木々が風に揺れる音がする。耳をすませば川の流れる音も聞こえてきた。
ぼやけた視界に瞬きを繰り返せば見慣れない景色の中、己の体が草むらにぼとりと落ちている。どうりで緑と土の匂いがしたわけだ。手を持ち上げ瞼をこすると乾いた土がパラパラと落ちる。
「しくじった」
そう呟かずにはいられない。
霊山の頂に位置する雲深不知処にはいくつもの不可侵領域がある。座学生が迷い込まないようにと結界が強固にかけられ、境界に見える景色の向こうにはたどり着けない。
しかし結界は目には見えぬので急ぎ足で彷徨っていた江澄は勢いよく激突した。そして跳ね返された先の傾斜を転がり落ちていた。
なんとも無様である。起き上がれば打ち付け擦った背はひりひりと痛み、あろうことか足を捻ってしまったらしい。大木を支えに立ち上がることはできたが踏ん張りがきかない。
大した傾斜ではない、常ならばひとっ飛びの距離が忌々しく眉間にぐっと力を入れた、その時。
「そこにいるのは江公子かな」
「沢蕪君…!」
山深い場所になぜ、と思うがそもそも己が先に侵入した場所である。人が来た安堵よりも不可侵領域の近くで何をしているのかと詰められる焦りが勝った。何か言わねばなるまいと思ったが、江澄が口を開くより先にふわりと跳んだ沢蕪君が江澄の元まで来る方が早かった。
「怪我を?」
「足を捻ってしまい…あの、ここにいるのは魏無羨を探していたからで決して…!」
「話は後で聞こう。手を」
腕を回されそうになり一歩後ずさる。転げ落ちた江澄は白い校服を土で汚している。美しい細工の入った衣をまとっている沢蕪君に触れれば汚してしまう。
「ここにいることはできない、気にすることはないから、さぁ」
躊躇するが頑なになっても沢蕪君を煩わせるだけか。意を決して差し出された腕を受け入れる。腰に回された腕に引き寄せられるままに身を寄せると音もなくふわりと浮き上がる。
自分で跳ぶのとは違う、沢蕪君の跳躍は音もなく空気の抵抗もない軽やかな物だった。沢蕪君と言えば修為の高さは言うまでもない。些細なこの跳躍ですら歴然とした差が現れるものなのか。たった一瞬の出来事に感動すらしてしまった。
「…すごい」
思わず呟いた言葉にはっとする。地に足が着くと体を離しよろける体をなんとか留めて拱手する。
「沢蕪君、とんだ失礼を。魏無羨を探す中で道に迷い、不注意にて動けなくなっていました。助けて頂き感謝いたします」
「魏公子なら懐桑と歩いているをみた。こちらには居ないだろう」
「そう…ですか」
眉間の皺が深まる。魏無羨の姿が見えず、また問題を起こしてはいないかと躍起になって探し歩いていたが、またも空回りだったと言うことか。そう思うと体が一気に重たく感じ足が痛みを主張しはじめた。
「ところで、歩けそうかな?」
周囲を見渡す、幸い木々の多い場所だ、太い枝の一本くらいあるだろう。支えにして歩けば時間はかかっても宿坊までなんとかたどり着くことはできる。
「あまり刻に余裕がないように思う」
江澄の様子に何を考えているのか察したのだろう沢蕪君は首を振る。
「そうでしょうか」
空を見れば太陽は傾きはじめているが、宿坊に戻らねばならない定刻までにはまだまだあるような気がした。江澄はともかく沢蕪君は多忙のみであろう。置いて帰ってくれて構わないのだが、沢蕪君はうん、と頷くと江澄に背を向け膝をつく。
「なにを?!」
「背に」
背負うからと向けられた後ろ姿に血の気が引いた。他世家の次期宗主に膝を着かせたばかりか背負わせるなど許されることではない。
「沢蕪君、お気遣いありがたく。しかしこれは私の失態…定刻に間に合わなければ処罰を受け入れる覚悟です、どうか立ってください」
嘘である。本当は罰など受けたくはないし足は痛むし熱を孕んでいる。できれば背負わ宿坊に戻りたいと思っているが、さすがに沢蕪君の背に乗るなど出来ることではない。よろめきながら近寄り立ってくださいと肩に手を添えた。
「構わないんだ」
「あっ!」
添えた手を掴まれ引っ張られる。片足に力の入らない江澄はあっという間によろけて背負われてしまった。
「沢蕪君!」
「大人しくしていてくれるかな。久しぶりだから落としてしまう」
久しぶり、とはあの藍忘機以来ということだろうか。
それ以上は口を開けず大人しく腕を回すと沢蕪君はよろけることなく立ち上がり、江澄の視線がぐんっと高くなる。江澄とて同年の中では上背のある方なのだが、沢蕪君はさらにその上をいく。背負われ常とは違う視界にうっかり楽しいと思ってしまった。
「体をもっとよせられるかな」
「…はい」
背負われたことなど遠い遠い昔のことである。どうしたらいいのかわからず胸をぴったりとくっつけ顔を埋めた。艶やかな黒髮の流れる頸に鼻先が触れる。雲深不知処で焚かれている香が沢蕪君を介してとても甘いので居心地の悪さの中に心臓が更に跳ね上がる。
あまり嗅ぐのも失礼であり自分も耐えられない。逃げるように背に頬を預け、沢蕪君の歩調の揺れに目を閉じる。
とくん、とくん、とてもゆっくりな拍動と絹越しの温もりが心地よかった。
遠い昔、父に背負われた数少ない思い出がぷかりと浮かんですぐに消える。幼すぎてなぜ背負われたのかすら覚えていないが大きくて逞しい背中は暖かくていつまでも揺られていたいと思っていたものだ。
「沢蕪君ここは?」
とろりと思考が解け落ちそうになったところで川の音がざぁざぁと聞こえてくる場所に来た。
宿坊に行くのではなかったか、声をかけると川べりの大きな岩に下される。
「魏公子の傷もここで癒したのだ」
「ここが冷泉ですか」
酒盛りが露見し戒鞭をうけたのは記憶に新しい。後ろめたさに俯くと沢蕪君が正面に膝をつくのでぎょっとした。
「足をだしなさい」
「なにを…?」
「捻ったのだろう?冷泉につければ明日には痛みも引き楽になる。他に傷は?」
「背に…」
「ならばそのまま入るといい。どのみち着替えるのだから」
そういえば土と草に汚れていたのだと思い出す。背おった沢蕪君の衣もところどころ汚してしまっている。
罪悪感と焦りに言葉は出ず、おとなしい江澄の足を沢蕪君はそっと大腿に乗せる。土塊のついた足裏が沢蕪君の衣を更に汚してしまい焦るばかりだがなにより沓を脱がされた事が恥ずかしい。素足を見せるのも言語道断であるがなによりも脱ぎたてである。白く清い人を汚すのは肝が冷える。
「た、沢蕪君…!」
「これは治療だ。しばし我慢しなさい」
江澄の考えなどお見通しであろう、沢蕪君は気にしすぎるなと笑みをこぼし、成長期の中にいるとはいえそれなりに大きくなった江澄の足首を軽々持ち上げては右へ左へと曲げていく。
「骨は大事ないだろう。それでも無理はしないように」
「はい」
両足共に素足になると岩場の冷たさがひんやりと心地よい。肩を借り立ち上がるとそのまま冷泉へ。
足先だけでも刺すような冷たさに鳥肌がたつ。蓮花湖の水は常にどこか暖かいのに、さすが山の水は日差しを知らぬか冷たく厳しい。しかしここで冷たいから入れぬなど言えるはずもない。それはここまで背負ってくれた沢蕪君に対しても申し訳なく、江氏公子としての矜持にも関わる。
「う…っ」
奥歯を噛み締め耐え忍びながらつま先からその先へと進めていく。ぎりぎりと音がしそうなほどに奥歯を噛み締めた。噛み締めすぎて気がついていなかったが力は全身こめられ、沢蕪君の外衣すらもきつく握りしめており、はて、どうしたものかと沢蕪君が小首を傾げたのを江澄は知らない。
「では捕まっていて?」
「なにを…っ?!」
どぼん、と音がすると全身に冷たさが触れて全身がぎゅっと縮こまる。
「く…っ!」
江澄は寒いのが嫌いだ。雲夢の夏は暑く冬は寒さこそあるがそれほどではない。寒さに慣れていないのだ。衣を侵して触れる水の冷たさに動けずにいると暖かな手に背を優しく撫でられる。
「力を抜くんだ。初めは辛いだろうがじきになれる」
「はい……え?」
背を撫でる温もりにすがりつき意識を集中していたが、これはいったい。顔を上げて腰を抜かしそうになった。
「沢蕪君?!」
「静かに、大きな声を禁止しているのはここも同じだ」
口元にたてられた人差し指に、口まで出かかった疑問は全て封じ込められる。
「なぜあなたまで…」
正面から抱き寄せられ、肩越しに見える沢蕪君の大振りの外衣が水面に美しく広がり浮かんでいるのが信じられない。
「私は…沢蕪君まで、お、落としてしまったのでしょうか…っ」
寒さか無礼を働いてしまった失態からか血の気は引いたまま全身が寒い。問う声もカチカチと震えてみっともない。
「私も居れば少しは暖かいかと思っただけだ。気にすることはない」
「無茶な…!いえ、無理です。今からでも上がってください!」
「もう濡れてしまった。いいんだ」
沢蕪君は一体何を考えているのか楽しそうにクスクスと笑っている。
急かしても懇願しても冷泉から出る気がないと察し江澄も諦めた。確かに沢蕪君がいれば暖かい。
目上の沢蕪君を暖をとるために利用するなど口から泡をふいてもおかしくない状況だが、水流にめくれあがった衣の隙間、素肌が触れるのは暖かくてつい擦り寄ってしまう。
「楽にして構わない」
「…はい」
背を撫でる手は止まり、空いた手は安心させるためかそっと握られた。よく手入れされているあの指が今…と思うと知らず形を確かめるように撫でていた。細く長い指である。蕭を扱うだけあり爪は短く整えられ、肌は滑らかさが伺えるあの指。どんな形で肌ははたして本当に滑らかなのだろうか。
指先から付け根まで、撫でてみれば節々に無骨さのある武人であり男の手だった。それでもこの指は美しい。
するすると撫でていると掌の隙間に入り込んだ水が幾分か熱をもった気がした。
「江公子、もっとこちらへ」
「はい…」
胸を重ね合わせるようにぴったりと触れ、額を預けると背負われた時よりも早い拍動がどくどくと聞こえてくる。
暖をとるためである。沢蕪君は慈愛の人でありこれもその一つだろう。
胸の奥から得たことのない心地よさが湧き出て満たされていく。これは果たしてなんだろうか。ぎゅっと隙間なく握られた掌の熱に江澄は冷泉の冷たさを忘れた。