やっと軌道に乗ったバイク屋の灯りが消えるのがは遅いのは毎晩のこと。営業時間を終えると共に店を営む相棒が先に店を出る。アイツは店にひとり残りデスクに向かい、辺りが暗くなった頃にやっとシャッターに鍵をかけて帰路へと向かう。
跨るのは丁寧なメンテナンスを繰り返した昔と変わらない愛機。同じ商店街で挨拶ついでに総菜を買うか、遅くまで開いているスーパーで買い物をして帰るのが日課。渋谷の繁華街にある実家を出て、安アパートにひとり移り住んでからは一層堅実に生きている。
けれどその日だけは閉店作業を終えると早々に店を出る。少しばかり遠回りをして、昔なじみの店で懐かしい味の甘味を2つ。時代に合わせるように改装した小洒落た店構えと女性向のメニュー。いかついツナギ姿の男がひとり、不釣り合いな店に入れば一斉に注目を浴びて少しばかり肩身が狭い。遠慮がちに店員に声をかけると、店員は古参なのか訳知り顔で表情を崩すと店の奥に声をかける。かけられた声にぱたぱたと小走りに姿を現したのは母親のような年代の店の主だ。にこやかに目じりの皺を緩ませて、小さな茶色の包みをアイツに手渡した。
紙袋には出来立てのドラ焼きが2つ。もうあの頃のように毎日のようにそれを口にすることはない。もともとアイツがそれを当たり前のように持ち歩いていたのは自分のためなんかじゃない。そんなことはしっかりとわかっていて、アイツの手からその菓子を奪い取るのが嬉しかった。
味覚も好みもとうに変わり、甘い菓子を口にする習慣は遠のいた。
それならいっそ、口にしなくなった味も思いも全部、思い出に過ぎないのだと過去のものだと、薄れて霞んで消し去ってしまってくれたなら。あれは過ぎ去った過去のひとつに過ぎないのだと、軽々しく口にする程度の思い出になり果てていたのなら。
てのひらに納まる菓子ひとつ手にしただけで、どうしてオマエ、そんなやるせない笑みを滲ませる。
オマエなら誕生日を一緒に過ごす相手なんていくらでもいるだろう。オマエがひとこと声をかければ明るい返事がきっと返ってくるだろう。店の相棒だっている。昔の仲間だっている。仕事で得た知人だっている。オマエを好ましいと思うヤツなんて両手の指では数えきれないほどにいくらでもいるだろう。
なのに毎年、毎年。今年もまたオマエは自分の誕生日をひとりきりで過ごすんだ。
昔なじみの店で舌が覚えた味を手にしてひとりきりの部屋に帰る。狭いアパートの添え物のようなベランダから夜を見上げ、藍色の空に見えもしない星を探して何時間も何時間も、その夜を超えるまでひとりきりで過ごす。
まるでなにかを探すように。まるでなにかが現れるのを待つように。まるで自分に向けられた遠い視線を知っているかのように、ひとりきりで夜空に馳せる。
カチリ、と頭の中で秒針が音をたてる。それはまたひとつ頭の中で何かが壊れる音だ。
ガラス張りの壁にからだを預け、力の入らない両腕をだらりと床に投げ出してぺたりと座る。膝を胸の前で小さく折りたたんで寄りかかったガラスの壁は頬にひやりとして、まだこのからだが冷たさなんて感じることができるのかとぽかりと浮かぶ。
気だるいからだは腕の1本どころか指のひとつを動かすのも億劫だ。視線を寄せて覗きこんだガラスの向こう側には、キラキラと光るまがいものの灯りが散らばって、たったひとつこの世界でなによりも美しい灯りが手が届きそうにないほどに、遠い。
めぐらせた視線の先で時刻は「23:59」が表示されていた。すう、と臆病な緊張が喉を震わせからだがうずく。眩む視界に漂い浅い呼吸を詰まらせながらチ、チ、チ、チ、と頭の中で秒を刻む音を追って1、2、3、4…と唱えると、じくりじくりとからだが煮える 。
息が、苦しい。熱い呼吸が喉を焼いて詰まる呼吸に目がまわる。追い詰められる意識を責めるように、刻む秒はついに59まで唱えると、瞬間、チカリ面幕に火 花が散って、きんっと甘い閃光が下肢を突いて脳裏へと突き抜ける。ひくりと痙攣する粘膜は甘く濡れ、じくっと重く煮えたつ下腹にぎりり爪をたてしおれしなびて衰えた性器に指を這わす。
ついに知ることのなかったアイツの指の感触を想って爪をたて、小さなうめき声と同時にゆるい臭気をぬるりと漏らす。
浅ましい、そうアイツの声が責める。
鼻につく匂いにむせて喉を詰まらせてはゴホゴホと咳き込んで、尖った肩を揺さぶりなぶる。折れたようにうなだれた頭の奥で虫の羽音がぱたぱたと鳴る。
自分の放ったもので汚れた指を目の前にかざして見ればなんと醜いのだと乾いた嗤いが込み上げる。
好きで、好きで、好きで。そう募るものがアイツを汚す。
世界でいちばん愛おしいと鳴くのと同じだけ、世界でいちばん醜いものが、自分の腹のなかにあるのだと思い知る。
ハハハと口をつくのは渇き枯れたアイツへと向かう呻き。瞳の端に滲みこぼれ頬を落ちていく雫を力任せに震える手で拭い、舌を這わせ飲み込んだ。
濡れた瞳の端に時刻は00:00を写していた。やっと。アイツの365日を守りきった。自分には手の届かない、アイツの365日を守りきったのだとようやっと、安堵する。
生きている。アイツが。アイツが生きて、自分にはけして手の届かないところで生きている。
それだけで、良かった。それだけが望みなのだと、ガラス越しの夜に向けた瞳は濡れて、細く薄い雫が頬をけがす。
目には見えるはずのない距離を超え、万次郎のたったひとりの男は夜を見上げる。この夜の片隅に息を潜め、きっとどこかで自分を見つめているだろう男を想う。
誰よりも傍にいて、誰よりも遠い、きっとこの夜の片隅で凍えるように生きている、万次郎をおもう。
生きてるよ。どこであっても一緒なのだと、そう万次郎を思う。