些事 大学では、社会に出る前の最後のモラトリアムを象徴するが如く、学生たちが自由闊達に暮らしている。日がのぼったばかりのキャンパス内部を歩いてみれば、まずベンチで死んだようになって寝そべる学生が目に入るだろう。彼らは夜通し学業か将来か、はたまた別の何かに盛り上がって朝を迎えたのである。論文提出の時期が迫れば、寝巻き同然の姿でうろつき回る学生を見ることができるかもしれない。実験室で鍋を囲む学生たちを見たらば、大学側の人間がいるかを確認してみよう。もしいるのであれば、ギリギリ規約範囲内の出来事だろうと考えても良い。自宅ではないが、第二の家程度のだらしなさで肩の力を緩めることが一定の範囲内で許されているのだ。
飲み食いをし、学び、時に惰眠を貪る。格好も気取る必要がない。一部に厳しい指導者が居ても、全部を全部型にはめることはできないのだ。それが大学に活気をもたらしてくれている、と考えることもできよう。だらしないだけでなく、彼らは大いに意見を戦わせて脳を刺激し、互いの縁を繋いでいる。大学の外に出た後の財産になれば、社会にも大きく貢献できたというわけだ。
「泊まりがけになるのは久しぶりだな」
そんな大学の一職員である隠し刀は、常に万全の態勢で勤められるための備えがある。私物を入れているロッカーから寝泊まり用の一式を取り出すと、今日も万全であることに満足した。歯磨きセット、寝巻き、新しい下着、靴下。それと、気楽に過ごすための必須装備・スリッパも忘れてはならない。
「本当に行くんですか?」
不満そうな声色に、隠し刀は微かに肩をすくめてみせた。振り向かなくともわかる、恋人の福沢諭吉に他ならない。きっと眉間に皺を寄せ、唇をむうと歪めていることだろう。振り向かずとも容易に想像される。実際に自分の目で確かめないのは、見たら最後、甘やかさない自信がなかったからだ。数多の修羅場と難関を潜り抜けてきたこの隠し刀ともあろうものが!空手形で喜ばせることは簡単だ。都合よく誤魔化すことだって、自分であれば目を瞑ったままでこなせるだろう。
しかし、それでは永遠に虚構を積み上げる羽目になる。折角穏やかな時代に二人生まれ、出会ったのだ。せめて真正直に後ろ暗くない関係を築き上げたい、と隠し刀は密かに固く決意していた。
「ああ。事務局長に頼み込まれたらば断れない。私を雇っているのは『大学』だからな」
そして、その『大学』が諭吉を雇用している。抗えぬ事実を突き出せば、諭吉がふう、と深くため息をついて隣にくっついた。柔らかく当たる温もりが心地良い。自然と隠し刀の手は恋人の肩に伸び、ゆるりとその背を撫でた。上着を脱いだ諭吉の背中は無防備で、唯一防波堤となっているはずのサスペンダーが、かえって背徳的な空気を漂わせていた。学生の中には、諭吉のサスペンダー姿を見て心ときめかす者がいるという。見る目があるな、と隠し刀は素直に感心していた。恋人の良さが解る人間はそう多くない方が良い――しかし、解る人間がいるというのも乙な気分にさせてくれる。
悪戯にサスペンダーを滑り落としたい気持ちを抑え、適当な紙袋に『お泊まりセット』を詰め込む。諭吉は張り付いたままで、びくりともしない。
「もう。それを言われてしまうと、ぐうの音も出ませんね。まるで僕が駄々を捏ねているみたいじゃありませんか」
「さあ?」
恋人が拗ねる姿を見るのは、ちょっとした自分の特権だ。わざとはぐらかすと、隠し刀は安心させるように温かな声音を作った。
「学園祭の期間だけだ。それに、毎日ではないし、アシスタントとしての仕事もきちんと勤めてみせる。安心してくれ」
そう、学園祭なのだ。大学が入学者を増やし、在学生を鼓舞し、卒業生に回顧させ、対外的にも存在を誇示する一大イベントである。たった二日間だけのために、半年ほど前から徐々に準備が始まり、開催一週間前の今となっては設営や展示内容の認可など様々な事務仕事も大詰めを迎える。配置人数の少ない事務局が、かつて所属していた経験者である隠し刀に助力を仰ぐのは当然の流れだった。
「それって、ただあなたが無理を働くだけでしょう。良いですよ、この期間くらいはアシスタントを休んでください。以前は一応、一人でこなせていたんですから。……ところで、このTシャツは何でしょう」
「寝巻きだ」
ぐちぐち文句を言う展開が遮られて良かった、と安堵したのも束の間、聡い恋人はまた別の問題を見つけたらしい。それも、外泊よりも大いに問題視したのか身を離してTシャツを広げている。
胸元の辺りで、虎が大口を開けて吠え、今にも見る者に飛びかかってきそうな鬼気迫る絵が描かれている。背面は虎の背中で、下地となっている虹色の奇妙な染め模様と言い、誰も間違えることのない目立つ一品だった。おまけにサイズも大きく、隠し刀が着ると太ももの三分の一程度まで覆うことができる。
「昔、大阪に遊びに出かけた時に見つけたんだ。大きいから一枚で寝巻きにできるし、目立つから忘れないだろう?まとめて買ったから、とても安かったんだ。あれはお買い得だったな」
「大きいと言っても、これでは足が出て寒いでしょう」
「寝袋が暑いからちょうど良いんだ」
そう、雑魚寝と言っても大学側が用意してくれるのは寝袋なのだ。山岳部の卒業生から安く仕入れることができたらしい。寝泊まりするのは男性職員だけであるため、皆似たり寄ったりのだらしのない格好で過ごしている。問題は肩の力が抜けすぎて、毎晩飲み会や麻雀会を密かに開く人間がいることくらいだろう。つらつらと澱みなく続ける説明に諭吉は耳を傾けながら、隠し刀の背にTシャツを当ててうう、と唸った。奇妙だ。懸念点は全て払拭したはずだと言うのに、後ろを振り返って見た諭吉の顔はしわしわに歪んでいた。
「諭吉?」
「少し考えさせてください。それと、雇用形態については今度事務局に直接掛け合います。後で契約書を見せてください」
「承知した」
どうやらすぐには心のうちを曝け出してはもらえないようだ。己の未熟さ故か、はたまた策があるのか。自分のために振り回される諭吉を哀れにも、ついで愛らしくも思うのは不健全だろうか?疑問を全てTシャツと共に畳み、しばし虎と睨み合う。お気に入りの虎は抜け出すことなく、静かに紙袋に仕舞い込まれた。
非日常が溢れている。諭吉は極めて不愉快な気持ちを堪え、学園祭で浮かれ騒ぐキャンパスを睨みつけた。講義が休みになることも、学生が総動員で学業を疎かにすることも苛立たしいが(大学に授業料を払ってまで通っている身の上で、何故疑問視しないのだろう)、普段大学に寄りつかない有名な卒業生や協賛企業などと交流しなければならないことは何よりも煩わしい。大学は学生から金をもらうだけでどうにか切り盛りできるものではなく、社会と組み合わさって広がりゆく存在である。とりわけ諭吉が勤める私立大学では尚更だ。大学の理事である勝海舟や渋沢栄一にせっつかれて参加しているものの、毎年憂鬱にならざるを得ない。
しかしそんな状況下においても、誰よりも愛しい恋人が共に頑張ってくれていると言うのであれば、苦痛もいくらか和らぐ。和らぐはずなのだが、結局どんな出来事よりも苛立ちと懸念を抱える羽目になっているのは一体何が起きているのだろうか。特別講義という名の発表会を終え、苦役から解放されても尚も気分は晴れない。
「どうしました?人でも殺しかねない目で発表会をするだなんて、穏やかではありませんね」
「渋沢さん」
さっさと帰りたいという時ほど、知り合いに捕まるものだ。壇上から降りてすぐさま近寄ってきた栄一に渋い顔を見せると、敏腕企業家は意に介さず爽やかな笑みを浮かべた。青空のような表情には全く悪意が感じ取れない。自分が悪役になってしまったような錯覚を抱いて、つい相手をしてしまうお得意の技だ。長い付き合いで承知していながらも、諭吉は今回も折れた。第一、この男は無意味に声をかけることはしない。恐らく互いに利する話があるのだろう。
「駄目ですよ、愛想よくしてくださらないと。福沢さんのゼミ生に興味がある企業の方を紹介したいんです。インターン代わりのアルバイトを提案するつもりでしょう。悪くない話だと思いますよ」
渋沢が告げた企業の名前は、どれも手堅い上場企業だった。就活生にも人気が高く、ゼミ生たちも喜んでくれるだろう。もうそんな時期なのか、と先の予定を思って気が遠くなりそうだ。渋々ながらに頷いて承知すると、諭吉はふと、栄一であれば自分が抱える問題に対し、良い案があるのではないかと思いついた。憚りながらも彼は大変に男女の道に詳しい。噂で聞く限り、現世でも色々な意味でこなれているようだ。
「渋沢さん。一つ、知恵を貸していただきたいことがあります」
「珍しいですね。私がお役に立てることであれば、何なりとどうぞ」
その前に、と三人ほどの企業の担当者たちと挨拶を交わす。名刺を交換し、近況を話し、どんな学生が居て、企業と学生が互いに何を望んでいるのかを話し合う。最後に、後で希望者や面接日程について連絡し合うことを決めて別れた。毎年の恒例行事のために、全員が一糸乱れぬ連携で無駄なく活動を終える。企業の側は、まだ他のゼミにも声をかけたいのだろう。諭吉たちに別れを告げると、すぐさま他の会場へと向かっていった。
「なかなか良い手応えでしたね。話の続きは――少し、場所を移動しましょうか。会食まで時間があるんです」
「承知しました」
立ち話をするには、二人とも目立ちすぎる。とりわけ、栄一と話したいという人間は山ほどいるのだ。近場のコンビニエンスストアでコーヒーを買うと、非常階段の踊り場に向かう。どこもかしこも人で混み合う今日のような非日常には、正当な非日常の方がまともな顔をしていた。階段の手すりに寄りかかり、栄一はさらりと話の続きを促した。
「お待たせしました。話を聞きましょう」
「感謝します。非常に個人的な話なのですが、」
どうにも気恥ずかしい話だ。ややもすると自分が自意識過剰であるかのように受け取られかねない。恋人が魅力的すぎるという表現は浮き足だった物言いだろう。しかし、しかし、事情を知っている栄一ならば自分の気持ちを多少なりとも理解してくれるはずだ。コーヒーを飲んで気分を落ち着けつつ、隠し刀のTシャツ問題について平静を装って説明する。同性ばかりだから、多少だらしなくとも構わないと考えているらしいこと、下を履いているのが解るが下着が丸見えであること、それを快適だとさえ考えている風であること。
「つまり、あなたは恋人の魅力に他の人間が気付きはしないか、とヒヤヒヤしているんですね」
「……そういうことかもしれません」
ふふ、と笑う栄一が憎たらしい。彼にしてみれば、自分の悩みなど可愛いものだろう。
「一般的には、誰もが惚れるような人ではないくらい承知しているんです。けれど、万が一ということがあるでしょう?あの人は優しいですから、伝えれば真摯に受け止めてはくれると思います。けれども僕の真意を理解してくれるかどうか」
何せ、隠し刀はとんと人の心に疎い。出会ったばかりの頃に比べれば随分な進歩をしたと言えるものの、どこか無頓着な節があった。
「感覚的なものを共有することは難しいですからね。あなたの欲目だとあしらわれる可能性は高そうだ」
「だから、こうして困っているというわけです。渋沢さん、何かうまい手に心当たりはありませんか?」
「そうですね。……確実に上手くいくかどうかは保証できませんが、勝算の高い方法であればありますよ」
「教えてください!」
「一つ貸しですよ」
諭吉はじゃらら、と算盤が弾かれる音を聞いたような気がした。
凝縮された二日間を無事に終え、隠し刀は恋人が誘うままに諭吉の家に泊まっていた。久々の逢瀬だが、あまりにも疲れていたためか二人揃ってろくに口を聞かずにただ寝たのは致し方ないと言えよう。忙しいのは諭吉も同じだったろうに、お泊まりセットのTシャツを着ようとしたらば、彼の予備のパジャマを着るよう促されて涙が出そうだった。人に気を遣われること、心を砕いてもらえることは、何度あろうとも染み入る。匂いを嗅いで、洗い立てですからと釘を刺されたのも嬉しい。何度も働いて柔らかくなった綿生地は、諭吉の着る服と同じ柔軟剤の匂いがした。
きちんとしたベッドは寝袋よりも優しく、強烈なまでの眠気を誘う。寝物語も数言で、気づけば深い眠りに入ってしまっていた。何もかも、大学で泊まり込むのは三日くらいのものだ、と聞いていたというのに五日連続で寝袋生活だったのがいけない。諭吉に言わせれば、自分がお人よしすぎるからだという。そうだろうか?来年は上手く断ってくださいね、と諭吉がぼやいた気もしたが、意識がはるか遠くに切り離されてしまって何も耳に入らない。
海の底に沈んだらば、きっとこのような心地だろう。全ての世界が遠く、ぼんやりと遮断されて、いつしか何も見えなくなる。ぼー、ぼー、と耳を震わせるのは誰かの歌で、鯨が歌うのだと片割れから聞いたことを思い出した。故郷を出て以来すれ違わない男は、海がよく似合う。米国海軍でマシュー・ペリーの配下に所属したとか何だとか聞いたような気もする。いつの間に米国籍を得たのか?あの男ならば、何をしても不思議ではない。
ぼー、ぼー、ぼー、歌はまだ続いている。サラサラと流れる音は海には似合わない。ああ、衣擦れだ。衣擦れ?シーツの、そしてパジャマの。そこまで連想が行き届いた瞬間、隠し刀は深い海の底から浮かび上がった。
「おはようございます。よく眠っていましたね」
「すまない、寝過ごしただろうか?」
ぼやけた視界のままに、歌の根源に触れる。発生源は自分が目覚ましにかけたスマートフォンで、片割れが昔設定した鯨の歌が鳴り響いていた。乱雑に画面をタップして、幻想を遮断する。頭がクラクラしてなかなかすっきりしない。
「大丈夫ですよ。朝食も用意しておきました」
「ありがとう、諭吉」
なんと心優しい恋人か、という感動は、次の瞬間驚きに取って代わられた。目に飛び込んできたのは鮮やかな虹色、そして虎の襲いかかってこんばかりの凄みのある顔。見慣れた自分のTシャツだ――だが、どうしてそこに、諭吉が?恋人が着てくれている。事情はよくわからないが、気に入ってくれたのだろうか。自分の持ち物に難色を示していたようなので、受け入れてもらえたことは嬉しい。しかし、問題は下だ。
「諭吉、その、下は履いているのか」
「さあ」
悪戯げに笑う恋人はどこまでも蠱惑的で恐ろしい。目を離せないまま、隠し刀はごくりと唾を飲み込んだ。Tシャツは諭吉の太ももの半分程度までしか覆うことができず、その下は自分が思わずむしゃぶりつきたくなる素肌が惜しげもなく晒されている。下着を履いているのかいないのか、正直なところどんなに目を凝らしても判別が難しい。するり、と諭吉の指先がシャツの裾に伸び、捲るようなそぶりを見せてまた戻る。
「どうでしょうね」
「頼む、服を着てくれ。朝から目の毒だ」
動揺から声が掠れてしまう。全くどういう心算なのだろう?新手の拷問ではないか。大学は無惨にも自分に連勤を命じているし、非日常は連綿と日常につながって講義が予定されてもいる。諭吉だって重々承知しているはずで、自分を誘惑するなど正気とは思えない。反応しつつある己が物悲しくて両手で目を覆うと、どん、とベッドが揺れて諭吉が乱暴にこちらの手を払いのける。逃げることさえ許されないらしい。虎が全面的に視界を覆うために、恋人の下半身は伺えぬままだ。
「大丈夫ですよ、わかってやっていますから。ねえ、このTシャツには問題があるとは思いませんか?」
「問題しかない」
即答し、隠し刀はパッと頭の中が明るくなった。諭吉は自分のTシャツに随分思うところがあるようだった――なるほど、自分にその価値があるかは不確かだが、見る人間によっては随分劣情を誘う格好であるらしい。下を履かないのか、というのは諭吉が最も詰問したかったことだろう。すまない、と小さく声を漏らすと、ベッドの上で正座をした諭吉がにっこりと満面の笑みを浮かべた。やはり――その下には何を履いているかは杳として知れない。
「次からは、きちんと下も履く。だから諭吉ももう、」
「おや。確認しなくとも良いのですか?――この下に」
諭吉の手が隠し刀の手を掴み、己の膝へと誘導する。慣れたはずのTシャツの感触が全く別物に触れるようで、心臓がどっどと高鳴った。
「僕が履いているのか、知りたくないんですか」
「う、いや、だが、今日は」
「……今日の僕のスケジュールは、何時からでしょうね」
むう、と諭吉が唇を尖らせる。ああもう、なんて賢い人だろう!隠し刀は低く呻くと、降参するべくこつりと恋人の額に額を寄せた。
「十四時からだ」
「よくできました」
流石は『僕』のアシスタントです、と諭吉が耳元で囁く。思わず背筋が震え、隠し刀は誤魔化すように相手の首元に顔を埋めた。なべて、人の腹は探れない。またひとつ深淵にはまり込み、隠し刀はゆるりと帷を開いた。
〆.