ビ―ドロ 古い引き戸に手をかければ案の定鍵はかかっていない。いくら師範を務めるとは言え、ひとり暮らしは物騒だからと堅が言い聞かせても、なにも取られるものはないからと家の主は豪快に笑う。そうして相変わらず佐野の家は誰もが出入り自由なままだ。
この家の扉が開いたままの理由はわかっていた。万次郎のためだ。
万次郎がこの家から、この渋谷から姿を消してからもう季節は夏を迎えていた。
しばらくすればふらりと帰ってくるだろうと浅はかな淡い期待があった。けれど万次郎は浅い思いつきで行動する子どもではけしてない。きっと万次郎が帰ることはないのだろう。それでも。いつかは当たり前のように帰ってこい。 そう願うように大きな家でひとり万作は待っている。
堅が万作を訪れたのは夕食の時間も過ぎた頃合いだ。もしかしたらすでに休んいるかもしれないと思いつつ、軽い引き戸をカラカラと開けて、返事を待たずに縁側へと回る。
「じいさーん、オレだけどー」
「そんな大きな声で呼ばんでも聞こえとる」
返事と同時にがらりと障子が開き、隙間から覗くようにして万作が顔を見せた。ひょっこりと顔を出す、そんな仕草がやはりどこか万次郎に似通っていると思う。ふと浮かんだ面影にそれでは順番が逆じゃあないかと苦笑する。
万次郎が新しいチ―ムを率いていると噂を耳にした。どんな時にでも万次郎の隣にあった時間はもうとうに過ぎ去っている。それがどんなにか堅にとって甘やかで誇らしげな記憶でも、既に万次郎の中では霞んで薄れ追いやられ、不要なのだと切り捨てられたものに違いない。
けれど堅の中では変わらずいっとう鮮やかで、焼けつくような熱を孕んだままだ。
万次郎を思う時、飲み込んだおぼろげな恋情と未熟な自分への後悔がどろどろに混ざり合って押し寄せる。
万次郎を思えば想うほどに、行き場のない扇情はぐつぐつと音をたてる。万次郎に泡たち煮えたつ体温がからだ中をどろりと巡り、熱でもって焼き焦がし爛れ腫れた粘膜をじくじくと責めたてて脳内までも支配する。
目の前を通り過ぎてゆく日常から姿を消し去っておきながら、万次郎が堅のなかから気配諸とも消え失せることはけしてない。
叶うならば痛みも寂しさも苦悩も万次郎が抱えたものを丸ごと全部を引き受けて、万次郎の前に立ちはだかるものを片っ端から蹴散らして、あの日に望んだ朝日の元に連れて行きたかった。
なのに。
「これ、貰いもんなんだけど。ガキたちにやって」
大きなスイカをまるごと1つ。色ツヤのいいさまを確かめてほしいと目の前に差し出せば、老人は皺だらけの顔で目を細める。今日は貰いもののスイカ。先週は向かいの店の残り物の総菜に、その前は饅頭ふたつ。仕事の隙間をぬって堅は万作の元に訪れた。こうして久しぶりに堅が顔を見せれば万作は皺だらけの顔を一層くしゃりとして迎え入れた。
いつものように縁側から上がり込もうとして、軒先につるされた小さな風鈴が目についた。
見覚えのあるそれは、ガラス細工の小さな風鈴。万次郎とエマと三人で出かけた縁日で買ったものだった。子どもの小遣いでも買える程度の小さなそれをエマはそれはとても喜んだ。
縁日の屋台にぶら下がった風鈴の中から目を凝らして見比べ選んだ、小さな花柄の入ったガラスの風鈴。やっと選んだそれを堅はエマの目の高さにかざしてみせた。ゆらゆらと風に揺れてチリンと鳴る音に喜ぶエマに、万次郎と堅は得意げに目を見合わせた。
ガラスでできた小さなそれを佐野の家の縁側に吊るしたのは真一郎だ。
吊るした風鈴は風に揺れてチリンと鳴る。涼しげな軽やかな音に視線は軒先ヘと向かう。向けた視線の先に広がる夏の青い空も、星が広がる藍色の夜も、幼い堅に酷く心地の良い情景だった。
けれど真一郎を奪った夏が過ぎ去って、季節と共に軒先から下ろされた風鈴は小さな箱に片付けられたまま押しやられ、それきり目にすることはなかった。
久方ぶりに軒先に吊るされたガラス細工は記憶の中よりも少しくすんで古ぼけていた。どうしていまさらこんなものを持ち出したのか。大きな屋敷にひとり暮らす万作の感傷が、ちくりと堅を刺す。
吊るされた風鈴を見やり、縁側から居間に上がり仏壇に向かいそっと手を合わせる。並ぶふたつの小さな写真はどこかしら似通った顔で笑っている。
万次郎もどこかでそんな顔をしているだろうか。
最後に向かいあった形相と向けられた背中の邪険な冷淡さの意味を、あれから堅はなんどもなんども巡らせた。
自分の知らない場所で知らない顔をした万次郎がいる。そう思うたびに苦い気持ちが込み上げる。
憤怒し、迷い、悲しみ、疑い、憤り。なんどもなんどもなんども、過去の記憶を廻っては、断ち切れないものがあるのだと行き着いた。
(きっと、アイツはオレのところに帰ることはない。金輪際、きっと無い)
万次郎の抱えた情は傍若無人であってどこか痛々しい。抱え込んで愛した分だけ傷つき苦しんだ。手離すならば決死の思いで跡形もなく棄て去って欠片さえも手元には残さない。思いが深ければ深いほど、棄てるならば、全部。
固く信じた分だけすっぱりと切り捨てられた意味を探って噛み締める。
だからこそ、堅は藁をも掴む思いで僅な万次郎の底に残る情に縋る。
たったひとり大きな屋敷に残るこの老人にだけは姿を見せるのではないか、ここにならば万次郎は万が一にもやってくるのではないか、姿を現さなくともなにかしら繋がる手立てがみつかるのではないか、そう未練がましくしがみついた。
万作は仏壇に向かう堅の背を見やる。大きくしゃんと伸ばした背はもういっぱしの男の風情だ。万次郎を迎えに訪れたヤンチャな顔も、エマを思って頭を下げた面影も越えた男の顔だ。
とうに自分の背丈を越え、向き合うには視線を上げて見上げなければならない。
「オマエにはオマエの生活がある。無理せんでいいから、なぁ」
万作の声は諭すような細い声だった。
その静かな声音にどうしてだか堅は正道の言葉を思い出す。堅は幼いながらもどうやら自分が置かれている環境の特殊さを早々に気がついていて、いちどだけ正道に聞いたことがあった。どうして自分には母親がいないのか、どうして正道は父親ではなのかと。
堅の幼い問いに正道は言葉を濁すことも隠すこともなく、ありのままに事実だけを口にした。
堅の母親は堅を棄てこの街から姿を消したままそれっきり。残された堅をたまたま正道が育てただけの、それだけの関係なのだと、幼い堅に正道は告げた。
万作の元に顔を出す堅に、正道はあの時と同じ顔をする。いつものカウンターで横を向いたままひとりごとのように言う。
「代用品ってのはよ、所詮代用品にしかなんねぇのよ。どこまでいっても本物にはならねってこと忘れんな」
思わず怪訝な顔をした堅に正道は飄々と向かう。
「まあオマエには今さらって思うけどよ」
無表情のまま、ぷかりとタバコを口にした正道を思う。
感情をなるたけ消して重く枷にはならないように。軽く希薄であるように。それが不器用な正道なりの堅との向かいかたなのだと、思う。そんな不器用な寄り添いかたがあるのだと。
「ありがとうな」
皺だらけの顔をして、それでいてその精錬とした顔で。まるで小さな子どもに向かうように、まるでたったひとりの誰かに向かうように、万作は笑む。
まがい物でも、代用品でも、
(それが必要だってこと、生きてたらそんなことだってあるんだろ、正道さん)
たとえなにかの代わりでも本物じゃなくっても
「大きい図体してそんな顔しなさんな」
万作は土産のスイカをポンポンと確かめると、このまま冷蔵庫に冷やすか切るか、そんなたわいもないことをいいながら台所ヘ向かう。
カナカナカナ、とかすれた音が縁側から聞こえる。古ぼけた風鈴を吊るす紐は忘れられていた時間の分だけ摩りきれて、軒先で傾いている。吊り下げた帯が中途半端に釣り鐘をこすってカサカサと枯れた音をたて、堅の感傷をも擦る。
「…じいさん、アレ、オレ付け直そうか」
振り返って風鈴を見る。
「すっかり古くなってしまってなぁ。音もならん」
万作も苦心したことを告げれば、堅は改めて軒先の風鈴を手に取った。
昔は高くて手の届かなかった軒先に簡単に手が届く。手にした古ぼけた記憶に少しばかりの淋しさと柔らかな思い出を思う。
「ちゃんと新しい紐で結び直してさ、まっすぐつけたらさ、鳴るんじゃねえかな」
思い出はつらいばかりじゃ、けしてない。ひとりこの大きな家に暮らす万作のひとときにでも癒しにでもなればいい。
じいさん、と堅は台所の奥の万作に声をかけるが返事はない。な―、ともう一度万作の後ろ姿に呼び掛けると、スタンスタンと鳴らす音からどうやらスイカを切り出したようだ。仕方がなく堅は手にした風鈴を元に戻し、軒先から離れ万作のいる台所ヘ向かう。
流しの隅で丸いスイカは既にふたつに割られ、そのうちのひとつを更にふたつに割る。スタンと割ったスイカを手に、ホレ、と堅に手渡して、万作はあの坊主にも持っていけ、と言う。堅には咄嗟にそれが誰のことだか思い当たらなかった。誰のことだと確かめれば、あのバイク屋の金髪の、と言ってなかなか名前が出てこない。
「もしかして、イヌピ―かよ」
言って堅は吹き出した。
坊主どころか、青宗は堅よりひとつ年上だ。けれど万作にとってはまだまだ坊主扱いだ。
万作にとって、堅も青宗も、道場に通う子どもたちも、万次郎と同じ孫のようなものなのだろうか。及ばずとも近しいものなのだろうか。そうであったなら、少しでも万作の頼りになれているのだろうか。
そうなれていればいい。そうであったらいい。そう、思わずにはいられなかった。
その様子を見守るように、チリンと軒先の風鈴が微かに鳴った。はっ、として堅は台所を飛び出して縁側ヘ出た。縁側の出て軒先で立ち尽くす堅に、風鈴は夜風を纏い帯をふわりとさせて揺れる。堅に向かってチリンとまた涼しい音を響かせた。
見れば風鈴の笠から垂れる帯を結ぶのは真新しく結び直された紐。
「――、まさか」
とっさ気に浮かんだ顔は、ただひとり。
慌てて縁側から飛び出して、灯りのない庭を眼を凝らして見渡したけれど、そこに誰の姿も気配もあるはずもなく。
「――くそ…っ」
堅はこみあげる想いをそう吐き出すしかできなかった。
ただ熱のこもる夜をなでるような、風鈴の音がチリンとやさしく響く。
断ち切れずに、尚も、いまだ向かう思いはつのるばかりで、きっといつまでもどこまでも消え去ることはない。
例えるならば生ある限り。きっと死を迎えるその時その瞬間、意識が消え魂が消え失せようとも、オレの細胞が果てる最後まできっと、オマエだけを想う。
オレはオマエだけを想うよ