「やはり次に攻めるとしたらここでしょう」
地図の上に白い駒がひとつ。ととのったつめ先が、城の形をしたそれを摘まんで一歩、侵攻させる。
「そうだな。そのためには――」
向かいの男は楽しそうに目を細めて、クイーンの駒を持ってぐるりと大回りに近づいた。
意図を正確に読み取って、すみれ色の目が細められる。
「なるほど。隣国から国境線を越えて?」
「ああ。ここいらは警備も手薄だ。……顔が利く奴もいるし」
「……フ、まったく頼もしいことですね。ではそれで行きましょう。次は――」
会話に無駄はなく、間断なく、整然と。
テーブルに紅茶とお菓子を並べて。夕食後のふたりきりのブリーフィングは毎夜の恒例行事となっていた。
なにせ己が望んだ世界を作り上げるためにやるべきことは山ほどあり――、
こんな会話を対等にできるのは、世界でたったひとり、この目の前の男しかいないのだから。
時間が惜しい。はやく、はやく。逸る心をなんとか隠して、次の資料へと目を走らせるのを――、
「……チェックメイト」
「……」
ぱちり、わざと音を立てて。
冠を被った女王様が指の上に載せられたから、チェズレイの整った眉はぴくりとゆがんだ。
「と、言われても……今、キングはそちらで惰眠を貪っているようですが」
ちらり、視線を泳がせた先の机の上の箱に転がるひときわ大きな駒。
別にチェスをしていたわけでもないが、チェックメイトといえばキングを追い詰めた状態なのに。
唐突な勝利宣言の意味が取れずに不満げにゆがむ声に、しかしかれの忠実なるしもべは浮かべた笑みをすこしもくずさないで散らばった書類を片付け始めてしまった。
「我らがキングの方は少々ワーカホリック気味だ。もうそろそろ寝た方が良い」
「……まだ二十三時にもなっていませんが」
時計を一瞥、声の棘が増してゆく。子ども扱いされるのは心外だ。歳が離れているぶん余計に。
だけど、すっかり机をきれいにしてしまったファントムは、最後にクイーンとルークの駒をきれいに箱に戻して、
「そうだな。普段なら夜更かしにも目をつぶろう。
……だが、熱があるだろう、チェズレイ」
と、目を見ながら言った。
「……え?」
唐突なカウンターに、驚くのはチェズレイの方である。思わず額に手をやるもわかるはずもなく、というところでくすくす笑い声が聞こえて、体温計が差し出された。用意周到なことだ。にがにがしい気持ちで受け取って、一分後に表示された数値は――、確かに平熱よりは一度ほど高いものだった。
別に倦怠感などもなかったのに。どうだとばかりにしたり顔の男をにらんで、チェズレイはいらだたし気に腕を組む。
「あなた、赤外線センサーでもついているんですか?」
「人をサイボーグだとでも思ってないか?」
「あの戦闘時の反応速度を見ているとあながちそれもあり得る気もしてきますが」
「はは、ひどいな」
「……よく見ている。監視でもされているんでしょうか?
たとえば……折を見て殺して成り代わるつもりとか」
ぴりぴり、尖る空気。わざと剣呑な声を出して言えば、ファントムは一瞬かたまったあとにすこしだけ眉をさげて、「困ったな、結構尽くしてきたつもりなんだが、まだ信用してもらえないか」と軽い調子で言った。なおもじっと見つめていると、やれやれと頭を掻いて、それから開いた青い瞳が、ふいに海の底のように深くなる。
「……そんなことするなら、とっくにやっていたさ」
「…………」
それきり、沈黙がふたりきりのセーフハウスを支配した。コチ、コチ、と秒針だけが歩く音。
この真ん中に部下がいたらさぞ気を揉んでいただろう、そんなさなかでーー、
「……はあ、」
と溜息をついて、張りつめた糸を切ったのはチェズレイのほうだった。
「そうですね……、あなたは私より強いから」
「フィジカル面ならな。実践経験だけはあるから……だが、頭じゃ敵わないよ」
「ぬけぬけと……」
言いながら目を伏せて、唇に浮かぶのは呆れたようなあまい笑み。ゆるんだ空気にファントムもほっとしたようになつっこい笑みに戻って、それからふっと天井を仰いだ。
「――息子が、よく気づく子だったから。その影響でよく見るようになったのかもな」
「……。あなたが死んでいると疑いもしていない息子さんですね。おかわいそうに」
「お前が俺の喉元まで来なければもう少しその生活も続いていたんだが」
こくり。ティーカップを傾けていた指が止まる。上目遣いの瞳。
「恨んでいますか?」
不穏な内容に比べれば、軽い声だった。だけど茶化す風ではなく、あえて深刻にならぬよう、かたさを取り払っているような。
それを知ってか知らずか、ファントムはいいや、とあっさり首を振った。
「お陰で今、こうやってお前のそばにいられるんだからな。
スパイとして育てられて、人を騙して仮面を被って……、振り返ってみればロクな人生を送っていなかった。興味を持って近くに行くなんて、そんな衝動に駆られるなんて、本当に初めてだったんだ」
彼もまた、ティーカップを傾けて。
絡みつく蔦の、おなじ柄の杯をかわしながら、続いた言葉はしみじみとした響きだった。
「……」
だけど、返ってきたのは静かなアメジストの瞳ばかり、また笑みが苦くなる。
「信じてくれないのか?」
「……いいえ。ですがあまり執着はなさらない方が良いかと」
……濁りをこじらせると、ロクなことになりませんから。
言いながら、カップの中で揺れる紅色の液体を覗き込んで、湖面にうつくしい顔がゆらゆらと揺れる。うつむき気味のまつ毛は長く、ダウンライトの光をあびて横顔の上に長い影をつくった。
彼らしくもない抽象的な物言い。ドアを半分開いた、ほの暗い過去への郷愁。
「……そうか。ボスからのありがたい忠告、肝に銘じとくよ」
見えているのに、見せているのに、ファントムはけしてこじ開けて覗き込んだり、追及することはない。
……それが、どうしようもなく心地いい。
「ほら、飲み終わったなら早く休んだ方がいい。……って、おいおい」
立ち上がれと促す声に逆らって、ごろりと行儀悪くソファに寝転がれば、上から困り声。それも無視して、不遜な声をかぶせる。
「ピアノを弾いてください。それで、眠ったら、寝室まで運んで」
ーーああ、確かに横になると、少し身体がだるいかも。風邪かなにかというよりは、単純に寝不足で疲れていたのかもしれない。何かに追い立てられるように、最近は働いていたから。
目を閉じて傲慢に言えば、肩をすくめたのが気配で分かった。
「……甘えん坊だな、俺のボスは。それとも、親の前ではこうだったのか?」
「……親の前でもしたことないですよ、こんなの」
あなただけ。言外で告げれば、吐息のような声が聞こえた。
「――まったく」
暗闇のなか。まぶたの向こうの人は、果たしてどんな顔をしているだろう。
かさり、衣擦れのメロディが耳をくすぐる。
しかし、次に聞こえたのは、望んだピアノの旋律ーー、ではなくて。
……ちゅ。
「……は」
手のひらを持ち上げられて、軽い感触。と、場違いな音。予想外もいいところの行動にさすがに目を開けば、楽しそうな顔した男がソファに跪いている。
「ルークはいつも元気になるおまじない、とか言って額にキスをくれたんだが、お前にしたら嫌がられそうだからな」
……これからの忠誠もこめて、な。
言いながらもう一度。手を取ってくっつく唇を、年若くして知的犯罪の申し子などと呼ばれ、巨大な組織の頂点に立つ男はぽかんと口を開けて見つめてーー、
「……フ……」
ばかばかしくて思わず笑ってしまえば、ファントムも「外さなかったか? よかった」なんてまたぬけぬけと言ってのけた。
ついで、今度こそ流れ出すピアノの旋律。母と同じ澄んだメロディ、心が、頭が、神経が、おだやかにほどけていく。
低いおちつく声で、器用に鍵盤の上で指を踊らせながらファントムがそういえば、と切り出す。
「誕生日プレゼントは決まったか? もうすぐだろう」
「ああ……、パーティについて、発案者だからといろいろ身を粉にして働いてくださったでしょう。それで十分ですよ」
「張り合いがないな。つくづく俺は欲のない子どもに縁がある」
「子ども扱いしないでください。私ももうすぐ成人ですよ」
「そうだな。悪い悪い」
まったく悪いなんて思っていない口ぶり。上司にこんな口聞いていいのかと、小言のひとつも投げかけてやりたいのに、どうにもピアノの歌声が心地よくて気がそがれてしまう。
……もういない息子の話なんかしないでと、そんな子どもみたいな文句も、まあ、言えるわけもなく。
「……ああ、ワインでも贈ろうか。お前の生まれた歳のボトルでも開けてさ」
「嫌がらせですか? 酒の味は嫌いです」
「大人になったらわかる日が来るさ」
「また子ども扱いして……」
むかつく。おとなって、なんだろうか。いったいいつから?
どうしたって歳の差は縮まらない。それが悔しくって、だけど心地よくもあり。ああ、ゆるやかに体温が上がっていって、頭が考えることを放棄していく。
精神の弦をととのえていく、透明な旋律。世界よりもなによりずっと、わたしの欲しくてたまらなかったもの。
(プレゼント、だなんて)
もう、じゅうぶん貰っているのだ、とは、言ったらこの幻影が興味を失って消えてしまいそうな気がして、唇に載せられることはついになかった。
おわり