛んで壁にぶつかり、そのまま動かなくなった。残された浮浪者たちは漸く事態を飲み込んだのか、意識のない仲間を連れてその場から蜘蛛の子を散らすように逃げて行く。そうして、袋小路にはアッシュとムラビトだけが残された。
「ムラビト」
名前を呼ぶ。反応はない。屈んで顔を覗き込む。蒼白だ。半魔であることを差し引いても顔色が悪い。魔王城で瀕死になったムラビトの姿が呼び醒まされ、アッシュの背筋を冷たい汗が流れる。
丸みを帯びるムラビトの頬に手を添えた。温かい。そっと安堵の息を吐く。薄汚れた石畳に投げ出された四肢が忍びなくなり、小柄な身体を抱き起こした。乾いて少し割れた唇から漂う呼気に、アッシュは今日何度目とも知れない舌打ちをする。
ムラビトは普段から酒を飲まない。だから自分の限界を見極められず勧められるがままに飲んだ挙げ句、前後不覚になるほど泥酔した。自明の理だ。酒に纏わる失敗に関してアッシュが苦言を呈することは難しいが、今度から多少の晩酌には付き合って貰おう。アッシュは固く心に誓った。
「ムラビト」
名前を呼びながら汗で額に張り付いた薄い色の前髪を指先で払う。そこに、涙の乾いた跡を見付けた。悪酔いに苦しんだか、或いは嫌な夢でも視たのかも知れない。
何となしに、ムラビトの目尻に唇を落とす。すぐに離れて、誰も見ていないからといって悪ノリが過ぎたかな、とアッシュは思った。それでも、腕の中のムラビトは目を覚ます気配がない。鼻でも詰まっているのか呼吸の為に薄く開かれた口元を眺めやりながら、嵐の夜にこの子供にこの口で噛み付かれたのだということを唐突に思い出した。悪ノリついでに口付けてみる。思い付きだ。やはり起きない。王子様ではないが勇者様のキスだぞ、と愉快な気持ちになってアッシュは小さく笑った。
「ムラビト」
もう一度、名前を呼んでみた。腕の中のムラビトが身じろぐ。起きるかも知れない。アッシュは見守った。やがてうっそりと重たい様子で目蓋が持ち上がり、ヘイゼルの瞳と異形の黄金色が覗く。思いの外狼狽えていたらしい人相の悪い男が、焦点の未だ定まらない双眸に写り込んだ。
「遅かったな、店長」
いつも起こしに来るのはお前の方なのに。狼狽を悟られないよう、アッシュは笑う。ぼんやりとした様子のムラビトは一度、二度と瞬いたあと、その大きな黒目がちの瞳からぼろりと大粒の涙をこぼした。一度溢れ出した涙はそう簡単には止まらない。ぼろぼろと涙を流す酔っ払いを、アッシュは半ば呆然とした心地で見下ろす。
「え。どした店長。飲み過ぎて気分悪い?何かやな夢、見ちゃったか」
目立った外傷はない。だが、傷付いても今のムラビトであればすぐに塞がる。アッシュが駆け付ける前に先の物乞いたちに暴行を受けていた可能性は捨てきれない。逃したのは失敗だった。
歯噛みしながら、せめてもの気休めに回復魔法でもかけてみようとムラビトに手をかざす。その手を握られた。小さく丸みを帯びた、けれどそれなりに骨格のしっかりした、働き者の手だ。幾度となく自分に向けて伸ばされたこの手が、アッシュは好きだった。
「ごめんなさい」
角の生えた額に引き寄せたアッシュの手を押し当てて、ムラビトは言った。未だ溢れて留まるところを知らない涙がアッシュの腕を伝って滴り落ちる。
「ごめんなさい」困惑するアッシュを置き去りにして、誰に向けたものとも知れない謝罪は繰り返された。「ごめんなさい、遅くなって」
意味が分からない。そもそも、今のムラビトは寝起きの酔っ払いだ。忘れていた。意思の疎通を図るにはもう少し時間が要るのかも知れない。
アッシュはムラビトの涙と謝罪の意味を考えることをやめた。代わりに、好きに話すことにした。相手は酔っ払いだ。どうせ忘れる、とアッシュは思った。
「お前は間に合ったよ。大事なときに、いつも駆け付けてくれた」
アッシュ自身がアッシュを諦めても、ムラビトは決して諦めなかった。それがどんなに心強く嬉しかったか、腕の中で見開いた目にアッシュを写し込む子供は知らない。
「ありがとな、店長」
堰を切ったようにムラビトがアッシュに抱き着いてきた。胸元が涙で濡れる。その背中を撫でて、アッシュもムラビトを抱きすくめた。
わけの分からない悪夢も、涙も謝罪も、今伝えたアッシュの感謝の言葉も全て、忘れてしまえ。そう強く念じた。