【仮題】夜の世界の話①【現代AU曦澄】この間妙な奴に声を掛けられた。その一言に足を止めた江澄は咥えていた棒付きの飴を口から出した。通りすがりの繁華街の裏通りだ、そこで屯しているのは休憩中の夜の蝶か営業用の笑顔を消した黒服くらいのものだ。視線を向ければ知らぬ仲ではない女達と目が合って、その中の一人の口が、あ、と形作った。
「狂犬だ」
「その名前で呼ぶなっつってんだろ」
よその奴らが言い出しただけだ、と吐き捨てて歩み寄る。ごめんねと笑う女達に悪びれるところはない。仕事でなければ表裏の少ない彼女達を江澄も嫌いではなく、だからこそ先程の言葉が気になって眉を寄せた。
「何だよ、また変な男に付き纏われてるのか」
「違うよ、ストーカーじゃないって。カッコよかったしお金も持ってそうなのに、変なこと聞いてきたんだよね」
ジャケットはキルガーでお洒落で似合ってたし、口調も優しかったし、と指折り数えて教えてくれる彼女に顎をしゃくって先を促せば、少し視線を上に逸らして小さく唸った。
「ええと、確か、最近お困りのことはありませんか、だったかな」
「宗教勧誘か?」
「えー、多分違うー、だってトリーバーチの新作がどうしても欲しくて困ってるって言ったら、お客さんにこんなふうに強請るといいですよって教えてくれたし」
「何だそれ」
「そしたらほんとに買ってもらえたのー!すごくない?」
「そりゃ凄いな。で?」
「それだけ」
妙なヤツでしょ。顔全体で笑う彼女と、私もそのテク使いたいと笑う周囲の女達に嘆息して、江澄は飴を咥え直した。
「害がなくて良かったけど、次会っても無視しろよ。余計なことに巻き込まれる可能性があるからな」
「えー、優しいー」
「はいはい」
「好きになっちゃうかもー」
「そりゃありがたいな。そのリップサービスを駆使してせいぜい身持ち固く男共を翻弄して店に金落としてもらえよ」
そう告げて歩き出す。お店にもまた顔出してねぇと追いかけてくる声にひらひらと手を振って、江澄はまたぼんやりと表通りから漏れてくるネオンの明かりを眺めた。
表通りに戻れば車のライトが波のように行き交い、夜の街に繰り出そうとする人々も入り乱れている。居酒屋の呼び込みのバイト達は気安く挨拶を投げかけてくるし、酔っ払いの笑い声があちらこちらから聞こえてくる。
この賑やかで猥雑な街が江澄の全てを形作った。美しいものも醜いものも全てが詰まったこの街は、今夜も誰のものにもならないまま全ての人を受け入れている。
だから、江澄はこの街を愛しているのだ。
江澄が夜の街を庭代わりにして遊び始めたのは義務教育を終える前からだった。両親が夜の街で仕事をしている関係もあって、そこで遊ぶことも、同学年の子供たちよりも早く大人の世界を垣間見ることも多くあった。
人の出入りも入れ替わりも珍しくはないその世界で、まだ子供である江澄の存在は珍しかったのだろう。男であれ女であれ、揶揄い半分に可愛がられていたように記憶している。ーーその当時に可愛がってくれていた人達の殆どはこの街には残っていない。昼間の仕事を見つけたものもいれば、死んだものもいる。遠く離れた街に移ったものもいる。大抵のものは別れも言わずに消えていった。だから生きているか死んでいるかも分からない。
それを寂しいと感じることはなかった。それが江澄にとっての『普通』だったからだ。
……家族以外で唯一江澄の傍にいたのは、魏無羨という少年だった。父親同士が仕事仲間である関係で二人は家に帰るまで一緒に待たされることが多かった。反発もしたし喧嘩もしたが、暫くすれば二人で悪戯をしたり遊んだり宿題をしたり、そんな他の子供たちと同じような付き合いをするようになっていった。
義務教育を終え、両親からの厳命で高校に通うことになった江澄は、じゃあ俺も付き合うよと笑って同じ高校に進学した魏無羨とまた行動を共にした。昼は学校で他の生徒とも笑い合い、夜にはネオンの煌めく街中を二人で歩いて遊んだ。補導されかけたことも少なくはないが、そんな奴らに捕まるほど愚かではない。呑まれるんじゃないぞと苦言を呈す顔馴染みの店主の店の隅でほどほどに酒を嗜み、煙草は背が伸びないぞと笑うヘビースモーカーの黒服達から一本恵んでもらって煙を吐き、タダで遊んであげるわよと艶かしく誘ってくる女達のしっとりした指先を躱して、江澄と魏無羨は思春期を過ごした。耳年増でそれなりの経験を積んではいたものの、それでも二人は同級生達と何ら変わらない、至って普通の少年だった。
あの日までは。