戯れ 朝の支度は煩わしい。新政府が立ち上がってからというもの、ただでさえ目まぐるしい職務の始まりに、桂小五郎もとい木戸孝允は今日も翻弄されていた。顔を洗って寝間着を脱ぐ。ここまでは宜しい。
しかし、幼少期から慣れ親しんだ旧時代を置いてしまうと、途端に心もとなくなる。シャツ、靴下止めに靴下、ズボン、ズボン吊り、ベスト、ああ全くどうしてこんなにも身に着けるものが多いのだろう。小道具まで揃えると煩わしさは頂点に達する。
「おはよう。どうだ、順調か」
「おはよう。わかるだろう?恥ずかしながらこの体たらくだ」
するりと入り込んだ声に自室の戸口を見れば、苦楽を共にした隠し刀が顔を覗かせていた。昨晩まで同じ褥に入って暴れまわったというのに、方や前途多難、方や完璧に身なりを整えているとはどういうことだろう。思えば情人は、奇兵隊の影響を受けて出会って早々に洋装に切り替えていた。おまけに手先がひどく器用で、小五郎はしばしば髪結いなども手伝ってもらったものである。
隠し刀は「何かできれば食いっぱぐれはしないから」、などと謙遜していたが、後に小五郎と接触する機会を増やそうと練習を重ねた成果なのだと坂本龍馬から聞いた。あの時は自分の耳が信じられず興奮して、ふわふわして――最後に龍馬に深く嫉妬した。まだ互いの気持ちを確かめる前ではあったものの、既に我が物のような大それた欲が胸に育っていたのである。
「鏡を見ながらやってみたか?」
「もちろんそうしたさ。お陰で昨晩の記憶がはっきり思い出せたよ」
「……それは今おさらいしたいという意味か?」
くすりと笑って情人が意味ありげな眼差しをこちらに向ける。自分を欲する光を目の当たりにして、小五郎は背筋を震わせた。
「残念だけれども、政策討論会に行かなければね。流石に欠席はできないよ」
恨めし気な目に、ちょっとした復讐を果たした暗い喜びが胸の内に広がる。これで、情人は自分のことを今日一日忘れまい。もちろん、自分もなのだが。
苦心してしわくちゃになりかけた蝶ネクタイを渡すと、隠し刀は生地を傷めぬように直した。そんな丁寧な手つきを見たらば、無機物さえ羨ましくなってしまう。やはり自分の方が、相手に対する欲が強いのかもしれない。
「鏡の前に行こう」
「わかった」
もうすっかり慣れっこになった動きで、二人は大きな鏡の前に立った。洋装姿の自分にはいまだ慣れず、窮屈そうにおさまる男がありありと映し出されて幻滅してしまう。背後に寄り添う隠し刀のさらりとした着こなしとは大違いだ。
この不格好さに相手は何も思わないらしく、小五郎のシャツの襟を立てて、蛇のようにだらりとした蝶ネクタイをかける。首筋に手が触れるのはほんの僅かな間だが、他人に生命を委ねる危うさに、小五郎は思わず身を固くした。
蝶ネクタイを巻き、締め、そのまま力を込められたらば自分は容易く昇天するだろう。相手にはその能力が十分あるのだし、小道具の靭性はなかなかのものだ。もし、その気になったらば、その気になってくれたらばと思う自分は不健全だろうか?
歪んだ気持ちを他所に、蝶々は綺麗に首元に止まる。左右どちらも同じ大きさ、傾くことのない完璧な佇まいだった。
「できあがりだ。行っておいで」
ちゅ、と頬に口づけられるまでが朝の習わしだ。ああもう出かけなければ。後ろ髪をひかれる思いで礼を述べると、小五郎はきりりと顔を引き締めた。
***
全く可愛い人だ。情人を見送った後、隠し刀は深々とため息をついた。別れた端から恋しくなって仕方がない。
「わかっていないと、思っているんだろう」
本来、小五郎はそつがない人間だ。剣の道、人の道に通じた調整感覚はもちろんのこと、時には女装も辞さない変装術など枚挙にいとまがない。とりわけ最後にいたっては、玄人である隠し刀さえも騙されてしまったほどである。
彼は化粧の腕前は大したことがない、と心底恐縮していたが、野菊のような愛らしさと白百合のごときたおやかさに隠し刀はくらりとしてしまった。当時はまだ意を伝えていなかったために言いそびれたままである。今晩あたり、たまには新しい趣向として楽しんでみても良いかもしれない。
ともあれ、そんな男が蝶ネクタイ一つに手間取るはずはないのだ。毎朝寝ぐせがひどいだの、靴下止めをなくしてしまっただの、なにがしかの困難を生じさせるのは、全て名残惜しさの表れだと推察される。寂しいならば寂しいと言えば良いのに、直接言葉にしない奥ゆかしさもまた、小五郎の味わい深さだった。
生死を分ける混乱を共に乗り越えた間柄であるにも関わらず、彼はどこかで未だに隠し刀が根無し草のままだと見なす節がある。自由人は好きなように去るも道理、自分に引き留めるほどの価値はないのだから、と。全く見当外れも良いところだ。
「帰りが待ち遠しいよ」
蝶ネクタイを滑らせた、あの首の感触が手に蘇る。万人が求める命が剥き出しになった瞬間、得体のしれない誘いかけを感じて、抗うのに随分苦労した。
もし、あのまま力を込めていたらばと想像を巡らす。締め上げて、長い時間楽しめるようにゆっくりと力を入れるのは、抵抗を抑えきれず難しいか。小五郎は穏やかだがその実膂力があるのだ。彼は一端の剣豪である。だが、あっさり昇天させるのは余りにも惜しい。
愛しく大切にしたいと思う一方で、苦しむ様も堪能したいと願う自分は壊れている。よだれを垂らして、呼吸を失って、涙を流して乞うが良い。何を?命を、願わくば自分を。喜ばれるはずのない特別な贈り物だ。
不健全な妄想をなんとか打ち払うと、隠し刀は今日は気づいてもらえるだろうか、と情人が出て行った先に思いを馳せた。
***
政策討論会の席に着いた折、太ももに違和感を覚えて、小五郎は表情を変えることなくズボンのポケットに手を入れた。つるつると指先から逃げるものをようやく捕まえて見れば、豆粒のように小さな骰子である。練り絹のような光沢と淡い朱の色合いから、珊瑚玉でできているらしかった。もっととっくり眺めたい、と思ったところで会議室の扉がばたんと大きな音を立てて開く。息せき切って滑り込んだのは伊藤博文だ。
「桂さん、お待たせしました」
「おはよう、伊藤君」
はっとしてポケットに戻すと、討論会に向き直る。テーブルには既に大久保利通や井上馨など、早々たる人物がついて新しい世に取り組まんとしていた。骰子を眺めるのはかなり先のことになるだろう。何しろ話合って決めなければならないことが多いので、少しの暇もないのである。
「貴殿、何か良いことでもあったのか」
こそり、と隣に座る利通に囁かれ、小五郎は破顔しそうになるのを抑えて短くうなずいた。家族についてだ、と話せば家庭人である利通は理解したらしく目元を緩ませる。大方、激務に勤しむ自分には受け皿があった方が良いとでも考えているのだろう。強ち間違ってはいない。
骰子、ビー玉、カフス、折り鶴、貝殻、小さな小さな同伴者たちを思い返すと懐かしさでいっぱいになってしまう。さっぱりとして見えて、あの隠し刀はさりげなく自己主張を続けているのだ。恐らくは朝の身支度の際に滑り込ませているのだろう。忘れるな、忘れてくれるなという音なき声に、尻込みしかける背中を何度押されたか知れない。
相手も自分を思ってくれていると、うぬぼれても良いのだ。それにもかかわらず、毎朝わざと甘えてかかる自分の狡さに苦笑する。さて、今日は気づいてやろうかやるまいか。次の一手を思い浮かべて、小五郎は今度こそこの国の明日に専念した。
〆.