走馬灯に照らされて古い記憶の唐突な再生は、懐古による哀憐や葛藤を必要としないビ・ハンであれ起こる。彼の脳内で再生される過去は、決まって弟との出会いである。山深い集落の因習らしい、冬の平穏を祈る為の生贄だった彼の手を取ったあの日。集落の人間は燐塊の指示により殲滅し、残党を求め洞窟に足を踏み入れた。黴臭い祭壇に縛り上げられた、死に追い立てられ狂乱する村人に好き勝手打たれて血達磨の幼児に、同じエデニアの香りを見つけた。全く無意識に邪魔者を殺し尽くし、吸い寄せられるように少年に近づく。瞬く間に氷漬けにされた暴徒を見渡し、『かみさま?』と問う骨張った身体を抱え上げた時、あろう事かビ・ハンは危うく彼を振り落としかけた。彼に触れた手が、全く未知の感覚によって粟立ったのだ。訳もわからず抱えられた子供は暴れる事なくビハンの胸に収まった。そんな小さな身体からじわじわと染み渡り、己が拍動をこんかぎり沸き立たせるそれが何なのか。困惑し少しばかり佇んでしまった。
そのうち肩口に縋り付く少年に『かみさまの手って、ちべたいね』と囁かれて、ビ・ハンはようやく、己が凍えていたのだと気がついた。
400年という月日の走馬灯は燃え尽きるのに時間がかかるのだと、他人事の様に納得する。
心臓を突かれ、甲冑の中に溢れた血が滲みる感覚に不快感を覚えながら状況を整理する。
持って寸刻、心臓及び腹部の損傷は致命的。成すべきは逃亡だと即座に判断し、扉に手を伸ばす。それでもなお、走馬灯は止まらない。
『神ではない。お前の兄となる者だ。』
『ぼく、あなたの家族じゃないよ』
掛けた手が止まる。
『家族だとも。今この時から。』
ここを出れば、奴らは仲間と共に魔界を滅ぼすだろう。そして、それに加担した者を殺すだろう。己だけでない。燐塊そのものを、あの子も例外でない。
『名は?』
『みんなは贄って。』
『それは名ではない。』
失血により末端の感覚が薄れる。だから思い切り、叩きつける様に退路を閉じた。矢継ぎ早に纏まらない呼吸は、片方の肺が潰れた事を示していた。
『私はビ・ハン。燐塊の頭だ。』
『りくうぇ?』
『燐塊。』
片や煉獄の火を得た化生の者とその氏族、片や瀕死のその怨敵。結末は覆らないと理解しても、破裂し殆ど機能しない心の臓は声高に拍動する。あの時の様に。混濁する意識は過去と現在を分離しない。
『そうだ。我らの身は。』
「...燐塊の為に。」
再び刃を突き立てられた心房が萎んでゆくのを感じる。床に叩きつけられると判っていても受け身も取れない程に限界だった。
胸を抉るかつてハンゾウにとどめを刺したクナイの因縁めいた輝きに思わず嗤う。最早血は巡らず、酸素の行き渡らぬ頭で標的を見れば、その背後に人影があった。蜃気楼のようにぼやけていた2つ影は、徐々に焦点を結んでいく。やがてそれは、かつて氷漬けにした女と子となり、己を忌々しげに睨んだ。しかしてそれに抱く恐怖も哀しみもなく、ビハンはただ彼を思う。帰りを待つ子を想う。
『カイ・リャン。これからそう名乗れ。ビ・ハンの弟だと。』
『おとうと』
『ああ。』
『ビハン、兄ちゃん』
『....ああ。』
朦朧とする世界が、赤く輝く。身体中を懐かしい感覚が包み込む。今死にゆく男に宿敵も世情もなく、どうしてか、ただあの日と同じ染み渡るような喜びで満ちていた。
あの日、己が凍えていたのだと知った。
そして今、あの子は暖かかったのだと理解した。
『大哥!』
声が聴こえる。温かな声が。明々と眩いその方へ手を伸ばす。
縋り付いていたのは一体どちらだったか。
怨嗟の炎に溶けながら、男は最期まで希望の夢を見ていた。