味覚を失った江澄が藍曦臣とリハビリする話(予定)②辿り着いた先は程々に栄えている様子の店構えで、藍曦臣の後について足を踏み入れた江澄は宿の主人に二階部分の人払いと口止めを命じた。階下は地元の者や商いで訪れた者が多いようで賑わっている。彼らの盛り上がりに水を刺さぬよう、せいぜい飲ませて正当な対価を得ろ、と口端を上げれば、宿の主人もからりと笑って心得たと頷いた。二家の師弟達にもそれぞれの部屋を用意し、酒や肴を並べ、一番奥の角の部屋を藍曦臣と江澄の為に素早く整え、深く一礼する。
「御用がありましたらお声掛けください、それまでは控えさせていただきます」
それだけ口にして戸を閉めた主人に、藍曦臣が微笑んだ。
「物分かりの良い主人だね」
江澄の吐いた血で汚れた衣を脱ぎ、常よりは軽装を纏っている藍曦臣が見慣れなくて、江澄は視線を逸らせた。卓に並んだ酒と肴は江澄にとって見慣れたものが多かったが、もとより藍氏の滞在を知らされていたからか、そのうちのいくつかは青菜を塩で炒めただけのものやあっさりと煮ただけの野菜が並べられていた。茶の瓶は素朴ではあるが手入れがされていて、配慮も行き届いている。確かに良い店だなと鼻を鳴らしながら江澄が卓の前に座ろうとすると、何故か藍曦臣にそれを制された。
「江宗主、こちらへ」
「何だ」
「召し物を……血が抜けなくなってしまうから」
告げられてようやっと自らの状態を思い出す。みっともないところを見せたな、とばさりと上衣を脱ぎ捨てると、さりげなく視線を逸らした藍曦臣から彼の物らしき上衣を羽織らされて瞬いた。
「冷えるわけでもないし、このままでも構わない」
「いいえ、万が一にも風邪を召すようなことがあれば私が悔いてしまう」
「風邪の心配よりも、どこもかしこも白くて汚さないかと心配になるんだが」
「構わないよ、洗えば良いだけなのだから」
どうかそのまま、と重ねて告げられ、汚れた上衣を受け取ろうと伸ばされる手に慌ててそれを引き寄せる。そんなことはさせられないと江家の者を呼び、着替えを用意するように言いつけて部屋から出すと、少しばかり眉を下げた藍曦臣の顔が見えて瞬いた。
「何か」
「……私の服は、お気に召さないか」
「いや、そういう問題ではないだろうが」
「そうですね、これもまた私のよくないところなのだろうから」
良かれと思うことが他者にとって良いこととは限らない。静かに続いた言葉が苦く響く。自嘲なのだろうがそれは浅く江澄の心も引っ掻き、卓の上の酒に目を細めた。
「……酒を飲んでも?」
「もちろん」
形ばかりの断りを入れて手酌で酒を注ぐ。流し込んだそれは喉を焼いたが、それでもやはり味はしなくて眉を寄せた。
「お好きな味ではなかったかな」
酒の種類を変えてもらおうか、と身軽く立ち上がろうとする藍曦臣を制してもう一度杯を空ける。液体が喉を焼く感覚はまだ生きている、と苦く笑って江澄は濡れた唇を親指で拭った。
「味はどうでもいい、酔えれば事足りる」
「そういうものですか」
「今の俺にとっては、飲み食いするものはその程度だ」
料理も貴方の口に合えばそれでいい。告げて、すいすいと水のように杯を空ける。腹に溜まり、酔えればいい。それは間違いなく江澄の本音で、けれど二本目の瓶が空になったところで、ふと藍曦臣の視線が向けられていることに気付いた。
藍氏の家訓は過去に散々学ばされているから、食事の際は黙して語らず、に則って無言でいたのだが、何故か藍曦臣は箸も置き、不思議なほど真っ直ぐに江澄を見つめている。
「……何か」
問うた口から酒精が香る。匂いはまだ生きている、とほのかに酔った頭で思った矢先、目の前の藍曦臣の目が僅かに細められた。
「江宗主」
「ああ」
「君は、どこか身体に不調を?」
その言葉に冷や水を浴びされたように目の前が冴える。反射的に向けた視線は鋭くなってしまっていただろう。それが答えに繋がると舌を打つのと同時に藍曦臣が珍しく眉を顰めた。
「水の毒に気付かないのはおかしいと思ってはいたのだけれど、やはり……」
「特段支障はない、皆に気付かれもしていないのだから」
「けれど、こうして私が気付いた。この先知る人も増えるでしょう」
どこが、と伸ばされる手を拒んで杯を置く。
「気遣いは無用、己の始末は自身でつける」
「江宗主」
「身体も温まった、そろそろ失礼する」
「待って、」
掴まれた服の端を力尽くで払う、つもりだった。
けれど力負けして、ぐらりと体勢を崩す。
「江澄!」
手を突いて身体を支えるより早く藍曦臣に抱き込まれる。細身に見えて嫌味なほどの筋肉を服越しに感じ、思ったよりもすごしていたらしい酒量に視界を眩ませながら江澄は顔を歪ませた。
「はな、せ」
「怪我は」
「ないから、離せ」
強く抱かれた瞬間の他者の温もりに身体が熱くなる。こんなふうに抱かれたのはもう十数年以上昔になるだろうか、数えるほどにしかこのように抱かれたことがないのに、よりによって失態を見られたくない他家の宗主に、と口の中を強く噛む。痛みは感じられて、温い何かが口の端から溢れた。
「血が」
急いた藍曦臣の声が聞こえるのと同時に顎を捉えられる。割と強引に口を開けさせられて、溢れる血に目を眇め、吐かせる器がないかと目で探すのが見えて江澄は笑った。
さほどの量ではないだろうが、と男の腕から逃れようとして、やんわりと引き戻される。何だ、と見上げたその先に美しい顔が迫るのを見て、息が止まった。
ぬるりと入り込んできたのが藍曦臣の舌であると気付いて、意識も止まった。
くちゅり、ぐちゅ、と口の中の血を分厚い舌が拭っていく。それは咥内を舐められてるのと同じで、ざらりとした舌の感触に身体が跳ねた。
こんなものは、知らない。
内側に誰かを招くようなこんな感触は、知らない。
ひくりと震えた喉を藍曦臣の指先が宥めるように撫でていく。滑るように動く指の腹の感触に喉が反る。喉の奥に滑り落ちていく血の混ざった唾液すら追いかけて拭おうとする藍曦臣の舌が苦しくて、生理的な涙が滲む。
血腥さよりも藍曦臣の唾液の甘さで酔いそうだ、と抵抗すら諦めて力を抜くと、いつの間にか絡んでいた舌をずるりと吸われて無意識に声が溢れた。
猫が甘えるようなその声に我にかえる。藍曦臣の身体を突き飛ばすと、江澄は肩で息をした。
口の中に、僅かに血と、青菜と、緩く甘い唾液の味が残っている。
江澄は酒しか飲んでいない。青菜は、確か先程藍曦臣が口にしていた。口内を噛み切った時には僅かたりとも感じなかった血の味も今は感じられる。
「……どうして」
ぽつりと口にしたそれを誤解したのか、藍曦臣が目を伏せる。
「不快であったならば謝罪を。確かに咄嗟のこととはいえ、断りもなく口の中を荒らすのは失礼極まりないことだ。詫びは幾重にも」
「そうじゃない」
言い募る言葉を遮って江澄は口元を押さえる。濡れたままの唇を舐めれば、まだ仄かに酒の甘さを感じた。
味が、した。
「……どうして」
「江宗主……?」
「……貴方だと」
味がするんだ。
溢れた言葉に藍曦臣が瞬く。それを視界に収め、口を押さえたまま江澄は静かに膝をついた。