雨天決行 ああ、それは恋という奴だ。人のありように一過言ある、悪く言えば斜に構えた福沢諭吉は、流暢に語る男の横顔を呆然と眺めた。勝海舟の屋敷に我が物顔で上がり込み、職務に励む自分を堂々と邪魔する彼こそは、隠し刀。名無しの権兵衛にして風来坊、得体のしれない人でなしである。余りにも傍若無人が堂に入っているため、家主含めて誰も咎めることもない。人の姿をした野良猫のような存在とも言える。
その猫は長らく悩んでいることがあるらしい。竹で割ったように人と人の情という面倒な綾を断ち切る彼にしては珍しく、さっさと終わらしにしないでダマになるままで今日もうだうだ意味のないことを垂れ流している。
「その人を見るたびに胸が苦しくなって、話しにくくなるんだよ。本当はたくさん話しかけたいんだ。なのに、どうしてなんだろうね?喋ってもうまい話もできなくて……まあ、諭吉も知っている通り、俺はつまらない男だから、大した話は元々できないんだけれどな」
「上手く話せなくとも、相手の話を聞けば良いのでは?大概の人は、人に話を聞いてもらいたいとどこかで思っているものですよ」
嘘だ。今の自分は、何より彼の話を聞きたい。相談事があると持ち掛けてきたのは向こうの方で、これまでも少しずつ想い人らしき存在は仄めかされてきていた。人でなしらしく、この男はちっとも己の感情を理解しないものだから、どう考えても恋慕としか解釈できない感情を持て余している。人のことは人に聞けと考えているのか、安直に答えを求められることには閉口してしまう。当たり障りなく投げた餌に、隠し刀はパッと顔を輝かせてにじり寄ってきた。
「諭吉もそうなのか?」
「時と場合によりますね」
「そんなところだろうと思った」
はは、と笑う男の表情は再びの曇り空で、普段の何も考えていないかのようにすこんと抜けた青空からは程遠い。このところはずっと雨が降りそうなほどに湿っている。笑うとえくぼができて、なかなか愛嬌のある顔立ちになる癖に、自分にはちっとも見せてくれない。それもこれも彼の人生に割り込んできた想い人とやらのせいだ。
見知らぬ他人に感情の矛先を向けることは間違っていると理性でわかりつつも、諭吉はどうしたって恨めしくなってしまう。相談を持ちかけられた当初は、少し気になるだけであった。横浜で縁付いて以来、もしもの知恵袋扱いを受けてきて、まあそれも悪くはないと落ち着いていた頃である。気になることがあって、という言葉は大層諭吉を刺激した。感情の揺らめきを零し始めた隠し刀に対し、純粋な興味以上にそわそわと落ち着かぬものを覚えたことはよく覚えている。
それがどうしたことだろう。男が語るにつれて相手を知り、想い人について詳しくなるうちに変化したのは諭吉の方だった。相手の良し悪し、些細な癖ややりとりをそれとなくぼかして伝えられるうちに、どんどんと知りたい気持ちと知りたくない気持ちとが同じくらいに膨れ上がって、胸に手を当てれば方向性さえ見失ってはち切れそうになっていた。高みの見物を決め込んで、人でなしの歩みを楽しむつもりが、戻れない場所まで泥沼に入り込んだと気づいたときにはもう遅い。
苦しい胸の内をさらけ出されて、絞られてゆくのは自分の心臓だと知り、耳を洗ってこれまで流し込まれた感情の萌芽を全てかきだしてしまいたかった。そんなことができれば、どんなに気持ちが楽になっただろう。呑気に悩みをぶちまけられる人でなしが羨ましい。相手に悟られ気を遣われてはたまらない、と彼と顔を合わせる時にはいつもぎゅ、と一度腹に力を入れるようにしている。
お互いの目的のために道を分かれて、米国に渡った時はこれが縁の切れ目だと世の激動に感謝したものである。実際、新奇なものばかり見聞きする旅路は諭吉の頭を埋め尽くし、俗世のことは概ね過去に置いて行かれたようにさえ感じられた。幾度となく思い出が後ろ髪を引いても、少し物寂しくなるくらいで、頭の中は帰国後にこの国をどうするかという未来絵図でいっぱいになっていた。あのまま大陸にいれば、きっと全ては無に帰すことができただろう。
しかし合縁奇縁、世は不可思議なものでたまさか二人は江戸で再会した。してしまった。それも別の用事があったらしい相手に、先に声をかけたのは自分である。声を賭けなければ切れてしまった縁の細い糸を結びなおした理由は、もはや未練としか言いようがない。
未練と言えば隠し刀の気持ちも同じで、彼は相変わらず見知らぬ想い人への感情を処理しきれずに何年も持ち越していた。とっくのとうに全うするか、あるいは瓦解しているかしているだろうという楽観的予想は大いに裏切られた。おまけにまたぞろ自分に相談を持ち掛け、忘れようと努めて燻ぶっていた感情に火をつけてくるものだから弱ってしまう。火といえば、今日も日が燦々と照って暑くていけない。夏はいよいよ盛りで、涼しい顔をして汗ひとつかかぬ隠し刀が人なのか怪しく映る。心頭滅却しようとも熱いものは熱いだろうに。じわ、と額に汗を浮かべる諭吉をよそに、悩める男はのんびりと続ける。
「晋作たちには、一度どん、とその気持ちを伝えたら良いと言われたんだよ。一遍こっぴどく振られた方が目も覚めるだろうってさ。なあ、これって恋なのか?」
「っ、知りませんよ、そんなの」
突然的を射た疑問を繰り出され、諭吉はやけどしたかのような反応を返した。なんだ、自分以外にも相談しているのではないか。想い人について語る時の、普段とは異なる蕩けて力の抜けた表情を誰にでも見せているかと思うと、胸がむかむかして気持ちが悪い。自分だけが知る秘密であってほしかった。そうすれば、名前のない感情はどこかに霧散できただろう。諭吉も己の気持ちを整理し、隠し刀と向き合う覚悟も決められたはずだ。そんな風に他人の出方任せにしているから、目の前でかっさらわれるような事態に陥っているとも言える。自業自得だ。
「おいおい、諭吉ならわかるだろう?最初気になった時から相談してたのはお前だけなんだぜ」
「……さあ。そうだ、恋かどうか、確かめてみるというのはどうでしょう。ほら、今度隅田川で花火大会が開催されますから、相手の方を誘ってみてはいかがですか」
ほんの少しばかり心をくすぐられただけで、敵に塩を送る自分が恨めしい。だって彼には他意がないのだ。ただまっすぐに自分を頼っただけ、先に彼の心を引っかけたのは他人である。横顔を見ているうちに、諭吉が勝手に実らぬ恋を育てていたなど、隠し刀は思いもよるまい。いわゆる横恋慕という奴だ。一方通行で行き場もない。
「花火大会か!良いなあ。花火大会なんて初めてだ。一緒に行くだけで楽しいだろうし……諭吉も観に行くのか?」
「いいえ。騒がしい場所は余り好みませんから」
朋輩どもがこぞって出かける中、遠くの騒音に頭を悩ませながら自室で一人眠るのが常である。勝海舟の邸に移動しても、家主が生粋の江戸っ子で花火好きだから、家中は推してしるべしだろう。諭吉一人が残る羽目になるに違いない。鳴り物は好きだが、あれは別だ。火花が散って、それの何が面白いのかわからない。一々掛け声を上げて、ぎゅうぎゅうひしめき合って空を眺めて何が良いのだ。第一暑い。蝉がジージー、ワンワンと好き勝手に恋を歌って煩くてたまらない。アーネスト・サトウがいつぞや日本は鳥さえ歌うことを知る国なのだと感動の面持ちで説いてきたが、こんなに煩い愛なんて願い下げだった。
隠し刀が、想い人と手を繋いで、はぐれないようにと身を寄せ合う。花火の音に紛れて聞こえるか聞こえないか、怪しい睦言は叶うだろうか。まだ来ぬ夜が鮮やかに脳裏に浮かびあがり、臆病者の心臓を遠慮会釈なく殴ってゆく。
「やっぱり諭吉は頼りになるな!頑張って誘ってみるよ」
「どういたしまして」
返事だけはまともであるものの、気はそぞろだ。湿っぽさが胸に広がり、打開策に顔を輝かせる隠し刀に恨めしさが募る。何年も何年も温めて作り上げてきた気持ちなんて――そんなもの、全部打ち上げに失敗すればいいのだ。全部夢だと目が覚めて、茹だるような蜃気楼を振り払ったらば、さぞやすっきりするに違いない。
「晴れると良いですね」
白々しくついた諭吉の嘘に、隠し刀はうん、と大きく頷いた。
願いむなしく、隅田川花火大会当日は夏らしい天候に恵まれて快晴、風も程よいので絶好の花火日和である。毎日雨が降らないか、雲が流れないかと願っていた諭吉に対し、天が人事を尽くさぬ愚かさをあざ笑うかのようだった。打ち上げようともしない臆病者の種火など、消し飛ぶくらいしか末路がない、そういうことなのだろう。朝から夕方、そうして花火にうってつけの夜となった今に至るまで空はつれない。
「今頃、楽しんでいるんでしょうね」
勝邸の庭に降りると、諭吉は空を見上げた。花火の形は見えなくとも、遠くに音を聞くことができる。遠からん者は音にも聞け、とはまさにこのことで、存在から気を散らすことさえ許されない。まだ打ち上がってないうちから気がかりで、存在しないことを確かめるように夜空を探ってしまう。現実から続く未来を全面的に否定したいと思うのは悪あがきだろうか?
今諭吉の眼前に広がるのは、本来夜を飾る月と星々、変わらぬ日々だけだ。今日の花火は明日にはない。想いだってそうだ。上がらなかった花火など、時がいずれ押し流してくれる。人の時間は常に未来に向かってだけ進むのだから、そうあらねばならない。無理やり自分を納得させようと思った、その瞬間である。
「諭吉、諭吉」
「……誰です」
不意に植木の陰から自分を呼ぶ声に、諭吉ははっと現実に返った。すわ侵入者か。花火大会に夢中で人手が少ないとなれば、屋敷を守るのは自分の役目である。守りが薄い時を狙うとは賢いものだ。自分の名を知ることに警戒心を抱きつつもじりじりと近寄る。腰に下げた木刀に手をかけ、いつでも居合を放てるようにするも、心臓がばくばくと鳴り響いてやまない。
「こんばんは、諭吉」
「あなたは!」
ひょこりと立ち上がった姿に、諭吉は思わず大声を発して手で口を押えた。隠し刀だ。流水紋の着流しが涼しくよく似合っている。余りの驚きから無関係なことを考えるも、どうにか取りまとめて言葉を並べた。
「どうしてここにいるんです?花火大会に行ったんじゃありませんか。お相手の方は、」
上手く誘えなかったのだろうか。想像すると同時に歓喜が胸を満たして吐き気がする。ひどい話だ。友の、恋した人の失敗を望むなど、それこそ人でなしというものだろう。ここは友らしく慰めなくては、ああ嬉しくて仕方がない!
「うん。だから誘いに来たんだ」
面映ゆそうな表情で手を差し出す隠し刀に、ぽかんと口が開く。だから?だから、とは一体何の話だろうか。まるで理解が追い付かない。呆然とするうちに相手の腕は腰に回り、俵のように抱えられて藩邸の塀をひょいと越えてゆく。力が強いことは知っていたが、まさに超人的な腕前に諭吉は目を白黒させた。驚きすぎて声も出ない。昔語りに鬼に攫われた姫君の話があったが、姫は自分と同じ気持ちだったろう。人は感情の極限を越えると、口をつぐむくらいしかできなくなってしまうらしい。
北へ、北へ。隅田川がよく見える、人気もまばらな坂の上まで走ると、諭吉はようやく解放された。花火を観る穴場なのか、隅田川に顔を向けて待ち侘びる人の姿がちらほら見える。こちらの着物を整えると、隠し刀はバツが悪そうにへへ、と笑った。暗がりでえくぼが見えない。惜しいな、と諭吉はその頬を撫でたくなる気持ちをぐっと堪えた。
「悪いな、誘うつもりが攫っちまった」
「強引ですね」
「嫌だったか?」
今更になって気が引けるのか、恐る恐る尋ねる様子がおかしくて、諭吉はふ、と唇をほころばせた。全くこの男は、自分を飽きさせなくて面白い。
「時と場合によります。今は……ええ、悪い気分ではありません」
「良かった。ここならあまり騒がしくないだろうしな……お!」
どん、どん、という轟音につられて夜空を見上げれば、ぴゅうっと音を鳴らして駆け上がった花火が大輪を咲かせてゆく。ほどほどの距離に見合った大きさの花火は、確かに綺麗だと諭吉は感嘆した。雨が降らなくて、本当に良かった。もし中止になれば、さぞや多くの人々が落胆したことだろう。暑さがなんだ、夏はどうせ暑いものではないか。
「好きだ、諭吉!」
「ちょっと、急に叫ばないでください!」
花火に負けないくらいの大音声にぎょっとして、隣の男の胸を叩くと、満面の笑みを浮かべられた。
「愛してるぞ!」
「やめなさい!」
恥ずかしさで全身が焼けてしまいそうだ。尚も言いつのろうとする隠し刀の口を掌で覆うも、まだもごもご動いていて油断も隙もない。思いがけぬ僥倖を喜ぶべきか、大それた行動を怒るべきか迷うと、すうと大きく息を吸った。呼吸を整える。想いを吐き出すには、夜空に打ち上がるように咲き様が肝心だ。
「……恋なのかどうか、確かめたいんでしたね」
「うん」
こくりと頷かれるに合わせて、ゆるゆると解放してやる。人の話を聞く気になったのか、隠し刀は叫ばずじっとこちらを見つめてきた。
「これは恋ですよ。恋でなくてはいけません。僕も、恋をしているんですから」
あなたに。言った途端に口づけられて、諭吉はぱちぱちと瞬きした。花火が上がるよりも早く、すっと離れてしまう相手が惜しい。どん、と鳴る音に合わせて仕返しすると、丸く開いた目にぶつかって笑いがこみあげてきた。
今日は晴れて、本当に良かった。
感情とは、火花のようなものだ。パッと燃え上がって、ちりりと胸を焦がす。火種があれば、勝手に燃え広がって手に負えなくなってしまう。故に、火がついた瞬間どうするかが全てだと隠し刀は考えていた。要らぬ小火はすぐに消さねば、いつまでだって残るだろう。現に、自分と片割れに感情の制御を教えた研ぎ師の目に宿るのは並々ならぬ幕府への怨嗟と生き甲斐だった。制御できない例を見れば、確かに自分はそうなりたくはないと思う。
黒洲藩は冷血であることを人に求める割には、いつでも爆発しそうな生き甲斐、もとい死に甲斐を温め続ける場所だった。何もかも根こそぎ奪われたこと自体は恨めしくも憎らしい。しかしそれ以上に恐ろしい、そう感じるのが普通ではないだろうか?冷静を通り越して淡白な気持ちを抱えるも、一人温度が違うことを悟られては終わりだと子供心によく理解していたので、隠し刀は素知らぬ体を貫いていた。
「おい、その目つきをやめろ」
騙せなかったのは、唯一片割れだけである。否、恐らく研ぎ師も気づいていただろう。あれだけ情に厚い人間が、この冷め切った気持ちを見抜けぬはずがない。
「どんな目つきだ?言ってみろよ」
「なんでも知ってます、という目だ。いつか泣きを見るぞ。お前は元々泣き虫の臆病者だ」
そうだ、自分たちがやらされようとしていること全てが恐ろしい。物を盗み、建物を壊し、人を殺す。何もかも自分がされたことだが、だからと言ってしたいかと言われれば、答えは否だ。しかしこの地で生きるためには平気なふりをしなければならない。
「はは、気をつけよう」
気持ちは起こった端からすぐに捻り潰して、薄っぺらい面の皮で覆ってやろう。その意気込みだ――なんて肩が凝るのだろう。
脱藩して真っ先に感じたのは、要らぬ気遣いという枷からの開放感だった。片割れのことが気がかりで追いかけたいという欲求は第一であるものの、初めて手に入れた自由さは戸惑いと同時に緩やかな平穏を自分にもたらしてくれた。もう人の顔を窺って生きる必要はない。しかし、一体どんな顔をすれば良い?人でなしらしい振る舞いを完璧に身につけた先、人らしい振る舞いを今更どう踊るべきかは全く見当もつかなかった。
「良いですか、普通人に話しかける際には手順というものがあります。野蛮であるのはあなたの勝手ですよ。ただ、僕と話すのであれば、相手を尊重する気持ちを大切にしてください」
その点、福沢諭吉という人物は妙にお節介で面白い『お手本』だった。坂本龍馬の彼にしかできぬ距離の詰め方も学びは多いが、世間一般を相手にするには諭吉の方が相応しいだろう。丁寧で、謹厳実直で、その癖感情的である。理性で規律正しく整えている風だが、長年人でなしをこなしてきた隠し刀の目は誤魔化せない。ハリスにまつわる一件以来、これから生きるにあたって参考にしようとつつくと、案の定こんな物言いで嗜めてくる始末だ。そこは慇懃無礼に断れば良いというのに、なんやかや根っこの部分では人が良い。
「大切にしたら話しても良いのか?」
「時と場合によります」
ぷいと背けられた横顔をもっと見たくなる。火花だ。やにわに温もりを抱いた胸を撫でると、隠し刀はこの火を消そうとして、取りやめた。今の自分は浪人、好きなように感情を走らせても誰も咎めはしない。
「気をつけるとしよう。また会いに来る」
「お気をつけて」
いってらっしゃい、の一言がどれほど嬉しかったか、隠し刀自身気づいたのは随分後のことだった。感情とは知らぬうちに育ち、膨れ上がり、花開かせるものらしい。何もかもが初めてで目新しく面白い。諭吉と酒を飲み、議論を戦わせ、日本の将来などと言う壮大なものまで頭を巡らせるようにまでなったが、その中心はいつだって諭吉に対する興味だけだった。
「なあ、近頃気になって仕方がないんだ」
「何がです?」
場所はどこだったか、確か海が見える場所だったように記憶している。遠く見える船を、あれは英国あれは仏国と諭吉と指差して話し合ったはずだ。あの瞬間に燃え上がった気持ちと、潮風の匂いとが結びついて脳裏から離れない。童心に帰ったように無邪気に船を指す彼の鼻に噛み付いたらどうなるだろう、と悪戯心がむくむくと湧き上がってどうにもたまらなかった。
「ある人といると、自分が自分じゃいられなくなるって言うのかな、ともかく調子が悪くなるんだよ」
「なんですか、それ。まるで病気じゃないですか」
ぷっ、と笑う諭吉の顔を見た瞬間、温め続けていた火花は大きく燃え盛って胸を焦がした。胸がどきどきし、カッと熱くなる。これだ、自分が知りたかった人の心とは今正に感じている熱に違いない。憎しみとも、恨みとも、ただの喜びとも味わいは異なる。そわそわとそぞろになるくすぐったさを感じつつも、かつてない居心地の良さを確信してもいた。
「病気か。なら、医者に診てもらわなくっちゃな。頼むぜ、福沢先生」
「僕にできる限りで、ですよ」
善処します。どこまでも前向きな諭吉に、隠し刀は久方ぶりに顔から力を抜いた。潮風がさらっていった先の時間は記憶の彼方だが、それが始まりである。名前がないものだからひどく手間取り、当初は手を借りるまいと決めていた龍馬や長州藩士にまで手を広げて野火を眺めた。火の勢いは日増しに強くなり、弱まる気配はない。いっそ鬱陶しくなるほどにままならず、常であれば明快であるはずの諭吉も確たる答えを出せぬようだった。
諭吉について、直接それを本人の話だと伝えるのは面映くて、ぼかしたままで説明したことが余計だったのかもしれない。自分なりに気遣ったつもりだが、遠回りを一層遠くに押しやった可能性は高かった。いっそ直裁に告げた方が良いのだろうか?面倒ごとに巻き込まれるうちに、物理的に諭吉と切り離されたのは突然の出来事だった。いつか彼は遠くへ行ってしまうものだと知っていた、そのつもりでいたが動かなかったのは臆病風に吹かれたからに過ぎない。結局自分は子供の頃から一つも変わらぬ、弱虫で臆病で、ただ遠くの火事を眺めることがせいぜいの人間だ。
いっそ途切れた方が悩まずに済むだろうか。今まで全て切り離してきた身の上のこと、人一人を忘れることなどお手のものである。ここまで大事に育てた火を消すのか?もう十分に楽しんだから良いだろうと捨て去るには余りに温かく、湿っぽい気持ちのままに隠し刀はそっと取っておくことを選んだ。かつての研ぎ師と、今の自分がようやく重なる。彼女もまた己の中に想いを封じ込めたからに違いない。だからこそ、最後には自分を理解してくれたのだと感謝の念が込み上げる。
けれども人でなしには戻れずに、宙ぶらりんのままで江戸に流れて月日に揉まれた。相手のいない想いがかくも辛いとは知らず、やはり消そうか消すまいか、己自身を呪った矢先に救いは訪れた。諭吉の方から縁を繋ぎ直してくれたのである。
「その人を見るたびに胸が苦しくなって、話しにくくなるんだよ。本当はたくさん話しかけたいんだ。なのに、どうしてなんだろうね?喋ってもうまい話もできなくて……まあ、諭吉も知っている通り、俺はつまらない男だから、大した話は元々できないんだけれどな」
にも関わらず、一度吹いた風は強いようで関係は微動だにしない。好き勝手に勝邸を出入りしようが、諭吉の仕事を邪魔しようが、肝心の言葉はついぞ出ぬままだ。散々手立てを求めた高杉晋作からは、良い加減恋だと認めてはどうかとどつかれる始末である。人間たちの言うことはもっともで、煮え切らぬのはただ自分一人のみだ。諭吉は一体どんな思いでこの数年越しの『相談』に付き合ってくれているものか皆目見当もつかない。ひょっとしなくとも呆れているのかもしれないが、毎度真正面から答えてくれることが嬉しくてやめられずにいる。
「……さあ。そうだ、恋かどうか、確かめてみるというのはどうでしょう。ほら、今度隅田川で花火大会が開催されますから、相手の方を誘ってみてはいかがですか」
だから、彼の言葉を実行してみようと思ったのだ。花火大会で、自分の思いの丈を打ち上げる。点けた火がどんな末路を迎えるか、本物の花火を眺めながら見届けるのは悪くない趣向だろう。気がかりなのは天気だ。もし雨であれば、当然花火大会は中止か、あるいは延期されるだろう。その時にまた臆病風が吹いたら?
「晴れると良いですね」
「うん」
そうでなくては困る。否、雨が降っても自分は自分の花火を打ち上げよう。ここが正念場、きっと最後の機会だ。降るなら土砂降りが良い。その雨音で喚き声をかき消して、頬を流れるかもしれない涙も全部誤魔化してくれるだろう。
雨天決行、せいぜい最後は華々しく。瞼の裏に火花を散らせて、隠し刀は夜を走った。
〆.