欲求強めの松井くん「最近、松井の様子が変なのだけど」
昼食時の賑わう食堂にて、山姥切長義が豊前江に問いかける。この日は珍しく長義の方から豊前に声をかけて、昼餉を共にしていた。
「え、どんな感じで?」
「何というか……時折ぼんやりして、作業に身が入っていないように見えるな」
山姥切長義と松井江は、共にこの本丸での実務を執り行っている。他にも実務に当たっている刀剣男士はいるものの、この二振は顕現時期も近く、かなり親しい関係になっていた。
「豊前の目から見てどうだろう、眠れてないとか具合が悪そうとか、そんな感じはあるか?」
「……んー、」
「もし松井の体調に問題があるとしたら、すぐにでも休暇を申請できるけれど」
豊前が軽くこめかみを掻く。
「それが最近さ、なーんかこう……まつに避けられてる気がすんだよなー」
「……喧嘩でもしたのか?」
眉をひそめる長義。長義は、豊前と松井が好い仲であることを知っている。
「そんなことはねーはずなんだけど……」
少しの間、二人は黙り込んでしまう。しかし豊前が意を決したように顔を上げると、長義の目をまっすぐに見た。
「とりあえずまた話してみて、駄目そうだったら桑とか篭手切にもなんか知らねーか聞いてみる」
「わかった。助かるよ」
それじゃあよろしく、と長義が食堂を後にする。豊前も食器を戻してから、そのまま松井の私室へと向かった。
豊前が松井から避けられているように感じたのは、割と最近のことであった。初めのうちは引っ込み思案な性質であるだけだと豊前は思っていたのだが、豊前と二人になりそうな雰囲気を感じ取ると、松井は篭手切や桑名の元へそそくさと逃げていくのを繰り返していた。更に、豊前と松井の二人が馬当番に充てられていたところを、松井の方から畑当番にしてほしいと申し出たとの情報を桑名から聞いた。そのときにも豊前は、松井と喧嘩でもしたの、と尋ねられていた。
心当たりがないことで避けられはじめてから、文字通りに寝覚めが悪く、寝起きから既に疲れているように感じることも明らかに増えた。なので自分のためにも、松井とは顔を合わせて話しておきたい。豊前はそう思って、まっすぐに足を進めていく。
そうして松井の私室の前に到着して、豊前は部屋の戸に手をかける。鍵はかかっていないようだった。
「お邪魔しますっと」
整頓された部屋には、歌仙兼定が見繕った調度品がいくつか置かれている。いくら見渡しても部屋の中に人影は見当たらず、豊前はそのまま退出して戸を閉める。
「……豊前?」
後ろから怪訝そうな声がする。振り向いてみると、松井がそこに立っていた。
「まつ! 探したよ」
「僕を?」
「ん、ちょっと話してーことあってさ」
その言葉を聞いた松井の顔がすっと青ざめていく。松井は何も言わずに二、三歩ほど後ずさりをすると、そのまま身を翻してこの場から走って逃げ出した。
予想だにしなかった反応を前にして、豊前は少しの間目をぱちくりさせてしまう。しかしすぐに逃げ去る松井の後ろ姿を見据えて、紅の瞳を鋭く光らせる。
「逃がすかっての!!」
駆け出して3秒で最高速度に至る豊前。松井の背中がじわじわと近くなっていく。このまま猛追していこうと思ったところで、
「ああっ、」
長い脚を縺れさせて、松井が勢いよく転倒してしまった。
「うぅ…………」
ゆっくりと体を起こす松井。その顔の前に、手が差し伸べられる。
「立てっか?」
松井は豊前の顔と骨張った手を交互に見てから、その手を取らずに立ち上がる。
「まつ。話、聞かせてもらっていいよな?」
何も言わずに頷く松井。その土気色の顔を、豊前は心配そうに覗き込んだ。
「とりあえず、まつの部屋に戻っていいか? 他の奴にも聞かれたくねーし」
再び頷く松井を見て、豊前は松井の手をそっと握る。その手の先は、驚くほどひんやりしていた。
松井の私室に入る二人。豊前は途中で誰かが入ってこないように鍵を閉めてから、既に腰を下ろしていた松井の目の前に座る。松井はその間、ずっと虚ろな表情をしていた。
「……まつ、顔色やべーけど……具合悪いのか?」
松井は力なく首を横に降る。
「山姥切も心配してたぜ?」
「……山姥切が……」
「もし体調が良くなかったら、代わりに休み申請してくれるっつってたよ。いい奴だよな、あいつ」
豊前が歯を見せて笑う。
「だからさ、『言いたくないことは無理に言わなくてもいい』って前に言ったけど……今回は、何があったのか教えてほしいんだ」
「……豊前」
「ほら、山姥切も巻き込んじまってるわけだしさ」
切れ長の目を縁取る睫毛が震える。松井はちらりと豊前の顔を見た。
「豊前、あの……」
「ん」
「……最近、寝て起きたらもう疲れてると思ったことはないか?」
紅い瞳を丸くして、豊前は松井の表情を窺い見る。
「ある、けど……?」
「それは…………僕の、せいなんだ」
「……んん???」
言葉の意味がよくわからず、豊前は小首を傾げた。
「いやそれ多分まつのことが心配だからだけど、それは俺が勝手に心配してるからで、」
「違うんだ、そういうことじゃなくて……」
上手く言葉を紡げず、もじもじしてしまう松井。
「……豊前、僕に部屋の合鍵くれたことがあるだろう」
「おー、あるな」
「それを、その…………」
松井の頬に、朱が差していく。松井が言葉を続ける前に、豊前が口を開いた。
「あっ、俺が寝てる間にこっそり腕枕でも借りに来てるとか?」
「……そんな可愛いことではないよ。僕がしてたのは、もっと……」
「もっと、って何だ!?」
思わず驚きの声をあげてしまい、悪い、と松井に謝る豊前。次は声を潜めて、松井に尋ねる。
「ま、まさか……接吻、とか……?」
「……それも、したけど……」
「それ『も』って、もっと何かあんのか!?」
松井は耳も首の後ろも赤くして、まるで茹だっているかのようであった。消え入りそうな声で、松井の言葉が続く。
「…………ま、まぐわったり、とか…………」
松井の口からは、まったく予想できなかった言葉が出た。
それを聞いて、豊前は衝撃のあまり少しの間固まってしまう。豊前は一度寝てしまったら朝までぐっすり眠るタイプなので、本当に全く気づいていなかったのだ。
「えっ……それ、マジ?」
「うん……マジ……」
「マジかぁ……」
豊前の頬にも朱が差していく。
「その……豊前に跨って、それで……一滴残らず…………」
「わーったわーった、無理に言わなくていいって!」
詳しく語ろうとした松井を制止する豊前。
豊前と松井は好い仲ではあったが、まだ性接触にまでは至っていなかった。なので松井と知らないうちに既成事実が成立していたという事態を豊前は上手く飲み込めない。豊前が何も言わないでいると、松井の方から口を開いた。
「本当にごめん、豊前。許してもらえるとは、思っていないけれど……」
松井が項垂れる。白いうなじも赤く染まっている。その様子を見ていた豊前は、松井に優しく声をかけた。
「まつ。俺にこうやって話すまで、苦しかったか?」
「えっ、うん……」
「……それじゃあ、今回はそれでいいや。苦しかったってことは、『悪かった』と思ってたってことだろ?」
にっ、と歯を見せて笑う豊前。
「でも、豊前……」
「ま、初回通告ってことでさ」
松井の切れ長の目が潤む。縹色の瞳には、豊前の笑顔が映る。
「……豊前は、優しいな。僕は……疎まれても仕方ないと、思っていたのに」
「惚れた弱みってやつだよ」
「え、」
松井の体が優しく抱き寄せられる。着衣越しで伝わってくる豊前の体温。松井の胸の奥が、じわりと熱くなっていく。
「今度、そういうのがしたくなったときは……いつでも言ってくれて構わないからさ、」
「豊前、」
「それに……お、俺だって……まつとそういうこと、したいし……まつと一緒に、気持ちよくなりたいし」
耳まで赤くなっている豊前。豊前は松井の体を抱き締める腕に力を込めた。
豊前の腕の中にて、太く早い心臓の拍動が聞こえてくる。この心音に釣られて、松井の胸も早打つ。鼻血が出そうになるのをぐっと堪えて、松井は小さな声で問いかけた。
「本当に……いいのか?」
「おう」
「……それじゃあ、」
更に消え入りそうな声で、松井が呟く。
「い……今……」
「ん?」
「今、したい……」
松井の頭を撫でようとした手が止まった。
「今、かぁ〜…………」
そのまま少しだけ、豊前は考え込む。二人の間に横たわる沈黙。
ふと、豊前が松井から体を離した。松井は目を丸くして、豊前の顔を見る。その凛とした表情は何かを決心したように見えて、松井はゴクリと生唾を飲んだ。
「そうだなー……さすがに、今からは無理だな」
「……うん」
「だから…………今日の夜! するぞ!」
豊前の勢いを受けて、ぽかんと口を開けてしまう松井。しかし豊前の言葉を反芻するうちに、白い首まで真っ赤になっていく。小さな鼻からは、堪えきれなかった鼻血が溢れる。手で鼻を押さえながら、松井は首を縦に振った。