味覚を失った江澄が藍曦臣とリハビリする話(予定)③味覚を失っている。そう告げると、藍曦臣はすっと表情を『藍宗主』のものへと変え、仔細を、と促してきた。下手に同情するような顔の一つでも見せるのであれば、馬鹿にするなと嘲笑を向けて部屋を辞そうと思っていたのに、と江澄は目を伏せて「言葉のとおりだ」と短く返す。
「気付いたら何の味もしなくなっていた。それ以外に不調はない。医生に見せたが特段理由が見つからないという。挙げ句の果てには休みを長く取れと言われてな。無理だと笑い飛ばして帰した」
「江宗主」
「そうだろう、継ぐものを定めていない以上俺が立つしかないんだ」
そちらとは事情が違う、横目で見やると藍曦臣が目を伏せるのが見える。嫌味をそのまま素直に受け止めるそのさまにまた少しばかり苛立って杯に酒を満たした。
「こうして酒を飲んでも味は分からない。だが酒精は感じるし、香りはまだ分かる。こういう味だったと記憶をなぞればなんとなく口の中にもそれが甦る。今のところはそれで不都合はない」
「不都合でなければ良いという問題ではないでしょう」
「俺にとってはそういう問題だ」
だからこの話はここまで、と切り上げようとした江澄を手で制し、藍曦臣が真っ直ぐに見据えてくる。
「本題がまだ何も」
「……後生だから話を流してくれ」
「解決策があるならば追求すべきです」
「そうは言っても確実ではない。俺の勘違いかもしれない。普通ではない状態に感覚が狂っただけかもしれないんだ」
「その可能性を含めて確認を」
引くつもりはない、とやんわりと、けれど強固な姿勢を示されて舌打ちを漏らす。姑蘇の男どもは相変わらず頭が固い、と吐き捨てて、体裁を殴り捨てて片膝を立てた。飲み過ぎ多様で少し痛み出した頭に手を当て、手持ち無沙汰を誤魔化すように髪を解く。
編み込んだ髪を緩めると、張っている気も若干緩むように感じた。
髪に指を差し込み、ゆるゆると頭皮を揉めば解けた髪が頰にかかった。
「……本当に、貴方の手を煩わせるようなことではないんだ」
「江宗主、そろそろ観念して教えてください。このままではいつまで経っても貴方を解放して差し上げられない」
失礼を、と短く断った藍曦臣の指先が江澄の頰に溢れた髪を耳へと掛けてゆく。少しひやりとした指の腹の感触に無意識に喉が鳴った。鼻腔に涼やかな香りが漂う。藍曦臣の服に焚き染められたものだと脳で理解した瞬間、じわりと口の中に唾が湧いた。温い液体には、やはり味はない。
「……青菜の、味がした」
「はい?」
「血の味も感じた。……今は、もう分からないが」
瞬く藍曦臣から目を逸らす。意味が分からなければそれで良いと投げやりに思ったが、少し間を空けた後で、穏やかさを保ったままの声が、成る程、と空気を震わせるのを聞いて肩が揺れた。
「先程私が触れた時ですね」
「……ああ」
「これまでに、その、このようなことは」
「残念ながら色めいた話には縁遠い」
噂を聞いたことがないか、と露悪的に口にするのを曖昧な笑顔で流し、藍曦臣が無意識にか彼の唇に触れる。美しい造形の長い指が唇の表面に触れるのを見て、意識して細く息を吐いた。
ーー薄く柔らかいその感触を、江澄はもう知っている。
「……解決策といっても、この二度だけのことだから、手立てなど有りはしない。だから」
忘れてくれ、と言おうと藍曦臣を見る。思いのほか真っ直ぐに見つめられていて、一瞬言葉を飲み込んだのを見て目を細めるのが分かった。場も空気も読める人だ、流石にここまで言えば引いてくれるだろうと口端を歪めた江澄の耳に、それでは、と柔らかな藍曦臣の声が届いた。
「もう一度試してみましょう、どうぞ此方へ」
「正気か?!」
さらりと告げられて脊髄反射で返してしまった江澄が咄嗟に己の口を押さえる。手を差し出して寄越した藍曦臣が音に出さずに笑みを溢した。
「私がお役に立てるのであれば、喜んで」
「……不敬だと分かっているがもう一度言う。貴方は馬鹿か」
「そのように言われたのは初めてかもしれませんね」
新鮮な心持ちです。言いながら立ち上がり、座り込んだままの江澄の傍で膝をつく。動きを目で追いながらも身動きが出来なかった江澄の肩に静かに触れ、先程と同じように髪に触れる。梳かれる感覚に肌が粟立つ。目が離せない。凶悪なまでに美しい顔が視界に広がる。
「江宗主、……江澄」
ひゅ、と息を飲んだ音を聞いて藍曦臣の目が緩やかに細められる。
「貴方には健やかでいていただかねば」
「そ、れは、どういう……」
「皆のために、……私のためにも」
だからまずは確認をしましょう。その言葉と同時に顎を上向かされる。
「どんな味がするのか、後程答え合わせをしましょうね」
囁かれて、唇を塞がれる。押し付けられたそれに反射的に歯を食い縛り、けれどぬるりと舐められたのを知って悲鳴を上げかけた歯の隙間から舌が滑り込んできた。
江澄の舌の表面をこそげるようになぞり、痛みを感じる手前の強さで吸い上げる。
なんだ、これは。何が起こっているのだ。
思考が止まる。手足の自由が利かない。顎に添えられた指先は押さえるほどの力も籠っていないのに、動けない。
ぬるりと口内を動く舌の厚さは息苦しさを覚えるほどで、本能で飲み込んだ唾液は記憶にある自分のものとは少し違う気がした。水とは違うその温い液体に、感じるはずの嫌悪感を覚えない自分が、怖い。
苦しさに胸を喘がせる。反射的に掴んだ藍曦臣の服に手入れの甘かった爪が引っかかる。上質の布が擦れる感覚に目を開けると、焦点がぶれるほどの近さで見つめてきている男の目に江澄の喉が鳴った。
藍曦臣の指が江澄の喉仏を撫で下ろす。再び飲み込まされた唾液が食道を落ちていくのを確認して、分厚い舌が口の中からゆっくりと引いていった。
座ったままの自分の身体が震えている。間近で見つめられているのも分かっていて、深く呼吸をした後で江澄は顔を上げた。
「……随分好き勝手してくれたものだな、沢蕪君」
「どうか先程のまま、藍曦臣、と。詫びは幾重にも、と言いたいところですが、それはすべて解決してからにしましょう」
頬を包むように掌を沿わされる。払い除けようと振り上げた手首を捕らえた藍曦臣が微かに首を傾げた。
「それで、味はしましたか?」
常と変わらず、動揺のかけらすら見せないその飄々とした表情に妙に腹が立って、江澄は吐き捨てた。
「しなかった!やはり何かの間違いだったんだ!」
「おや、それでは今度はもう少し長く試してみましょうか」
「おい、聞いていたか?!間違いだったんだ、だから」
「諦めてはなりませんよ、江宗主」
繰り返すことで新たな発見があるかもしれませんから。
にこやかな笑顔と有無を言わせない力強さに江澄は顔を引き攣らせ、ぐんと近付けられた顔に小娘のような悲鳴を上げたのだった。