百鬼夜行のあとで 綺麗な手をしている人だった。
思い返せばその名の通り、彼との思い出は暑い季節のものが多い。
沖縄も、あの鮮烈な出来事も、ひどく暑い最中でのことだった。知り合ってから二度目の秋がくる頃にはいなくなってしまったので、私が思い出すのは僅か一年と少し、その先のことは噂でしか知り得ない。なのに、今でも彼は私の中で強烈な印象を残している。
一緒に任務に赴いた帰り道、よくアイスを奢ってくれた。ソーダやオレンジの、冷たく甘い汁の滴るそれを持つ、美しい指先。五条さんの見るからに長く骨張った荒々しい手と違い、それは繊細でしなやかで、誰に対しても柔らかな所作をしていた。
その手で、たまに私の髪や頬を撫で、一方で黒く禍々しい呪霊の玉を呑み込むのだ。一種淫靡ともいえる手つきで。
その人を、仲の良かった優しく親切な私の先輩を、しかし今は日本を揺るがす呪詛師になってしまった彼を、今日、たった先ほど、私の恋人が殺したのだという。
呪詛師となった彼の不穏な動きはもう何年もこちらに伝わっていたので、いつかこんな日が来るだろうと思っていた。彼が民間人を惨殺し、離反したときから誰もが薄々予測していた。
「七海、終わったよ。ちゃんと、殺した」
だからそう一報を聞いたときも、ついに来るべき時がきた、というくらいで、特に何の感慨も湧かなかった。私は私で、自分の為すべきことをしただけだ。自分でも薄情なものだなと吃驚する。
それはきっと、五条さんも同じだろう。
「了解です。五条さん、お疲れさまでした」
彼も果たすべき役割を果たした、きっとそう思っているに違いない。
親だろうが兄弟だろうが親友だろうが、殺すしかない時が来たら迷いなく殺すのが呪術師だ。それは誰よりも彼がわきまえている。私なんかの慰めや憐憫はまったく必要ないはず。
けれど私は京都での後片付けを早々に終わらせると、皆への挨拶もそこそこに新幹線に飛び乗っていた。
最強に気遣いなど不要だ。
とはいえ彼だってどうしようもないほどに人間だ。辛さや痛みがなくなるわけではないだろう。
でもいったい私は。どんな顔をして五条さんに会えばよいのだろうか。
★
一度だけ、呪術師を辞めた私のもとへ、夏油さんが訪ねて来たことがある
「やあ。久しいね、七海」
会社から帰ってきたら、マンションのエントランスの前に懐かしい長髪のシルエットが佇んでいたので、私は目を見張った。
夏油さんは例の仰々しい袈裟ではなく、Tシャツにサルエルのようなゆるいパンツ姿で、愛人の家からふらっとパチンコでもしに出たような風情だった。
「お元気そうですね」
私がそう答えると、夏油さんは、いつものあの、猫のような柔和で人懐こい笑顔を向けた。しかしその実、何を考えているのかよくわからない、あの表情。
「久しぶりに先輩にお会いできたことですし、お茶くらいなら淹れますよ」
「きみたち、私に全然驚いてくれないのだね」
夏油さんは楽しそうにくっくっと笑い声をあげる。
硝子もせっかく驚かせようといきなり会いに行ったのに、うけるーとかいって笑っているだけでねえ、と目を細める。
「お茶、ぜひご馳走になろうかな」
夏油さんを部屋に上げ、二人分の紅茶を淹れた。夏油さんは和服を纏っているわけでもないのに、白檀のお香を薫きしめたような、良い香りがした。
「私に何か用でもありましたか、株とか、資産の運用とか。私、今は呪術師ではないので」
夏油さんのことだからとっくに知っているだろうと思いつつ、一応そう告げた。
それはいいよ、金ならいっぱいあるんだ、と夏油さんは手を振る。
「七海がサラリーマンをしてると聞いて、どんなのか見てみたくてね」
と、頬杖をついて面白そうに私を眺めている。
「ただのしがない一般人ですよ」
彼が民間人を皆殺しにし、呪術師だけの世界を作ろうとしているのは私も伝え聞いている。すでに呪術を放棄した私は、彼が忌み嫌う『猿』ということになるのだろうか。
「ああ、つまり私を殺しに来ましたか?」
ふと思いついて私がそう言うと、相変わらずだね七海は、と笑った。
「殺さないさ。私はきみが好きだし、きみは悟のお気に入りだからね」
夏油さんが悟、という名前を発した時に、自分の鼓動が少し跳ねるのがわかった。
五条さんとはしばらく会っていない。呪術師をやめてから、腐れ縁みたいになってしまった関係を断ち切ろうとしているところだった。
「じゃあ、何をしに来たんです」
「昔話だよ。懐かしくなることくらい、私にもあるからね」
夏油さんはさらに楽しそうに目を細める。私の心拍が速くなったことに気づいたのだろう。
「悟とは、もう会っていないのかい?」
「ええ」
「可哀想な悟。振られてしまったのだね」
「元々そんなんじゃありませんよ」
「昔から、なんで七海が悟のことが好きなのかさっぱりわからなかったよ。七海、私にしておけばよかったのに」
「私もそう思います」
そう答えると、夏油さんは声をあげて笑い出した。
冗談だというのは良く分かっている。本気だったら、絶対にこういうことは口に出して言わない人だ。私を翻弄して楽しんでいるのだ。
それに当時から、夏油さんには男女問わずたくさんの恋人の影がさしていた。実際、よくもてたのだと思う。
「あははは、それなら話は早い。私はね、強い呪術師を集めているんだ。今からでも遅くない、七海、私の家族にならないかい?」
その言葉を聞いて、私は大きく溜息をつく。
「本当に、今の私にあなたが面白がれるようなものは何もないです」
「七海、つれないね。久しぶりだというのに。……力づくで連れ帰ってしまおうかな?」
夏油さんは穏やかにそう言うと、微動だにせず、笑みを浮かべたまま、ものすごい迫力の呪力を一気に放出した。
「……っ!?」
圧倒的な禍々しい呪力にあてられて、すっかり俗世で鈍った身体では防御すらできず、私は痺れたように身動きがとれなくなった。
「……なんてね、冗談だよ。可愛い後輩が嫌がることはしない。でもね、七海は遠からず呪術師に戻るよ、予言する」
「……戻りませんよ」
「戻るね。七海は何もかも知らぬ顔の半兵衛を決め込むには、魂が誠実すぎる」
夏油さんは立ち上がり、ゆっくりと私に手を伸ばす。
「それに、きっとまた悟に抱かれる。悟は執念深いからね、そう安易と手放すものか。こんなに美しい男を」
そして、いつかのように優しく私の髪を撫でた。
「当たるよ、これでも教祖だからね」
そう言い置いて部屋を去ろうとする夏油さんの後ろ姿に、私は思わず声をかけた。
「……夏油さん、このまま呪専や呪術連を敵に回して、五条さんとやり合うなら、あなただって無事ではすまないでしょう」
「この期に及んで私の安否を気にかけてくれているのかな? 優しいね、七海は」
「誰だってむやみに人に死んで欲しくはないですよ、世話になった先輩なら尚更。灰原だってそう思っているはずです」
「……ああ」
私がそう言うと、夏油さんは一瞬懐かしそうに天を仰いだ。
「……本当に優しいね、七海は。なんできみの想い人は私じゃないんだろうね」
★
諸々の始末を終え、東京で五条さんにやっと会えたのは翌日の夕方になっていた。
部屋に帰ると五条さんはすでにいて、待ちかねていたように私を寝室に引き込み、慌ただしく覆い被さってきた。
五条さんは、強く確かめるように私のあちこちを触り、身体中に噛みつき、爪を立て、痕がつくほど肌を舐った。わざと少し痛く、した。
私たちは喋るのがもどかしく、大袈裟に身体を使いたがっているようだった。肉体の痛みで、他の場所の苦しみを誤魔化そうとしているのかもしれない。
その時だった。
一瞬、白檀の芳しい香りが鼻先を掠めた。
そして私に覆い被さる五条さんの背後、闇の中に、見覚えのある白い手がぼんやりと浮かび上がった。
顔も身体も見えない、腕だけだ。しかし、すでにこの世から零れ落ちていく、朽ちていくものの気配がしていた。
私は五条さんの背中を強く抱きしめて、虚空を見つめながら、耳元で囁いた。
「……いますね」
「ああ、いるね」
「連れてきてしまったんですね」
「もう、いなくなる。気配がだいぶ薄くなってきているからね」
美しい白い手の下で、まるで彼に見せつけるように私たちは重なり合い、繋がりあい、嬌声を上げ、互いの精を吐き出した。
すべて終わる頃には白い手はもうほとんど見えなくなり、夏油さんの残穢はもう、強い呪術師でも注意深く探さないと気づかないくらいになっていた。
「あなたの予言、やっぱり当たってましたよ」
「予言?」
「こちらの話です」
怪訝そうな顔をしている五条さんをよそに、私は中空へ手を伸ばす。
何が彼を呪詛師の道へ駆り立てたのだろう。
思い当たる理由やタイミングは幾つもあるけれど、あの聡明で理性的な夏油さんにとって、いずれも決定的なものとは思えない。
否、彼は最初から一貫して変わっていないのかもしれない。すべて私の勝手で傲慢な憶測にすぎない。いつだって夏油傑は夏油傑で、彼は常になりたい自分に自ら成ったのだ。
「呪詛師は死後の扱いはどうなるんです、遺族に連絡したり、骨を返したりするんでしょうか」
「何もないよ。跡形も無く消し去られるだけ。この世に生きた痕跡は何一つ残さない。あいつの場合、教団もあるし仲間は残っていて厄介だからね」
五条さんは最初の殺気立った様子はなりを潜め、だいぶ落ち着いたようで、ベッドから腰を上げると、冷蔵庫からアイスを取り出して戻ってきた。彼が山ほど買ってくるので、うちの冷蔵庫にはあらゆるお菓子が常にみっしり詰まっている。
私たちはベッドに座って棒のついたチョコレートのアイスを仲良く分け合いながら、夏油さんについて話していた。
「……楽しいことも色々ありましたよ」
「まあ、そうだね」
「学生時代は、アナタより良い先輩でしたし」
「なにそれ、ひどくない!?」
割と本気で怒っている五条さんに、私は思わず吹き出す。
良い先輩でも、決して許しはしないけれど。私の大事な人を突き放し、取り返しのつかないものを奪っていったことを。
でもそれらも、全て過去のことだと思える日も来るだろうか。
「五条さん、せめて私たちでお墓でも作ってあげましょうか。せっかく最後にここまで来てくれたことですし」
この世に跡形も残らない男のために、私たちくらい、祈っても良いだろう。
親友で、先輩で、呪詛師になってしまったとはいえ、なかなかに楽しかった私たちの学生生活は嘘ではない。それとこれは同時に存在する事実なのだから。
私は五条さんが食べ終えて咥えていたアイスの棒を取り上げると、窓辺にあったバジルの植木鉢に刺した。私が料理に使うのでささやかに栽培しているものだ。
「墓標です」
「いいね」
五条さんはどこからかペンを持ってくると、下手くそな字で
『すぐるのはか』
と書いて、小さく笑った。
窓を開けると、冬の冷たい風が吹き込んで、白檀の香りも、白い手の影も、ますます薄くなっていく。
さようなら、夏油さん。
しばらく二人で、その小さな墓を眺めていると、すうっと白い手が浮かび上がり私の頬を撫でていったような気がした。
しかしその気配も吹いてきた風にかき散らされて、そこには何もなかったように夜だけが残っていた。