【ゼン蛍】言葉より物語る アルハイゼンと付き合うようになって意外だったのは、ともすれば潔癖の気さえありそうな彼が、想像もつかなかったほど私をそばに置いて時には触れることだった。
彼の家で書物を読もうとすれば、私の座る場所は彼の膝の上、もしくはその隣。しかも基本的には片腕を回されその腕で閉じ込めるように密着する。夜寝る時も隣に並ぶだけじゃなくて、必ずその腕の中に捕まる。
誰かと食事をすれば隣の席だし、今もほら。仮眠を取ると言った彼は私にこの後の予定が無いことを知って隣に座らせたかと思えば、腕を組んで眠りだす。いつものように腕を回してこないのは寝てしまうと体重が掛かってしまうため、流石に私では支えきれないと考えたからかもしれない。横になった方が疲れも取れそうだけど、生憎ここは執務室。アルハイゼンほどの大きな体躯を横にして休める場所はなく、肩を貸してあげたくてもさっきも言ったように体格差のせいでそれは叶わない。
暇つぶしの本にも集中出来なくてちらりと盗み見たアルハイゼンは、目を閉じて静かに呼吸を繰り返している。疲れているようには見えなかったけど、仮眠を取るくらいだからやっぱり疲れていたんだろうか。何かしてあげられることはないかな、と考えてみても一先ずこの場で出来そうなことは思い浮かばなくて。
うーん、と悩んでいるとアルハイゼンが目を覚ます。
「もういいの?」
とは言っても私は何もしていない。ただ隣にいただけ。けど彼は気にした様子もなく、あぁと返事をすると立ち上がった。
「今日はこのまま洞天に戻るのか?」
「少しだけグランドバザールの方を見てから戻るつもりだよ」
「そうか。仕事が終わり次第そちらへ行く」
それから軽く頭を引き寄せられ、髪に触れるだけのキス。
「行ってくる」
そのまま一度も振り返ることなく去った彼を扉が閉じるまで見送って、キスをされた場所に触れる。
アルハイゼンと付き合うようになって意外だったこと、もう一つ。彼はよくキスをする。唇に、だけじゃなくて、さっきみたいに髪にすることもあるし、頬とか目元にすることもある。
おはよう、と一つ。行ってきます、で二つ。ただいま、からの三つにおやすみ、の四つ。目が合って五つなんてこともあった。毎回じゃないけど分かりやすいものだけでもこれだけあって。
幸いいつも人が居ない時にしてくれるけど、いつか誰かに見られてしまいそうで。今も誰が入って来てもおかしくない執務室で、見られたらどうするつもりだったのか。アルハイゼンのことだから気にしないんだろうな……と思わず小さく笑ってしまうけど、こちらとしてはそんなことになったら恥ずかしいので出来ればそんなことが起きないようにと願う。
見られてしまうのは嫌だけど、キスをされることは問題ないなんて、いつの間にこんなに慣れてしまったんだろう。最初の頃は驚いて小さいながらも声を上げてしまうこともあったし、恥ずかしくて思わず距離を取ってしまうこともあった。それが今では当たり前に受け入れている自分がいて。……思い出すとちょっと頬が熱くなるけど。今も直前のキスを思い出して少しだけ頬の熱を感じながら、誰も居なくなった執務室を後にした。
それから数日後、夕食をランバド酒場でとろうと三人で赴いて、偶然ティナリとセノ、そしてディシアと出会った。同じく夕食をとるところだというので共に机を囲んで楽しい時間を過ごす。盛り上がりも一段落した頃、「あ、アルハイゼン書記官!」と息を乱す学生が近づいてきた。聞けば今すぐ一緒に来て欲しいらしい。
「断る。勤務時間外だ」
「で、でも草神様が探してましてっ」
「クラクサナリデビ様が?」
「流石に行った方がいいんじゃない?」
ティナリが学生に助け船を出すような発言をすれば、学生はそれに乗っかり首を激しく縦に振る。アルハイゼンもそれは分かっているのだろう。彼にしては珍しく嫌そうな顔(とはいえ微々たる変化だ)を見せて小さく息を吐いた。
「スラサタンナ聖処でいいのか」
「え?」
「スラサタンナ聖処に向かえばいいのかと聞いている」
「い、いいえ! 知恵の殿堂です!!」
「すぐに向かう。先に戻るといい」
「ありがとうございます!!」
九十度以上に腰を曲げて頭を下げると一目散にその場を去る学生を見送ることもなく、アルハイゼンは目の前の杯を呷って立ち上がる。それからカバンから鍵を取り出すと私に手渡した。
「先に戻るようなら好きに過ごしてくれ」
「いいの?」
「あぁ。それとこれも」
続いて取り出されたモラ袋。あらかじめ奢ってもらう約束でいたので、一人分にしては見た目にも重いそのモラ袋も有難く受け取る。
「お、いいね。ついでにあたしたちのもお願いしたいところだ」
「好きにすればいい。予定にない分足りているかは知らないが」
モラ袋の見た目でディシアにも私たちが奢ってもらうことが分かったのだろう。揶揄うように言った言葉に思いがけない返答があり、ディシアは驚いた顔を見せた。
「本当か? なんだ、言ってみるもんだな」
「この程度で貸しが作れるなら安いものだ」
「は? いや、ちょっと待て」
「行ってくる」
ディシアの言葉を遮り、少し体を屈めて私の頭を引き寄せたアルハイゼンは、いつものようにキスをして酒場を出て行った。それを見送った後体勢を戻すと、皆の視線がこちらを向いていて思わず体が小さく跳ねた。
「な、何?」
「いやぁ……随分仲が良いんだなーって」
ねぇ? とセノとディシアに同意を求めたティナリの言葉の意味に気付き、私は慌てて口を開く。
「ち、違うの。今のはたまたま……そう、たまたま! いつもは人が居るところじゃしないよ!」
「ふーん、人が居ないところじゃよくやってるんだ」
「え、あ」
しまった。完全に墓穴を掘った。慌てふためく私に向けられる視線のなんと温かいことか。あまりにも慌てるからかティナリが小さく笑って言う。
「ごめんごめん、からかってるつもりじゃないんだ。ただ、まさかアルハイゼンがあんなことするなんて思わなくてさ」
「そうか? アイツ、いっつもああやってキスしてるぞ?」
「パイモン!!」
そうだ、忘れていた。確かにアルハイゼンは他の人の目がある時にキスをしたことは無かったけど、いつも近くにいるパイモンには流石に何度か見られている。パイモンも私たちに慣れてもう何も言わなくなったから、結局どれくらい見られてたかなんて分からないくらいだ。
その前に自白してることも忘れてついパイモンの名前を強く呼んでしまった。
「な、なんだよ。オイラ嘘なんて言ってないぞ」
「そ、うだけど」
「まぁ落ち着けって。こっちは驚きはしたがちゃんと大事にしてもらってるみたいで安心してるんだぜ」
頬杖をついたディシアが満面の笑みで言うから何も言えなくなって小さく唸るしかない。そんな私を見てセノとティナリも笑みを浮かべている。うぅ、恥ずかしい。
「それより、アルハイゼンのさっきの言葉、本気だと思うか?」
「貸しのこと?」
「あぁ。普通なら冗談って取るが、あいつの場合逆にどこまで本気なんだか」
「流石に冗談でしょ。蛍もそう思うよね?」
「え? う、うん。いくらなんでもこれで貸しなんてことは無いと思う」
「そうか? なら有難く奢られとく……か?」
意図的か偶然かは分からないけど、話題が逸れて内心ほっとする。それから他愛ない会話を続けて、私たちはランバド酒場を後にすることにした。
会計を済ませて酒場の前で解散しようとしたところで、セノから「送っていく」と声を掛けられる。
「アルハイゼンの家までだから大丈夫だよ」
「だがシティ内とはいえこんな時間に女性一人で歩かせるわけにはいかない」
こんな時間にとセノは言うが、まだシティ内は家々の明かりも含めて明るいし人通りも少なくはない。
「オイラだっているぞ?」
「そうだね。パイモンも居るから二人だ。それでも女性二人、何かあったら困るでしょ?」
ティナリが続ける。この言い方だとティナリもついてくるつもりなんだろうか。
「それならディシアだって」
「あたしも行くぞ」
女の人だよ、と言おうとして更に続いたディシアの言葉。セノ一人が送ってくれるどころかティナリとディシアの二人まで来るなんて、もしかして何かあったのだろうか。
「そんな、パイモンと二人でも大丈夫だよ」
「まぁまぁ。ここは大人しく送られてよ」
「……何かあったの?」
「うーん……何かあったと言えばあったし、無かったと言えば無かったし……」
どうにも煮え切らない態度を取るティナリに疑問を抱きつつも、今はいつアルハイゼンが戻って来るかも分からない。一緒にいて困るわけじゃないので全員でアルハイゼンの家に向かう。何かあるかと少し身構えていたけどそのまま何事もなくアルハイゼンの家に着き、私とパイモンはその場で別れて受け取った鍵を使って中に入った。
蛍とパイモンが家に入ったのを確認して三人はすぐにその場を離れるかと思いきや、少し距離を置いた場所で立ち話を始めた。
「アルハイゼン、すぐに戻ってくると思う?」
「どうだろうな。クラクサナリデビ様直々の指名なんてそうそう(然う然う)あるものじゃない」
「そうそう。まだしばらく時間がかかるんじゃないか?」
「そうそう(然う然う)とそうそうをかけたのか……?」
「は?」
「出た、セノの悪い癖」
額に手を当ててはぁと息を吐けば、酔いが回ったのか? と見当違いな言葉を掛けられる。君のせいだよと悪態をついて睨みつけても、自覚がないのでセノは小首を傾げるだけだ。
「そんなことより結局草神の頼み事ってのはなんなんだろうな。時間はあるし、もう少し待って聞いてみるか?」
「それもいいかもね。あぁ、そういえば……」
そうやって立ち話をすること十数分。ティナリは一度視線を二人とは関係のない方向へちらりとやった後、セノとディシアを見た。
「さて。これで僕たちは義理を果たしたと思うんだけど」
「そうだな」
「流石にここまでする必要は無かったかもだけどな」
今度はセノとディシアが先程ティナリが視線を向けた方向を見る。少し前までそこにあった人の気配はすっかり無くなっていた。
三人が蛍に付いて来た理由。それは酒場に居た男の存在のせいだった。入った時からおかしな様子を見せていたが、案の定酒場を出てからずっと一定の距離を保ってついてきていた。自分たちが去った後に家に押し入ることも考えて念のためこの場で話をしていたが、これで危険は無くなっただろう。アルハイゼンに直接頼まれたわけではないが、万が一今日の奢りが貸し一つだとしてもこれで借りは無くなったはずだ。もちろん貸し借りの有無に関係なく、純粋に蛍の身を案じての行動である。
「そういやあの視線、気付いたか?」
思い出したように言ったディシアの言葉に、二人が思い浮かべたのは同じ光景だった。蛍の頭を引き寄せ、髪にキスを送ったアルハイゼン。蛍はたまたまだと言ったが、アルハイゼンがあのキスを誤ってあの場でしたとはどうにも思えなかった。何故ならあのキスを送って上体を戻す寸前、アルハイゼンは三人に向かって一瞬とはいえ鋭い視線を向けたのだから。
「アレ、絶対牽制だよね」
「女のあたしにまで向けてきたんだぜ」
「まぁ俺たちはついでだったんだろうが。あいつが居たからな」
それが先ほどまで警戒していた人物である。それ以外の周りに対しての牽制もあったのだろうが、納得がいかないとティナリが続ける。
「ついでで牽制されても困るんだけど。何? 僕たち人の彼女に手を出すようなやつだと思われてるの?」
心外だ、と怒る様子のティナリを宥めながらディシアが続けた。
「まぁまぁ、いくらあいつでもそこまで思ってないだろ。それにしても蛍のやつ……キスされても全然動じてなかったな」
「そういうのを気にしないタイプもいるが、後の弁明を見る限りパイモンが言っていた通りいつもしているから慣れたんじゃないか?」
「おかげで周りには随分深い仲に見えただろうさ。アルハイゼンが相手だと実はそれすら今日みたいな日に備えて、とか勘ぐっちまうけどな」
ハハハ、とディシアは笑って見せたがすぐにピタリと笑うのを止めた。ティナリとセノの顔が少しだけ険しくなったのを見たからである。
「いや……まさか」
「さすがに、それは……」
「お、おい、あんたら本気じゃないよな?」
急に訪れた静寂。何とも言えない空気の中、それを破ったのは偶然現れたカーヴェだった。
「セノにティナリじゃないか。どうしたんだ? こんなところで」
「良かった! 丁度第三者の意見が聞きたかったところなんだ!」
「え? は? いや、いきなり何なんだ?!」
カーヴェの言葉に反応を返したのはティナリだったが、カーヴェの登場を喜んだのはもちろん一人ではなかった。訳が分からないと混乱しているカーヴェを引きずって再度向かった酒場は、朝方まで盛り上がっていたという。
一方、アルハイゼンがナヒーダに呼ばれて向かった知恵の殿堂で待っていたのは大量の書籍と資料だった。
書籍はともかく、まだ碌な翻訳もされていないという古代文字で書かれた資料。それを元々は今目の前にいる学生たちが辞書や変換表を片手に翻訳をしながら、とある一節の有無を確認していた。見慣れぬ言語に少しずつしか進まなかったが、時間をかければ問題なく終わるはずの案件だった。それが突然、早急に終わらせなくてはいけない理由が出来てしまう。
どうしたものかと考えあぐねていたところに散歩がてら知恵の殿堂に立ち寄ったナヒーダがそれに気付いて声を掛けた。そして事情を知ったナヒーダは手伝いを申し出る。もちろんそんなことはさせられないと学生たちは断ったが、あれよあれよと言う間にアルハイゼンを含めた数名に声を掛けるよう指示をし、気付けば何名もの助っ人がこの場に集まった。それがアルハイゼンに声が掛かった事の次第だ。
己の成すべきことの説明を受けたアルハイゼンは早速資料を手にし、辞書等をほぼ必要とせず読み進められた資料は次々と積み上がる。その速さは思わず見入ってしまう学生がいるほどだった。
アルハイゼン達の登場でぐっと効率は上がったものの、ようやくその一節が有ると確認された時にはすっかり夜も更けてしまっていた。しかしこのまま無いと確認しなければならなかった場合、どれだけ時間がかかっていたかと想像して学生たちは喜びに涙する。
「さすがアルハイゼンね。あなたのおかげで随分と早く終わることが出来たわ」
学生たちが後片付けをする中、すぐにでも去ろうとしたアルハイゼンにナヒーダが声を掛けた。
「いえ。それよりも次は就業時間内にお願いします」
「ごめんなさい、次からは気を付けるわ。それはそうとお礼がしたいのだけれど、何か希望があるかしら?」
「それは貴女から受け取るものではないはず」
お礼がしたいというのならそれはナヒーダからではなく学生たちがするものであるはずとアルハイゼンは暗に伝えるが、ナヒーダは私がしたいのと譲らない。ならばと腕を組み右手を口元に添えて思案する。それはどこまで許されるものなのか。何でもいいと言うのなら、神である彼女の権限によって今まで許可の出なかった書籍も閲覧出来るかもしれない。彼女自身に質問することも許されるはずだ。そこまでは許されないと言うのなら、先程のようなまだまとめられていない資料を優先的に見る権利などでも面白い。
「私に出来ることならなんでも構わないわ」
そう言われてしまえば、一つに絞るには随分と難しい。
「クラクサナリデビ様、後日希望を伝えても?」
「あら、沢山ありすぎて絞れないのかしら? 一つと言わず教えてくれていいのよ?」
「それもありますが、蛍を待たせているので」
「まぁ」
口に手を当てて驚いたナヒーダは、すぐにふふっと笑顔を見せた。
「余暇の邪魔をしてしまっていたのをすっかり忘れてしまっていたわ」
「では、後日」
「えぇ。今日は本当にありがとう。蛍にもまたいつでも遊びに来て欲しいと伝えておいてくれるかしら」
そうしてアルハイゼンが帰路につき玄関の前まで来た時、蛍に鍵を渡していたことを思い出す。一度扉を押してみるが、鍵がかかっていて当然開くことはない。戸締りは大事で、これについて問題はなかった。けれど既に大分遅い時間帯。寝ていることも考えてノックすることを一度躊躇ったが、すぐに考えを改め、これで気付かれなければ洞天の方に向かおうと数度ノックした。するとまるで扉の前に陣取っていたのかと思うほど早く扉が開かれる。
「おかえりなさい」
「あぁ、ただいま」
相手を確認もせず扉を開けたことに一言言うつもりが、扉から顔を出した蛍がふにゃりと相好を崩して出迎えるものだから、アルハイゼンも挨拶を返してそのままキスを落とす。それからその顔を再度見ようとしたところ、それよりも先に腕を引かれ、背後で扉が閉まる音がした。
「だ、誰かに見られちゃうかも」
「こんな夜中にか?」
「いないとは限らないし……」
はて、とアルハイゼンは思考を巡らす。最近ではこれくらいのキスならばすっかり慣れて恥じらう様子など見せなかったはずが、今の様子はまるでキスを送り始めた頃のようだ。酒場でキスをした時にはまだこんな様子ではなかったが、この短時間で何が起きたのか。
「き、キス。皆の前でするからあの後凄く恥ずかしかったんだよ。どうしてあんなところでしたの?」
なるほど、と思うと同時に蛍の質問の意図が分からなかった。何故と聞かれてもアルハイゼンからすればいつもと変わらず行ってくるとキスをしたに過ぎない。
「いつもしていることだろう」
「いつもは人が居る時にしないでしょ?」
つまり。今まで誰も見られなかったのは人が居ない時にキスをしていたからだと蛍は思っている。しかしアルハイゼンはそれについて意図して人を避けたことは無い。たまたまそのタイミングで人が居なかっただけで、したいと思った時にしているだけだ。だからいつもそばにいるパイモンがいようと構わずキスを送るわけで。蛍もそれを分かった上でパイモンに見られることを気にしていないのかと思っていたのだが。
認識の相違を今ここで正すべきか。考えかけて放棄した。本来なら夕食を終えて共に帰宅し、蛍と過ごしていたはずの余暇を滅茶苦茶にされている。全てを取り戻すまではいかなくても、これ以上他の事に時間を使いたくはない。アルハイゼンは蛍を軽々と抱き上げ、思わず上がった驚きの声も無視してソファに座ると、そのまま蛍を膝の上に跨るように座らせる。いつ見ても不思議な虹彩が蛍をじっと見つめた。
少しだけ目が細められ、顔が近づく。今日は蛍だけが泊まる予定だったので、既にパイモンは洞天に戻っている。カーヴェはいつ戻るか分からないが、今は確実に二人きり。誰の目を気にする必要はなく、まだ疑問に答えて貰っていないものの、それに合わせるように蛍はゆっくりと目を伏せた。
軽く唇同士が触れ、何度か啄むようなキス。そのまま頬や目元に移り顔中にキスが降る。その動きが止まってうっすらと目を開けると、また唇に戻ってきて小さなリップ音を立てた後、アルハイゼンは少しだけ二人の距離を取った。優しいキスの雨に蛍はほぅっと小さく息を漏らして次を待つ。下唇に左手の親指が触れ、ほんの少しだけ力を込められる。これはもっと深いキスをする、そんな合図。蛍はまたゆっくりと目を伏せた。
「そっか、合図」
再び唇が触れあう寸前、蛍が思い出したように目を開け声にした。今の二人にそぐわない言葉に、アルハイゼンは動きを止め、怪訝そうに視線を送る。
「ご、ごめん。さっきのこと思い出して」
「何のことだ」
「皆の前でキスしたこと。あれって何かの合図だったんでしょう?」
「合図?」
「あれ? 違う?」
蛍は三人から酒場から家まで送っていくと言われたこと、家の前で別れた後も何故か暫くその場で話をしていたことを説明した。
「てっきり前もって何か話をしてたのかと思ったんだけど……」
「知らないな」
正確に言えば心当たりが無いわけではなかった。けれど事前に打ち合わせなどをしたわけではなく、三人の行動自体には完全に関与していない。だから嘘は言っていない。
「じゃあ何で今日は人がいるのにしたの?」
「そもそも俺は人の目を気にしてキスをしていない」
首を傾げる蛍に続きを諦め、話を戻す。
「今まで人が居なかったのは偶然だ。人が居ない場所に二人きりでいることが多かったせいだろう」
「言われてみれば……」
「それに俺はしたいときにしているだけだ。君だってそうだろう?」
アルハイゼンの言葉にあれ? と蛍は奇妙な違和感を覚えて口元に指を当てて考える。
「……私、キスしたいって思ったこと、無いかも」
「……ほう?」
アルハイゼンの双眸が不穏さを帯びたが、蛍は気付かないまま続ける。
「……うん、やっぱりそう。だってそう思うより先にアルハイゼンがキスしてくれるし……それにしたいって思うより、して欲しいって思っちゃう、かな」
一人納得したかと思えば、過去のキスを思い出したのかほんのり頬が赤らむ。そんな蛍にアルハイゼンは小さく息を呑むと顔を俯かせ一度大きく息を吐いた。
「アルハイゼン?」
「君は……いや、何でもない」
「そんな言い方されると気にな、ぅんっ」
蛍の言葉を唇ごと奪う。先ほどし損ねた深いキスを何度も送れば、蛍はあっという間に蕩けてしまった。力なくアルハイゼンに凭れ掛かると目元に軽いキスをされ、耳元に口を寄せられる。
「このまま君を抱きたい」
そんな言葉にすら反応してしまう体が恨めしい。けれどこれだけは伝えなければと蛍は目を見て言う。
「ここじゃ、やだ」
瞬間、蛍をしっかりと抱き上げたアルハイゼンは他には目もくれず寝室へと向かい、優しくベッドへ横たえるとまた顔中にキスを落とした。ふと、蛍はディシアの言葉を思い出す。
「また考え事か」
見下ろす表情がほんの少し拗ねたように見えて蛍はふわりと笑った。
「ディシアに言われたの。ちゃんと大事にしてもらってるみたいで安心してるって。本当にそうだなって、思ったの」
「……そうか。だが、そろそろこちらに集中して欲しい」
アルハイゼンの手が服の下に差し込まれる。このまま快楽に訳が分からなくなってしまう前に、蛍はアルハイゼンの首に腕を回して引き寄せると顔をギリギリまで近づけた。
「キス、して」
恋人の可愛いおねだりを、アルハイゼンは言葉を返す代わりに唇で答えた。