マグダラのマリアホストクラブ「MAGDALENA」。この街でも名前の知れた店である。
青いネオンが輝く店内に足を踏み入れると、暖かみのあるオレンジのネオンを基調に、シャンデリアが煌めいている。
長い階段を降りていけば、店内は平日の夜だというのに賑わいをみせていた。特に水曜日、この日は人の出入りが多い。
その原因はこの店のオーナーである柴大寿が顔を見せに来店することがま挙げられる。
毎週水曜日、閉店の1時間前きっかりに来店するこの男は、店内に足を踏み入れた瞬間そのことを店内の誰もが理解する。
どう見ても上等だと思われるコートにスーツ、派手な柄のストールを巻いているが、その下から覗く首筋にちらりと見えるタトゥーには誰もが目線を奪われるだろう。日本人離れしたくっきりとした鼻筋と顔立ちにスタッフだろうかと思われるが、その佇まいや貫禄、近寄り難い雰囲気には店側の人間では無く、その筋のものと捉えられても仕方ない。何より、大寿が訪れたことで店内は色めき立つと共に、スタッフ一同の気を引き締める意味あいがあった。
店内の端、ライトが届きにくいそのボックス席は大寿の指定の場所でもあった。
店内がある程度見渡せる場所に腰を下ろす。
代表が挨拶に来る前に、タバコを取り出して口に咥えるとすかさずライターの火が差し出された。
「待ってたよ、大寿くん」
「…店ではオーナーって呼べっつったろ。」
「そうだった。」
そう言って笑う男は、態とらしかった。
三ツ谷はこの店のホストである。
知人というには関わり合いは深く、友人と呼ぶにはそれほど気安い仲ではない。弟である八戒が兄貴分である三ツ谷に仕事を紹介して欲しい、と頼みに来たのはまだ記憶に新しい。「兄貴に頼むのは釈だけど、アテがないから」そう言って苦い顔をしていたことを思い出す。
聞けば妹の学費が嵩み、バイトを掛け持ちしていたが身体を壊してしまったらしい。それを見兼ねてのことらしかった。
ちょうどその時、試験的、冒険的な意味も込めて立ち上げたこの店がオープンする前だったボーイでも雑用でも宛がってやるつもりで入店させたはいいが、その3日後、様子を見に来店してみると、そこにはキャストとして上等なスーツを身に纏う三ツ谷の姿があった。
三ツ谷は客の扱いが上手かった。
それはきっと生来の素質、それだけではないだろう。環境に裏付けられた話術に察する能力が備わっているように思えた。加えて彼は面倒見もよく人当たりが良い。大寿と同じく元不良ではあるものの、たまに現れるその粗野な態度や言葉すら人気の要素になっているようだ。昔と違い、その銀髪は伸ばされて動く度にさらりと揺れる。出会った頃の面影は残しているが、黙っていると中性的な印象
相まってギャップを生んでいるのだろう。
そう、三ツ谷の横顔を眺めながら考える。
毎週水曜日、大寿が飲む時には三ツ谷はこうして自分の卓にくるのだ。
他の客の相手をしていようとも、少し抜けて必ず声をかけにくる。
今日はそこそこ飲んでいるようだ。目元が赤い。
「待ってたよ、オレの子猫ちゃん。」
「張っ倒すぞ。おい、加減間違えて飲んでんじゃねーだろうな?」
「そこんとこ間違えるほどじゃねーって。今向こう、新規来てるんだけど『飲んだタカくんが見たーい』ってさ。や、それはなんとかなるけどちょっと寝不足で酔っちゃって。大寿くんに挨拶させてって名目で避難してんの」
休憩だよ、と歯を見せて笑う姿は中坊の頃と変わらない。
それより、と三ツ谷が続ける。
「オレさ、あともうちょいでナンバーワン、取れそうなんだよね。」
そう続けられてタバコを持つ手がピクリと動く。灰が落ちて、膝を汚した。
三ツ谷は、休憩だと言って一本懐からタバコを取り出して咥える。それは細巻きで、彼の好む銘柄ではない。女が好むそれに、大寿の目が細まった。
「早く伝えたかったんだ」
約束覚えてるよな?とその目が言って、思わずタバコを咥えて目を逸らす。
すると、腕を引かれて身体が傾いた。三ツ谷が服の端を引いて、タバコの先を差し出す。それは火を意味するところで、大人しく火のついたそれを差し出した。
じり、と音を立てて火がつくのを見るとともに、三ツ谷の長いまつ毛が伏せられるのを見る。
その目が上がって、ニィと細まる。
「オレさ、すげぇ頑張ったよ。女の子は好きだし、酒も嫌いじゃねぇ、お金のことはもっと好きだよ。けどさ、すげー頑張った。知ってんだろ?」
それはデータとして三ツ谷がどれだけ店に貢献しているか、自分がスタッフやキャストの間の摩擦をそれとなく取り除いていること、それらを代表たちにも聞いて把握していることを承知の上で言っていることが分かる。
「でもさ、大寿くんのことはもっと好き。だから頑張れるんだぜ?…な、ご褒美、ちょうだい。」
そういう声は酒と疲労も相まってか。甘く耳を擽った。
いつのまにか、自分の空いた手が取られて握られる。
「ね、お願い。オレのこと、甘やかしてよ。」
そうやって強請る姿はそう歳は変わらないというのに歳下の利点を良く理解しているようで、女であれば母性だのを擽るのだろう。
「…何が望みだ。」
「今日大寿くんち泊まりたい。あと、ラーメン奢って。」
先程の甘やかさは何処へやら、からりとした口調で言う様には今のは酒の上の戯れなのか、何処まで本気なのか分からなくなる。
一晩で何百万も稼ぐ男の可愛い望みに、大寿は了承の笑みを返すのだった。
これは天職とまではいかないが、向いているのだと思う。
「カンパーイ。」
「いただきまーす。」
女の子は好きだ。酒も、そしてそうやっていい気分にさせてあげられることもそれによって難なく金が手に入ることも、自分には向いていると思う。
この職に有りつけたことには八戒に感謝せざるを得ないだろう。今はこの場にいない弟分のことを思う。
妹たちの学費を稼ぐためひいひい言っていたあの頃もキツかった。こっちのが楽だとは言わないが、纏まった金が一気に手に入ることは有難い。
グラスを一気に空にすると、客である女の子たちが色めき立つ。
「タカくんめっちゃ飲むじゃん!」
「そう?オレ酒好きって言わなかったっけ。」
「なんか弱そうなんだもん。」
「あ?なにそれ、でもこうやって飲む酒美味しいじゃん。れなちゃん可愛いし酒進むしさ。」
やだぁ、なんて声がワントーン上がるのを聞いてつられて笑う。
演技ではない。楽しんでいるのは本当だ。
妹たちの他愛ない話や、部活中の部員の話に耳を傾けるのと同じ。
笑顔を絶やさないで、身体を相手に向けて君の話を聞いているよという姿勢。これが大事なのだ。彼女たちは自分を大事に、尊重してくれる存在を好む。
愚痴には共感し、適度に口を挟む。時折労いの言葉をかけて、頑張っていることを認める。彼女たちの良いところを見つけて褒めると、花開くように笑ってくれることが嬉しかった。自分でも多少顔が良く、女性にモテることは昔から自覚はあったし、それはきっと女に囲まれた家庭で育ったこと、単に環境ゆえ、ということはわかっていた。だからここでもやっていけるだろうとは思っていた。
「ガチ恋しちゃいそ、ね、タカって恋人いるの?」
そう言われて、三ツ谷はうーん、と少し考える。
三ツ谷の働く「MAGDALENA」ではオーナーの意向により色恋や枕営業はしてはならないことになっている。それは試験的、冒険する意味合いで営業しているため、無理して客を引っ張り面倒を起こさない為でもあるが、「客に夢を見せて楽しんで帰ること」それが出来ないキャストは三流だ、オレの店には要らない。そう、オーナーである柴大寿の言葉である。
れなと名乗った彼女はきっと、依存しやすい性質を持っているのだろうと思う。言動や仕草のパターンから、そう推測する。この手の客は曖昧に暈すよりも素直に話す方がいい。
「実はオレ、叶わない恋してるんだよね~…」
「えっ?恋?してんの?」
「してんの。しかも叶わねーの。」
「なんで!?タカめっちゃカッコイイのに?」
「うわうれしーこと言ってくれるじゃん。ありがとな。でもその人歳上で美人でさ、多分釣り合わねーんだよね。」
女性は大抵の人が恋バナが好きだ。それも成就した恋よりも悲恋だとより好まれるらしい。
そっかァ、とれなは同情するような目で見てきたので、だからさ、と三ツ谷は続ける。しんみりとした雰囲気を振り払うように。
「ちょっと慰めてくんない?とりあえずドンペリとかで。」
「とりあえずの規模デカすぎ!」
肩のあたりを軽く叩かれて、場が温まるのを感じる。ノリが良い客なら本当にいれてくれるし、いれられなくても引き摺らない。そうすると、また次の指名に繋がるだろう。まぁそれは大事ではないが。
妹の学費はもう既に溜まっていた。生活に余裕がある程稼ぐことは出来ている。将来の夢の資金ぶんも。
しかしこの店にまだいるのは、全てあの人のためなのだ。
フロアの空気が変わるのを感じて、すぐに目を上げる。今日は水曜日。彼が来る日だった。
いつもより少し遅い入店にやきもきしていた三ツ谷の心臓が跳ね上がる。
イタリア製のスーツにストールがグッチだろうか。大柄の派手なそれは彼の雰囲気を華やかに演出していて良く似合っている。相変わらず趣味がいい。今日は何処かの会議の帰りだろうか。そのスーツがダブルであることを見てとって、三ツ谷は目を細める。将来、夢を叶えた時、あの体躯に見合うスーツを仕立てられたらどんなに幸せだろうか。目下、貯金の目的はそれであった。
三ツ谷隆は柴大寿が好きだった。
それは、もう、だいぶ前からそうだ。きっと出会った直後から。
その身体に触れたかったし、彼から触れて欲しいとも思った。
三ツ谷は長男であるから、我慢することには長けていたがその反面、根気強くもあった。それとなく何度か出掛けたこともあるし、向こうは顔見知り以上だと思っているには違いない。社会人になってから多くの人がそうであるように、そして自分がそうであるように。疎遠になっていたところを八戒がまたこうして引き合わせてくれた。
お互い忙しく、やるべきこともあった為に離れていたが、こうして出会った柴大寿は相変わらず格好良く、大きな存在だった。会わないうちに閉ざされていた蓋がパカっと開いたような気分だった。
これは運命だ。
けっして他人には言わない、言うことはない言葉ではあるが、その時確かにそう思った。まずはブランクを無くさなくてはならない。
彼にとって、自分が気安い存在であり、距離を縮めることが大事だ。オープン初日からこうして働いて一年が過ぎようとしていた。
惜しむれなに少しだけだから、と断りをいれて、大寿のいる席につく。自分の来席に眉を顰めるが、他のキャストのようにあしらいはしない。その時点で、自分が如何に大寿との距離が近いかを認識出来て口元が緩んだ。シガーキスを強請ると、躊躇いもなく顔を寄せられる。
人はイヤな人間とは顔を合わせられないらしい。それは当たり前のことだが。誰が言ったか、目を合わせて5秒、視線をずらされなければそれはキスができる相手なのだと言う。もし本当ならば、キス出来たらいいのに。ああ、なんて罪深い。
この場にいる誰よりも、夢中にさせてこの心臓を離さない。