体温その日は少しだけ、欲が出てしまった。
小脇にプリントを抱えポケットに手を突っ込んで歩く猫背、それを目指して駆ける軽快な足音が廊下に響く。
冬の太陽はとっくに地平線の向こう。外を歩く生徒の息は白い。校舎の中にも冷気は忍び込んでいて、少年の喉をツキリと痛ませた。
だから、と言う訳でも無い。
ただ何となく、触れたいと思ってしまった。
先生、と呼ぼうと開いた口を一旦噤んで、少年はその黒い背中へと手を伸ばした。
触れたら温かい気がして、先生の体温を感じられる気がして、心臓がトクトクと指先まで血液を送る。自分の手のほうが熱を持っていることになんて気付かないまま、その手の平が背中に近付く。
あと30センチ。
あと20センチ。
あと、10センチ。
息が弾む。
「相澤せん、」
冷気で掠れた声が彼を呼び終える直前、届くはずだった手の平はその場から動かなくなってしまった。自分の手首を強く掴む大人の手に、心臓まで掴まれた気がした。
「何だ、緑谷か。人の背後を取ろうとするなんて良い度胸だな」
「は、ひ?すすすすみませんそんなつもりじゃ……っ」
掴んだ手首を持ち上げた彼は底の見えない眼差しのまま口角を上げてみせた。
さっきまで気怠そうに歩いていた彼からは想像もつかない速さで掴まれた腕、避けることすら出来なかった。いや、その動作を予知することすら難しかった。
それより思いの外その手が温かいことに気を取られて頭が上手く回らない。服越しに感じることが出来たら良いと思っていた体温を直に感じることが出来て、余計に喉がカラカラになってしまった。
ポケットの中の温度はいかばかりか、確かめる術は無いけれど。
「何か用か?」
「あ、えっと、はい、用事、ありますっ、お聞きしたいことがっ、あったんですが、えっと、あれ?何だっけ、え?あれ?」
彼の低い声にすら温度を感じる。
焦って目を回しそうな少年に彼はやれやれと言わんばかりにその手を引いた。
「ここだと言いづらいようだから指導室来い」
そこでじっくり聞いてやるよ。
なんて言われたら益々頭の中は混乱するばかりで。
彼と話すために用意した質問を思い出すまでの15分、手首が解放されることは無かった。