カニの床屋さん「あっ……!!」
そう大声を上げたきり緑谷はスマホを見つめたまま固まってしまった。その顔がみるみる青ざめていくので何事かと心配になってくる。
「どうした」
「せ、せんせぇ……」
情けない声でこちらを見上げる緑谷はさながら捨てられた子犬のようで、そのふわふわした癖っ毛に吸い寄せられるように頭を撫でてしまっていた。確かに毛足が伸びている。ふわふわ加減が増して良い具合だがこれ以上伸びたら収集がつかなくなりそうだ。
「大丈夫か?」
「今お母さんから連絡があって……明日、床屋さんの予約を入れていたのをすっかり忘れていました……。す、すみませんっ、明日おでかけの予定、立ててくださっていたのに、」
しおしおと落ち込む緑谷は今にも泣き出してしまいそうだ。確かに明日は少し遠出でもしてみようかとふたりで計画を立てていた。緑谷も随分楽しみにしていたようだから余計に気落ちしているのだろう。
「地元の床屋さんに通ってるんだったか」
「そうなんです。子どもの頃からお世話になっていて、昔からの習慣でお母さんが予約をとってくれてるんですけど、……」
今にも目から涙が落ちそうだ。ほっぺたを挟み込んでむにむに揉んでやると緑谷の表情が少しだけ和らいだ。
「床屋さん、そんなに時間がかかるのか?」
「床屋さん自体は1時間もかからないんですけど、その、いつもその後近くのレストランでお母さんとお昼ごはんを食べていて、それから酒屋さんでお醤油とかみりんとか重たいもの買って家まで持ってってあげてるんです。だからトータルだと結構な時間が……。あ、でも事情を話してそこだけ別の日に……んん、でも、お母さんお店にも連絡しちゃってるかな……」
「それはお母さんを優先してあげなさい。こっちは来週でも再来週でも良いんだから」
「でも……」
どちらも優先したいのだろう。緑谷はスマホと俺の顔を見比べては困り果てている。ハの字に下がった緑谷の眉を撫で付けながら、『さて』と俺は解決策を考え始めた。
「そこには子どもの頃からずっと?」
「はい。ほら、僕って髪、こんなでしょ。お母さん切りあぐねちゃって、そしたら誰かがその床屋さんを紹介してくれたらしくて。店長さんがカニさんの個性持ちなんです」
「カニの床屋か、あわてんぼうじゃないのか?」
「ふふ、先生もその歌ご存知なんですね」
お母さんと一緒によく歌ったなあ、と緑谷が懐かしいメロディーを口ずさむ。そういえばお客はうさぎだったなと隣りに目を遣りながらぬるくなったコーヒーに口をつけた。
「残念ながら歌詞のような方ではないんです。わりとチャキチャキしてると言うか。どんな癖っ毛でも上手にまとめてくれるって、遠くから通ってる人も多くて。あ。塩崎さんのように髪に個性があるお客さんたちもいっぱい来てますよ!普通の鋏じゃ切れなくても店長さんのハサミだったら切れちゃうんです。子どもながらにすごいなってずっと見てました!」
「腕利きなんだな」
「僕の髪なんて大変じゃないって言われました。鋼鉄みたいな髪を散髪した翌日手がボロボロになった話とか、逆に蜘蛛の糸みたいに細くて全然切れない髪とかの話をたくさん聞かせてくれて……!」
キラキラした眼差しで語っていた緑谷だったが突然ハッとした表情になり、また捨て犬のような顔に戻ってしまった。ダブルブッキングのことを思い出してしまったのだろう。
「あ、す、すみません……楽しく、お話しちゃって……」
「いや。それより緑谷、」
「はい」
「ひとつわがままを聞いてくれないか?」
「?はい、なんでしょう?」
話しているうちに解決策をひとつ思いついた。緑谷が了解してくれると良いが。
こてんと首を傾けた緑谷が俺の提案を聞いたらどんな顔をするか、少し楽しみだ。
翌日──緑谷と俺は二人揃って床屋さんの前に立っていた。俺の解決策とはそう、『俺も一緒に散髪したいからついていく』というものだった。この後の昼食と買い物は辞退しようとしたが、緑谷親子からの強い要望によりお邪魔させてもらうこととなっている。お母さんに押し負けたと言っても過言ではない。親子水入らずの時間を邪魔するつもりはなかったが『消太くんももう息子みたいなものでしょ』と言われたら断れる訳がなかった。
緊張した面持ちで緑谷が床屋さんのドアを開ける。辺りにカランカランと大きな鈴の音が鳴り響いた。
「こっこんにちは!!よっ、予約した緑谷と相澤でしゅっ!」
床屋さんに入るなり緑谷は店内中に響き渡る声でそう叫んだ。そんなに広くない店内だ。店員さんもお客さんも一斉にこちらに注目する。目を回しそうな勢いの緑谷の背中を俺はそっと後ろから支えた。
「あっはっは!出久くん彼氏同伴だからって緊張し過ぎじゃないか!いやあ常連客増やしてくれて嬉しいよ!はじめまして店長の蟹野種です。本日はご来店誠にありがとうございます」
店長が長い腕をこちらに伸ばしてきた。腕というか、脚だ。カニの。勝手にサワガニをイメージしていたがタカアシガニ寄りだった。ハサミの部分を握って握手するが正しかっただろうか。切れ味が鋭くて一瞬ヒヤッとした。プロヒーローだったら大変頼りになりそうだ。
「初めまして。相澤です。まだ常連になるかは分かりませんが」
「手厳しい!ずっとご自分で切ってらしたんなら通うのが億劫なのも分かります。出久くん、まだちょっとかかるから、いつものとこ座って待っててくれるかな?」
「ひゃ、ひゃいっ!しょ、消太さんこちらでゴザイマス……!」
緑谷、右手と右足が一緒に出てるぞ。
緑谷が案内してくれたのは窓辺に面した待合スペースだった。年季の入った二人掛けのソファーがふたつ置かれており、漫画や雑誌が詰まったマガジンラックと背の高い観葉植物が置かれている。理髪店のイメージそのままの内装だ。
並んでソファーに座るが、緑谷は面接前かと見間違うほどガチガチに固まっている。まあ、子どもの頃から知られているお店に恋人同伴で来るなんてそれなりに勇気が要るだろう。
「俺が自分で散髪してるって説明した?」
「いえ、してないですけど。?」
まあプロなら見て分かるか。
「先生っていつから自分で切るようになったんですか?」
「あー……。高校の途中からか。散髪行く時間がもったいなくてな。短髪にすると頻度が上がるし、長いほうが適当にごまかせるからな」
気付けば背中の真ん中くらいまで伸びていた髪をワシャワシャとかき混ぜる。長髪だと洗うのは面倒だが散髪に関してはローメンテだ。暑ければ結べば良いし、わりと性に合っている。
「じゃあどうして急に床屋さんに行こうと?」
「俺も癖毛だろ。床屋でひどい髪型にされたこともあって余計足が遠のいていた。それで緑谷の髪を長年メンテナンスしてきた床屋さんなら俺の髪もそれなりになるんじゃないかなと」
緑谷のために考え出したにわかの策だったが以前から考えていたことではあった。
生活も落ち着いてきたし、散髪に行こうと思えるくらいの時間的余裕も精神的余裕も出てきた。だが二十年近く床屋に縁がなく、また自分の髪を任せられるようなちゃんとした店を探すのも億劫でずるずるとここまで来てしまった。
「だから急にってわけじゃない。良い機会があって良かったよ」
「そうなんですね。……先生、どんな髪型になるか楽しみです」
そうやって俺の隣りで笑ってくれる緑谷のためにもちょっとは格好付けておきたいし、とは口が裂けても言わないが。
「じゃあ相澤さんの番ね」
小ざっぱりとした緑谷と入れ替わりで俺は鏡の前に座った。
「今日はどうしましょうかねえ」
そう言いながら店長が俺の髪の間にあの鋭利なハサミを差し込んでくる。頭皮にツメの先が当たる度、無駄に肩が強張ってしまった。これは恐らく頭蓋骨ごと粉砕できるぞ、と考えて変な汗まで浮かんでくる。緑谷はこれ平気なのか?俺は結構ヒヤヒヤするぞ。
「今日はどうしましょうかねえ」
「お任せで」
鏡の中の俺は無表情、背後の店長は大仰に『わあ』と手を上げた。……手足が長いから大袈裟に見えるだけかもしれないが。
「信頼が厚いですねえ。モヒカンにしますよ?」
「ちょっと職場のヤツと被るんでモヒカンはやめてください」
「あっはっは!被ってなきゃいいんですか!じゃあ先にシャンプーでもいいですか。いやなら濡らすだけでもまあ良いんですが」
「いえ、お願いします」
とは言ったがこれは店長自ら洗ってくれるんだろうか。若干不安になってくる。あのハサミで?いやいやさすがに無理だろう。さすがに別のスタッフだよなという淡い期待はすぐに打ち破られることになった。しかもあれだ。ハサミがついている手(脚か?)ではなくその下にある手(脚なのか?)で器用に洗われている。相変わらず急所を握られている気分ではあるが、力加減は非常に良い。シリコン製の頭皮マッサージ器のようだ。目を瞑ってしまえばもうそうとしか思えない。よしもうずっと目を閉じておこう。俺はやっと肩の力を抜くことができた。
「相澤さん、お任せって言っても、本当にご希望はないんですか」
「希望と言われてもどういう希望を出していいものか……」
まさか緑谷に相応しい男に、なんて言えるわけないしな。
あー。それにしてもこのシャンプーの匂い。たまに緑谷からしていた匂いだ。ここの匂いだったか。リンゴとミントのような、爽やか系の香り。俺には合わないだろ。
「そうですね。例えば、今までずっと長かったので結べる長さにはしておきたいとか。後はそうですね……大戦後は傷跡の残ったお客様が多くて。傷跡を目立たなくしたい、髪の生えない部分をカバーしたい、とおっしゃる方が多かったですよ」
「……そうですか」
大戦。
あの戦いで傷付いた市民の数を思う。自分の髪型すら自由にできず、鏡を見て泣いた者も多かったろう。言葉を失くしていると、店長の「でも!」という明るい声が上から降ってきた。
「個性が無くなったから今までできなかった髪型にチャレンジしたい!思い切ってイメチェンしたい!という前向きなお客様もたくさんいらっしゃいました。ここに来て、笑顔になって帰って行ったお客様もたくさんいます。ありがたいことです」
思わず目を開けて店長を見上げる。店長はニコニコと笑っていた。
「……そうですか」
つられて俺の口端も緩んでいた。
「では同じ希望を。右目の傷は目立たないように。それから思い切ったイメージチェンジを」
「!……かしこまりました!」
店長はここ一番の笑顔でそう返事をしてくれた。
はわ。
はわわわ。
せ、せんせぇ……。
せんせぇが……ぽわぽわしている。
何だかめちゃくちゃほわっほわにされている。
『まだ常連になるかは分かりませんが』とかいきなり店長さんに啖呵切った時はめちゃくちゃ焦ったけど、何故か今店長さんに完全に手懐けられている!またたびを与えられた猫くらいふにゃふにゃしている!鏡越しに見たって分かる。もうほわっほわだ。あんな表情、なんなら泥酔時くらいにしか見たことありませんけど……?なんで?どうして???
ソファーで待っていてと言われたけれどあまりにも気になり過ぎておそるおそる店長さんの背後に迫っていく。
まだ先生の髪型は変わっていない。さっきシャンプーして、ドライヤーで乾かして、今ブローしながらブラシで整えてもらっているところだ。ブラッシングでとろとろにされているのか?猫?猫ですか先生は?
「出久くんそんなこそこそしたってバレてるよ」
「ひょわっ」
店長さんが鏡を指差しながら苦笑している。そこにはバツの悪そうな顔をした僕の姿がばっちり映っていた。
「せん、……消太さんはどうしてこんなことに……?」
店長さんの邪魔にならない場所に立ち、改めて先生を眺める。先生は軽く目を閉じてすっかり店長さんに身を委ねていた。洗いたてでツヤツヤの黒髪が店長さんのブラシの動きに合わせてさらさら揺れていて……。
あれ?
「全然ブラシが引っかからないのはどうしてですか?それにクセもいつもより少ないような……」
「シャンプーのしかたとブラシの違いだね」
「それだけでこんなに変わるものなんですか。さすがプロの技……。僕なんて全然やらせてもらえませんもん」
「こいつ力任せにやるんですよ」
急に先生が口を挟んできてびっくりした。し、しかも告げ口みたいなことを……!は、恥ずかしい……!
「そりゃ絡まったところを無理に梳かそうとしたらそうなるでしょうよ。出久くん妬かないでね。このブラシ、相澤さんご購入してくださるようだから、今度からは出久くんが毎日メンテしてあげてね」
「妬か……っ、こうにゅっ、ま、毎……っ?!」
動揺して口をぱくぱく言わせている僕などお構いなしに先生は「毎日店長さんにお願いしたいですね。本当にこいつでも同じようにいきますか」などと店長さんに質問している。本当懐いてるな先生。
「ほら。こうしてセットするとだいぶ落ち着くでしょう。これならショートでもまとまりが良いし、相澤さん元々小顔だから更にスタイルもよく見えるし若見えもする。私は似合うと思いますよ」
「えっ?!相澤先生ショートにするんですか?!」
思わず『消太さん』呼びを忘れるくらいびっくりしてしまった。長髪の先生しか見たことがないから全然想像がつかない。けど見てみたい。すごく。
「彼氏のショートヘアが見たいのなら、ちゃあんと毎日出久くんがヘアケアすること。約束できる?」
「します!絶対します!!」
前のめりでお返事したら、鏡の中の先生がびっくりしたように目をぱちくりさせていた。あ、あ、店長さんならいいけど、僕じゃいやだったかな。
「あ……、えっと……、い、いいですか、僕でも」
「もちろん。頼むよ」
「!!は、はい!」
良かった、任せてもらえるみたいだ。後でちゃんと店長さんにコツを教えてもらおう。僕だって先生をふにゃふにゃのとろっとろにするんだ……っ!そう意気込んだ途端何故か先生がぶるぶるっと身体を震わせた。寒いのかな?
「じゃあ完成まで出久くんは見るの禁止ね。ソファーで向こう見てお利口さんで待ってて」
「え?!み、見てちゃダメですか?」
「だあめ。後のお楽しみね」
店長さんに優しく背中を押されて渋々待合コーナーに戻る。窓のほうを向いて腰掛けるもそわそわして全然落ち着かない。
今まで一度も手にしたことがなかったヘアカタログの雑誌を手にとってパラパラとめくってみた。
──レイヤーを入れて束感を出した清潔感溢れるマッシュスタイル、キメすぎない緩さと男らしさのバランスが絶妙なウルフカット、爽やか系ツーブロックでモテること間違いなし、前髪長めの外ハネヘアでセクシークールな印象をゲット…………。
見たことのない用語ばっかりで全然分からない……!けど……!
(もしかして先生、モテちゃうってこと?!)
ひゃあああ、どうしよう。先生元から格好良いのに、これ以上格好良くなられたら困る……!
清潔感?
男らしさ?
爽やか?
セクシーでクール???
困る……!!!
「あらあら出久くん泣いてるの?リンゴジュース飲む?」
馴染みの店員さんが心配して見に来てくれた。片手にはパックジュースを持っている。すぐ泣く僕のために用意してくれた懐かしいパッケージを見て、益々僕の涙腺は決壊した。
「僕もう子どもじゃないです〜〜〜」
「そうねえ立派な大人よねえ」
その後も優しい店員さんは隣りにいてずっと僕のことを慰めてくれていた。
やっと涙が引っ込んだ頃、ヘアカタログに載っていたどの男の人よりも格好良くなった先生が現れて更に大泣きしちゃった僕の話は、とてもとても恥ずかしいので割愛させていただきます。