――おかしい。
夜を切り裂いて空を舞う、ふたつの刃。
まるで足のさきから見えない根が生えて、地面の下で繋がっているかのよう。次はどこに立てばよいか、どうやって道を切り開けばよいか、何をすべきなのか。視線を交わす必要すらなく、呼吸ひとつですべてがわかる。
わかるからこそ……、
迷いなくばっさばっさと敵を薙ぎ払いながら、モクマの身体には、不穏な警鐘のいなずまが鳴りやまなかった。
「……チェーズレイ」
仕事はつつがなく終わった。伸した男たち(いちおうあれでも実力行使としては最低人数ですませたのだ)を警察に引き渡し、部下たちにセーフハウスの近くまで送らせて。駐車場から玄関までの短いみちのり、まあるい月のスポットライトで短く伸びる影を踏み踏み、モクマが相棒を呼ぶ声はぴりついた電気を隠しもしないものだった。
「なあんか隠し事してない?」
「していませんが」
「……うそだね」
「――っ!?」
言うなり、まるで閃光のような素早さでもって間合いを詰める。驚いて見開かれたすみれの瞳を、摘み取るように脚を払って身体を掬いあげる。
闇に紛れて不意をつくのは、忍者の十八番。
さらには今のチェズレイ相手なら造作もないことであった。
「――な、」
「黙って、舌かむよ!」
すっぽりと腕の中におさまった身体が、我に返ってあばれる前に走り出せ。
言い訳でも弁解でも、なんでも聞いてやるから。
話は――、罪を照らす月の光からも逃れられるお城に帰ってからだ。
「怪我? それともお腹痛い? まさか変な薬でも盛られた?」
「さきほどから、なんのことですか」
少々行儀悪くドアを開けて階段を駆け上がって、ついに部屋へと舞い戻って。たぶん後で大目玉をくらわされると分かりながらも今だけは勘弁、後ろ手に鍵をかけつつベッドに落とした身体に早口で詰め寄るけれど、チェズレイは未だそらっとぼける気のようだった。か、と頭に血が上る。
「隠すつもりなら、もっとうまくやりなよ。そんな何かをかばってるような、奥歯にモノ挟まってるような動きされちゃ、気づかない方が無理ってもんだ」
「……っ」
「……いや、潜入まで気付かなかった俺が言えたことじゃないんだけどさ……」
燃え上がった炎は、けれど、くしゃりと髪を掴む手のひらに覆われて、尻切れトンボに消えていく。
そう、チェズレイはこと戦闘が始まってからこちら、ずっと様子がおかしかったのだ。もちろん任務自体に支障はない、対峙した戦闘員たちも気づきはしなかっただろう。
だけど、モクマにはわかった。わからないはずがなかった。
いつも呼吸一つで結びつくユニゾンが、今日はぐちゃぐちゃの不協和音だったのだから。
ぎゅ。手の中の不安の稲光が、どうしようもなく心をゆさぶる。
くるしい。彼がその秘密を一人で抱えようとしたこと。
「――俺には、言えないことだった?」
ぽつり、しらじらとした人工のひかりの下に響く迷子のような声。
くやしい。……その秘密を打ち明けるに、自分では役者が不足していたことが。
「モクマ、さん……」
だけどそのかなしみの電流は、シーツの海の上に座るチェズレイの心をたしかに震わせた。
いつも飄々とした彼の、傷ついた声。
ようやく気づく。自分がしでかしてしまったことの大きさに。
だって、指切りを交わしたのに。命のろうそくが溶けきるまで、この身体はふたつでひとつで、なにもかをつまびらかに、預け合おうときめたのに。
「すみません、あの、ちがうんです。
もし、怪我や、体調がすぐれないのだったら、きちんと伝えていました。作戦の成否にも、かかわりますし……」
真実なのに。妙にあせって、まるで言い訳のような響きになってしまう。
「じゃあ、なんなの」
動いたのはモクマだった。ぎし、とスプリングのきしむ音、片膝をベッドに乗り上げて、距離がぐっと近くなる。
するどい瞳に射抜かれて、こころがじくじく熟れていたむ。
ちがう、本当に、だいじょうぶだと思ったのだ。だって、そんな、たいした症状ではなかったし。日常生活を送るのに支障はなく、話すことでかえって余計な心配の種を増やす方がデメリットだと思って。でも、だって、予想外だったから――、
「チェズレイ。まだ言えないの? お前さんの口から、聞かせてもらいたいんだけど」
「――、」
怒っている。それより大きく、悲しんでいる。
こんな感情を、共にいると決めてから、一度だって向けられたことはなかった。
胸がばくばくと早鐘をうつ。ああ、なんでこんなおおごとに。こんなことになるなら、さっさと言ってしまえばよかった。
(あんなものさえ、あそこから、でなければーー!)
「そこ、だね、やっぱ。脚や腕を庇ってるようには見えなかった」
ちらり、無意識のうちに。恨みがましい視線が『そこ』を追ってしまった瞬間。
モクマの声は、獲物を狙う肉食獣のよう、おそろしい程に低かった。
「!」
――反転。
きづけば、天井をあおいでいた。
染み一つない白い天井。背中には柔らかなベッドの感触。その間をつなぐように、黒い忍び装束と星の輝きをとじこめた銀の髪。
乗り上げられていた。不意を突かれるのはこの短時間で二度目。あァ、やはり、剥き出しのこの男の本気たるや、背筋に雷が落ちたよう――、
「……っ、あ、待って、モクマさ、」
なんて。今日ばかりは陶然としていられなかった。
なにせモクマのごつごつと大きな手が、何のためらいもなく黒いジャケットのボタンに掛けられて、一瞬で外されて、
そのままロイヤルパープルのニットに引っかかって、それで――、
制止の言葉など聞こえるわけもなく、ぐっと持ち上げられて。
それであの鍾乳洞での運命の夜以来、モクマの眼前にさらされた陶器のように白いチェズレイの肌の――、
「――え……?」
一点をみつめて、モクマはかちんとかたまった。
え。え。なんだこれは。
「ガー、ゼ……?」
かすれる小さな声は、今まさにすさまじい動きで相棒を組み敷いた男とはおもえぬ覇気のなさ。
でも、だって……、
だって、浮き出た鎖骨の下で、うすく見える腹筋と肋骨の上。
なんていうか、その、いわゆる乳首というやつが……、
「……………………。
………………はーーーーー」
ながいながい溜息だった。
さきほどまでの動揺も、なにもかも、洗い流すような風量で。
もう逃げませんから離れてください。言う声が地を這う……を超えてなんかもう地底から響くみたいだったので、思わずモクマもごめんと謝りを入れて後ずさる。
ゆっくり、起き上がる。もう諦めたように、はだけた上着を脱ぎ捨てて。
白いガーゼが張りつけられた胸元を視線から逃れるように腕で隠しながら、チェズレイはかわいげもなにもない憮然とした声でついに真実を告げた。
「なんか……、先日から母乳が出てしまって…………」