夢浮橋 日光が草花を照らし、ふんわりとした湿り気を伴う温もりを空気中に放っている。心持悩ましく感じられるのは、芽吹かんとする木々の呼気ゆえだ。植物というものは口こそ利かぬものの、等しく生命としての力に溢れ、日々活動している。
田舎道を歩いていた小笠原清務は、ふと足を止めると、そんな季節の移ろいに感嘆した。静かで、力強い。まるで自分の中で育まれゆく想いのようだ。いつしか根付いて体中に枝葉を伸ばして蕾を膨らませる。花は、咲くようで、咲かない。
「詮無い事を」
自然にかこつけようとする己を恥じて、清務は抱えた山吹の花枝を確認した。家を出る際、庭に過分なほどに育った山吹を見つけ、ただ剪定するよりはと折り取ったものである。花は鮮やかな黄色で、太陽で染めたかのようだ。山吹色、と花そのものが色を指すのも納得である。
今はこの花を見て、真っ先に思いついた相手の元へ届けようと予定を変更していた。融通が利く、いつでも良い用事だったのだから、と尤もらしい理屈を自分に言い聞かせるのは疚しさからだ。生まれてこの方、こんな風に自分を誤魔化すことなどそう多くはない。『彼』は自分の道を踏み外させる――踏み外したいと、願わせてしまう。
この想いは危険だと承知しながらも、清務は呆けたように『彼』、隠し刀のことを思い描いて花びらを指でなぞった。隠し刀と自分との出会いも、こうしたどうということもない道端である。現状の小笠原流弓術の在り方に悩み、惑い、気晴らしも兼ねて自然に答えを探しに出向いた時のことだ。追剥に出くわした町人を鮮やかに追い払う姿に感嘆し、先に声をかけたのは自分だったと記憶している。
やれ筋が良さそうだ、弓術に興味はないか、流鏑馬はどうかと並べた言葉はどれも真実であったが真意ではない。無我夢中で声をかけ、情けないほどに考え知らずに相手を繋ぎとめようと必死だったのは、今思えば果断な行動と朴訥な様子に胸打たれたからだろう。一矢一矢に心を籠め、丁寧に射よと弟子に語る立場であるにも関わらず、あの時の清務は矢鱈に口数が多かった。
戸惑いながらも隠し刀が弓を手に取り、狙い違わず的を射た際には平静を装いつつも心の中で拍手喝さいをしていた。思わずため息は零れ出てしまったが、それくらいは許されても良いだろう。声をかけたのは直感から、そうして彼の弓を見てからは確信に変わった。
落ちた、と言っても良い。道を訊ねるつもりが泥濘にはまり込んだような気分だが、不思議と不快さはなかった。寧ろ、彼に耽溺し、ままならぬ生臭い思いに振り回されることによって、礼法を探求する際には無念無想で挑めている。この世のあらゆる色は隠し刀に集約し、執着の形をとって昇華されない。
恋と呼ぶには余りに欲深かった。友として、同じ弓を手に取る者として肩を並べるようになり、彼の有り様、決然たる意志と比べて自分の小ささは歴然とするばかりで近づきようもない。求道者の皮を被って、彼が語る友垣や片割れの全てを自分に置き換えたいと願うのは烏滸がましい。どうしたらば、自分という存在が彼の心に的中できるだろう、刺さって二度と外れぬようにできるだろう、と考えては打ち消して今日まで来ている。
友として親しむには多大な熱意でもって近づき、弓道の師弟関係を結んで、その後は?その後、が遅々として進まない。元より自分にとって、これは初恋なのだと清務は己に言い聞かせていた。誰かに憧れることはあっても、密になりたい、懇ろになりたいと想ったのは初めてである。
隠し刀は、その点においてはひどく手慣れているようだった。長屋に出入りする彼の友人連との軽妙洒脱な遊びに関する語らいは、時に赤裸々で耳が赤くなってしまう。何と言うこともない風に笑って楽しめる彼らはうらやましくもあり、妬ましくもあった。自分も遊びの一つでもしていれば交われたものを、未だにする気は一つも起きないままである。人生において、必要なものは人それぞれだ。ただ、もしもう一歩道を踏み外したらば隠し刀に近づける、というのであれば惑ってしまう。間違った道だと解りながら、素知らぬ体でふらついてみたい。いつか自分が破れかぶれになりはすまいか、清務は不安を抱えていた。
隠し刀が自分をどう思っているかは杳として知れない。ただ、悪くは思っていないだろう。礼法は表面上の作法でなく、心の在り方だ。道を極めんとするにあたり、大概の人間よりは相手の心を推し量れる自信がある。確かめるように彼の手に触れたのは何度だろう。姿勢を教える素振りで肩を抱き、内緒話に身を近づける。姑息で阿漕なやり口の、そのどれもに隠し刀は優しく応えてくれたものだ。ひょっとすると憎からずは思われている、と自信を持って良いかもしれない。
だが、それだけだ。卑怯な自分はもちろんのこと、相手が何かを訴えることはない。自分ほどの想いを抱いてはいないのだ――その事実を、未だ認められずに清務は未練がましく隠し刀の長屋に通っていた。断られない限り、想い続けることは許される。甘い考えに縋り付いて、清務はゆるゆると脚を動かした。
花に罪はない。盛りのうちに活かすこともまた、折り取った者の責任だった。
***
ひらり、はらはら、ふわり。優しく揺れる扇は風に乗り、板敷きの上を舞ってぽろんと力を失って落ちる。動きのあるものというのはどうしたって目を奪われるもので、長屋に入った清務はお邪魔します、の一言も口にせずしばし眺め、はっとして口を開いた。
「お邪魔致します。……お邪魔でしょうか」
「清務か。よく来たな」
扇の投げ手はにっと人好きのする笑みを浮かべると、上がってほしいと手振りで示した。そんな動作にさえも愛しさがこみ上げて、思わずうっと胸を押さえる。いくら礼法で正道を説こうがたどり着けない正解は、今日もまた自分の心を深く射貫いた。皆中という言葉は彼にこそ相応しい。
「今日は庭の山吹が見事でしたので、お持ちしました。賑わいになれば、花が……拙者も、嬉しく思います」
「良いな、この色。家が明るくなって好きだ」
だし抜けに放たれた言葉に対し、清務が唸らなかったのは日々の鍛錬の賜物だろう。そうでなければ腰砕けになるところだった。自分相手ではないと解っていても尚、好意を告げる言葉には太刀打ちできそうにない。
「気に入っていただけたようで何よりです」
素っ気ない言葉で返すのは僅かな抵抗だ。中に上がって花枝を差し出すと、逞しい腕が包み込むようにして受け入れる。手が触れ合って、引き込めば抱きしめ合えそうな瞬間はすう、と交わることなく離れた。腕一杯の花も失い、ただ空を抱くのは寂しくも侘しい。勝手な思いを知る由もなく、隠し刀は手慣れた所作で花を盆に活けて床の間に飾った。
一挙に華やかになる空間に、己の目の確かさが証明されたようで誇らしい。花を活けることを知らなかった男が、今では多少難こそあれども、花の活かし方にすっかり馴染んでいる。
「ところで、こちらは一体何でしょうか」
花にすっかり気を取られていたが、いつまでも相手の時間に割り込んではいられない。自制心を取り戻すと、清務は板敷の上に置かれた四角い箱のようなものを示した。可愛らしい草花が描かれた箱は長方形で、小さい面を下にして立っている。上にはちょこんと銀杏の葉のような形をした置き物が置かれ、飾り物のようだがそうではないらしい。先ほど投げていた扇を拾うと、隠し刀は置き物を指で突く。りん、と小さな鈴が鳴った。
「投扇興だよ。ええと……そうか、清務は知らないか」
知らない。それを当たり前として認識される疎外感を棚に上げ、清務はこくりと頷いた。
「座敷で流行している遊びの一つだ。こうして扇を『枕』の上に乗った『蝶』――この箱と、的になる置き物のことだ――に向かって投げて、扇が落ちた形で点数を取る。晋作たちと勝負することになったんで、練習していたところだ」
「扇を投げる、ですか。なかなか難しそうですね」
ここからだ、と移動した隠し刀と『蝶』の距離は一間(1.8メートル)程、扇が手慣れた大きさのものといえどもやや遠い。その上、扇は広げなければならないとなると、風に乗ってふよふよ揺れて定まらないだろう。投げ物が得意な隠し刀であっても、これは初めての体験であるらしい。
勢いをつけて再び投げると、今度は枕に当たって手前に落ちる。跳ね飛ばされた蝶が、扇の上にころんと転がった。
「点数の形も種類が多い。これはどれどれ……ああ、多分『夕顔』だ」
隠し刀が懐から取り出したのは、複数の絵図面が描かれた一覧表だった。『桐壺』、『箒木』、『空蝉』と続けば清務の頭に一本の線が結ばれる。
「源氏物語から付けられているのですね」
「そうらしい」
教養というものに縁遠い男はのほほんと請け合うが、話の通りだとすれば雅やかにして難関だ。何しろ、源氏物語は五十四帖もある大作である。点数の元となる形を覚えるだけでも骨になりそうだ。それがまた太夫と客の話の種にはお誂え向きなのだろう。とは言え、隠し刀の様子からすれば、詳しい講釈を聞いたところで馬耳東風らしい。寧ろ投げることだけに熱中しているようで、一覧表を清務に渡した男はキラキラと瞳を輝かせた。
「せっかく遊びに来てくれたんだ、清務も一緒にやらないか?清務なら、俺よりも先にコツを掴めるかもしれない」
「どうでしょうか。ですが、興味深いですね」
どちらにとっても初めての試みに取り組むというのも特別感があって良い。彼の初めてはいくつもらっても嬉しいのだ。偶然とはいえ降ってわいた機会に感謝すると、清務は隠し刀の隣に座った。
しかし、扇を投げるとはどうしたものだろう。普段扱うように、開いた扇を掌に収めていると、隠し刀の手がするりと中に潜り込んで指を開かせた。
「あ」
「扇の持ち方はこう、指でつまむようにするんだ」
いきなり触れ合った熱に心臓が跳ねる。不自然な反応だったかもしれないと心配したが、隠し刀は気にせず清務の指を取って扇に添わせる。力を入れ過ぎず、扇を板敷に対して平行に寝かせる。どこぞの太夫にでも習ったのか、練習身分のはずの隠し刀は清務の背筋を正させ、がちがちに固まった肘を折り曲げ、板敷に対して垂直に立てさせた。綺麗な姿勢だ、と半ば放心しつつ評価するのは身に付いた性だろう。
「少し後ろに引いてから投げると良い。ほら」
「は、はい」
声が近い。やってみろと離れる熱が惜しい。柄にもなくぶるぶると震えた手をなんとか動かすも、雑念の入り混じった扇はさして飛びもせずに無残な姿を板敷に晒した。ふわりともせず、ただ落ちただけの無様な死に方である。何の感触も残らぬ掌を見、清務はぱちぱちと瞬きを繰り返した。扇がかくも頼りにならず、弓で鍛えた己の手も遊戯を前に何の助けにもならなかったとは俄かには信じがたい。
「これは、なかなか」
なかなかどうして面白い。驚きに飲まれかけたのも束の間、清務は落ちた扇を拾って居住まいを正した。
「気に入ったか」
嬉しいな、という都合の良い台詞が聞こえたような気がする。掌が湿って、構えた扇が滑りそうな――瞬間、清務はぎゅっと唇を引き結んですべての雑念を捨てた。
「参ります」
「応」
ひらり、ふわり。すい、すい。命を持たない扇が、束の間躍動する錯覚を抱く。幾度も、幾度も。半分は興味から、残り半分はこの時間を少しでも長くしたいという下心から、清務は扇を投げ続けた。
例えば、もしも自分が上達した暁に、彼と勝負するのはどうだろう。どちらも素人で、条件は同じだ。遊びの延長線上で、冗談のようにこの想いを告げるのは卑怯だろうか?いずれにせよ、何かの弾みでなしにはきっかけを掴めそうにない。
当たらないと思えば矢は当たらない。逆に、当たると思った時には矢を放たずとも射落とすのが名人とも言うではないか。ちら、と想い人を見やれば、器用な男はこつんと扇を蝶だけに命中させていた。
「お見事です」
「まだまだだ」
晋作たちは上手いから、という明るい声にぱっと頭の中で火花が散った。そうだ、きっと彼を射止めようとする人は多いに違いない。
弓を射る時同様に、的である『蝶』を見つめる。もし、当たれば自分は一歩踏み出そう。踏み外すのではなく、一歩大きく踏み込むのだ。そうして二度と後悔すまい。
すう、と息を吸う。吐くと同時に、指は虚空に煌めいた。
***
存外、負けん気の強い人である。隠し刀は唇の端を持ち上げた。長屋に敷いた布団の上ではくたびれ果てた上に酒に酔い、正体をなくした男が寝転がっている。それが清廉潔白で知られたかの小笠原清務だと言っても、恐らく誰も信じるまい。
『ついでです、ここで勝負いたしませんか』
お座敷遊びに誘うまで順調だった遊戯の空間は、清務の一言により戦場へと姿を変えた。ピンと張り詰めた空気の中、風が吹き込むことを恐れて雨戸までしっかりと閉めた周到さに恐れ入る。
「その上、『願い事を一つ聞き入れてください』だなんてさ」
余りにも健気で愛らしい。真剣さに飲まれた振りを装うこちらの身になってほしいものだ。弓術を幼くして達人の域に至らしめたという神童は、お遊戯にも才覚を遺憾なく発揮した。拙い動きから嘘のように無駄がそぎ落とされ、狙い違わず扇が泳ぐ。観るものをハッとさせるような美しい所作に、さしもの隠し刀も惚れ惚れせずにはいられない。
そう、惚れていた。清流のような謹厳実直のような人に、隠し刀は眩しさと同時にどうしようもなく恋慕に近い執着を抱いていた。恋慕かどうかは、正直なところ判然としない。自分がそうした柔らかな感情を正しく持てるか定かではなく、常人の感情に沿ったものかは誰にも確かめようがない。ただ、間違っているだろうという確信だけが常にある。
自分という存在が彼をかき乱し、崩れさせることを恐れ多く感じつつも、喜びでいっぱいになるだなんて汚らわしいとしか言いようがない。それならば距離を取ればいいものを、ああだこうだと理由をつけて繋ぎとめているのは諦めきれないからだ。
彼が自分に向けてくれる好意の温かさを一度知れば、手放すのは身を斬るよりも辛いだろう。失いたくないならば、どうすれば良いのか散々考えて、隠し刀は手を出しあぐねていた。奪うのは簡単で、清務は簡単に落とせるだろう。真偽定まらぬ情欲にぐらぐら煮えゆく男の姿が愛しくてならなかった。
しかし、ただ落とすだけでは弱い。腐りそうになるほど熟れて、自ら弾けない限り、後戻りする余地はいくらでもある。隠し刀は時折近づき、焦れて、しかし堪えて待っていた。
投扇興で遊んでいたのはたまたまだ。高杉晋作たちと座敷で遊び、手すさびにするには丁度良いと自分用に道具を誂えたのである。投げ物の技量を高めるにも良いだろう。技を極めることもできて一石二鳥だ。
もう少し遊べば十分か、と思ったところに清務が現れたのは幸運で、彼が遊びに興じてくれたのは運命だった。加減しつつも勝負に白熱させて煽って、どう出るだろう、斬り出してくれと願ってただ待った。
「これは天命だな」
そうして、彼は自ら弾けた。僅差で勝った清務が、勝負だけでなしに熱を持った瞳でこちらを見つめてきた時の喜びと言ったら!こんなに嬉しい思いに浸れるのは、もう一生ないかもしれない。
『拙者は、貴殿をお慕いしております。貴殿と契りを結ばせてください』
どうか聞き届けて欲しいという思いはすとん、と隠し刀の胸を射抜いた。元より穴だらけにされる程撃ち抜かれていた中、最後の留めが放たれたのである。
続けて襲ったのは猛烈な後悔だった。とうとう決定的に道を踏み外させてしまった。彼はもう以前のように清らかではいられないだろう。黙ったままでいた隠し刀をどう解釈したのか、清務は続けざまに言葉の矢を放った。
『願いを聞き入れてくださるのでしょう?』
以前の彼ならば、そんな台詞は口が裂けても言わなかったに違いない。自分がそうさせたのだ。願いを聞き入れてもらったのはこちらの方であるというのに、つゆとも知らずに悶えている。深い哀れみと共にかき抱いたのは、おぞましい獣の笑みを観られないようにするためだった。
だから、返す言葉は慎重に選んだ。そうして酒を飲んで今に至る。酔うことを知らぬとは損をしていると桂小五郎に言われたが、酔いを知らないが故に情人の姿を眺められるならば十分幸せだろう。
返事の台詞を思い返しながら、枕を立てて蝶を置く。扇を拾って離れて座ると、隠し刀はしゅっと扇を投げた。
〆.